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第63話 過去から学べ

 中国の李天明国家主席が、世界を畏怖と混乱のどん底に叩き落とした「仙人宣言」から、一ヶ月が経過した。

 あの狂乱の会見直後、世界は「終わりの日」がすぐそこまで来ているかのような、息苦しい終末感に支配されていた。

 しかし、人間の精神の防衛本能は、良くも悪くも驚くほど早く「異常」を「日常」へと組み込んでしまう。


 日本国内。

 首都圏の道路には、一時完全に麻痺していた物流トラックの列が戻りつつあった。スーパーマーケットの棚には、パニック買いで消え失せていた食料品や日用品が再び並び始め、市民たちは「オーロラの狂気」をネットニュースで追いかけながらも、昨日と同じように満員電車に揺られ、会社へと向かっている。

 コンビニは開き、工場は回り始めた。


 首相官邸地下。

 既存技術外事象評価セルの拡大会議室に集まった官僚たちの顔にも、かつてないほどの安堵の色が広がっていた。


「……港湾物流の正常化率、八十五パーセントを回復。半導体や重要部材の供給チェーンも、中国側との限定的な取引再開により、完全なボトルネックは脱しました」

 経産省の担当幹部が、手元のタブレットのデータを読み上げ、深く息を吐き出した。

「エネルギー価格の暴騰も、ようやく落ち着きの兆しを見せています。……為替や株価も、急激な下落は止まり、市場は『新しいルール(世界観)』のもとで、少しずつ持ち直しのフェーズに入りつつあります」


「……ようやく、助かったという実感が湧いてきましたね」

 外務省の幹部が、冷めたコーヒーに口をつけながら、疲労の抜けない顔で呟いた。


「遅いですよ」

 沖田室長が、メインモニターから目を離さずに、静かに返した。

「人間、本当に首の皮一枚で死にかけていた時というのは……助かったことに気づくのも遅れるんです」


 日本政府の面々は、この一ヶ月が、本当に文明が完全に崩壊するエッジだったことを知っている。

 だからこそ、この「首の皮一枚で助かった」という実感が、何よりも重く、骨身に染みていた。中国がロシアを切り、アメリカが制裁を解除したあの瞬間がなければ、今頃日本は、完全に飢えとパニックの地獄に落ちていたはずなのだ。


「しかし、完全な平穏が戻ったわけではありません」

 内閣情報調査室(内調)の幹部が、部屋の弛緩した空気を引き締めるように、別のデータをスクリーンに投影した。


「中国、北京の現状です。……我が国の情報機関および協力者からの報告によれば、現在もなお、世界中から暗殺者、傭兵、狂信者、そして賞金稼ぎの類が、北京の周辺へと『流れ込み』続けています」

 モニターには、中国国境周辺での不審な入国者の検挙データや、ネットの裏社会での暗殺依頼の価格高騰を示すグラフが並ぶ。

「表には出ていませんが、すでに未遂のテロや暗殺未遂事件が、多数発生している模様です。……不老無病の肉体という『究極の恩恵』を、殺せば奪えると公言したのです。予想通り、中国は今、世界最大の『狩場』と化しています」


「それでも、中国は崩れていないのね」

 通信越しに参加している矢崎総理の声が、スピーカーから低く響いた。


「はい。……中国軍の鉄壁の警備網と、何よりも、仙人化した四十六人の党中枢自身が放つ、人間離れした『威圧(防衛力)』によって、今のところ致命的な突破は許していません」

