一日目 ー昼ー
美月は桜の中にいた。
校門から校舎や寮などの建物のある一角までは車でも通れる道になっていて、けっこうな距離がある。少しでもタクシー代を節約したくて門前で下りたために、美月はスポーツバックの持ち手を肩に食い込ませてその結構な距離を歩いていた。肩は痛いがそれほど不愉快ではない。道の両側に桜の古木が並木になっていて、風が吹くたびに花弁を散らし、舞い踊っている。もう四月に入っていて桜の時期は終わりかけだった。が、卒業式からこちらばたばたしていたため、今まで季節の花を楽しむ余裕さえなかった美月にとっては、この光景は久しぶりに心安くさせてくれるものだった。ひとしきり花の演舞を楽しむと美月はスポーツバックを肩にかけ直し、再び歩き出した。
座生学院高等学校は仏教系の全寮制男子校である。学院が掲げる理念は『静寂の内にて悟りを開く』という。その理念にのっとり、学院は、母体である法人が全体を所有する、とある山の中腹に鎮座していた。山中には学院以外の建築物が存在しておらず、ふもとから学院を経て山頂まで続く道以外に自動車の通行が可能な道もなく、その道のふもとの入り口は「関係者以外立入禁止」と共に鎖と南京錠付きの門によって閉じられている、という外部との接触を極力抑えた造りである。ひとたび入学すれば三年間、この静かな環境の中でひたすら学業に邁進するしかない、というわけである。
環境としては静かであっても、十代半ばの少年達が集まっていれば、そこは自然とにぎやかになる。学院の建築物のひとつである一年生寮の談話室もまたそうだった。一年生寮に入寮が始まってから毎日である。今日が入寮期間の最終日であり明日は入学式のため、一名を除き他の生徒は入寮を終えていた。ゲーム、雑誌、テレビ、パソコン、携帯電話&スマートフォンの持ち込みが禁止である学院で唯一、生徒が自由にいじることが出来るケーブルテレビとパソコン(と電話)のある談話室には、自然と生徒が集まり、おのおの好きなように過ごしていた。
美月が入って来たのは、昼過ぎのそんなににぎわいが最も大きい時間帯であった。
「藤沢くん、います?」
一年生寮の寮監である石野という名で四十過ぎくらいの、余り小綺麗とはいいがたいジャージ姿の小太りの男が、談話室の入り口で呼びかけた。本人としては呼びかけたのだろうが、騒がしい生徒の集団の前では、ささやきに等しかった。二三度同じ内容の言葉が繰り返され、そのうち入り口付近にいた生徒から伝言ゲーム式に内容が伝わり、談話室の中、小さな木製の丸椅子に体をはみ出させて座っていた生徒が立ち上がり返答した。
「はい」
背が高い。百八十センチを有に超している。その上いかにもスポーツやってますといった筋肉と猪首を持つ生徒だった。石野寮監が発した声の数倍はあろうかという声量と野太い声色に、他の生徒が一斉に藤沢の視線の先、出入り口に立つ石野寮監と美月に注目した。
「あ、あれですか。やっと最後のひとりですか!」
藤沢の隣の丸椅子の上で器用にあぐらをかいていた、小柄で茶味掛かった癖毛を持つ生徒が、ややハスキーな声で混ぜっ返した。
石野寮監はその声には応えず、隣に立っている美月を示した。
「10106号室の須賀光生君です」
美月は石野寮監から、今後三年間過ごす名前で、今後一年間の同室者に紹介された。
美月は、石野寮監を先頭に、同室の藤沢賢一郎と、何故か先程混ぜっ返した生徒である八重樫郁美を加えた三人によって10106号室に案内された。
部屋は、ごく普通な学生寮の一室、というのが美月の感想だった。もっとも美月は他に学生寮など見た事などないので、テレビドラマや漫画などで出てくる学生寮のイメージ通り、というのが正確だったが。
