六日目 ー昼と夜2ー
生徒たちが消灯時間を向かえる十五分ほど前、医務室の末永は、明日必要になる美月の診断書の確認をしていた。頸部の痣、転倒した際の腰の打ち身、等々書かれているが、実際には末永が診た時は既に美月は自分で治癒してしまった後だったので、その意味においては生徒たちの目撃情報を又聞きして偽造したものである。だが、こればかりは仕方がなかった。一般社会で、夢魔が憑いているから、という理由で人一人の行動を奪えば、奪う側がおかしいひとたちだと認定されてしまう。明日やってくる『専門家』が石野を強制的に連れて行くためには、生徒に暴力を振るったという明確な証拠が必要だった。
被害を受けた当人である美月は、隣の隔離部屋で過ごしている。一応、総合病院で検査を受けることも進めたが、本人が拒否したため、そこにとどまっている。隔離、などと大層な形容で呼ばれていはいるが、完全密封出来る空調や消毒・殺菌設備などがあるわけではない、窓はないが、普通の部屋である。美月の希望で普段は置いていない机と椅子を運び入れはしたが、今の物音一つ聞こえてこない状況を考えると、滞在者は既に眠ってしまったのかも知れない。隔離部屋に患者がいる際は、医師は医務室での就寝が規則になっているので、末永はこのまま朝まで医務室に詰めるわけだが、生徒と違い自由に各種電気機器が使用出来る職員の身なので、職員寮の自室に比べてそれほど不自由はなかった。
診断書の確認を終えた末永が、雨音以外に音がない医務室で、ソファの上で携帯ゲーム機を弄っていたとき、医務室の引き戸がノックされた。名乗りの前に、戸の磨り硝子に映った影で、誰か分かった。
「どうぞ」
末永がゲーム機を私物の鞄に入れ様、声を掛けると、広川が引き戸を開け、一歩、入室して来た。相変わらずの図体である。
「そろそろ引き上げようかと思うんですが、構いませんよね」
「ええ、大丈夫です。お世話様でした」
広川に、愛想の良い笑みを浮かべた顔で問われ、末永はつられて笑顔でねぎらった。医務室は校舎ではなく食堂と同じ棟にある。食堂自体は既に営業を終えていて、生徒たちが出入りする正面出入り口は施錠済みだった。生徒たちが医務室を直接訪れることはもうないだろう。職員寮からは、日用品などが売られている自動販売機が設置されている関係で、この建物自体への出入りは二十四時間可能である。広川は特に誰かの許可が必要とか、鍵を開けてもらわなければならない、などということはなく、自由に撤収出来る筈だった。なのだが、末永が応じたあと、広川はそのまま医務室に入ってきた。
末永は不思議そうに広川を見た。広川はその顔に笑みを張り付かせたまま、背後に下げていた金属バットを振り下ろした。
運が良かった。末永は一撃で昏倒した。倒れたのがソファの上だったため、音もほとんど立たなかった。広川は、禿げ上がった頭皮に微かに血をにじませ、呼吸による胸部の上下動以外に動かなくなった男をしばし見下ろした。己の荒い呼吸音が、雨の音をかき消していた。口腔に溜まっていた唾液を飲み込むと、広川は二度三度と深呼吸をしつつ、奥の扉を見た。『緊急用』とだけ書かれた札が下がっている。隔離室、とまともに書くことははばかれたらしい。
広川は扉をノックした。反応がない。もう一度、強めに叩く。がたり、と内側で何かが音を立てた。ほどなくして、扉が開かれ、美月が姿を現した。既に寝間着のスウェットの上下に着替えている。少々ぼんやりした様子なのはもう休んでいたからかもしれない。なんにしろ、その少し鈍そうな様子は広川にとって好都合だった。美月が何か言うより早く、広川の拳がみぞおちに入り、美月の口からは言葉ではなく空気のみが漏れた。
段ボールを積んだ台車が、食堂のある建物の中を進む。医務室から出て食堂の脇を通り、正面出入り口にたどり着く。鍵は、内側からはサムターンで開けられるので問題ない。正面出入り口の硝子扉を押し開けると、雨粒を微量に含ませた空気が流れ込んで来た。台車を外に出し、扉を閉める。鍵は掛けられないが、誰かが出入りするとも思わなかった。食堂の正面出入り口から、渡り廊下に進む。生徒たちの寮までは全てこの屋根付きの渡り廊下が巡っている。あくまで屋根だけなので、強風の日には雨が降り込んでくるが、今日のような風が余りない場合は、濡れる心配はなかった。
一年生寮は食堂から一番近い。生徒も寮監もいる、二年、三年生寮の前を通らずに済むのは、本当に気が楽だった。渡り廊下から寮の正面玄関へは軽く傾斜があるが、広川の体躯と膂力は、何の問題もなく、台車を押し上げた。職員室からくすねておいた鍵を取り出す。寮の正面玄関は簡単に開いた。普段は内鍵もかかっているのだが、管理する寮監も、生徒も不在の今は、掛けられていなかった。寮内に滑り込み、扉を閉める。玄関の正面には談話室があった。こちらも、普段のこの時間には扉も鍵も閉められているが、今日は開放されたままだった。そのまま台車を談話室に入れる。台車の車輪が廊下に跡をつけていないか、ペンライトを灯して確認する。跡らしき跡もない。広川は誰にともなくうなずくと、段ボールの中身を確認した。
美月がいた。口はガムテープで塞がれていて、両手と両足もタオルで拘束されている。瞳は閉じられたまま、全く動かない。広川はペンライトの柄でこめかみの辺りを突いてみたが、反応はない。余程上手くみぞおちに入ったらしく、意識を取り戻す片鱗すら見せなかった。
