六日目 ー昼と夜1ー
夕方から降り出した雨は、闇が完全に辺りを覆う頃には少々勢いを収めたものの、だらだらと途切れることなく降り続いていた。幸い、風はほとんどなかったが、樹々に、建物に、雨粒が当たって弾ける音が武道場の中にまでしっかりと届いていた。そろそろ消灯時間である。今夜、夜をここで過ごすことになった一年生の生徒たちを収容した武道場だが、十代半ばの男子高校生が数十人集まっているにも関わらず、時折散発的に談笑らしき声があがるものの、すぐにしぼみ、またわざとらしく声が上がり、途絶え、の繰り返しで、騒々しさとは無縁だった。生徒たちは午後に突然、就寝場所が武道場になることを告げられた。石野の暴挙にともない、一年生寮で監督する者がいなくなるからだと聞かされたが、今この武道場には替わりに役目を果たす教師は誰も来ていないので、監督者云々が表向きの理由であることは明白だった。だがそれなら何故か、との疑問が言いようのない不安を生み出し、生徒たちの間に浸透しきっていた。雰囲気を変えようと試みる者が出るものの、すぐに沈黙が落ちる。
今夜何度目になるか、寝具を整え直す藤沢は、眉間にしわを寄せ、むっつりと黙り込み、目付きは往来で歩いていたら人波が二つに割れて行きそうな凶悪さを漂わせていた。
「…消灯前に、もう一回、行ってみるか?」
寝具の上であぐらをかき、見るとは無しに、辺りを見ていた坊坂が、誰相手ともなく呟いた。シーツのしわを乱暴に伸ばして、さらにしわを増やしていた藤沢がぱっと顔を上げた。坊坂の隣の布団に寝転がり、ノートに落書きをしていた八重樫が吐き捨てた。
「やめとけ。無駄。広川のあの様子見たろ。火事が起こたって通しゃしないよ」
午前中、美月の様子をうかがいに行き、追い払われたときのことを思い出して、八重樫は鉛筆の先で乱暴に紙を引き破った。医務室の前に陣取って、誰も近づけさせないようにしていたのは、体育教師の広川だった。体力測定の時以来の天敵ともいうべき八重樫に、役得とばかりに嫌みたっぷりの挑発じみた言葉を投げつけて来たため、藤沢と坊坂は慌てて八重樫を連れて立ち去らざるを得なかった。
「もう、今日は無理だろ。明日明日。山下りて、どこかの病院に移されるかもだけど」
八重樫は身を起こしもせずに言い放った。石野が美月にしたことは殺人未遂である。学校側がどう出るか分からないが、保護者の手前、きちんとした設備のある病院で一通り診察を受けさせるのが普通だろう。
「そうなるか。仕方ないな。そうなると朝一番…」
言葉半ばに、坊坂は口を閉ざした。眉をひそめて武道場の出入り口の一つを見る。武道場の出入り口は二箇所、どちらも運動場に面した側の、校舎寄りと体育館寄りに一つずつある。どちらも片開きの引き戸になっていて、引き戸は障子を意識した、格子に磨り硝子を入れた造りではあるが、金属製でかなり重量がある。校舎寄りの方が大きいのだが、外から掛ける鍵がなく、内側から支え棒を下ろして施錠代わりにしている。坊坂が注意を払ったのはそちらだった。言葉を途切れさせた坊坂を怪訝な顔で見やった八重樫と藤沢が、続いて坊坂の視線の先に注意を払う。誰が指示したわけでもないのに、武道場内部が静まり返った。行動が連鎖して、皆、一様に校舎寄りの出入り口を見やる。
ぱしゃん。
水を蹴る音が生徒たちの耳に届いた。雨音は依然響いているのに、不思議なほどはっきりと聞こえた。何人か、特に出入り口に近い側の生徒が体を震わせた。校舎、武道場、体育館と屋根のある渡り廊下でつながっているので、校舎から来る場合に水音などが立つ筈がない。立つとすれば運動場から近づいて来る場合のみである。例えば寮から武道場へは、運動場を突っ切ったほうが早いが、わざわざ雨の中、夜半に、運動場を通って誰か来るものなのか。
