シャドウハート
酒の臭いと男臭い熱気が昼間から充満している建物の中、一人の少年がクエストボードの前に立っていた。
身長はそれなりに高いが、フード付きの外套に包まれた体は周りの男たちと比べてもかなり、細い。表情などはフードに隠されて見えないが、どうやら一つの依頼書を凝視しているらしい。
「…………うぅん」
腰に手を当て、少年が唸る。黒革の指貫グローブ、夜色のブイネックシャツの上に襟の立った深海色のジャケットを着用し、ズボンは薄い黒。全体的に暗い配色の服に身を包んだ少年の視線の先には、【A級討伐依頼:クレセントベアー。詳細はギルドマスターまで】という内容の依頼書があった。
クレセントベアー。巨大な熊の魔物で、胸に三日月の模様があり、他のベアー種よりも獰猛で強靭。生半可な刃は弾いてしまうほど硬い皮膚を持ち、前足は巨木を薙ぎ倒し岩石を砕く。
以上の情報を即座に脳内メモリから引き出した少年は、同時にA級討伐依頼、という部分に意識を向けていた。
――討伐依頼、ってのは分かる。が……A級ってのはなんだ? 難易度的な事か?
「…………うぅん」
再び、少年が唸った。しかしすぐに鼻から息を吐き出すと、ビッと依頼書をクエストボードから剥がし、昼間から酒盛りに忙しい人たちの間をスイスイと縫うように進み、カウンターへ向かう。
カウンターの奥に座っていたのは、頭髪も長いヒゲも真っ白い老人だった。仙人、という表現がピッタリだ、と少年は思った。
「ぅむ? なんじゃ小僧、依頼を受けるんかい」
接近する人間に気が付いたこの【冒険者ギルド:バズーズ・リダン】のマスター、バーロミュン・エイドリアンに声を掛けられ、少年が少し顔を上げた。
「アンタがマスター? この依頼を受けたいんだけど」
やや無礼な言葉使いを気にするでもなく、バーロミュンが青年から依頼書を受け取る。依頼書を一瞥した瞬間に訝しげな表情になったマスターが、頭を掻く。
「ふぅむ? おめぇさんがこれを受けんのか? ……一人でか?」
「……そーだけど」
「むぅ……うぅむ……まぁ、ええか。ほれ、んじゃ〈ライセンス〉を見せぇ」
「…………らいせんす?」
首を傾げる少年。に対して、バーロミュンも首を傾げた。
「なんじゃ、まさか、持ってないんか?」
信じられない、という表情のバーロミュンに対して、まったく状況が理解できていない少年が頬を掻きながら口を開いた。
「あー、と……。持ってるとか持ってないとか以前に、知らないんで……」
「し、知らんじゃとぉ? おめぇさん、旅人か?」
思い当たる唯一の可能性が、まさしく図星だった。
「ああ、うん。ついさっきこの街にしん……い、いや、入ったところ」
なるほどなぁ、と合点が行って頷くマスターだが、何故か少年の頬には冷や汗が垂れていた。それを気付かれないようにと、少年が話題を戻す。
「あのさ、良ければ、説明してくれると助かるんだけど」
「んん? おお、〈ライセンス〉についてか。ええぞ、教えたる」
ごほん、と一度咳払いをしてから、バーロミュンの〈ライセンス〉講座が始まった。
「まず初めにな、ライセンスにゃあ〈ノーマルライセンス〉と〈マスターライセンス〉の二種類がある」
「ノーマルと、マスター?」
「そーじゃ。まあ、今はマスターの方はええわ。んでノーマルについてじゃが、こいつは別名〈冒険者ライセンス〉とも言われててな、どんな方法を使ってもええからとにかく魔物を倒せる実力をもっとる、という認定書じゃ」
「ふむふむ」
「で、じゃ。その実力をランク付けしとるんが〈ライセンス〉っちゅーわけじゃ。E級からS級まであってな、言うまでもなくEが最低でSが最高じゃ」
「なるほど」
「それで、だ。おめぇさんが持ってきたこの依頼書な、〈A級討伐依頼〉って書いとるだろう?」
「…………ああ、書いてるな」
ここまで来て、少年にもこの話の帰結がどこに向かっているかが分かってきた。分かってきたが故に、仄かに落胆が少年の心中に広がっていった。
「こりゃあつまりだ、あれだ、A級レベルの依頼ですよっちゅーことじゃな」
「……………。……つまり?」
既に答えは分かっていたが、あえて少年は結論を訊ねた。一縷の望みを込めて。