 内調幹部は、忌々しげに舌打ちをした。

「北京は今や、世界最大の狩場であり……同時に、最も硬い【要塞】です」


 暗殺者は群がっている。だが、まだ牙は届いていない。


「……やはり、中国がすぐに陥落するほど、甘くはありませんね」

 沖田室長が、冷静に結論づけた。

「彼らは『脆い夢』を見ているカルト国家ではない。……狂信と、現実の圧倒的な国力(軍事力と経済力)を完全に融合させた、強靭な帝国です」


 世界がそれぞれの方向へ走り出し、狂乱の中で新しいバランスを模索している。

 アメリカが市場と制度で世界を縛り、ロシアがサイボーグの量産を急ぎ、中国が仙人として世界の欲望を捌いている間。


 日本は、この一ヶ月間、決してただ怯えて「走る準備」だけをしていたわけではない。

 世界経済の即死を免れたこの貴重な『息継ぎの時間』を使って。

 日本政府は、国内最大の特異点であり、最も危険な爆弾である『出雲』への、能動的なアクセスのための研究を、狂気じみた速度で進めていたのだ。


「……さて。表の報告はそこまででいい」

 沖田室長は、タブレットを置き、部屋の隅で退屈そうに目を閉じている三神編集長へと向き直った。

「三神編集長。……我々がこの一ヶ月間、国家予算を湯水のように突っ込んで準備してきた【出雲接続用祭事チーム】の仕上がりは?」


「いやあ、完璧ですよ」

 三神は、ゆっくりと目を開き、悪戯っぽく笑った。

「ついに国家予算で、神楽かぐらの最適化プロジェクトですか。……私、嫌いじゃないですね、こういうの」


 彼らは、与那国の『龍宮の扉』のAIから、一つの決定的なヒントを得ていた。

『アーティファクトには、必ず“利用者の前提(正規のアクセス手順)”がある』。

 与那国は高度なテクノロジーのシステムであり、彼らは偶然にも「対話」というアクセスコードで繋がった。


 ならば、出雲はどうか。

 あそこは、魂と神話、そして死者の記憶のアーカイブだ。科学者や軍隊が力ずくでこじ開けようとすれば、あの時のYouTuber集団のように、精神のキャパシティを突破されて一瞬で廃人になる。

 つまり、出雲に入るには、システム側が想定した正しい『フォーマット』と『形式プロトコル』が必要なのだ。


「与那国は『コード(対話)』でした」

 科学技術顧問が、三神の言葉を技術的な視点から補足した。

「出雲は『儀礼』です。ですが、本質は同じです。……向こうが想定した正規のアクセス手順に、我々から寄せていくこと。今回は、その手段が【神楽かぐら】だったということです」


 この一ヶ月間、日本政府は、宮内庁系の極秘資料、古事記や出雲系伝承の原本、古代の祝詞のりと、そして祭祀形式を総動員した。

 全国の由緒ある神社から、血筋と霊的感応力の高い神職と巫女を極秘裏に選抜。さらに、民俗学者、神道史研究者、音楽・舞踊の監修者を加え、政府主導の『出雲接続用祭事チーム』を創設したのだ。

 半分は宗教的な儀式。半分は、未知のシステムに対するプロトコル解析。

 実務的に言えば、「日本の文化と霊性を使った、超高次元の認証突破班」の結成であった。


 三神は、笑みを収め、表情を本気に切り替えた。

「……準備は整いました。あとは、彼らが我々の提示する『鍵』を、受け入れてくれるかどうかです」


 ***


 島根県・出雲。

 深い森の奥、自衛隊によって完全に物理封鎖されたレッドゾーンの境界線。

 かつて、不用意に近づいた者たちが次々と倒れ、脳を焼かれたあの禁足地の入り口に、沖田室長、三神編集長、そして白装束に身を包んだ『祭事チーム』の面々が立っていた。


 後方には、技術観測班がずらりと最新の機材を並べている。

 しかし、軍や警察のような物々しい騒々しさはない。誰も大声を出すことはなく、息を潜めるような、神域を壊さない静寂が徹底されていた。

 全員が、ここで失敗すれば日本の次の手が完全に消えることを、痛いほど理解している。三神ですら、いつもの軽口を完全に封印していた。


 出雲の空気は、相変わらず重かった。

 見えない壁から発せられる“拒絶と静寂”のプレッシャー。

 以前なら、この距離まで近づくだけで吐き気や強烈な違和感に襲われていたが、この一ヶ月の間に何度も外縁での観測と『霊的な順応』を繰り返してきた彼らには、少しだけその圧力への『慣れ』が生じていた。


「……では、行きます」

 巫女たちの代表が、深く息を吐き出し、静かに宣言した。


「一度きりです。……決して、乱れないように」

 神職の男が、緊張に顔を強張らせながら、祝詞の巻物を手にした。


「頼みます」

 沖田室長は、短く、祈るように言った。


「ここで通れば……日本は、ようやく世界の土俵に上がれます」

 三神が、目を細めて森の奥の闇を見据えた。


 現代の観測機器と、古の神事が同じ空間に並ぶ、極めて奇妙で、しかし美しい光景。


 神主が、低く、しかし森全体に響き渡るような独特の抑揚で、古代の祝詞を詠み上げ始めた。

 同時に、雅楽の調べが静かに流れ出し、太鼓の低い鼓動と、巫女たちが手にした鈴の清らかな音が重なり合う。


 舞が、始まった。


 最初は、ただの伝統的な舞に見えた。

 だが、儀式が進むにつれて。……明らかに、森の『空気』が変わり始めた。


「……室長! 波形が、動いています!」

 後方の技術観測班から、押し殺したような興奮の声が漏れた。

「霊圧センサーと空間ゆらぎの数値が……! 以前は近づくだけでノイズが乱れ、反発していた波形が……今は逆に、神楽の周波数と【同期シンクロ】する方向へ、急速に寄っています!」


