第7話 今と昔
「湯加減は如何でした?」ハルトは風呂から上がったライラに声を掛けた。ぺたぺたと素足で歩きながらそれはそれは髪を念入りに拭いていた。
「とても良かった。王宮に比べれば小さいけど、小さいのもなかなか良いわね」王族らしい発言だ。「お風呂って気持ち良いから好きよ」と、上機嫌に鼻歌を歌いながら、暖炉の前のソファに座って体と髪を乾かす。「お風呂ってどこの人が作ったの?」ふと、彼女はこのお湯に浸かるという文化がどこから来たのか気になった。
「出日という国の人間です。こちらの字の意味で日が昇るという意味ですかね。かなり綺麗好きな民族なんですよ。お風呂に入らなきゃ死ぬじゃないかと思うくらい風呂好きです」ライラは彼のこんなところが大好きだった。ちょっとした質問には即座に答えてくれて、重要な質問は自分で考えろと諭してくれる。
「イズヒ……かぁ。確か話し言葉は同じなのよね?」
彼女は髪をもっと拭きながらも質問を重ねた。
「そうですね。話し言葉もアクセントにかなり違いはありますが。だいたい同じです」
「うん……」
風呂から上がって間もないせいか意識がぼやけていた。しっかりと話は聞いていたが、生返事で返す。
「お疲れのようですね。ベッドはお好きな方をお使い下さい。俺も風呂に入ってきますので。それと――」
宿屋から買ったお高い葡萄酒が入った杯をテーブルに置いた。開け放った窓から外の景色を眺めてそれを肴に一杯やっていたのだ。
「――バスローブだけで出てこないで下さい。服をきちんと着るように。」それだけ言うと、風呂のある部屋へ向かった。彼がいなくなると、ライラはなんとなく葡萄酒を見た。「……飲んでも良いですが、おすすめしません。忠告はしましたからね」突然、扉を開けて言うと、また戻って行った。
なんなのよ、と心の中でこぼす。
彼女はさっきまでハルトが座っていた場所に座る。椅子を自分の感覚で一番良い位置に持ってきて、テーブルの上に置いてある葡萄酒を少しだけ、ほんの少量口に含んでみた。
「…………!」
最初は苦い酸味が舌に突き刺さる。そして喉まで赤紫色の液体が到達すると喉が灼けるように熱くなった。
「……想像していたより不味いわね」
不満をこぼして、よくもまあハルトはこんなものを飲むものねと思う。
何気なく、外を見て上を見上げた。
「わ」
たった一音の驚きだった。曇っていたはずの空はいつの間にか晴れて、夜空には光り輝く星、寒いほどに鮮やかな銀色の月。これを見ながら、ハルトは酒を飲んでいた。
それなら美味いのかな、と少し考えたがどうも自分には酒という飲み物は合っていないように感じたのでやめにした。夜空を見上げるのに満足すると、ライラは腰を上げて暖炉のソファに寝そべるようにして座る。
昨日の夜以来、ライラは星空が大好きになった。本来なら飽きが来ないほど見ていられるのだが、眠気が襲ってきたのでとりあえずソファに移動した。ぼんやりと、揺らめく暖炉の火を見つめる。
段々と、心が静かになって。穏やかになって。瞼が重たくなって。意識がなくなって。
ライラは、ハルトが風呂から上がってから眠ろうと思っていたらしい。叶わず、眠ってしまったが。
彼女は少しだけ目を覚ました。その時にはハルトの逞しい腕に抱かれて、ベッドに寝かされたところだった。なんとか、一言だけは言う。
「……おやすみ、なさい」
「ああ、おやすみ」
すると、暖かい手で頭を撫でられる。
――ライラの大好きな瞬間だ。
