五日目 ー昼ー
昨夜の夢の中での興奮の反動が出て、一日を開始する美月の気分は沈んでいた。夢世界において、自身の特殊能力の完成形を目の当たりにしてしまい、現実世界での出来ないことの多さを考えて、鬱々とする。昨夜の顛末も、真っ二つにされた自身の下半身を目の当たりにするという、現実世界ではまず出来ない経験をしたところで、記憶がぷつんと終わっているので分からない。もっとも、坊坂の合否は気になるところではあるが、今夜また夢世界で八重樫なり藤沢なりに訊けばよいだけのことなので、それほど深刻には受け止めていなかった。失敗だったのなら、少なくとも八重樫はまた坊坂に挑むだろうが、恐らく坊坂を合格させたくない倉瀬もまた阻んでくるだろう。やりたいことが自由に出来る夢世界においても、やっていることが現実世界の延長の倉瀬は、果たして人生楽しいのだろうかと、脱力を覚えさせるものがあった。
朝食の非精進メニューの汁物の一つは鳥の内臓を使用したスープだった。美味しかった。
栄養満点のスープの影響か、少し元気を取り戻し、教室に向かった美月だったが、教室内はそれまでの美月の気分など、一笑に付されるほど最悪の雰囲気だった。最終形態は、殺人事件の被害者の葬式に加害者が焼香に来たというところか。それよりいくらかましといった、沈鬱さと怒気と殺気が綺麗に混ぜ合わされた空気だった。
原因ははっきりしている。憤懣やるかたないといった表情で、八重樫が片肘を机につき、あごを乗せている。坊坂がつとめて無表情を保ちつつ、時折気まずげな視線を八重樫に向ける。そして坊坂の信奉者たちは、坊坂に気を使わせている八重樫に対し露骨に不愉快な目線を向けていた。寮で同室のこの二人の間に何かがあり、坊坂がやらかした側、八重樫がそれに対し怒っている側、ということは察することが出来た。
美月は嘆息した。少人数制でしかも全寮制の負の部分の集約である。一度険悪な雰囲気になるとなかなか復帰が難しい。人が少ない分、関係は濃密にならざる得ないし、授業が終わってから気分転換、というわけにもいかないからだ。そして今回最も悪しき部分は、当事者たちが組のカリスマ担当とムードメーカーという、本来、雰囲気を保つために骨を折る側の生徒なことだった。
午前中の授業はつつがなく、静寂の内に終了した。合田はさすがにそんなことはなかったが、他の、各授業を受け持つ教師たちは、教室内に立ちこめる暗雲に一様にびくびくし、教壇に上がる際の足音を異常に気にしたり、チョークを何本も折って泣きそうな表情になったりしていた。美月は経歴上、霊だの妖怪だのを相手にしたことがある筈の教師でも、意外と精神的には脆いことが気がかりだったが、それ故に第一線から退いて、後進の育成にまわっているのかもしれない。
昼の休憩時間に入ると、美月はさっさと教室を出た。その横を足の速い森南が駆けていった。食堂の入り口のところで、美月は後ろから大股で追いついて来た藤沢に呼び止められた。
「坊坂が武道場の前にいるから、昼飯持って、話しを聞いて来てくれ」
「…」
美月が何か言うより早く、食堂に駆け込んだ森南が、二人分の持ち帰り用に包まれた昼食を見繕って、入り口まで戻って来た。藤沢一人の考えではなく、一組生徒の総意のようだった。
「なんで俺?」
「中立に立てる」
答える藤沢の隣で、森南が両手を合わせて拝んで来た。確かに坊坂の信奉者では見方に偏りがある。例え坊坂が全面的に悪くても、なんだかんだ理由をつけて悪くは取らないだろう。森南も坊坂の信奉者の一人だが、狂信者というほどではないらしく、坊坂に原因があるならあるで、はっきりさせたいらしい。
「頼むよ。須賀が一番、なんていうか坊坂に無関心だから」
「無関心て…俺、そんなに態度悪かったか?」
「他の連中と比べて、の話しだろ」
近づき過ぎるのを避けていたのは事実だが、そこまで刺々しい態度をとっているとは思っていなかったし、実際そうだった。ただ信奉者たちからすると、常にうんざりした表情で田中から坊坂の賛辞を聞いている、藤沢か八重樫が加わった時のみ一言二言話す、普段は極力関わらない、という美月の態度は、かなり特異に見えていた。
藤沢に昼食の包みを押し付けられて、美月は仕方なく受け取ると、武道場に向かった。
「で、何があったんだよ」
