世界が終わるのに、僕だけお迎えがこない
世界が、もうすぐおしまいになるらしい。
それを初めて聞いたのは、家族で夕飯を食べているときだった。
テレビでは、見覚えのない男の人が明日の株価でも話すように何かを説明していた。
灰色のビジネススーツを着たその人は、別の世界から来たのだという。親切なことに、僕たちを助けるため、この世界へお迎えにきてくれたのだとか。
「おしまいって、どういうことですか?」
微妙に反応に困った顔をして、司会者が尋ねた。頬が少しぴくぴくしている。深刻な顔をした方がいいのか、笑った方がいいのか、判断に迷っているようだった。
「こちらの世界が、もう終わるということです」
「それは、地球がなくなるという意味でしょうか? 隕石が衝突するとか?」
「いえ、そういうことではありません」
「では、具体的には何が起こるのでしょう?」
男の人は、少し困ったように笑った。
「説明するのは少し難しいのですが、とにかく、おしまいになるのです」
ずいぶん大雑把な説明だと思った。
何かのドッキリ番組だろうかと思ったとき、画面は見慣れた総理大臣の顔に切り替わった。VTRらしい。
首相は額の汗をハンカチで拭いながら、「とにかく、そういうことらしいのです」と繰り返している。
記者たちは「無責任だ!」と騒ぎ立てている。総理大臣の仕事は大変そうだった。
「変な話だねえ」
母が味噌汁を飲みながら言った。
「異世界って、あれか。魔法とかあるのかな」
父は少し楽しそうだった。
「そんなの、分かんないでしょう」
「いや、だって異世界だぞ」
「お父さん、異世界に行きたいの?」
「行ってみたくないか?」
母は呆れた顔をした。
僕は黙ってご飯を食べていた。
異世界に行けるというなら、それはそれでいいが、明日は英語の小テストがある。
世界がおしまいになるというなら、テストも中止にならないだろうか。
*
それから、あちらの世界の人たちが本当にお迎えにくるようになった。
僕の身近で最初にお迎えがきたのは、クラスメイトの男子だった。
ある朝、教室に入ると、彼の席が空いていたのだ。
「昨日、お迎えの人がきたんだって」
隣の席の女子が教えてくれた。
「もう行っちゃったの?」
「うん。家族と一緒に」
「へえ」
僕は彼の机を見た。
そういえば、昨日、彼に貸した消しゴムをまだ返してもらっていない。
彼は異世界に僕の消しゴムを持って行ったのだろうか。僕があっちに行ったら、ちゃんと返してくれるのだろうか。
期待は薄かった。
スマホを見てみると、クラスの連絡グループに彼からメッセージが届いていた。
『先に行ってるわ』
誰かが『元気でな』と返していた。
別の誰かは『向こうでもゲームできる?』と尋ねていた。
返事はなかった。
異世界では、スマホが使えないのだろうか。
『消しゴムは?』と聞いても、意味はなさそうだった。
*
次の日には、クラスの女子が二人いなくなった。
その翌日には、授業中に担任の先生へお迎えがきた。
先生はお迎えの人に廊下で待ってもらい、授業をホームルームに切り替えた。
先生は、そわそわと廊下を気にしながら言った。
「皆さん、健康には気をつけてください」
誰かが笑った。
「先生、そんな場合じゃないでしょ」
「世界が終わるっていうのに健康って言われてもさぁ」
「そうかもしれませんが、皆さんもあっちの世界で新しい生活を送ることになるわけですから。とにかく、健康には気をつけてください」
先生は少し笑った。
「それでは、また異世界で」
そう言って、先生は教室を出ていった。
僕たちはなんとなく拍手をして先生を見送った。
次の日から、学校は休校になった。
先生にも生徒にも、次々とお迎えがくるようになったからだ。
結局、最後の授業は数学だった。
黒板には、解きかけの二次関数の問題が残っていた。
世界がおしまいになるのなら、最後くらい体育にしてほしかった。