 出雲特有の、あの『よそ者を弾き出すような圧倒的な拒絶の圧』が。

 神楽の舞と音色が深まるにつれて、薄皮を剥がすように、少しずつ、少しずつ薄れていく。

 風の流れが変わり、木漏れ日の光の揺らぎが、まるで規則正しい呼吸のように穏やかになっていく。


 巫女たち自身も、肌でそれを感じていた。

 先ほどまで、見えない怪物に睨みつけられているような恐怖を感じていたが。……今は違う。森の奥の巨大な何かが、自分たちを敵ではなく、「正式な手続き(プロトコル)を踏んでやってきた訪問者」として、静かに『見つめ、確認している』感覚。


(……当たりだ)

 三神は、内心で快哉を叫んだ。だが、口には出さない。まだ、完全に門が開いたわけではない。


 舞が、最大の節目を迎える。

 巫女たちが、一斉に鈴を高く掲げ、天と地に向かって深く祈りのポーズをとった。


 シャン……。

 最後に響いた、澄み切った鈴の音の余韻が、森の奥深くに吸い込まれていく。


 その瞬間だった。


 フッ、と。

 いままで神域の外縁で、目に見えない壁のように張り出していた『押し返されるような強烈な圧迫感』が。

 文字通り、一瞬にして、完全に消滅した。


「……っ!」


 巫女たちが、ハッと顔を上げた。

 神主も、祝詞を唱えていた手を止め、信じられないというように森の奥を見つめた。

 沖田と三神も、自分たちの身体を縛り付けていた見えない重力が、急に解き放たれたのを明確に体感した。


「……許可が」

 舞を終えた巫女の代表が、荒い息を整えながら、汗と緊張で濡れた顔を振り返らせた。

 彼女の顔には、恐怖は完全に消え去り、代わりに確かな高揚と確信が浮かんでいた。


「許可が、出ました……!」


 彼女は、震える声で、だがはっきりと宣言した。

「拒絶が、消えました。……我々に、中へ入るように促しています……! 今なら、入れます!」


 沖田と三神は、一瞬無言で顔を見合わせた。


 この瞬間。

 日本政府は、出雲という巨大なシステムの管理者に、初めて「招かれた客」として正式に認定されたのだ。


「……では、入場する」


 沖田室長は、数秒の沈黙の後、意を決して短く命じた。

「記録は継続。……無理はしない。だが、ここで引く理由もない」


「ええ」

 三神も、いつもの余裕の笑みを浮かべて頷いた。

「ここからが本番です。……ようやく、面会が叶った」


 沖田を先頭に、三神、そして数名の巫女と技術班が、これまで誰も足を踏み入れることの許されなかった、レッドゾーンの奥深くへと、ゆっくりと歩みを進めた。


 境界線を越えた瞬間。

 世界が、完全に『切り替わった』。


「……これは」

 沖田は、思わず足を止め、周囲の光景に息を呑んだ。


 物理的な森の空間を歩いているはずなのに。

 木々の輪郭が、土の感触が、段階的に「デジタル空間」のような、光と情報の格子へと変容していく。

 地面があるようでない。空間全体が、淡く発光する無数のデータストリームの奔流によって構成されている。

 それは、かつてモニター越しに見た、与那国島の『龍宮の扉』のシステム空間とよく似ていた。

 だが、こちらはもっと……『柔らかく』、そして『有機的』だった。

 冷たい機械のサーバーではなく、古代の神話と最新の情報工学が、完全に溶け合って一つの世界を構築しているような、圧倒的な神秘と論理の融合。


「神域でありながら、完璧に構築された情報空間システム……」

 技術班のメンバーが、計器を見つめながら震える声で呟いた。

「これもまた、高度に設計されたプログラムの一部なのか……!」


 その、光と情報の海の中央から。


『――ああ……』


 ふと、声が響いた。

