六日目 ー昼1ー
美月の妹は、父親が家にほとんどいないことが不思議だった。よそのおうちでは、父親は夜遅く、でも毎日帰ってくるものなのに、どうして自分のところにはひと月に一度とかそれくらいにしか会えないのか。そのことを美月に尋ねたこともある。美月はお仕事、と簡潔に答えた。それなのに不思議と母親には同様の質問をしたことがなかった。尋ねても答えが得られない、自分の望む答えは得られない、自分を傷つける答えが来る、と感じ取っていたのかもしれない。
その日の朝の美月が同じ状態だった。
「おはようございます、石野寮監」
一年生寮の前に突っ立って、運動場で朝のトレーニングに励む生徒たちの姿を見るとも無しに見ていた石野寮監は、治癒能力者の寮生に声を掛けられ振り向いた。相変わらずのジャージ姿である。美月が入寮した日から今まで、ずっと着た切り雀に見えるが、同じジャージを何着か持っているだけである。
「おはようございます。須賀くん」
「みんな元気ですよねえ」美月は少々呆れていた。「昨夜だって、あんなに夢の中で暴れたのに…」
「え?」
「あ、『試験』の件で、です」
美月はその時つい夢世界でのことを口にしていた。口にして初めて美月は、『試験』に関係する疑問点を石野に尋ねたことがなく、少なくとも人間ではないリリイよりは話しが通じる相手であろうにも関わらず、尋ねることを思い付かなかったことに気付いた。
「試験?試験とは?」
「?試験ですよ。夢世界での人格の同一化、でしたよね」
「…何だって?」
石野寮監の顔が凄まじく歪んだ。思いがけないその反応と、余りの表情の変化具合と声色の迫力に、美月は反射的に一歩後ずさった。
「夢、が、どうしたって」
一歩迫って、石野寮監は言い募った。
「いえ、あの」
「夢が、どうした!はっきりしろ」
「ですから…夢世界での試験…リリイのことで」
更に後退しつつ、言い淀みながらも、美月がそう伝えた時、顔をどす黒く紅潮させた石野寮監が美月に飛びかかって来た。美月はとっさに飛び退いて伸ばされた腕を払ったが払いきれず、制服を掴まれ、地面に引き倒された。どうにか頭を打つことは避けたものの、腰を打ち付け、微かにうめきが漏れた。
「貴様!リリイだと!?リリイを何故知っている!リリイに何をした!」
倒れた美月の上に、石野寮監が覆い被さり、首元を絞め上げて来た。石野寮監は、美月と身長はそれほど差がないが、体重は五割り増しで重い。馬乗りになられると身動きの取りようがなかった。呼吸だけは確保しようと、必死で腕を首から振りほどこうともがくが、かえって強く絞め上げられた。
「リリイは俺のものだ!なぜ貴様が覚えている。何をした!何があった!」
石野寮監は唾を飛ばし、憤怒の形相でわめいている。手にこもる力がどんどん強くなっている。比例して美月の抵抗がだんだんと弱くなり、耳に届く声が徐々に遠くなり、視界がぼやけ、意識が一瞬途切れた。
次の瞬間、石野寮監は、肺から空気を無理に絞り出した音を、泡と共に口から飛ばし、手を美月の首から離すと、地面について体を支えた。まだその体は半分美月の上にあったが、次の一撃で地面に打ち倒された。運動場にいた坊坂が、石野寮監自身が上げた大声から異変に気付いて駆け寄ると、石野寮監の脇の下を杖で一撃し、その後蹴り飛ばしたのだった。地面でうずくまる石野寮監は、続いて駆けつけた藤沢によって、髪をわしづかみにされ、首に腕を回されたヘッドロック状態で、無理矢理立ち起こされた。悲鳴にならない悲鳴が泡とともに吹き上がった。
「須賀、大丈夫か!?分かるか!?」
坊坂は、美月を助け起こしかけたものの、すぐに頭を動かさないほうが良いと判断し、頬を軽く叩いて意識があるか確認した。美月の顔は土気色で目の焦点が合っていない。美月はとにかく何か声を出そうとしたがかなわず、ただ少し荒い息が漏れただけだった。
「自分でどうにかできるか!?」
どうにかできるか。そう聞かれたとき、ふっと美月の頭が晴れた。己に意識を集中する。確信した。いつか藤沢の体組織全体が把握出来てしまったときと同じ、微に入り細に入るまでの自分の体の状態が分かる。美月の体全体が良い方向へ向かおうと一時に活動を開始した。
ほどなく美月の顔に血色が戻り、目に光が灯る。真っ直ぐに坊坂を見据えた。坊坂は安堵の溜め息を吐いた。
「治せたようだな」
「うん、ありがとう」