*
両親にお迎えがきたのは、それから五日後のことだ。
ちょうど、僕が朝ご飯を食べているときだった。
玄関のチャイムが鳴り、母が出ると、灰色のスーツを着た男女が立っていた。「近所の役所から来ました」と言われても、信じてしまいそうな雰囲気だ。
「お迎えに参りました」
男の人が言った。
母は慌てて父を呼び、父はパジャマ姿のまま玄関へ出てきた。
「おお、ついに来たか」
父は少し嬉しそうだった。
「お二人とも、ご準備をお願いします」
「二人?」
母が聞き返した。
「うちには息子もいるんですけど」
女の人が手元の紙を確かめた。
「本日お迎えするのは、お二人となっております」
「じゃあ、この子は?」
「ご家族でも、お迎えが別々になることがあるようです」
「そうなんですか」
母は僕を振り返った。
「どうしよう?」
僕に聞かれても困る。
母は女の人に尋ねた。
「この子にも、あとで来てくださるんですよね?」
「ええ、大丈夫だと思います」
「思います?」
「申し訳ありません。私どもは、本日のお迎えを担当しているだけですので」
「でも、家族なんですよ」
「はい」
「一緒に連れていってもらうことはできませんか」
女の人は、また紙を見た。
「こちらにお名前がございませんので」
「名前がないと駄目なんですか」
「そういう規則なのです」
母は困った顔をした。父も、さすがに不安そうな顔になる。
それどころか、お迎えにきた男女も、少し対応に困っているようだった。
「どうする? もう少し待ってもらうか?」
父の言葉に、僕は首をかしげた。
教室でグループを作るときに、一人だけ余ってしまったような居心地の悪さを感じていた。正直なところ不安だったが、素直にそう言うのも抵抗がある。
家族が別々に行くケースも普通にあるというのなら、それでいいんじゃないだろうか。
「別にいいよ」
僕は言った。
両親と男女がそろって僕を見る。ますます居心地が悪くなった。
「あとで来るんでしょ。待ってるよ」
「でも、それまで一人になっちゃうでしょう」
「大丈夫だって」
「本当に?」
「高校生なんだから、ちょっと一人で待つくらい平気だよ」
母は黙った。
僕は、少し面倒になってきた。
「二人とも先に行きなよ。僕にお迎えがくるのを待って、逆に二人が行けなくなったら困るでしょ」
それは、なかなか合理的な説明だったと思う。
僕にお迎えがきたとき、今度は「両親の名前が名簿にない」とか言われても困る。
父はしばらく考えていたが、やがて頷いた。
「まあ、そうだな」
母はまだ心配そうだった。
「ご飯は?」
「自分で作れるよ」
「洗濯は?」
「できるって」
「戸締まりはちゃんとしてね」
「分かってる」
「それから、冷凍庫にお肉があるから」
「うん」
「野菜も食べなさいよ」
「世界が終わるってときにそんなこと?」
「世界が終わっても、野菜は食べなさい」
母が真顔で言うので、僕は笑ってしまった。
父は「無駄遣いするなよ」と言って、僕にお金とクレジットカードを渡してくれた。
両親は、それから手早く荷物をまとめた。そろそろうちにもお迎えがくるかもと思っていたので、一通りの準備は済ませてある。
最後に父が釣り竿を持っていこうとして、母に止められていた。
お迎えにきた二人も、向こうには必要なものが揃っているから大丈夫だと父をなだめた。
僕は玄関先まで出て、両親を見送った。
「じゃあ、行ってくるわね」
「うん」
「向こうで待ってるから」
「うん」
「ちゃんとお迎えがきたら、きちんと挨拶するのよ」
「分かってるって」
母は何か言いたそうにしていた。
そんな顔をされると、かえって困る。
「じゃあね」
「うん。またね」
父は少し異世界にわくわくしているようだった。近所に釣りへ行くときのように、気楽な調子で声をかけてくる。
「それじゃ、行ってくるからな」