彼女は限界まで起きていたりすると、どこかベッドではない場所で眠ることが往々にしてあった。そんなお姫様を彼は抱っこして、寝室に連れて行き、ベッドに入れてやる。そして、頭を撫でる。これが一連のお約束だった。
もう十四歳ではあるが、本当のライラは甘えん坊だ。
彼女は王女で、この革命が成功すれば女王になる身だ。面と向かって甘えることなどできはしない。できるだけ、控えめな甘える方法がこれだった。
「かわいいかわいい、おひめさま。お眠りなさい、良い夢を」
§ ¶ § ¶
「――――ッ!」
裏拳を屈んで避けると鳩尾に蹴りを叩き込む。相手も手慣れているもんで自分から後ろへ飛んで衝撃を和らげた。
後方へ飛ばなけりゃ、内蔵関係は潰せたんだがな。
「……派手に吹っ飛んだな。映画は好きか?」
「休日には必ず見るな」
立ち上がり、そう答えながら奴はすぐ近くの料理包丁を引っ掴んだ。
「B級?」
「いいや、そんな趣味はしていない」
俺もなんとなくフライパンで武装する。
プロ相手ともなれば、ナイフを持たれると俺の方が強いとは言え不利なのは確かだ。
なのでフライパン。厨房なので武器は豊富だ。
「そうか。あれはあれで面白いのだが。それはさておき、CIAかな?」
「……ああ、そうだ。そちらは?」
こちらの質問に答えたのは知られても問題はないという事か。または、|生きて返さないから問題はない《・・・・・・・・・・・・・・》、のか。
「オーダー」
一言答えた。
「なるほど。目的は」
「お前を殺す」
「何故」
「さあ、指令だから。なにか心当たりは」
「あるな」
「じゃ、それだ」
仕方ないさと言う。
「なるほどな――ッ!」
鋭い突きのナイフもとい包丁をフライパンで防ぎ、ぶん殴ろうとしたが逃げられた。それを追いかけ料理鍋を振りかぶる。
「――おら!」
ガイィン!と大きな音がして今度はフライパンを包丁で防御されたが、衝撃で包丁を落とした。
蹴りを手始めに見舞う。
――奴は左手で防ぎ、右フック。その右手を掴み捻るが鼻っ柱に頭突きを食らわせられる。掴むためにフライパンを落としてしまった。仰け反ったおかげか大したダメージではない。まだ手は掴んでいるので床に膝を付いて相手の重心をずらし、体重の乗った右足を引っかけ、投げて押さえ込もうとしたが――肘鉄を顔面に食らいそうになったので首を傾けなんとか避けた。するりと抜けられ、関節技を諦めて体勢を立て直そうとしたところに足を刈られた。バク転の要領で後方へと移動する。相手方は完璧に立ってしまってさっきまで見下ろしていた優位はなくなった。
「「…………」」
互いに無言で向き合う。
構えは大体同じ。
半身で利き腕の右腕を前として拳を作り、左手は軽く手のひらを開いて顎を守るように。腰はほんの少し落として、膝はいつでも出られるようにリラックスした状態に保つ。
仕方がない。奥の手を使おう。
思ったよりもこいつ強い。
奥の手――本気を出す。
「――――!」
先程よりも倍近いスピードで膝を蹴ってそのまま押し込み、骨を、折る。
「――ぐっ」
痛みに呻いたところで顎に右フックを食らわせてそのまま右腕を顎の下――喉元へ持って行き左腕をうなじの部分に置いてさっきの右フックで倒れようとしているところに、右腕に喉を押しつけて、左腕は頭を謝罪するようにして、持ち上げる。
すると――ごきりと折れた。
頭を持つのをやめると重力に従い何の抵抗もなく、どうと音を立てて崩れ落ちる。
絶対、確実に殺した。
「……本気出せばこんなもん。やっぱウチの部隊には敵わんか」
スーツの胸ポケットから折りたたみ携帯を取り出し、電話を掛ける。