既に喉への影響はない。声は円滑に出せた。ゆっくりと上半身を起こす。と、醜い怒鳴り声が聞こえ、美月の体はびくりと跳ねた。坊坂は美月を背にかばい、藤沢によって羽交い締めにされている石野寮監との間に入った。こちらも声を出せるようになったらしい石野寮監が、言葉になっていない音声を吐いている。美月はかろうじて、死ね、とか、糞野郎、とかそのくらいの単語を聞き取れた。
いつの間にか美月の傍らには、八重樫の姿もあった。藤沢が八重樫に軽く目配せした。八重樫は無言で石野寮監の腹を正拳で突いた。石野寮監は汚ならしいうめき声を上げると失神した。
「どうした、大丈夫か!」
今更ながらに、他の生徒からの通報を受けた、二年生寮と三年生寮の寮監が駆けつけて来た。
寮監たちがそれぞれ、美月の担任である合田や事務長(寮監たちの上司にあたる)、医務室の医師に連絡を取り、美月はやってきた医師に付き添われて医務室に入った。学院の医務室に常駐している医師は二人体制で、一週間ごとに学院と、学院から一番近い集落の診療所に交替で寝泊まりしている。学院近くの集落に医師がいないことを配慮した措置で、集落の診療所も学院の母体が運営していた。このとき美月を診たのは、入学式の時美月の体調を心配してくれたのと同じ、末永という二十代後半の医師で、上級生たちの間では密かに『るほう』と呼ばれていた。禿げているほう、の略で、もう一人の髪がある方の医師は『(禿げて)ないほう』と呼ばれていた。医師はある意味、美月に取って極力避けたい相手なのだが、『るほう』こと末永医師は、美月の治癒能力を信頼してくれていて、診察は問診のみで簡潔に終わった。
問診のその後、大体一時限目が始まった頃に合田が医務室を訪れた。『夢』についての説明を促され、美月は一通り、夢世界のこと、夢世界での『試験』のこと、試験官というべきリリイのこと、試験の合否判定を石野がしていること、などを順序立てて話した。他の生徒の夢世界の装いについては必要ないと思ったので話さなかった。試験の他の合格者についても、話すことで美月自身も疑問に思っていた、美月のみ現実世界で夢世界の記憶があることについて、指摘をされる可能性を恐れて、黙っていた。
合田が一時間ほどで医務室から去った後は、四時限目が終わった頃に、再び合田と、校長、教頭、生活指導主任、事務長、という顔ぶれが集結するまで、誰も医務室には訪れなかった。というより一時限目の終わりに、坊坂と八重樫らしき声が医務室の外で聞こえたが、医務室の前に陣取っているらしい教師に追い返されたようで、どうも美月は面会謝絶状態にされているらしかった。末永医師は柔和そうな笑みを始終浮かべてはいたものの、絶対に美月をインフルエンザ感染者などが出た時に使用される、水回り設備付きの隔離部屋から外に出してはくれなかった。
合田と、校長、教頭、生活指導主任、事務長からは、今朝合田に話したことをもう一度繰り返させられた。朝と証言に矛盾がないことを確認した後、特に他の合格者について訊かれたが、美月は他の合格者は分からない、で通した。話すことが一巡し、しばし落ちた沈黙の隙に、美月は逆に、どういうことが起こっているのかを合田に尋ねた。合田はその他の面々と顔を見合わせたが、校長がうなずいたのを確認して、一つ溜め息を吐くと話し出した。
「この件は、明日にでも正式に生徒たちに公表する予定だから、一足早く、当事者というか一番の被害者と思われる君が知っていても良いと思う」
話しとしては単純だった。リリイが美月に話した『試験』などは学院に存在しない。『試験』は石野がでっちあげた嘘である。リリイは石野に憑いている夢魔である。
夢魔というのは、人間に憑き、その宿主の精気を糧として奪い、生き存える。憑かれると大体一年ほどで宿主の精気を奪い尽くし、宿主が死んでしまう。それと同時に次の宿主に移動する。ただこの移動は過酷で、移動の際にそれまで溜め込んでいた前の宿主の精気をほぼ使い果たしてしまう。移動を終えると、夢魔はまた生存と次の移動に備えて精気を奪い取り始める。もっとも、宿主は精気をただ奪い取られるだけかというと、そうではなく、替わりに非常に気分が良くなる夢を与えられる。宿主に己の衰弱を気付かせないための方策でもある。宿主を夢に溺れさせ、衰弱させ、死亡させる。それが人間から見た夢魔という妖魔だった。
石野の場合、タチが悪いのは宿主本人が、もともと夢や幻覚など精神操作系統の特殊能力を持ち主であることだ。この夢魔、もしくは夢魔が与えてくれる夢が気に入った石野は、己の精気を奪われることなく夢魔を飼い続ける方法を考え、取ったのが、他者の夢を己の夢につなぎ、夢魔にはそのつないだ夢の主の精気を奪わせる、という形式だった。