扉から入った正面には窓があり、そこから明かりがとれるように机が二台と背の低い本棚が置いてある。手前には身長百六十センチ半ばの美月の目線のあたりに左右一台ずつ作り付けのベッドがしつらえてあり、その下は洋服掛けと箪笥になっている。ベッドの周りは、病院の相部屋がそうであるように、カーテンで目隠し出来るようになっていた。扉から入って右側には、既に藤沢の私物がいろいろ置いてあるのでそれほどでもないが、左側の美月が使うことになるスペースは何も置いてないことも相まって、殺風景というか、簡素に見えた。
「いやあ、ほんっと、質素だよねえ。うん、質素」
やたら陽気に八重樫が口を出して来た。石野寮監が露骨に嫌な目つきで八重樫を見た。当たり前だがこの生徒が、美月と藤沢の部屋の案内に付いてくる意味はない。美月は別に気に留めていなかったが、そんなに顔をするほど嫌なのであれば最初から付いてくる事を拒否すればいいのに、と内心思った。
「これが鍵。机の上のファイルが寮での注意事項その他です。目を通しておいて。あと須賀君は余り体が丈夫じゃないそうなので、藤沢君、いろいろ手伝ってあげて」
石野寮監は鍵を美月に渡し、机上の半透明のファイルをあごで示すとさっさと部屋から出て行ってしまった。
石野寮監がいなくなり、一瞬沈黙が落ちる。桜を吹き上げる強い風の音がして、窓枠が揺れた。
「荷物それだけ?少ないね。片付けるほどもないよね。この時間、談話室に人多いからそっちで先に話そう。同じクラスのやつとか、最後のひとりはどんなのかなって噂してたし」
勝手にファイルを取り上げ、足早に部屋を出つつ、八重樫は一息に言い切った。その言葉に、美月は少し疑問がわいた。
「同じクラス?クラスもう分かっているの?」
「うん。というか寮の振り分けで分かる。10106の頭の1は一年生寮、次の01は一組の生徒、最後の06は部屋番号ってなってるから」
「ああ、そういう意味なんだ」
「そうそう。ちなみに俺も同じ一組ね。10101号室」
10106号室は、一組の生徒の居室の中では最も談話室から遠かった。それでも大して大きくない建物なので、八重樫と喋っている間に談話室に着いていた。藤沢は何も言わず、二人の後ろからのっそりと付いて来ていた。
なかなか入寮しない生徒がついに到着ということで、話題になっていたらしく、談話室に足を一歩踏み入れたそばから、美月はクラスメイトになる連中に取り囲まれ、次々に話しかけられた。とはいえ学院は少人数制を標榜していて一組あたり十二人の生徒しかいないので、全員に話しかけられても大した人数ではなかったが。ちなみに組は一学年に三組あるので、この寮には寮監を除いて三十六人が居住していることになる。談話室にいる、その一組所属以外の二十人ほどの生徒はやや遠巻きにしているものの、興味深げに美月を眺めている。
話しかけられる内容は、マニュアルがあるのかと思うほど一定していた。部屋番号から始まって、出身地と中学時代の部活動に続く自己紹介。出身地は北は北海道から南は南半球の別の国まで様々で、部活は一般的な各種球技が殆どという、そこまでは一般的な内容だった。
だが、その後が続くにつれ、話しがかなり特殊になっていった。
「で、うちはヤクシャクコントウ流の傍系のサンリュウアン寺ってとこでね、憑きもの落としを専門にしていて、俺もそちらに進む予定」
「うちはマタスミ流っている独自のものなんだけど、地元じゃちょっと知られていて…あ、主に土地についた悪いものを払うんだ。だから顧客は土木とか建築関係が多いかな」