武道場の、以前の部活見学の際に、代田たちがたむろしていた辺りである。坊坂はむっつりと黙り込んだままだった。
「何やらかした?いやもう別になんでもいいんだけど、謝るべきことをしたなら謝れ。クラスのあの雰囲気は嫌だ。皆そう思ってる」
八重樫に聞きにいった方が良かった、と美月は内心痛切に感じていた。八重樫への聞き取りは藤沢が担当である。坊坂の信奉者たちがやったら、冗談抜きで殴り合いに発展するかも知れないからという理由での人選である。藤沢は坊坂の強さに憧れているところはあるものの、普通に友人付き合いしていると思うので、美月が八重樫、藤沢が坊坂をそれぞれ担当でも良いと思うのだが、藤沢が八重樫にこだわった。キレてる側だから、ということである。爆発したら危険だと。確かに八重樫は気に食わなければ相手が上級生でも教師でも歯向かうが、友人に八つ当たりする類いには思えないので、単純に藤沢が坊坂相手に話しを聞き出す自信がないのだろうと、美月は勝手に結論づけていた。
坊坂は無言で、ずっしりと重い握り飯を齧っていたが、美月が昼食に手をつけず、じっと押し黙って引かないでいるのを見ると、軽く息を吐いて、言葉を発した。
「…須賀は、うちの実家の状況は知っているか?」
「は?」思わぬ第一声に美月は高い声を上げてしまった。「まあ、一応。聞いているというか、聞きたくなくても耳に入ってくるというか」
坊坂は軽くうなずいた。
「単純に言って、お家騒動やってる。そのとばっちりくらって、俺がここに入学することも反対された、というか反対されることは分かっていたから黙って入試を受けた。で、合格したあと、事後報告」
美月は無言で先を促した。
「まあ、騒ぎになった。でもどうしようもないよな。実の親が反対しているとかならとにかく、反対してた連中はただの親戚とか知人、関係者なんだから。ただ、俺は指定推薦扱いだったから、夏には入学が決まってた。出来るだけばれないようにはしていたけど、二学期始まってすぐにばれて、正式に報告することになった。須賀は一般入試だから分かると思うけど、そこから一般入試まで数ヶ月ある。反対してた連中っていうのは、基本的に俺の行動を逐一観察してないと気が済まない奴らなんだよ。どういう理由なのかはしらない。俺が変なことをやらかさないか心配なのか、特定の親戚と親しくされると困るからなのか…分からない。確かなのはその連中が、俺と同い年の特殊能力者を学院に送り込むだけの時間があったってこと。俺の行動を見張って、報告させるために」
「…ええと、それで、それと八重樫のあのキレっぷりとどう関係が?」
正直あまり坊坂の口からは聞きたくない話題である。美月は早く本題に入って欲しかった。
「八重樫が、そうじゃないかと、思ったんだよ。監視のために送り込まれた奴。あいつ、知り過ぎている。うちの状況を、例えば分家の誰それがどの派閥に属しているか、なんてことを正確に把握している。もっとも、うちだけじゃなく、倉瀬のところの内情とかにも詳しいけど」
「…単純に入学前に調べてきただけじゃないの?というかさ、八重樫も坊坂のところと繋がりのあるお寺から来てるんだろ?だったら詳しいのは当然じゃないのか」
坊坂は激しく首を振った。
「違う。だから、知り過ぎていると言ってるんだ。八重樫の推薦人になってる寺は、うちとか倉瀬のところみたいに除霊とかお祓いとかやってない、というかむしろ左道として嫌っている」
「茶道?」
坊坂は美月の訝しげな表情を見て、言葉の選択を間違ったことに気付いた。
「邪道、邪法、キリスト教的にいうと、異端の教え。霊だの鬼だの魑魅魍魎だのは全て、人間の心の隙から生じる弱さだっていって、ひたすら修行するとこなんだよ、あそこは。ただ一世代…二世代か?とにかくそのくらい前に、なんというか…悪鬼を払う力を持った傑物が出て、その僧が有名になってるから付随して、寺と宗派も、俺たち除霊とかやる派の間で知られている。ただ当たり前だけど直接交流はない。…例外は久井本さんのところか、あそこは槍の他流試合してるから…。それなのに、何で俺でも知らないような、うちの親戚の財政状況まで知ってるんだよ」
珍しく坊坂は多弁だった。きつい口調だが、それが不安から生じるものなのが、端々から感じ取れた。美月は、坊坂が長く喋ると関西系の訛が混じることに、初めて気付いた。