二度三度と一定の間隔で水音が跳ねた。次の音はなかった。足音の主が、渡り廊下の乾いたコンクリートの上に到達したことは、続いて校舎寄りの出入り口の引き戸が音を立てたことで分かった。足音の主は引き戸を開けようとしている。だが、重い支え棒によって固定されている戸板はただ微かに揺れただけだった。金具が擦れ合わされる、がちゃん、がちゃん、という音が武道場の外と内に響いた。ひい、と生徒の誰かの喉が鳴った。
坊坂が無言で杖袋を取り上げた。傍らの藤沢を見やる。若干顔色が悪くなっているものの藤沢はしっかりとうなずいた。杖袋から杖を取り出しつつ立ち上がると、引き戸に向かって進む。藤沢が従った。座り込んだまま動きを止めていた生徒たち何人かが、道を開け様に出入り口の近くから武道場奥に退いた。
引き戸から、大股で三歩ほど離れた位置で二人は足を止めた。
「あけて、あけて、あけて」
引き戸の向うで上げられた声がはっきりと届いた。続いてまた、がちゃん、がちゃん、と、引き戸とレールと支え棒がそれぞれぶつかり、音を立てた。
坊坂と藤沢は顔を見合わせた。
「須賀、だな。声は」
ぼそりと、八重樫が言った。特に大きな声ではなく、八重樫とはそれなりに離れているのに、異様にはっきりと聞こえた。考え付いてはいたが、何となく口にしにくかったことを明確に言葉にされ、坊坂と藤沢の不安は少し晴れた。普段の美月の、議論用的とでもいうべき、はっきりとした口調とは異なるが、声色は確かに美月のものだった。
がちゃん、がちゃん。
外にいる誰かは、まだ引き戸を開けようと苦心していた。坊坂は引き戸に一歩近づいた。
「須賀、なのか?」
「あけて、あけて」
「須賀か?」
がちゃん。がちゃん。
坊坂は唇を噛んだ。斜め後ろの藤沢はもはや蒼白である。声からすれば間違いないのだが、今朝、首を絞められてから医務室に入ったきり、面会謝絶になっている級友が、夜遅くに雨の中、ここまで来るということが、にわかには信じられず、確認の問い掛けをしたらこれである。坊坂は一瞬、自分の耳を疑ったが、藤沢の反応を見るに、明らかに坊坂と同じものを聞いていた。集団幻聴を疑ったが、音に合わせて引き戸が動いている。集団幻覚も一緒に発症しているだけなのであれば、それはそれで幸せだった。
坊坂が、問い掛けてから、次の行動を決めかねて立ち尽くしている間に、引き戸の抵抗の音は止んでいた。美月のものらしき声も聞こえてこない。坊坂は後ろを振り返りやはり立ち尽くしていた藤沢を見、その更に奥の八重樫を見、武道場全体を見回した。中腰でこちらを伺っている倉瀬や代田、固唾を呑んで状況を見守っている大多数の生徒たちを視界に捉えた。今、聞こえてくるのは雨音だけである。生徒たちの緊張が一瞬緩んだ。
がちゃん。がちゃん。
生徒の何人かは文字通り飛び上がった。それ以外の生徒は音の発生源を一斉に見やる。今度は体育館寄りの出入り口の引き戸である。外に入る何者かは進入をあきらめたのではなく、もう片方の入り口に移動しただけだった。こちらは支え棒ではなく、普通に施錠してある。その部分が金属音を立てていた。
「あけて、あけて、あけて」
声がした。誰一人動かなかった。動けば、動かなくても何か音を立てるなり声を上げたりすれば、一気に混乱状態に陥ることは確実だった。誰もが何も出来ずにいるうちに、引き戸を開けようとする音と、開錠を懇願する声が、交互に武道場に響いた。