「あ、大佐殿? ええ、ついさっき終わりました。はい、言われた通り銃を使ってませんし使わせてません。フライパンと包丁は別ですが。それは別にいい? なら良かった。はーい。じゃ、さよなら。はい、お疲れまでしたー」
まるでバイト先への電話だが、れっきとした諜報機関だ。
もっとも、兵隊と兼任のエージェントだが。
「さて、一週間休暇か。なにしようかね」
「――終わったか」相棒が、声を掛けてきた。
「そっちは?」
男性。イギリス国籍。中国系イギリス人で白人の血が混じっているのか俺のような平べったい顔はしていない。
「こっちも終わったに決まってる。迎えに来てやったんだぜ。私に感謝しろ」
「黙れ、ファッキンチャイニーズ」
「ぶち殺すぞ、劣等猿野郎。私はこれでも英国のそこそこ上流階級の出だぞ」
胸を張ってどや顔だ。くたばれ似非白人。
「だから英国訛りなわけだ。言葉遣い悪いのに丁寧だなと思ってた」
『I』が私に聞こえるもん。俺じゃないんだよな。
「母親の顔は知らねぇがな。親父がアジア人とヤリたかったんだろうさ」
「お前の母親中国人!」
お前のかあちゃんでべそのノリだ。
「うるさいな。なんかそう言われると嫌な感じがするだろうが」
「レイシストめ」
「お前だろうが。白人嫌いなくせに。この前ハワイに行った時、『リメンバーパールハーバー』って言ってきた奴をどうしたよ?」
これには返す言葉はない。ちきしょうめ。
「『ノーモヒロシマ』と言ってぶん殴った。あいつが悪いだろう。原爆でもっと殺したくせに日本の方が悪いですよって調子こきやがってクソアメ公が! 鬼畜米英だくそったれ!」
「やっぱり差別主義者だよな」
「冗談だ。白人が好きだぞ。日本人よりおっぱい大きいし。おっぱい小さい白人に価値はない」
「お前おっぱい好きだよな」
「大好きだ」
「気持ち悪い死ね。お前みたいな奴をHENTAIと言うんだろう?」
「……いつの間にそんな不名誉な日本語がこちらまで浸透したんだ」
苦い気持ちになったが、日本人の変態性を鑑みて仕方がないと諦めた。
「良いから、帰るぞ。一杯やろうぜ」
「名案だ、相棒」
「――――」
目が覚める。周囲を見回すと宿屋で隣に離れたベッドに寝ているのはライラで相棒ではない。
「……調子こいてた頃の夢を見るとはな。おっぱいおっぱいうるさい奴だったな……俺のことだが」
頭を振って、顔を洗うために風呂場へ向かう。大きな鏡の立つと、先程夢の中で馬鹿にしていた白人が立っていた。
「気に入らないな」
言っていたほど白人が嫌いだったりはしないが、自分がどうも好きになれない。だが――気にしてはいけない。今の自分は日本人ではなく、レドアスター人だ。
そう思うと、気分がいくらかマシになった。
「にしても、下らないことを話していたものだ。前世での頭の悪さが窺えるね」独り言を呟き、顔を洗う。
今の時間は六時頃で、もうすぐライラも起きるはずだ。
顔を洗って部屋に戻ると、ライラがぼうっとした表情でこちらを見た。
「……おはよう」
「おはようございます。顔を洗って髪を梳かしなさい。そうしたら、朝食を食べますよ」
こくん、と姫は頷いた。
俺は眠る時、上半身裸になる癖があるのでまずは着替えを行う。
「ハルト……まさかここで着替える気じゃないでしょうね?」
赤くなって、抗議の声を上げたライラ。
「駄目ですかね。気にしなくても良いでしょう。俺と姫の仲でしょう」これはからかっているだけで、そろそろ別の部屋に行こうと思う。
「気になるの」
「了解致しました。ライラも着替えておきなさい」
軽く微笑んで、別室の扉を開ける。