「…で?いや、坊坂の疑念は理解したよ。で、それと今日がどうつながる?」
「だから…その…つまり、八重樫が昨日の夜書いていた手紙が今朝床に落ちていて、その…拾い上げる時に、手紙だとは思わなくて…見てしまったというか…」
美月は唖然として坊坂の顔を見た。
「それは怒る」
「だから!八重樫が誰かに手紙で、俺のことを報告してるんじゃないかと思って…」
「手紙だとは思わなかったんじゃないの?」
「…」
坊坂は目を逸らした。手の内の、残っていた握り飯を一気に片付けた。なんのことはない、坊坂の長い前置きはつまり、己の暴挙の弁解である。実際問題、目の前にそうやって送り込まれた当人がいるわけで、その当人からすれば、坊坂の抱いているものが、単なる疑心暗鬼でも被害妄想でも杞憂でもないことが分かる。分かるが、それ以外の者からすれば、プライバシー侵害の言い訳をつらつら述べているだけである。
「それはもう誠心誠意謝る以外ない。大体、何で見たことがばれた時にすぐ謝らなかったのさ?」
「謝った。手紙片手に突っ立てる時に、八重樫が部屋に戻って来たから。けど何というか、態度に…出たのかも」
「態度?」
「その…相手、手紙の宛名、女だったんだよ。いや、文章は本当に読んでない!なんというか、蛍光ペンでハートマークがいっぱい描いてあって…女の名前と、そっちのインパクトが強過ぎて…」
美月は溜め息を吐いたその状態から、更にもう一段階溜め息を吐くという技術を会得した。
「つまりなんですか?スパイじゃないかと疑ってつい見てしまったら、彼女宛のラブレターでした。オレ様を疑わせるような行動しておいて、なに彼女とラブラブしてんだ、ってイラッときた態度が出ていた、と」
坊坂は無言だった。美月はかなり揶揄する口調だったのだが、特に怒った様子もない。
「なんというか…うん…」
全面的に坊坂が悪い。謝るしかない。謝って許してくれるかは分からないが、とにかく八重樫とて今日の午前中のような空気を後々まで持ち込みたいわけがないから、表面だけでも繕うはず。自分もフォロー出来ることはする。とにかく誠心誠意謝れ。美月はひたすら坊坂に説いた。坊坂も自分が悪いことは充分に承知していたし、心中のわだかまりを他者に話してしまったことで気が晴れたらしく、午前中の曇った顔付きからは少し変化していた。
折よくそこに、藤沢が八重樫を連れて来た。こちらはこちらで藤沢の説得が効いたらしく、それなりに機嫌は治っていて、坊坂の謝罪をあっさり受け入れた。
「ま、あれだ、俺も教科書とか筆記具とか積んである上に無造作に置いていたわけだし」
八重樫は、腕を組み、笑顔のままうんうんとうなずいている。寛容な俺様に感謝しろ、と言外に言っているようにも、その思わせるように、ことさら振る舞っているようにも見えた。
「まあ、私物の管理はきちんとやらないとな」
藤沢のフォローは、珍しく模範的というか教師的だった。
既に昼休みは終わりかけていた。結局美月は昼食抜きで、他の三人とともに教室に戻ることになった。坊坂には、仲裁役への感謝とともに、その点を謝られたが、坊坂の非常識な振る舞いの原因に一役買っている側である以上、逆に気まずく、無言でうなずくだけになってしまった。更にいえば、八重樫が知り過ぎている、という坊坂の言葉も気になっていた。八重樫が坊坂の監視役ではないという証拠はどこにもない。美月に知らされていないだけで、陣内翁が他にも送り込んだ可能性があるし、それとは別口、別陣営というか別の派閥が用意した監視役の可能性もある。
「でも、親にちゃんと手紙で近況報告するって偉いな」
『親?』
坊坂と美月より、一二歩前を歩きつつ、八重樫と話していた藤沢の声に美月は思考を中断し、顔とともに声を上げた。図らずも、坊坂と唱和することになった。
八重樫は振り返ると、じろりと二人を見、続けてにやりと笑った。
「なんだよ、母親を個人名で呼んじゃいけないのか?」
美月はぶんぶん首を振った。ちらりと横目で坊坂を見る。坊坂の訴えかけるような視線を受け、美月はしっかりとうなずいた。八重樫の手紙が、実際には彼女宛で母親宛という偽情報を藤沢に喋ったのか、本当に母親宛だったのかは分からない。分からないが、その手紙にハートマークがたくさん飛んでいたことは絶対に黙っておこうと思った。