また音と声が止んだ。実際には、外の誰かが立てる音以外に、雨音がずっと継続しているのだが、もはや音として認識されていなかった。坊坂は必死で外に耳を澄ました。微かにコンクリートの上を歩く音がして、何者かがまた、校舎寄りの引き戸の前に移動して来ているのが分かった。
「藤沢」坊坂は乾きっている喉から、かろうじて声を出した。「悪いが、開けてくれるか。戸の正面に俺が立つから、開けたら、下がってくれ」
支え棒を示され、藤沢は一瞬顔を引きつらせた。だが既に引き戸に近づき、無言で見据える坊坂を見ると、指示の通りに、支え棒が外しやすい、引き戸のすぐ脇の位置に移動した。
坊坂の横に倉瀬が立った。木刀を下げている。
「なんだ?」
「一応」
倉瀬の顔色も悪い。が、退く気はなさそうだった。目線だけ動かして後ろを見ると、代田と里崎を始めとする三組の弓術部の面々が、弓を取り出し、構えたところだった。代田は、坊坂の視線に気付くと、軽くうなずいた。
坊坂は引き戸に目を戻した。藤沢は既に支え棒に手をかけている。がちゃん、がちゃんと音がして、振動が藤沢の手に伝わった。坊坂が藤沢に目配せする。藤沢は支え棒を一気に引き外した。引き戸がもの凄い勢いで開く。
上下のスウェット姿で、全身がぐっしょりと濡れた美月が立っていた。
「須賀…おい須賀!」
「あいた…あいた。うれしい。みんないる」
「なにやってんだ」
ずぶ濡れのまま、武道場に一歩進入した美月を、手近にいた藤沢が驚いて引き寄せると、袖で髪に散っている水滴を払った。
「どういうことだ?」
倉瀬が訝しげに坊坂に問い掛けた。言葉は短いが、中には様々な疑問が入り混じっていた。何故美月がここにいるのか。何故雨に打たれて来たのか。何故坊坂の誰何に応えなかったか。何故あのような行動をしたのか。だが、問われた坊坂とて答えが分かる筈もない。その上、正直なところ、声の主は美月ではなく、美月の声を真似した別の何者かだと思っていた坊坂は、ごく普通に美月が現れたことで、まだ驚愕から覚めていなかった。取り敢えず、感じた疑問を美月に問い掛けた。
「須賀、あんた、一人で来たのか?医師は何と言っているんだ?」
坊坂が知る限り、怪我はとにかく精神的に受けた衝撃の影響があるので、落ち着くまでは絶対安静で、他の生徒とは会わせない、ということになっている。
「せんせえ?」
こくりと美月が首を傾げた。その物言いと仕草が余りにも予想外で、坊坂はまじまじと美月を見つめてしまった。
無言で近づいた八重樫が、美月にタオルを差し出した。美月はタオルは受け取らず、何か不思議なものを見る目で八重樫を見るだけで、動かない。藤沢がタオルを取り上げると美月の頭の上にかぶせた。
「とにかく、体が冷えてる。まず着替えさせて、それからだ」
藤沢は美月を坊坂に向かって押し込むと、引き戸を閉めた。一連の間に吹き込んでいた冷たい空気で、生徒たちの熱気でそれなりに暖まっていた武道場は、今はかなり温度が下がっていた。
「ああ、あなた、しってる。あなたは…きてくれなかったひと」
坊坂の方に押し出された美月は、倉瀬を見て嬉しそうに微笑んだ。そして坊坂を見て、悲しそうに目を伏せた。
「ええと、何のこと?」
倉瀬が珍しく戸惑った様子で尋ねた。美月の唇からくすくすという微かな笑いが漏れ、顔を上げ、両手を上げると、倉瀬の頬を包み込む。全く予期していなかった行動に、倉瀬は、傍らの坊坂とともに硬直していた。ただ、指が頬に当たる寸前に八重樫が後ろから美月の肩を掴んで引き戻したので、美月の行為は未遂に終わった。
