第28話 頼れない同盟
首相官邸の地下に位置する、既存技術外事象評価セル。
普段は空調の微かな稼働音だけが支配するこの静謐な空間が、与那国島沖の海洋調査母艦から直通の暗号化回線で送られてきた『緊急第一報』によって、完全に蜂の巣をつついたようなパニック状態に陥っていた。
「……映像の解析完了! 対象構造物、自然地形の可能性を完全に棄却。明確な意図を持って建造された『人工構造物』と断定します!」
コンソールに張り付いていた分析官が、ひっくり返った声で叫んだ。
「外殻表面に、未知の言語体系に基づく高度な幾何学レリーフを確認! さらに、その内部から過去の観測記録には存在しなかった『発光現象』が継続中です!」
メインモニターには、深海の漆黒の中に青白く浮かび上がる、あの巨大な『龍宮の扉』の映像が繰り返し再生されている。
「現地に同行している神職および感受性要員からの、霊的危機評価のレポートも上がりました!」
別の事務官が、手元のタブレットを震える手で掲げた。
「対象の危険度は……『出雲の鳴動の淵と同格、ないしはそれ以上』と記述されています! さらに、対象は無数の魂の集合体ではなく、海底で現在『休眠状態』にある、単一の超巨大知性体である可能性が高いとのことです!」
出雲と同格。いや、それ以上。
しかも、海底で眠っている。
その断片的なキーワードの数々が、現場の科学的な慎重さを置き去りにして、官邸の官僚たちの間で強烈な『恐怖』として独り歩きし始めた。
「まじかよ……」
誰かが、絶望的な呻き声を漏らした。
「出雲と同格のバケモノが、もう一つ国内で見つかったっていうのか?」
「しかも、昨日までただの石の塊だったのに、いきなり光り始めてるって……爆弾のタイマーが起動したようなもんじゃないか!」
「刺激して起こしたらどうする気だ!? 日本列島が沈むぞ!」
評価セルの中枢テーブルでは、急遽招集された防衛省、外務省、そして内閣情報調査室の幹部たちが、青ざめた顔で机上の資料を叩きつけ合い、収拾のつかない議論を噴き上がらせていた。
「総理、沖田室長!」
防衛省の幹部が、真っ先に声を張り上げた。
「こんな理解不能な代物に、これ以上深入りすべきではありません! 今すぐ現地の調査隊に『完全撤退』を命じるべきです! あの出雲に加えて、これ以上同レベルの特異点を二つも同時に抱え込むなど、我が国の危機管理能力の限界を完全に超えています!」
「“眠っている”のなら、なおさらだ」
別の幹部が同調する。
「これ以上光やソナーを当てて刺激し、万が一あの巨大知性とやらが目を覚ましたら、我々には止める手段がない。いったん完全に封鎖し、与那国島周辺の海域を立ち入り禁止水域に指定して、物理的に距離を置くべきだ!」
恐怖から来る「完全撤退」の主張。それは、未知に対する最も生物学的に自然な反応だった。
だが、現地と直接通信を繋ぎ、最前線の空気を共有している沖田室長は、そのパニック気味の撤退論に対し、極めて冷静に線を引いた。
「……完全撤退と、有人潜航の停止は違います」
沖田は、冷徹な声で幹部たちの浮足を制した。
「確かに、現時点でダイバーを接近させるのは自殺行為です。しかし、相手が『今まさに発光(変化)を始めている』以上、ここで完全に目を背け、監視の目すら引き上げるのは、撤退ではなく単なる『逃亡(思考停止)』です。見えないところで爆発される方が、よほど致命的だ。……無人探査機(ROV)と遠隔ソナーによる、ギリギリのラインでの『非破壊監視』は、絶対に継続すべきです」
「監視を続けるにしても、日本単独では荷が重すぎる!」
今度は、これまで比較的冷静だった科学技術顧問が、額に汗を滲ませながら声を上げた。
「総理。ここまで事態が明確に『地球外文明の遺物』として形を現した以上……我々表の科学界の知識と装備だけでは、あの構造物が次にどう変化するのか、全く予測が立てられません! 最悪の事態に対処するためにも、早急に同盟国である【アメリカ合衆国】に助力を求めるべきです!」
アメリカを、呼ぶ。
その極めて常識的で、外交上の「正解」とされるカードが切られた瞬間、会議室の空気が一気にそちらへと傾き始めた。
