プレート
遁走。
という選択肢が浮かんで、俺はそれをすぐに打ち消した。
不可能だから、ではない。
ただ、意味がないからだ。俺は既に一度不法侵入、からの逃走という罪を犯している。その際に顔も見られているはずだが、あの門番たちは流石に細かには覚えていないだろう……と思いたい。
しかし、だ。この少女、アスカにはバッチリしっかり顔を見られている。俺という存在はそれなりのインパクトで彼女に記憶されているだろうし、指名手配などされては今後の生活に関わる。
それに、アスカは言った。自分は治安維持組織の副団長だと。それはつまり、やろうと思えばその組織をフルに活用して俺を捕まえに来れるということだ。
勿論、そんな有象無象に負けはしないだろうけど……まともな生活が覚束なくなるのは火を見るより明らか。
――――いっそ、消すか。
一瞬本気でそう考え、それでは意味がないと思い直す。俺は、一体何のために遠路はるばるここまで来たんだ。
「……あら、意外。逃げないのね」
思考の波にさらわれてぼうっとしていた俺に、意外感を隠さずに、というか声に出して言ったアスカのセリフにハッとする。
「そういうアンタも、捕まえなくていいのか?」
咄嗟に挑発じみた言葉を口走って、しまった! と内心で頭を抱える。どうやら彼女は挑発に乗りやすい性格のようだし、こんなことを言われれば黙っていない、具体的にはまた斬り掛かってくるのではないかと身構えた。……が、それはどうやら俺の杞憂に終わったようだった。
一瞬だけ眉間で不快感を表したアスカは、しかしすぐに息を吐き出して首をゆるく横に振った。
「私だって、そうしたいのは山々だけれど……」
そこで何故か言いよどんだアスカは、何度か表情を変えたあと、結局俺を軽く睨みつける形に落ち着いた。――その顔に、悔しさと八つ当たりの色を浮かべて。
「貴方には残念ながら勝てる気がしないしね。本気で抵抗されたら、私一人じゃあ捕らえられないわ」
「……何を根拠に、そこまで俺とアンタに力の差があると?」
何だか嗜虐心を煽る表情に、ついそんなイヂワルを口にしてしまった。奥歯を噛み締めるようにして、恨めしげにコチラを見てくるアスカを前に、多分俺の顔はニヤケを抑えきれていないだろう。
少しの間黙っていたアスカだが、どうやら観念した、というか開き直ったようで、饒舌に語りだした。
ただし、羞恥には耐えられなかったのか、顔はそっぽを向いていた。
「私はあの一合のとき、少なくとも本気で負傷させる――致命傷を与える気で攻撃したわ。それを貴方は無手でしかも、最初から私にケガをさせないつもりで対処して、事実私に勝った。それだけで、力の差は歴然だと思うけれど」
「冷静な分析をありがとう。ただ、一つ誤りがあるな」
「誤り?」
「ああ」
意識して鷹揚に頷く。脳裏には、いつだったかの『師匠』の言葉が再生されていた。
――相手を自分のペースに持ち込みたい時はな、『呑み込む』んだ。
――力で、言葉で、態度で、雰囲気で……な。
思惑通り、アスカは俺の意識して作り出した『雰囲気』に気圧されたように、半歩後ずさった。
表情も、やや緊張気味だ。
――――いい傾向だな。
「右肩を貫かれた程度じゃ、俺にとっては致命傷にはならない」
半分事実、半分嘘だった。
事実は、致命傷にならないという部分。
嘘は、恐らくあの一撃は、右肩を貫かれる“程度”ではすまなかっただろう、ということだ。
これも恐らく、という注釈がつくが、あの攻撃は突きからの袈裟斬りという流れの攻撃なのではないかと思う。
事実彼女――アスカは、石柱を貫き、直後に斜めに斬り上げ、斬り下げるという動作で両断した。あの神速の斬撃を人体に放ったとすれば……あとは言わずもがな。上と下でサヨウナラだ。
という怖い想像を悟られるわけもなく、アスカは素直に俺の発言に絶句しているようだ。言葉もない、という様子で棒立ちの彼女は、しかし少しオーヴァーな気がした。