「お前、なにものだ?」
唸り声にも似た低い声で八重樫が詰問した。
「なにもの?」くるり、と頭全体を動かして美月の顔が八重樫を見る。「なにもの?」
「名前は?」
「なあにそれ」
「石野はお前をなんと呼んだ?」
「いしの?」
「石野寛、奴はお前をなんと呼んでいた?」
「…どうしてそんな大声出すの怖い顔するの?あなた、だあれ?わたし、しらない」
美月は八重樫から逃れようと身をよじったが、八重樫の手指が一層強く肩に食い込んだだけだった。
「石野って寮監の石野か?須賀となにか関係あるのか?」
一時の硬直が溶けた坊坂は八重樫に問い掛けたが、反応したのは美月だった。
「すが?」
先程と同じく、頭部全体を動かして、美月は坊坂を見た。坊坂は色を失いつつ、美月に問い掛けた。
「あんたは…あんたの名前は、須賀光生じゃないのか?」
「すがみつき。しってる。そのひともきた。会ってはいけないと言われていたけど、きた」話しつつ、美月は目をすうっと細めた。「ああ、そう。なまえ…名前、ね。初めまして。わたしはリリイと言います」
美月がそう名乗ったと同時に、八重樫はリリイと名乗る美月の下顎めがけて平手を打ち出した。入れば間違いなく脳震盪を起こす部位。だがその打ち込みは坊坂によって阻まれた。腕で八重樫の平手を受けると同時に、逆の手で美月の肩を掴む八重樫の親指を狙った。握力が緩んだところで、藤沢が美月の体を八重樫から引き離した。
「おい、それ、須賀じゃない!」
「知ってる。でも、だからっていきなり…」
怒りの形相の八重樫に、坊坂は真顔で応えた。外から来た誰かは、美月に似た何者か、もしくはどこか異変を生じた美月であることは分かったが、だからといって目の前で問答無用に暴力が振るわれるのを放っておくわけにはいかなかった。
「うわっ」
藤沢の、聞いたことのない焦りの声が上がり、二人は諍いを中断してそちらを見た。
八重樫から離され、背中に隠されていた美月が、藤沢の首に後ろから両手をまわし、絡み付かせ、背に飛びついていた。
「わたし、しってる。あなた、きてたよね。しってる、しってる」
耳元で囁かれ、藤沢は必死で身をよじっていた。振り落とそうとしてはいるが、美月が落下して怪我をすることを恐れて、本気が出せていない。その光景に、唖然とした坊坂と八重樫だが、すぐに復帰すると藤沢に駆け寄り、美月を引きはがした。美月が悲鳴を上げたため、反射的に坊坂は、引きはがした直後に手を離してしまったが、八重樫は無表情のままの美月の手首を掴んでいる。美月は床に座り込むと、しくしくと泣き出した。
「何が、どうなっている?」
それまで後方にいた代田が、寄って来て尋ねた。倉瀬は気分が悪そうで、二組の生徒と里崎が介抱していた。
「…俺も知りたい」
坊坂は心の底から本音を吐いた。床に座り込んでいる美月に近づく。美月は坊坂の接近に気付くと、音を立てそうな勢いで顔を持ち上げ坊坂を凝視した。泣いていたようだったが、涙の痕跡はなかった。出来の悪い人形のように表情もなかった。見慣れた筈の顔なのに坊坂は背筋が寒くなった。
「…いちばんはじめにくるはずだったあなたはこなかったのなぜみなおかしいよろこんでくれないわたしがいるのにどうして…」
美月の口が餌をねだる観賞魚のように動いた。口の動きと連動せずに声が漏れている。思わずのけぞった坊坂を美月はしばらく眺めた。
不意にその顔がにいっと笑みの形に歪んだ。
「ぜんぶ、わたしの、ものなの」