広川は美月を入れた段ボールを積んだ台車を残し談話室を出、寮を出た。時間を確認すると、十時になる直前だった。広川が食堂の正面玄関にたどり着いた辺りで、まだ点いていた二年生寮と三年生寮の明かりが、寮監の部屋を残して消えた。
広川は食堂の建物から職員寮に入った。一階である。廊下を伺い、誰もいないのを確認すると、足早に更に階段を下りた。
職員寮の建物は、学院の中で一番古い。学院が建てたのでなく、既存の建物を利用したと言われている。当初は取り壊す予定だったため、校舎の北側、校舎によって南側から当たる日光を完全に遮られるという、日照権を申し立てたくなるような酷い立地の建物である。前身は精神病院の入院病棟で、取り壊されなかったのは『なにか』がいたから、などという噂が生徒たちの間であった。そういった『なにか』を払う側を生業としている家の子供が大半である生徒たちの間でも、その手の噂は面白おかしいものらしい。
噂の真偽はとにかく、職員寮なのに無意味に地下室が充実しているのは確かである。冬の間の寒さをしのぐための暖房用のボイラー室などもあるが、大半は使途不明な小部屋である。ただ、ときにそれらは役に立った。今回のように、誰かを閉じ込めておく必要がある場合は、地下故に窓もなく、扉が分厚く簡単に開けられない仕様の小部屋は、収監場所として非常に優秀だった。
一室に石野が閉じ込められていた。広川自身が拘置にたずさわったので、どの部屋かは分かっていた。こちらもくすねてきた鍵を使って音を立てないよう、中の虜囚に気付かれないよう、静かに扉を開ける。もっともそんな気遣いは不要だった。一旦は大人しく教師たちからの聞き取りを受けたものの、その後再び暴れだしたため、末永によって鎮静剤を打たれた石野は、鋼鉄製のベッドの上で眠りこけていた。酷いいびきが、扉を開けた瞬間、広川の耳に飛び込んで来た。
石野は、鎮静剤を打たれているだけでなく、両手両足が拘禁具でベッドに拘束されている。暴れだし、広川と他の教徒で取り押さえた際に、どこからか学院一の古株で齢七十を越している事務長が持ち出して来た。案外、精神病院だったというのは本当なのかも知れない。
広川は学院の何十周年かの記念の際に配られた手ぬぐいをジャージのポケットから取り出すとくるくるとねじった。一般のタオルより長さのある手ぬぐいは、ねじられると親指くらいの太さの、一本の縄のようになった。清潔感とはほど遠い、石野の脂肪のついた首にまわす。一つ結び目を作ると、一気に引いた。
恐らく、石野はうめき声を上げたのだろう。だがそれはいびきと大して差がなかった。もがく手足は拘禁具によって動きを制限され、つられて拘禁具に引っ張られたベッドが軋んで音を立てた。力の限り手ぬぐいを引いたまま、広川は腕時計を見る。一秒、二秒。正味十分、絞め続けた。本当は五分で終わらせるつもりが、溢れ出る不安の分だけ余計に絞めた。息が短距離ダッシュを何十本も行った後のように荒い。地下階には暖房が入れられていないのに、汗がだらだらと流れ、ジャージの下のシャツに染みを作った。
ややもすると放心状態から抜け出せなくなりそうだった。広川は、石野の顔の前に手をかざし、呼吸を完全に止めていることを確認した。もともと余り面構えの良くない石野の顔は今、断末魔の苦しみに歪み、醜悪極まりないものと化していた。広川は、床にほとんど落ちていた布団を頭までかぶせて部屋を出た。
一階の自室の部屋の前で、広川は医務室を出て以降、初めて意識のある他者に遭遇した。二年を受け持っているまだ若い教師は、脂汗でてかっている広川の顔を、特に不審には思わず、軽く会釈をしただけで通り過ぎた。広川は、その教師をやり過ごすと、再び食堂の正面玄関を使って外に出た。職員寮の玄関を使わなかったのは、そちらの方が誰かに見とがめられる可能性が高かったからである。
職員寮と一年生寮の間にある駐車場で、広川は己の車の工具箱から太いマイナスドライバーを取り出した。車の中にはどう控えめに見ても長期間の旅行に赴くような荷物が積んであった。マイナスドライバーを片手に、広川は他の車に向かった。幸いなことに駐車場はトタン張りとはいえ屋根付きである。雨に濡れる心配はなかった。微かなペンライトの明かりを便りに、広川は次々に車のタイヤにマイナスドライバーを突き刺して行った。タイヤから空気が抜ける音は、トタンを打つ雨の音が消してくれた。職員数に比して、自家用車を学院に置いている職員は少ない。十台ほどだった。一台、校長の使用している国産高級車にはおまけで、側面のドアやボンネットにこれでもかというほどの傷をつけておいた。その頃になると、抑えようとして抑えきれない笑みが、広川の口元を何度も襲った。
作業を終えると、広川は一年生寮に向かった。あとはこれで美月を連れ出してしまえば終わりである。雨音にあわせてスキップしかけて自重する。一年生寮の正面玄関に入り込んだところで、広川の軽快な足取りは止まった。玄関のたたきにタオルが落ちている。美月を縛っていたものだ、と気付き、慌てて土足のまま談話室に飛び込む。空の段ボールが転がっていた。
美月はいなかった。