美月は呪文にしか聞こえない数々の単語を曖昧に笑って聞き流した。
「で、君はどこのお寺のひと?」
談話室に入ってからは他の生徒の勢いに押されたのか、遠巻きの聴衆の一員になっている八重樫と藤沢以外のクラスメイトから、ひとしきり自己紹介を受けた後、興味津々といった体で、野呂と名乗った生徒が美月に尋ねて来た。
「あ、うん。お寺のひとじゃないんだよね」
「じゃあ、藤沢と同じクチ?寮付きの高校探してたらヒットしたとか」
「違う。一応知り合いの診療所でヒーリングとかやってて、そこに来てた人…寺関係者なのかよく分からないけど…に薦められて来た」
「お、マジ?治しちゃう系?」
周囲のクラスメイトに加えて、その奥にいる他のクラスの生徒達も何故か一斉に盛り上がった。美月は少し驚いた。この手の超常能力で多いのは、病気や怪我から回復させますという治癒能力と、これから未来はこうなりますという予知能力だと思い込んでいたので、自分のことなど流されて終わりだろうと考えていたのだ。だが先程の自己紹介ではその手の専門家は一人もいなかった。能力として稀少なのか、相性の関係で学院で学ぶ人員に少ないのかは生徒達の反応からは不明だった。
「じゃあ、これ治せる?」
森南と名乗った生徒が腕を出す。肘の辺りに血がまだにじんだままの擦りむいた痕があった。
「お前それどうしたんだよ」
「メシ前にサッカーやってて転んだ」
「医務室行けよ」
「だってメシの時間だったんだよ」
「汚ねえし」
「洗った!ちゃんと洗った!」
他の生徒達と共に騒いでいる中、美月はその腕を無言で取ると、己の右手の指の甲で傷のある辺りを軽くひと叩きした。
騒いでいた生徒達の動きが止まる。逆に効果音が聞こえて来そうな勢いで、静寂が落ちる。後ろから覗き込んでいた生徒達が目をしばたたかせた。一瞬の静寂が過ぎると、談話室全体がざわめいた。
傷が消えていた。
「…!?…えっ。うそ、え?」
森南は肘を何度も何度もなぜた。角度的に良く見えなかったらしい他の生徒がその腕を引き寄せ、自分の眼前に持って来てまじまじと眺める。腕をおかしな風にねじり曲げられた森南が悲鳴をあげた。
「ああいうのって珍しいのか?」
今やクラスメイト以外の生徒達も含め、何重にも囲まれてしまい、彼らの顔と天井以外見えない状態になっている美月の耳に、人垣の向うから平静な藤沢の声が聞こえた。
「珍しいというか、人数が少ないのは確か。一般社会でも会社員に比べて医者の数は少ないだろ。それと同じ」
八重樫が答えた。
「でも正直、正統的にビジネスとして考えると微妙なんだよね。ほら医師法だっけ薬事法だっけ。医師とか薬じゃないのに『治ります!』って言っちゃうと違反になるじゃん。あとほら『医師でも治せなかった病気が霊能力で完治!』とかって広告あったらどうよ、まともなひとは無視するだろ。それに…」
続けてぐだぐだ言っていた八重樫だが談話室の入り口を見て急に口をつぐむと、ぶんぶんと音を立てる勢いで手を振った。
「坊坂!最後のひとり来たぞ!」
入り口から入って来た一団に向かって呼びかける。と、美月の周りの生徒達も一斉にそちらを向いた。人垣に隙間が出来てそこから何人か、談話室に入って来た生徒が見えた。先頭に日に焼けた浅黒い顔に短髪で、彫りの深い、写真映えしそうな顔立ちの中肉中背の生徒がいた。
「坊坂、すげえよ、完璧な治癒能力者だ。俺初めて見たよ」
人垣を形成しているうちの一人がそういいながら美月を示したため、先頭の生徒が美月の方を向いた。美月と目が合った。
写真そのまんまなんだな、と、美月は性別を偽ってわざわざこの学院に進学した理由を見て、そう思った。