「うん、行ってらっしゃい」
道路の真ん中に、四角く光る扉のようなものが浮かんでいた。
扉の向こう側に、白い廊下が見える。
父と母は、お迎えにきた二人に先導されてそこへ入っていく。
母が最後に振り返り、僕が手を上げかけたとき、扉は音もなく消えた。
僕はしばらく、玄関の前に立っていた。
*
両親が出発してから、最初の三日くらいは楽しかった。
なにしろ、学校に行く必要もなければ、親に何か言われることもないのだ。好きなだけゲームができるし、夜更かしや朝寝坊をしても怒られない。
一人暮らしも、なかなか悪くないな。気楽にそう思っていた。
しかし、一週間も経つ頃には、そんな生活にも少し飽きてきた。
ゲームをしていても、何となく集中できない。食事を用意するのも面倒だった。
母が冷蔵庫に残していった食材は、野菜以外ほとんど食べてしまった。
仕方がないので、僕はスーパーへ買い物に行った。
店には、まだ何人か客がいる。でも、店員は一人しかいなかった。
「大変ですね」
レジでそう言うと、店員のおばさんは笑った。
「そうなのよ。昨日、店長にもお迎えがきちゃってね」
「おばさんは、まだなんですか」
「まだなのよ」
「僕もなんです」
「あら、そうなの? って、ここにいるんだから当然よね」
おばさんは、買い物袋を僕に渡した。
「お互い、早く来るといいわね」
「そうですね」
僕は少し嬉しくなった。
まだお迎えがきていない人がいる。それだけで何だか心強くなった。
しかし、翌日、スーパーは閉まっていた。
店の入り口には、手書きの紙が貼ってあった。
『お迎えがきました。長い間ありがとうございました』
僕はその紙をしばらく眺めていた。
「よかったですね」
紙に向かってそう言ってみたが、少し腹も立っていた。
昨日までは、一緒にお迎えを待っていたのに――。
まだ、僕にはお迎えがこない。
*
それから、町は少しずつ静かになった。
車が減った。電車も走らなくなった。コンビニはほとんど閉まっていた。すれ違う人さえ、どんどん少なくなっていく。
クラスの連絡グループも、もうほとんど通知が来ない。
最初のうちは、毎日のように誰かがメッセージを送っていた。
『お迎えきた!』
『マジか』
『いいなー』
『あっちで会おうぜ』
ところが、だんだん書き込む人が減っていき、今となっては、僕を含めて三人くらいしか残っていなかった。それも、あまり親しくもない間柄である。
ある晩、女子の一人がメッセージを送ってきた。
『お迎えがきたの。いま、荷造りしてる』
『おめでとう』
僕はそう返した。
『でも、行きたくない』
少し考えてから、僕は返信した。
『なんで?』
『だって、向こうのこと何も知らないじゃん』
『そうだけど』
『友達と会えるかも分かんないし』
僕は、しばらく画面を眺めていた。
行きたくない。
そういう人もいるのだ。
僕には、よく分からなかった。
『でも、お迎えがきただけいいじゃん』
送信してから、少し嫌な言い方だったかもしれないと思った。
ちょっとして、返事が来た。
『そうだよね。それじゃあ行ってくるね』
僕は『行ってらっしゃい』と返した。少し経ってから、『元気でね』と付け加えた。
既読はつかなかった。
*
実際にお迎えを断る人もいるらしい。
そのことを知ったのは、久しぶりに本を買いに行ったときだった。
ちょうど店の中で、灰色のスーツの男が、おじいさんを説得していた。
「ですから、こちらの世界はもうすぐおしまいになるのです」
「それは聞いたよ」
「でしたら、お早めにご準備を」
「いや、行かないって」
「しかし」
「俺はここにいる」
おじいさんは、レジの向こうで腕を組んでいた。
「本もいっぱいあるしね」
「向こうの世界にも本はございますよ」
「そりゃ、あるだろうけど」
おじいさんは、棚に並んだ本を見た。
「うちの本じゃないだろ」
男の人は困ったように笑った。