「科学顧問の言う通りです」
外務省の幹部が、強く同意する。
「深海における未知の構造物探査、そして異星文明のテクノロジーへの対処。これらにおいて、我が国は圧倒的に経験と技術が不足している。……アメリカはすでに地中海で『アポロンの矢』を確保し、高度な解析を進めているはずです。彼らの知見と支援を仰ぐのが、同盟国としての当然の筋道です!」
「それに、これほどの規模の特異点の存在を、同盟国に隠蔽したまま後から発覚した方が、日米関係の致命的な火種(不信)になります。ただちにホワイトハウスにホットラインを繋ぎ、情報の完全共有を図るべきです!」
もっともらしい外交論と、自らの手におえない脅威を「より強大な他者」に丸投げしたいという依存心。
「いや、アメリカ政府という公式なルートを経由するから、話がややこしくなるんだ!」
さらに一歩踏み込んだ、危険な提案が内調の幹部から飛び出した。
「公式な外交ルートを使わず、直接【セレスティアル・ウォッチ】を呼びましょう! 彼らはすでに出雲の外縁で、我々には不可能な次元接続の数値化をやってのけた! 彼らのオーバーテクノロジーと観測部隊を早期に招聘すれば、あの『龍宮の扉』が安全なものか、それとも爆弾なのか、正確な評価を下してくれるはずです!」
「そうだ! 今さら国家のプライドや主権などにこだわって、事態を悪化させてどうするんです!」
「セレスティアル・ウォッチなら、少なくとも我々よりは確実に『答え』を持っている! 面子よりも、まずはこの国が生き残る確率を上げるのが先決だ!」
撤退派、アメリカ政府共有派、セレスティアル・ウォッチ直接招聘派。
恐怖に駆られたエリートたちが、次々と「日本という国家の主権を手放してでも、誰かに助けてほしい」という悲鳴にも似た主張を噴き上がらせる。
矢崎総理は、円卓の最上座で、その喧騒を黙って聞いていた。
彼女の内心でも、一瞬だけ、その「アメリカ案」の甘美な誘惑に心が揺らぎかけたのは事実だった。
出雲の『鳴動の淵』だけでも、国家を終わらせかねない巨大な爆弾だ。それに加えて、与那国の海底で今まさに起動しようとしている『龍宮の扉』。
二つの世界級の厄災を、この極東の島国が単独で抱え込むなど、どう考えても限界を超えている。友好国であり、世界最強の覇権国家であるアメリカに助けを求めるのは、国家指導者としてあまりにも自然で、そして「楽な」選択肢だった。
彼らの圧倒的な軍事力と、セレスティアル・ウォッチの魔法のような科学力があれば、この重すぎる責任を彼らと分割できる。
(……ええ。キャサリンにホットラインを繋げば、彼女はすぐに最高のチームを派遣してくれるでしょうね)
矢崎総理が、無意識に手元の直通電話の受話器に視線を落とした、その時だった。
会議室の喧騒の奥底から、数日前に暗号化回線の向こう側で聞いた、キャサリン・ヘイズ大統領のあの低く、そしてひどく疲労した声が、鮮明な『回想』として総理の脳裏に蘇ってきた。
『……キャサリン。急な回線接続ね。ヨーロッパの件で何か進展でも?』
『いいえ。今日はヨーロッパの話じゃないわ』
モニター越しのキャサリンは、いつもの隙のない大統領の顔を崩し、深い隈を作った瞳で、ただ一人の友人に向けるような切実な表情を浮かべていた。
『……これから私があなたに話すことは、アメリカ合衆国大統領としての公式な通達じゃない。絶対に、オフレコよ。……ただ一人の、古い友人としての「警告」として聞いてちょうだい』
『警告?』
『ええ。……出雲の件よ』
キャサリンは、重々しくその地名を口にした。
『セレスティアル・ウォッチの報告によれば、あそこはただの神域なんかじゃない。全人類の記憶や人格が保存されているかもしれない、『魂のアーカイブ』の可能性が極めて高いそうね』
『……!』
矢崎総理は、アメリカ側がすでに出雲の核心(死者の国)にまで推論を及ばせていることに戦慄した。
『驚くのも無理はないわ。……でも、私が警告したいのはそこじゃないの』
キャサリンは、自国の暗部を晒すように、苦々しく唇を噛んだ。
『死者の記録と対話でき、人類史のすべてにアクセスできるかもしれない究極の知の宝庫。……それを手に入れた国家は、未来永劫に近い覇権を握ることになる。その途方もない誘惑を知ってしまったアメリカ政府の内部が今、どうなっていると思う?』