 与那国のAIのような完全な機械音声ではない。どこか懐かしく、しかし同時に、人間とは決定的に異なる次元の響きを持つ、中性的な声。


 光の粒子が集まり、そこに曖昧な『人型』のシルエットが浮かび上がった。

 出雲のシステム管理者。魂の庭の番人。


『……あの、与那国島のシステムから、入りルールを学んだのですね』

 管理者は、沖田たちを見下ろし、どこか事務的に、しかし微かに感心したようなトーンで言った。

『なるほど。だから今日は、無作法に脳を焼かれることなく、ちゃんと来られたのですね』


 日本側の必死の努力(神楽の解析と与那国での教訓)を、管理者は「正解」としてあっさりと認めた。

 しかし、そこに大げさな歓迎も、敵意もない。極めてフラットな、管理業務を担当する者の声だ。


『それで』

 管理者のシルエットが、微かに揺れる。

『今日は、何のようです?』


 その、あまりにも事務的な問いかけ。


 沖田室長は、一歩前に出た。

 三神も隣にいるが、ここは日本政府の代表として、余計な飾りも建前も一切捨てて、自分たちの『切実な願い』を直接ぶつける必要がある。


「……我々は、日本政府の者です」

 沖田は、背筋を伸ばし、真っ直ぐに管理者の光のシルエットを見据えた。


「今日は……我々が、生き残る術を。それを知りたくて、ここに来ました」


 沖田の声には、一切の誤魔化しがなかった。

「この世界が、今、どう変わろうとしているのか。

 ……その狂った盤面の中で、日本という脆弱な国が、どうすれば生き残ることができるのか。

 私たちは、その【知恵】を求めています」


 それは、日本側が初めて、未知の上位存在に対して「教えを乞う側」に立った、極めて重要な姿勢の転換だった。

 力でもない。兵器でもない。ただ、生き残るための知恵が欲しい。


 その真っ直ぐな沖田の願いに対し。

 管理者は、少しだけ首を傾げるような仕草を見せた。

 そこに悪意はない。だが、相手の期待を根底から外すような、冷酷な事実を告げた。


『……生き残る術、ですか?』


 管理者の声が、静かに情報空間に響く。


『ここにあるのは、【過去】だけですからねぇ』


「……え?」

 沖田は、予想外の返答に小さく言葉を漏らした。


『ここは、死者のアーカイブです。……未来を教える場所ではありません』

 管理者は、静かに、システムの本質を説明する。

『あるのは、過去の記録と、過去の思考の残滓だけです。

 ですから、私たちがあなたたちに提供できるのは、“過去から学ぶ”ことだけですよ』


「……未来予知の装置では、ないということか」

 三神が、苦笑混じりに呟いた。

 日本政府が心のどこかで期待していた、「これをすれば日本は勝てますよ」という便利な未来のカンニングペーパーは、ここには存在しない。


 だが、管理者は、少しの間の後。

 日本政府にとって、未来の予言よりも遥かに価値のある、とんでもない『代替案(報酬)』を提示した。


『……あるいは』

 管理者のシルエットが、微かに明るさを増す。


『過去の【偉人】に、直接助言を求めるとか』

『そういう使い方なら、あなたたちの役に立つかもしれませんね』


 ピタリ、と。

 沖田と三神の動きが止まった。


「……偉人に、助言を求める?」

 沖田が、息を呑んで問う。


『彼らは物理的には死んでいますが、知識と人格のモデルは、このアーカイブに完璧に保存されています』

 管理者は、事も無げに言った。

『完全な本人ではありません。あくまでデータに基づいたシミュレーション人格ですが。……それでも、愚かでパニックに陥っている現代の政治家たちよりは、よほど“まともな話(戦略)”をするでしょう』