結局、また後日伺いますと言って帰っていった。
僕は文庫本を二冊持ってレジへ行った。
「お迎え、断ったんですか」
「うん」
「どうしてですか」
「さっき言ったとおりだよ」
「でも、世界がおしまいになるんですよ」
「らしいね」
「怖くないんですか」
「怖いさ」
おじいさんは平然と言った。
「でも、この歳になって知らないところに行くのも怖いしねえ」
僕は返事に困った。
「君は、まだなの?」
「はい」
「そうか」
おじいさんは本を紙袋に入れた。
「じゃあ、早く来るといいね」
「……はい」
僕は曖昧に笑った。
迎えを断ることができるなんて、ずいぶん贅沢な話だ。
僕はおじいさんが羨ましくて仕方がなかった。
*
スーパーは、とうとう一軒も開かなくなった。
仕方がないので、僕は泥棒のように窓ガラスを割って、閉店した店から食料を持ち帰るようになった。
最初は、そんなことをするのを随分ためらった。
でも、もう店員はいない。警察もいない。レジの機械も止まっていた。
いまさらお金を払っても、何の意味もない。困る人すらいないのだから。
それでも、最初のうちは値札を確かめてしまった。
高い缶詰を手に取ると、何となく悪いことをしている気がした。
テレビも映らなくなった。インターネットも、使えなくなった。
施設が自動運転しているのか、電気と水道だけは、まだ使えた。
僕は毎日、缶詰を食べたり、カップ麺を作ったりして暮らした。洗濯や掃除だって、ずいぶん手慣れたものだ。
それでも、ふとした瞬間、叫び出したくなるほど誰かが恋しくなった。
*
犬を拾ったのは、そんなときだった。
その小さくて茶色い犬は、スーパーの裏にある駐車場でうずくまっていた。
首輪をしているから、誰かの飼い犬だったのだろう。
僕が近づくと、犬は顔を上げた。
「お前も、置いていかれたの?」
犬は何も答えなかった。
僕はスーパーからドッグフードを持ってきて、少し食べさせてやった。
よほどお腹が減っていたらしい。犬はあっという間に食べてしまい、食べ終わると、僕の方を見た。
「もうないよ」
そう言うと、犬は残念そうに尻尾を垂れた。
「それじゃあね」
僕が歩き出すと、犬もついてきた。ふんふん言いながら、僕の足を嗅いでくる。
「うちに来る?」
そう尋ねると、犬は尻尾を振った。
生活力はなさそうだが、愛嬌のある犬だった。
僕はスーパーから追加のドッグフードを持ってくると、犬を連れて家に帰った。
犬の首輪には『コムギ』と書かれた札が付いていた。
たぶん、この犬の名前だろう。
僕はコムギのために水を用意し、古い毛布を床に敷いた。コムギは毛布の上をくるくる回って、やがて丸くなって寝た。
その夜、僕は、久しぶりに誰かの寝息を聞きながら眠った。
むやみに泣きたくなった。
*
コムギが来てから、少し生活が楽しく、規則的になった。
毎日散歩に行くようになったからだ。
人のいなくなった町は、以前より広々として感じる。
この頃になると、人にすれ違うことすら滅多になくなった。
一度、本屋のおじいさんを訪ねてみたが、店はシャッターが下りていて人の気配もなかった。
結局、おじいさんも異世界に行くことにしたのだろうか。
そういえば、異世界に行くことを不安がっていたあの女子は、あっちでうまくやれているのだろうか。
そんなことを考えながら、僕はコムギと散歩した。
赤信号でつい立ち止まる僕を、コムギが振り返り、「なんで止まるの?」とリードを引っ張った。
*
ある日、公園のベンチに座っていると、遠くで光が見えた。
お迎えの扉だ。
誰かが、また向こうの世界へ行くらしい。
僕は思わず立ち上がり、走り出した。
もしかしたら、僕も連れていってくれるかもしれない。
とっさにそう思った。
でも、数歩も走らないうちに、光は消えてしまった。
僕が立ち止まると、後ろでコムギが小さく鳴いた。