だが、答えは非常に非情だった。
「A級のライセンスが必要じゃ、って言わんでも分かるだろう」
むふぅ、と鼻から大量の呼気を吐き出し、バーロミュンが手元の銀皿からパイプを持ち上げ、すぅぅと吸い込み、ぶはぁと吐き出した。
「…………ダメですか」
「ダメじゃな」
「そこをなんとか!」
ガバッ! と少年が頭を下げ、手を合わせた。
「あー……いや、やっぱダメじゃ。依頼を受けたいんなら【管理局】行ってライセンス貰ってこい」
「管理局……?」
「おう、そこでライセンスの発行してっから。まあ、試験を受けないかんがな」
今度は少年がムフゥと鼻息を洩らす番だった。
「はぁ……。んだって――」
――こんなザコのタメにそんな手間を掛けなくちゃならないんだよ。
という後半部分はため息に変換されて口外へ出た。口に出すのを躊躇ったというよりは、口に出すのも億劫だったという理由が大きい。
ただ少なくともその判断は間違ってはいなかったと言えるだろう。仮にもA級、上から二番目の階級に位置する魔物をザコと言い切れば、どんな言葉をバーロミュンからぶつけられるか分かったものではない。
もちろん、少年の脳内にそんな考えは一ミリたりとも存在しなかったことは確実であるが。
意図せず面倒を回避した少年は、倦怠感を隠そうともせずにカウンターテーブルに肩肘をついた。
「ま、いーや。その管理局? っていうのはどこにあるんですか?」
「んむ、ここを出て左の方に――――いや、口で説明するより図の方がええじゃろ」
そう言うと、白髪のマスターはカウンターの下から一枚の紙を取り出し、さらさらと地図を描いていく。
そして描き終えた地図を少年の鼻先に突きつけ、ニカッと笑った。
「ほれ、持ってけぃ旅人さんよ。武運を祈っとるぞ」
少年も苦笑しながら紙を受け取り、上体を起こす。
「そういうセリフは金貨の一枚でも包んでから言ってくださいよ。――――ま、ありがたいですけど」
言いながら、振り返ってこの場を後にしようとする少年の背中に向かって、バーロミュンが声を掛けた。
「そうじゃ! おめぇさんの名前、なんちゅうんじゃ?」
「名前? 聞いてどうするんです?」
立ち止まり、不思議そうに聞き返す少年に、真っ白いヒゲを撫でるバーロミュンは初めて真剣な目をして、言葉を紡いだ。
「なんじゃろなぁ。おめぇさんにはなんか、惹かれんだよなぁ。空気ってかオーラってゆうんか。長い間戦士を見てきたモンのカンだけどな。……まあ、とにかく教えてくれや。減るもんでもねぇだろう」
「はあ、まぁ、いいですけど」
少年は漸く、初めて外套のフードを下ろし、顔を曝した。
「シオン。シオン・シャドウハートです。以後お見知りおきを――――ってね」
うやうやしく一礼した少年――――シオン・シャドウハートは最後にニヤリとシニカルに笑って、再び外套のフードを被った。
「シオン……シャドウハート(幻影の心)、のぅ」
――――変わった名字だなぁ。
小さく呟いたバーロミュンの声は、ギルドの喧騒にかき消されてシオンの耳には届かなかった。
✽
「やぁやぁそこのフードのヒト! ちょっといいかな?」
そんな声が聞こえてきたのは、地図通りに進んだはずなのに道に迷っている時だった。
声のベクトルが自分に向いているように感じて、何となく周囲を探る。ざっと見た限り、シオン以外にフードを被っている人間は、いなかった。
一応振り返ると、声の主と思われる人物はすぐに発見できた。
自分に向かってニコニコと笑顔を浮かべて接近してくる人物、彼以外に声の主と思われる人間はいない。
接近してくる人物――――腹は大きく膨れ、かなり恰幅がいい。顔は恵比寿顔とでも言うのだろうか、耳が大きく輪郭が丸い形状をしている。頭にはお腹と比べてかなり小さく見える鍔のない帽子を被っている。全体的にオレンジ系の色の服を着た中年の男性は、分厚い唇を開きながら左手人差し指でシオンの右の腰辺りを指差した。
「君、旅人かい? そんな格好をしているよね。ところで、その腰の――」
「あの、誰ですか? アンタ」
「――おっとぉ。警戒されてるねぇ。ははは……」
ははは、と頭を掻く中年男性は困ったように笑顔を浮かべ、右手を差し出した。