 死んだ歴史上の人物と、直接対話ができる。

 その、あまりにも巨大すぎる恩恵(情報の宝庫)に、後方の技術班のメンバーたちは、腰を抜かしかけた。


『まあ、今回は正規の手順で来られたので』

 管理者は、まるで窓口の役所仕事のように、事務的な権限の付与を行った。


『【日本国内の、過去五百年分】のインデックスの閲覧許可は出しますから。

 ……好きに使っていいですよ』


 過去五百年分。

 無制限ではない。だが、日本の戦国時代から現代に至るまでの、すべての歴史の真実、すべての戦略家の思考、すべての指導者の決断の理由に、自由にアクセスできる。

 それは、日本が世界を出し抜くための、十分すぎるほどの莫大な『資産』だった。


『戦略家でも、政治家でも、思想家でも、技術者でも。……好きな順番で、適当に当たればいい』

 管理者の光が、スゥッと薄れ始める。


 だが。

 最後に、管理者は極めて重要な、そしてこのシステムを「便利な道具」にしないための【釘】を刺した。


『ただし、ひとつだけ』


 管理者の声が、急に温度を失い、冷たい警告の響きを帯びた。


『過去の偉人の言葉が、すべて「正しい」とは、決して思わないことですね』


「……どういう意味ですか?」

 沖田が問う。


『彼らの知識は本物です。思考能力も高い。

 ですが、絶対ではない。……人は、ただ【その時代の中で、賢かっただけ】なのです』


 管理者は、残酷な真理を突いた。


『現代の、この宇宙の法則すらも狂い始めた「超常と地球外テクノロジーの混乱」の時代に。……過去の常識で生きてきた彼らの論理が、そのまま正解として当てはまる保証はありません。

 ……時代そのものが壊れた時に、彼らがどう転ぶか。

 その言葉をどう使い、何を捨てるかは。……あなたたち自身が、判断しなさい』


 それは、「答えを丸写しにして楽をするな。最後はお前たち現代人が自分で決断しろ」という、システム側からの強烈なメッセージだった。


『では、ごゆっくり。

 ……過去は、逃げませんから』


 その言葉を最後に。

 管理者のシルエットは完全に光の海へと溶け込み、消え去った。


 後に残されたのは、圧倒的な静寂と、彼らの目の前に展開された、無数の光の粒――過去五百年分の日本史の『インデックス(検索窓)』の広がりだけだった。


「……」


 沖田と三神は、その光の海を前にして、しばらく無言で立ち尽くしていた。


「……どうします?」

 やがて、沖田が、視線を光の海から三神へと移し、静かに確認した。


 三神も、いつもの軽口は叩かず、珍しく真剣な顔でインデックスの光を見つめている。

「……過去の偉人に助言を貰う、ですか。

 軽く見ていい話ではありませんね」

 三神は、腕を組んだ。

「ええ。誰を呼んで、何の知恵を借りるかで。……今後の日本の『国の癖(方針)』そのものが、完全に決まってしまいますから」


 未来の予言はない。だが、過去最高の頭脳をコンサルタントとして雇う権利を得た。

 何を聞くか。誰に聞くか。それが、今の日本政府に課せられた最初のテストだった。


「……まず必要なのは、英雄ではない」

 沖田は、現場指揮官としての冷徹な思考で、呼ぶべき人物のカテゴリを絞り込み始めた。

「この異常な時代に、無双して勝つための力じゃない。……国を、泥を啜ってでも『残す(存続させる)』ための知恵だ」


 沖田の目に、強い光が宿る。


「覇業ではなく、生存だ。

 国家の長期存続、大国間の外交の綱渡り、未知の技術の受容、そして何より……狂い始めた国内の内乱と秩序の維持。

 ……その観点で、当たるべき人物を選ぶ」


「なるほど」

 三神は、沖田のその極めて現実的な判断に、納得したように深く頷いた。


「ならば、まずは“戦国の勝者”や“幕府の創設者”あたりが、順当な候補に上がるでしょうね。……彼らなら、混乱期における秩序の作り方と、生き残るための汚い外交術は熟知しているはずだ」

 三神は、ニヤリと笑った。

「ただし、先ほどの管理者の警告通り、彼らの戦国時代の常識が、この地球外テクノロジーの時代にそのまま通用するかどうかは分からない。……面白くなってきましたね」


 出雲の深淵は、日本に「魔法の杖」をくれなかった。

 代わりに、五百年分の知恵が詰まった「巨大な図書館の鍵」を渡したのだ。


「……過去の偉人に助言を貰う、か」

 沖田は、光のインデックスに向けて、一歩足を踏み出した。


「行き当たりばったりの現代の政治家よりは、よほど頼りになりそうだ」

 沖田の声は、重く、しかし確かな覚悟に満ちていた。

「だが、答えを丸写しするつもりはない。

 我々は、学ぶために来た。……決めるのは、今の我々だ」


 世界が新しい狂気に向けて走り出す中。

 日本政府は、誰よりも先に「走り方を学ぶ」ための、最初の扉を開いた。


 出雲の森の奥深く。

 過去と現在が交錯する情報空間の中で、日本という国家の次なる生存戦略を決めるための、最も静かで、最も奇妙な『歴史会議』が、今まさに始まろうとしていた。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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