コムギのことをすっかり忘れていた自分に、僕は気がついた。
「……ごめん。ごめんな」
そう言って頭を撫でると、コムギは気持ちよさそうに目を細めた。
*
夕方になると、町の防災無線から音楽が流れた。
子どもたちに、そろそろ家に帰る時間だと知らせる、あの音楽だ。
僕はその音楽を聞くたびに、小学生のころを思い出した。
あのころ、僕は学童保育に通っていた。
両親が共働きだったので、放課後はいつもそこで母を待っていたのだ。
夕方になると、子どもたちは次々と家へ帰っていった。
お迎えが一人きては、子どもが一人減っていく。
さっきまで賑やかだった部屋が、少しずつ静かになっていく。
子どもが少ししかいなくなると、先生は部屋を片づけ始める。机の上のおもちゃを箱に戻したり、使っていない部屋の電気を消したりする。
虚ろになった部屋で、僕は、先生までもが自分を置いて帰ってしまうような不安に駆られた。
「もうすぐお迎えがくるからね」
先生は何度もそう言い、僕はそのたびに頷いた。
母が来ることは分かっていた。
でも、最後の一人になると、こう思わずにはいられなかった。
ひょっとしたら、今日は来ないんじゃないか。
僕がここにいることを、忘れてしまったんじゃないか。
そんな不安を抱えながら、僕は母が来るのをずっと待っていたのだ。
*
街から人がいなくなるにつれて、夜が怖くなってきた。
以前に比べると、窓の外に灯りはほとんど見えない。
近所の家は、みんな真っ暗だった。
街灯と自動販売機だけが、街をぽつぽつと照らしている。
僕はカーテンを閉め切り、薄明かりだけを付けて夜を過ごした。
自分の家だけ煌々と明かりが点いているのも、部屋を真っ暗にするのも、なんだか怖かった。
コムギがいてくれるのはありがたい。でも、ときどき、人間の声が聞きたくなった。
そんなとき、僕はラジオをつけた。
テレビが映らなくなってからの習慣だ。
最初のうちは、いくつかの局で放送が続いていた。音楽を流している局もあったし、残っている人たちに情報を伝えようとしている局もあった。
最後まで受信できたのは、地元の小さなFM局だった。
その周波数からは、毎晩、同じ時間に男性の声が聞こえた。
「まだこちらにいらっしゃる皆さん、こんばんは」
その人はいつも、そんなふうに挨拶した。
天気がどうとか、今日はこんな映画を観たとか、取り留めないことをその人は話した。世界がおしまいになることについては、あまり話さなかった。
ある晩、その人は言った。
「私にも、とうとうお迎えがきました」
いつもより、少し嬉しそうな声だった。
「今まで聴いてくださった皆さん、ありがとうございました」
しばらく沈黙があった。
「まだお迎えがきていない方も、どうぞお元気で」
僕は思わずラジオに向かって言った。
「そっちもね」
もちろん、僕の声は届かず、放送はそこで終わった。
翌日から、ラジオは何も話さず、ざあざあという雑音だけを僕に寄越した。
それでも僕は、毎晩ラジオをつけては、周波数をいじくった。
何か聞こえるかもしれないと思ったからだ。
この街にはもう、僕一人しか残っていない。
*
その夜は、雨が降っていた。
コムギは毛布の上で丸くなり、僕はベッドでラジオを聴いていた。
雑音しか聞こえない。もう何日も、人間の声を聞いていない。コムギに話しかけることさえ、少なくなっていた。
世界は、まだおしまいにならない。
なぜ、おしまいにならないのだろう。
最近はそんなことを考えるようになっていた。
僕はラジオの音量を少し下げた。
コムギがぴくりと耳を動かす。
どうして僕には、お迎えがこないのだろう。
家族でも別々になることがあると、あの人たちは言っていた。
おそらく大丈夫だとも言っていた。
なのに、お迎えはまだこない。
今、両親はどのように過ごしているのだろうか。