「……何ですか?」
「握手さ。ああ、まずは自己紹介が先だったかな? 僕の名前はラッグ、商人をしているんだ」
「……はあ。ああ、俺はシオンです」
躊躇いつつ、シオンもラッグの右手を握る。瞬間、ガッ! とラッグが両手でその手をホールドした。
「シオンくんか! よろしくね!」
ブンブンと上下に腕を振るラッグに困惑し、固まるシオンのことなど関係なく商人を名乗る男は話を進める。
「それでね、君のその腰の――――〈デバイス〉。見せてくれないかな」
チラリ、とラッグが視線を向けた先。シオンの右の腰には、黒革のベルトと一体化したホルスター、その中に長方形の物体が収まっていた。
――――〈デバイス〉。
「……理由は?」
僅かに警戒心を強めたシオンが、低い声で問う。フードの下で光る瞳に射抜かれたラッグ商人が、思わず半歩あとずさった。
「い、いやぁなに、理由も何も、私は商人だよ? 〈良い(レア)物〉を見付けたら黙っていられないさ」
「レア? なんで分かる?」
再び問われたラッグは、今度は強気な笑顔を浮べた。
「侮ってもらっちゃあ困るね。僕はこれでも目利きの商人なんだよ? すれ違いざまに品定めするなんて朝飯前さ」
「ふぅん」
そういうものかと、シオンは納得する。これまでの人生、深く商い人と関わったことのないシオンには彼の言葉の正否を目利きすることは出来なかった。
「それで、見せてくれるのかい? 見せてくれないのかい?」
逆に問いかけられ、シオンは逡巡する。危険はあるだろうか。
――問題は、あるだろうか?
考えた結果、彼が出した答えはNO。見せないのノーではなく、問題ないのノーという判断だった。
「いいですよ。……どうぞ」
腰のホルスターから取り出した〈デバイス〉は、全体が艶のない黒檀色。手のひらサイズの長方形。中心にはクリムゾンレッドの〈コア〉が、今は眠っているように暗んでいる。
「お、おお……」
右手で差し出されたそれを、ラッグが受け取り、数歩下がった。太陽にかざしたり、ひっくり返したり。ためつすがめつ丁寧に眺めながら、徐々に。気取られない程度の速度で、後退していた。
――――あれ?
シオンが疑問を抱いたとき、二人の距離は二メートルを過ぎ、三メートルを超え、四メートルよりも遠く、五メートルほどに広がっていた。
「…………ひっ」
不意に、ラッグが引きつったような声を洩らした。それをシオンが聞いた瞬間。
――ラッグが、クイックと呼ぶには遅いターンでシオンに背を向け、走り出した。
「…………はえ?」
シオンが間抜けな顔で間抜けな声を出したと同時、
「ひぃあっははは!! バッカじぇねぇの!? こいつぁ貰ったぜぇ!!」
ラッグが甲高い哄笑と共にそんなセリフを吐いた。驚いた周囲の人が立ち止まり、小さな人垣が出来上がる。
ことここに至ってシオンは漸く事態を理解した。
つまり自分は騙され、
そして〈デバイス〉を――――〈アルド〉を奪われた。
人の良さそうな商人だと思っていたラッグの突然の豹変に驚きながらも、こうも容易くデバイスを奪われた事実に衝撃を受けつつも、シオンはほとんど無意識に走り出し……気が付いた。
「っ、このっ、……邪魔だッ!」
何事かと立ち止まり、ラッグの走り去った方向を見つめる人垣が、シオンの走行を妨げる。何とか隙間を通って抜けたときには、鈍足そうな商人の姿は既に小さくなっていた。
シオンの奥歯が、ギリッと音を立てた。
「逃がすか……ッ!」
無声音で叫び、再び走り出す。人を避け、人を避け、人を避け――歩いているときには意識しなかった人通りの多さに苛立ち、辟易するが、それでもシオンとラッグの二人の距離は確実に縮まっていた。
しかし、残りの二十メートルが中々縮まらない。背中が近づかない。原因は一つ、人通りの多さ。障害物の多過ぎる道は、二人の間に明確に地の利の差を与えていた。道を知り尽くし、人の回避の仕方を熟知しているラッグの走りは軽快だった。
どうしてあの横にデカい体型でああも軽快に走れるのか。普通ならば人にぶつかるなりするではないか。と内心で愚痴ってみても始まらないし、距離も変わらない。
「ああ、もう……!」
――――目立つことはしたくないってのに!!