確かに肩というのは腕の駆動部の根っこ、つまり最も重要な部分だが、それでも攻撃が不可能になるわけではない。体全身を振り回せば打撃は可能だし、もっと言えば左は健在なのだ。大負傷には違いないが、『致命』傷と呼ぶには些か小規模な怪我だ。
という俺の考えは少々的外れだったようだと、次のアスカのセリフで考え直した。
「確かに、それ自体は命を奪うには足りないかもしれないけど……そもそも体を貫かれた時点でほとんどの人間は一時的でも行動不能になると思う……」
少しだけ語尾が砕けた口調なのは、驚きで呆然としているからだろうか。
確かに、言われてみればそれが普通なのかもしれない。どうやら俺は自分の尺度で語っていたようだと、少し反省した。
「なるほど、まあ、それを考慮した上でも俺にとっては致命的とは言えないけどな」
これは混じりっけなしの事実だ。
「よく言い切れるわね」
ようやく衝撃から復活したようで、今度の言葉は驚きよりも呆れ成分が多く含まれていた。
「既に経験済みだからな」
だからといって俺に影響はなく、淡々と本当の事を述べていく。――という風を装って、相手を自分のペースに持ち込み、機会を伺う。
俺は俺を追い込もうとしている状況を打開する術を、彼女に見出していた。
正確には、彼女の『肩書き』に、だ。
「経験済み?」
「ああ、昔、大蛇系の魔物にグサッ! とな」
その時を思い出しながら肩をさする。
あれは三年前くらいの出来事、森で食料を探していた俺は、背後から襲いかかってきたレッドスネークという、血が好物で、丸呑みせずに噛み付いて血を舐めるという変わった習性を持つ魔物に噛まれた。その時は痛みに苦悶したが、それでも即座に反撃することは可能だった。
なら、あの魔物の牙よりも遥かに細いレイピアの刀身で貫かれる程度なら耐えられるだろう、という経験からなる推測だったことを明かすと、アスカは三度、では済まないだろうが、絶句した。
「その、レッドスネークは? 倒したの?」
「そりゃあ、放置するわけないだろ。逃げるのは論外だし」
俺の返事に何か思うところがあったのか、アスカは口にゆるく握った拳を当てて考え込んだ。少しして、遠慮げに俺に視線を向けたアスカは、
「素手で?」
遠慮がちな声音で、かつ大真面目な色を滲ませて、そう訊いてきた。
「…………そんなわけないだろ」
流石にこの発言には、俺も呆れざるを得なかった。確かに俺は今無手状態だが、本来は〈デバイス〉を持っていたことは彼女も知らないわけじゃないだろうに。
そもそも俺とこの少女がこんな状況に、こんな場所にいる原因の半分以上は〈デバイス〉なのだから。
――――〈デバイス〉。
始まりは、何百年もの昔、現在では『古代ガリア文明』と呼ばれる文明が栄えていた頃。ガリア人たちは今よりも高い技術力を有していたとされており、〈コード〉と呼ばれる特殊な魔導を特殊な金属に組み込んだものが〈デバイス〉である、と言われている。特殊な金属はオリハルコンやミスリル、ダマスカス鋼と呼ばれ、色でその名称が異なる。青系はオリハルコン、白系はミスリル、黒系はダマスカス鋼だ。
デバイスをデバイス足らしめている魔法〈コード〉の方は、ほとんど解明されていない謎の魔導である。
古代ガリア語で形成された文字列の魔導、という程度の認識しかされておらず、その内容は個人の名前、体型などから、倒した魔物の数、その名称まで多岐に渡る。
それらの情報は〈パーソナルコード〉と名付けられ、個人の証明書として専用のコード読み取り機〈コンソールスフィア〉で読み取り、組織への登録などに利用できる。
そしてもう一つの機能。それが〈ウェポンコンバート〉である。
〈武器化〉とも呼ばれ、その名のとおりデバイスを“武器”に“化けさせる”ことできる機能である。
その種類は無限大で、短剣、長剣、斧、鎚、長槍、長弓など例えを出したらきりがないほどだ。