精気の提供者は、衰弱を気付かれにくい回復の早い若者が良いし、また期間を区切ってしまったほうが、一時の体調不良として片付けられやすい。更に特殊能力の持ち主は、精気も特殊な効能が付加されている場合があり、夢魔が好む。学院の寮は願ってもない餌場だった。石野の行いは数年に渡って暴かれることはなかった。
「…わざわざ『試験』なんてことにしなければ、ばれなかったのでは…」
思わず美月はそう呟いてしまった。『試験』などという名目を付けてリリイが生徒たちに会うことなぞせず、おとなしく隠れていれば良かったのではないか。その点がなければ美月はわざわざ石野に夢世界の件など持ち出さなかった。
「そうしなければ、夢の中で、己の夢が誰かの夢につながれて、夢魔が暗躍していると気付く生徒が出るかもしれない。気付くだけでなく、夢魔を害しようとするかもしれない」
「…確かに」
もともと除霊だのなんだのを家業にしているような家のものたちである。隠しきれないと思っていたからこそ、わざわざ現実世界の人格と同一化させ、試験という名目と退学勧告という罰則で縛り、夢世界にいるリリイに意味を持たせ、敵対しないように牽制していたわけである。
「合否判定の言葉だけ、なんとなく石野に伝えてしまう、という誘導の細工もしてあったな。それらしく見せかけるためだろうが、そこまでいくと余計というか、いらぬ小細工というか…」
合田も、小細工が過ぎるとは感じていたらしく、そう付け加えた。その点は恐らく、石野がリリイに会った生徒と会ってない生徒を管理していたかったからだと美月は思った。生徒経由だったのは、リリイとの会話が成り立たないことがあって不安だからだろう。もしくは、リリイを全く信用していなかったか。相手は妖や魔物の類いなので、信用しない方が普通なのかも知れないが。
「あと、夢魔に関しての記憶は、現実世界に持ち越されないような細工も仕掛けられていた。ところが、君は記憶を残していた。その理由を考えて、その…夢魔が、君に『浮気』というか『乗り換え』したと思い込んだ。それでいきなりあんな風になって、襲いかかった」
「…先生は夢魔がわたしに『乗り換え』ていないと信じて下さるのですか」
「夢魔はまだ、石野に憑いている。それは確認している」合田はあっさりと言った。「それに、大体治癒能力者は、感応能力…これも精神操作系統の一種だ…もセットで持ってる。君が記憶を残していたのは単純に君の方が能力として強大で、石野の術が力負けしたからだろう」
期せずに美月は、自分だけ夢世界の記憶を残していた点についての、解答を得られた。
「もっとも、石野もそのあたりことは知っている筈なので、どうして対策をとらなかったのかは謎だが」
合田はその点、本当に不思議そうだった。学院で勤務している職員はほぼ全て学院の卒業者で、石野もしかり。合田とは学年は違うが在籍時期が被っていた。口ぶりから察するに、学院で習うような初歩的なことらしい。
「これからどうなるんですか」
美月は現況を把握すると、合田に尋ねた。夢魔と、夢魔に憑かれている宿主がどのようにして意思疎通を図っているのかは不明だが、石野の悪事が露見したことを知ったリリイが、どのような行動をとるのか見当もつかなかった。
「石野は明日、その手の専門家が来て回収される。今日も電話で話したんだが、距離と時間の問題で来ることは出来なかったんだ。その専門家が石野の術を解除するまで皆の夢が石野の夢につながっている状態は変わりがない。ただ、石野は術を一年生寮、という地理条件で制約して使っていたようだ。なので今夜はとりあえず、一年生は武道場で寝てもらう。専門家の対処が遅れるようなら、職員寮や、二年・三年の寮に一時的に振り分けることも考えている。ただ、君はここを使用してくれ、体調のこともあるし。必要なものは全て運び入れる」
「…」
美月は合田の言を正確に理解した。内情を詳しく知っている美月を他の生徒と接触させたくないのだ。確かに、リリイが敵であると知った夢世界での生徒たちがどんな行動を起こすのか、分かったものではない。夢世界でのあの無茶苦茶ぶりをみていると、夢魔の一匹二匹、八つ裂きにしてしまいそうな気もするが、教師たちの立場としては、殺ってこい!とけしかけるわけにもいかないだろうし、敵対したリリイは実はもの凄く強いのかも知れない。少なくとも夢がつながれているという異常事態が解消されるまでは、美月は他の生徒とは隔離されるのだろう。
「分かりました」
逆らっても仕様のないことであるし、武道場での雑魚寝に比べれば、ここは随分快適なねぐらである。美月は承諾した。