脳内でそう叫ぶと同時に、躊躇いを捨て、覚悟を決めた。
シオンは一気に姿勢を低くすると、少しづつ、人波をすり抜けて通りの右、壁の方へ寄った。そのまま人の少ない道を全力で低空ダッシュする。すれ違う人々が驚いた顔で振り返るのが分かるが、構っている暇も余裕もない。
十分に加速したと確信した刹那、さらに姿勢を低くし――――勢い良く地面を蹴り、跳んだ。
ズダァン! とモノ凄い音と衝撃を残して斜めに飛翔したシオンは、更に左足で壁を蹴り、右足で壁を蹴り、十メートルほどの壁走り(ウォールラン)を敢行。僅かな速度の低下を感じた瞬間に、今度は壁を右足で踏み抜く勢いで蹴り、体を背面跳びのように捻り、足を地面に向けて着地した。
ギャリリィ!! と靴底と石畳の地面が摩擦音と火花を発生させた。両手も使って獣のような姿勢で停止したシオンの数メートル先には、目を見開き固まるラッグの姿。
周囲の人々は、壁から跳躍してきたシオンを回避するように円形に広がり、偶然にも盗人商人と追跡者を取り囲む闘技場のようになっていた。
「逃がすかよ」
激しい運動でフードが脱げ、シオンの顔が曝されていた。耳を隠す程度の長さの夜色の髪を後頭部で結び、瞳は深海のような濃紺。色が白めで整った顔立ちのシオンの表情は、獲物を追い詰めた猛獣のそれである。平均より少し目付きの悪い眼、その瞳の鋭い眼光に商人であり盗人であるラッグが、数歩あとずさり、大量に冷や汗を垂らす。
「アンタ、初めてじゃないだろ。逃げ方がサマになってたぜ」
「は、ははは……なにを」
言葉を絞り出しながらバックし続けるラッグが、不意に懐に手を入れた。
「言ってるのかな?」
上ずった声を上げながらラッグが引き抜いた手に握られていたのは、鈍く光る短い得物。
遠巻きに見物していた誰かが、短く悲鳴を上げた。
「そんな安っぽいナイフで、なにをする気だよ」
しかし、明確に攻撃の意思をもって武器を向けられても、シオンは怯まずに一歩踏み出した。同期して、ラッグも一歩下がる。
もう一歩、シオンは踏み出そうとして思いとどまった。
臆したのでも、恐れたのでも、ましてや諦めたからでもなく、ラッグが武器、あるいは凶器を出したことにより頭が冷静さを取り戻し、周囲を見る余裕を取り戻させたことにより、とある危惧が生まれたからだった。
まわりには大勢の人間、中にはあの肥満の男よりも明らかにか弱いであろう女子供もいる。今のラッグにそんな余裕はないと思うが……仮に、仮に人質を取られた場合、それは結構マズイ状況だろう。
気にしなければいい、と言えばそこまでだが、その可能性に気が付いてしまった以上、迂闊な行動は取れない。
「どうした!? 来るなら来い!」
恐らくシオンの常識外の追跡方法に動揺した、もしくは追いつかれたことそれ自体に驚愕しているラッグには、まだ余裕が戻っているようには見えない。仮に今シオンが一気にキメに掛かれば、何事もなく終わるだろう。しかし――――
そんなことを考え、行動に迷っていた時。
シオンは視界の端で、何者かがこのサークルの中に入ってくるのを捉えた。
「そこまでよっ!!」
視線を一瞬向けようとした刹那、凛と響く少女の声がその場を満たし、思わず声の主に意識の大半を持っていかれてしまった。
純白に紅のラインが入ったブーツ、ブーツから伸びる腿は引き締まっている。赤と白のチェックのスカートに赤と白ベースのジャケットとインナーに身を包んだ、起伏の少ない少女の体を確認した瞬間、聴覚である音を捉え、勢い良く振り返った。
「あっ!」
シオンが振り返った時には、音の正体、ラッグの足音は遠ざかり、その姿は近くの路地裏へ消えていくところだった。
「ま、待ちなさい!」
「待てッ!!」
シオンと闖入者の少女はまったく同時に叫び、同時に駆け出し、僅かな差で路地裏に飛び込んだ。しかしそこには既にラッグの大きな体は見当たらない。
「クソッ」
短く毒づいたシオンが走り出し、少女も続く。置かれていた木箱を飛び越え、さらに加速して路地を飛び出した先は、一つ向こうの通りよりもやや人通りが少ない石畳の道。造りがほとんど同じで迷いそうだ、などと場違いなことを一瞬考え、それを消し去るように鋭く左右を確認するも――――