各デバイスは多様な武器の種類のうちの一つに変化でき、使用者はデバイスを武器として使うことができる。その業物加減たるや、素直に鉄や鋼を鍛えて作った刀剣が一撃でへし折られるほどの差がある。
故にデバイスは一般人には個人証明の道具として、冒険者や戦士には武器として普及している。
そして俺もその例に漏れず、デバイス――〈アルド〉を持っていたのだが、それを見事に奪われ、その時居合わせたこの少女、アスカと諸事情により逃走劇を行い、こんな人気のない場所に二人っきりなのだが……。
――本当に、何やってんだかな。
改めて考えると、何とも馬鹿げた話だ。それは俺がデバイスを奪われたことが発端だというのが、余計にバカ加減を増加させている。
“あそこ”にいた頃なら、こんなことは起きなかっただろうな。危険と死と闘争が常に這いずり回り、絡みつき、濃く染み付いた“あの場所”だったら。
「……ちょっと、急に黙ってどうしたのよ」
「え? ああ、いや……別に、なんでもない」
いつの間にか下がり気味だった俺の顔をのぞき込むようにして首をかしげたアスカに、俺は咄嗟にほとんど意味をなしていない回答を返した。疑るような視線を向けられ、内心焦る。折角こちらのペースに持ち込みかけていたのに、これでは意味がないではないか。
俺は話の方向を戻すため、わざと呆れた表情を作って息を吐いた。
「アンタがあんまりアホなこと言うから、反応に困ってただけだよ」
「なっ!?」
羞恥心で耳まで真っ赤にしたアスカにシニカルな笑みを向けて――焦りを反映して引き攣らないように注意して――言葉を続ける。
「あーあ、なんか幻滅だぜ。もっと思慮深い冷静なやつだと思ってたのに、イメージ崩れたぜ」
こちらの意図に気付く様子もなく、俺の言葉攻めを受けるたびに顔を上気させる。言い終わる頃には頭から蒸気でも放射するんじゃないかと思うほど赤くなっていた。
しかし、恥ずかしさのままに、逆切れのままに喚き怒鳴ることはしないだろうと俺は踏んでいた。理由は、一つは言葉のとおりこの少女は思慮深く冷静で鋭い観察眼の持ち主という印象を受けたこと。そういう人間は、簡単に感情のまま動くことはないだろうという推測だ。
もう一つは、俺の指摘。つまり『思慮深い冷静なやつだと思っていた』という発言が先手を取る形になり、アスカに冷静さを欠いた行動や短慮な行動を取らせにくくさせている。これもアスカが『思慮深い』ことが前提だが、まあ大丈夫だろう――
「うっさい! 第一まだ出会って一日も経ってないのにイメージも何も無いでしょ!!」
――という俺の思惑は、いとも簡単に、ガラスのように砕け散った。
まさに逆切れ、という表現がぴったりな様子で叫んだアスカは、顔を真っ赤に染め上げて、目の端には小さく光るあれが浮かんでいる。そんな顔で――泣きそうな顔で上目遣いに睨まれて、不覚にも可愛いと思ってしまった。
しかしどうやら状況は、そんなことを思っている余裕を許さないようだ。
「黙って聞いてれば……バカにして……」
ブツブツと呟きながら、アスカは何かに耐えるように顔をそらし、目をつむって拳を震わせる。そしてその葛藤は、あっさり終了した。
「覚悟しなさい!!」
そう叫ぶと同時に、アスカは腰のレイピアを抜いた。目元に涙を溜めたまま。
それは正しく子供の癇癪のようで、麗しい顔の造形とのギャップで随分と可愛らしいのだが、如何せん右手に握った剣が物騒すぎる。顔が引き攣っているのが自分でも分かるくらい動揺しながら、何とか説得を試みる。
「あ、アスカさん……? まさか逆切れで斬り掛るなんてそんな子供っぽいこと」
「黙りなさい! そして死になさい!」
どこの女王様だと言いたくなるセリフを吐きながら、アスカは剣を構え、鋭い縦斬りを放ってきた。
なんでこうなる!? と叫びたいの堪え、本日二度目の戦闘に意識をシフトしようとした。
結果から言えば、それは失敗に終わった。