母がどこかの役所で、「息子がまだ来ないんです」と困惑したように訴えている姿を思い浮かべた。
父も、そんな母をなだめながら、「どういうことなんですか」と説明を求めているかもしれない。
僕が悪いわけでもないのに、なんだか申し訳なかった。
しかし、その一方で、両親がそうしていてくれたらいいと願った。
僕を忘れないでほしい。
僕がまだここにいると気づいてほしい。
そして、お迎えにきてほしい。
そうすれば、もう待たなくて済む。
自分だけが忘れられているのではないかと、考えずに済む。
誰かが僕のことを覚えていてくれたのだと、安心できる。
それだけでいいのに――。
僕は横になり、目を閉じた。
コムギの寝息と、ラジオのざあざあという音だけが部屋に響いていた。
*
どのくらい眠っていたのだろう。
何かが聞こえた気がして、僕はふと目が覚めた。
部屋はまだ薄暗い。雨は、もう止んでいるようだった。
かたわらを見ると、コムギが起き上がっていた。
耳を立てて、ラジオの方を見ている。
僕はベッドから起き上がり、ラジオに近づいた。
雑音の向こうから、何かが聞こえた。
「……もし……」
僕は息を止めた。
「……誰か……」
人の声だった。
か細い、小さな声。男の人なのか、女の人なのかさえ、よく分からない。
「……聞こえていますか」
僕は慌てて音量を上げた。
「聞こえてる!」
思わず叫んだ。
「聞こえてるよ!」
もちろん、声は届かない。
焼けつくような焦りを覚える僕を残して、声はしばらく途切れた。
また雑音だけになった。
僕はラジオを両手で持って、じっと待ち続けた。
やがて、もう一度声が聞こえた。
「……ここは、南丘FMです」
以前、毎晩聴いていた地元の放送局だった。
「すみません。勝手に、機械を使っています」
少し間があった。
「これ、本当につながってるのかな……」
声は、ときどき雑音にかき消された。
「……誰か、聞こえていますか」
僕はラジオに顔を近づけた。
「聞こえてるよ」
返事はない。
「僕がいるよ」
ラジオの向こうで、誰かが小さく息を吸った。
「もう、みんな行ってしまったんでしょうか」
声は、少し震えていた。
「今日も……お迎えがきませんでした。何日も待っているんですけど、誰も来なくて」
声の主は、少し笑ったようだった。
「変ですよね。世界がおしまいになるのに、こんなところで、ずっと待ってるなんて」
僕は何も言えなかった。
「誰か、まだこちらにいる人はいませんか」
声がまた小さくなり、しばらく沈黙が続いた。
「……また、明日も放送してみます」
そして、思い出したように付け加えた。
「おやすみなさい」
それきり、声は聞こえなくなった。ラジオからは、また雑音だけが流れる。
僕はしばらく、その場に座っていた。
――南丘FM。
少し離れた街の高台にある、小さな放送局だ。小学校のとき、学校の行事で行ったことがある。白い建物の屋上に、大きなアンテナが立っていた。
ここから自転車で行ったら、どのくらいかかるだろうか。
だけどたぶん、行けない距離ではない。
僕は窓の外を見た。雨が止み、空が白み始めていた。
僕はその空の下にいる、誰かのことを考える。
あの人も、待っているのだろう。
誰かのお迎えを。いつ来るのか分からないお迎えを、ずっと――。
あの人は、今日もお迎えがこなかったと言っていた。明日も放送すると言っていた。
僕は立ち上がった。
そうだ。
迎えに行こう。
僕が、お迎えに行けばいい。
コムギを連れて家を出ると、ビルの向こうに朝日が見えた。
――僕が迎えに行くまで、世界がおしまいにならないといい。
そう願いながら、僕は自転車に跨った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、誰かを待っているときの不安を思い出しながら書きました。
ご感想や評価などいただけると、とても励みになります。