「居ない……」
何故か、オレンジ服の中年男性の姿は見当たらなかった。
速い、と思った。
走る速度ではなく、意識の切り替えが、だ。
謎の、少なくともシオンにとっては謎の闖入者の出現、それによってシオンは意識を奪われ、逆にラッグは正気に戻った。経験の差か、環境の差か。とにかく、遅れをとったことに変わりはない。
――――あんな男に騙され逃げられ……か。
「……クソっ」
もう一度毒づき、後頭部をガシガシと掻きむしったところで、背後の存在を思い出した。振り返り、改めてその姿を目視した瞬間に、シオンは思わず上体を少しだけ反らしてしまった。
服装は、さっきも確認したとおり。しかし、先程は確認できなかった顔を見た瞬間、息が詰まるという表現がぴったりな状態にシオンは陥った。
美しい艶の黒髪は腰までありそうなほど長く、瞳もまた漆黒。長めのまつげが今は憂いでか伏し目がちになっている様は美しい、と形容するのがピッタリだった。肌も白磁器の陶器のように綺麗で瑞々しい。
幼さをまだ少し残す顔立ちにシオンは一瞬言葉すら忘れ見入った。直後に正気に戻ったが、その刹那で受けた衝撃は大きかった。
「御免なさい。私が居ながら……いいえ、私のせいで、というのが正しいかしら」
ついさっきとは打って変わってしおらしく謝罪をした少女に対して、シオンはどうしていいのか判断に困ってしまった。
確かにあの場でラッグに逃げられたのは彼女のせいだと言えるし、シオン一人ならば確保できた可能性も高い。
しかし、あの状況でシオンが動き、仮に誰かが傷ついていた可能性もある。IFの話をしてもどうしようもないが、少なくとも数あるIFの可能性の中で、この結果は最悪とは言えないようにシオンは感じた。
だからこそ、彼は肯定も否定もせず、事実だけを述べるに留めた。
「確かに、俺だけなら捕まえられたかもな」
「うっ……本当に、御免なさい……」
「まあでも、捕まえられなかったかもしれない」
「え?」
「とにかく、誰もケガしなかった、って結果だけは最良だったんじゃないか?」
最初、少女は理解できないようにポカンとした顔だった。数秒かかって少しだけ表情が緩み、すぐに表情を改めて口を開いた。
「確かに、最悪ではないかもしれないわ。でも、実際に被害が出てしまったのなら、それは悪いに違いないでしょう?」
少女の鋭い指摘にシオンが呻く。
「うっ、そりゃあ、まあ」
たじろぎ、右手を首の後ろに回したところで、はて? と思う。なぜ俺が責められてるんだ? とシオンが思ったのと、少女が気付くまでのタイムラグはほとんどなかった。
「あ、ええと。御免なさい、そもそも被害者は貴方だったわね」
「い、いや、いいけどさ。盗まれたものは仕方ないし」
「……でも、貴方が盗まれた物って私が見た限り――――〈デバイス〉、だったわよね?」
「………………あ」
言われて、漸く思い出した。遅すぎるほどに遅い。
――――そうだ、俺が盗まれたのは……〈アルド〉じゃないか!
「ぜんっっぜん、仕方なくないだろオレェ……ッ!」
ぐおお! と頭を抱えるシオンを同情半分、気遣い半分の眼で見る少女が、サッと辺りを見渡す。大半は気にせずに通行しているが、幾人かはこちらを気にして時々視線を送っている。
「ねぇ、とりあえず――」
――場所を移しましょう。
そう言おうとした少女の言葉は、シオンがある一点を見つめていたことにより途切れた。シオンが凝視しているのは、自分の斜め後ろ。そこに何があるのか、確認しようと後ろを振り向こうとした瞬間。
「――――悪い、走るぞ!!」
「えっ!?」
素早く手首を握られ、急激に引っ張られる。ぐんぐんとシオンは容赦なく加速し、自然と少女も真剣に走らねばならなくなる。
「こらぁ! 待てッ!!」
直後に後方からそんな声が聞こえてきた気がするが、少女には確認する余裕がなかった。
――――なんなのよ一体!?
口を開く余裕のない速度のダッシュを余儀なくされた少女の悲鳴は口から発せられることはなく、脳内で虚しく、何度も木霊した。