咄嗟にバックステップで回避しようとしたが、アスカとの間合いが近すぎた。その剣先は俺の頬をかすめ、首元を脅かしながらインナーの襟口を小さく裂き、“それ”がチャリン、と音を鳴らした。
首にかけていたネックレス。それが斬撃の衝撃でたわみ、その姿を外気に晒した。
手のひらに収まるサイズの、楕円形をした、現代の言語ではない文字が描かれた薄い銀色のプレートが鎖につながれたまま宙を跳ねた。
ジリッ! と頭の中で何かの回路が焼けた感覚が襲い来る。同時に、スイッチが入った。
さっきとは比べ物にならないほどの速度で右足が浮き上がり、一瞬で体を回転させながら蹴りを放つ。ギャギャッ、と軸足のブーツの靴底が甲高い音を立てて火花を散らす。
意識が一段シフトアップした状態で放った後ろ回し蹴りは、危うく正気を取り戻して急停止させたのでアスカに直撃することはなかった。それでも、寸でのところまで近づいた蹴りの風圧でアスカの黒い髪がぶわっと浮いた。
「…………っとと」
変に刺激しないようにゆっくりと脚を戻すが、アスカは剣を振り下ろした姿勢のまま、表情筋ごと固まっていた。顔には驚愕が張り付いている。
今の蹴りは、戦闘を考えての攻撃ではなかった。
敵に看過できないダメージを負わせるための敵意、あるいは殺意を込めた渾身の一撃。
いわば、殺し合いのための攻撃だ。
少なくとも俺の中では、二つの攻撃には明確な線引きがある。相手に対する意識の違い。自分にとって害となる完全なる敵か、会話や意思疎通の余地が――あるいは価値があるか。その違いが、俺の攻撃に込める“重さ”を変える。
その点で、今の一撃は間違いなく自分の中では“殺す”ための一撃だった。
俺の一瞬の変化を敏感に感じたらしいアスカは、何とか姿勢だけは元に戻したが、どこか放心したような様子だった。
まあ、無理もない。
寸前まで安全に身を置いていた状況から一変、死の香りを濃厚に感じてしまったのだ。普通なら崩れ落ちてもおかしくない。
そもそも、俺が“普通”を語ること自体が可笑しな話かもしれないけど。
自嘲気味に内心で呟く。すぐに意識を思考から現実に戻して、目の前の少女を見やる。
「悪い。驚かせた」
素直に謝罪する。自分だけに非があるとは思わないが、こういうことは余裕がある方から始めないとな。などと、少し上から目線すぎるだろうか。
呆然と俺に視線だけを送るアスカは、急にハッとしたように剣を納めて、上半身ごと大きく頭を下げた。
「わ、私こそ……御免なさい」
「いや、そんなに大げさに謝らなくても」
実際、彼女の反応は少しオーヴァーだ。過程はどうあれ、危なかったのは彼女の方だから。
しかし、アスカは結果よりもそこに至る過程に重きを置いているようだった。
「でも先に手を出したのは私です。それに――それ、大事なものなんでしょう?」
言いながら目線を俺の胸のあたりに向けてくる。
思った以上に鋭いな、と感心する。俺の変化だけでなく、その理由まで把握するとは。
俺が一瞬でキレた理由は、このネックレスが危険になったから。そのネックレスを軽く撫でて、少しだけ昔を思い出す。
ただのプレートだったこれをネックレスにして渡してくれた師匠の姿を。全身が真っ黒で、夜だと輪郭だけになって同化してしまう彼の、珍しく純真な子供の様な笑顔を思い出し、少しだけ表情筋が緩む。
「まあな。これは、なんだ…………形見、に近いのかな」
適切な言葉が浮かばなく、近い単語で代用する。明確には形見とは違うが、似たようなものだ。
俺のセリフを受けて、アスカは悲痛な表情を見せる。その様子にむしろ俺が慌ててしまう。
「いやいや、誤解するなよ、近いだけで形見なわけじゃないから。それに、壊れたわけでもないんだから――――」
と、言い終わる直前。
――――パキン。
という軽い破壊音が人の気配のない棄てられた旧市街に響いて、ネックレスの鎖の一部が砕け、銀のプレートが、かしゃんと音を立てて地面に落下した。