『……』
『完全に割れているわ。……そして、強硬派の連中の中には、日本の主権を踏みにじり、日米同盟を破棄してでも、軍隊を送り込んであの出雲を「アメリカの資産」として力ずくで押さえようとする勢力が、確実に存在しているのよ』
同盟国を、武力で侵略する。
その信じがたい狂気が、アメリカの中枢で真剣に議論されているという事実。
『セレスティアル・ウォッチの周辺には、その発想が極めて現実的で合理的な選択肢として存在している。……もちろん、私が大統領でいる間は、そんな狂った真似は絶対にさせない。私が全力で抑え込むわ』
キャサリンの目は、哀しみと恐怖に揺れていた。
『……だけど、次の政権がどうなるかは、私にも保証できない。あの知の誘惑は、あまりにも強すぎる。……だから、分かってちょうだい』
キャサリンは、最後に、最も重い事実を告げた。
『アメリカが、いつか明確に「日本の敵」に回る可能性を、覚悟してほしいの。……だから、私たちを安易に頼らないで。私たちに、これ以上「餌」を見せないで。……少なくとも、出雲に関しては』
それが、覇権国家のトップが、ただ一つの友情にかけて漏らした、血を吐くような「孤立への勧告」だった。
――回想から、現実の会議室へと意識が引き戻される。
「総理! 決断を! 一刻も早くホワイトハウスに連絡し、セレスティアル・ウォッチの派遣要請を!」
外務省の幹部が、切羽詰まった声で矢崎総理に決断を迫っていた。
矢崎総理は、ゆっくりと円卓を見回した。
彼らは、アメリカを「無条件で助けてくれるスーパーマン」だと信じている。
だが、総理は悟っていた。彼らが提案している『アメリカの共有』とは、危機を分かち合うことではない。腹を空かせた巨大な獣の群れの中に、自ら血の滴る極上の肉を投げ込む行為に他ならないのだ。
(出雲だけでも、アメリカ内部の強硬派は理性を失いかけている。……そこに加えて、「第二の国家級の異物(龍宮の扉)」が日本近海で、しかも今まさに起動しようとしていると知られたら、どうなる?)
答えは火を見るより明らかだった。
アメリカの強硬派は確実に焦る。「日本という小国が、自分たちを出し抜いて二つもの地球外遺産を独占しようとしている」と。
そうなれば、彼らは同盟国として日本を守るのではなく、他国(あるいはヨーロッパのヘルメス協会)に奪われる前に、自らが軍事力を行使して「先に押さえる」という発想へと一気に傾く。セレスティアル・ウォッチを招聘するなど、事実上の「現地へのご案内(引き渡し)」でしかない。
日本は、「厄災の保有者」から、アメリカの覇権の邪魔になる「排除すべき障害物」へと、完全に転落する。
「……静かにしなさい」
矢崎総理の、低く、しかし氷河のように冷たく重い一言が、会議室の喧騒を一瞬にして凍りつかせた。
「アメリカには、頼らないわ」
その決定的な拒絶の言葉に、幹部たちが信じられないものを見るように息を呑んだ。
「少なくとも今は、この事態をアメリカ政府とは『共有』しない。……当然、セレスティアル・ウォッチも呼ばない」
「総理! なぜですか! それはあまりにも無謀な感情論です!」
科学技術顧問が、我を忘れて立ち上がり、テーブルを叩いた。
「我々の技術だけでは、あの扉の奥に何があるか解析することすら不可能なのですよ! プライドで国家を滅ぼすおつもりか!?」
「いいえ。これはプライドの話でも、感情論でもない。純然たる『国家防衛』の論理よ」
矢崎総理は、立ち上がった科学顧問を冷徹な視線で見下ろし、有無を言わさぬ口調で言い放った。
「あなたたちは分かっていないのよ。……今、誰に助けを求めるべきかを決める基準は、『誰が私たちを助けてくれるか』じゃない」
総理は、言葉の刃で、彼らの甘い同盟幻想を完全に切り裂いた。
「『誰が、次に私たちの“最大の敵”に回るか』で、決めるのよ」
その言葉の奥底に潜む、同盟国に対する圧倒的な不信と恐怖の気配に、科学顧問も幹部たちも、完全に口を閉ざすしかなかった。
彼らには分からない。だが、大統領との極秘会談を知る総理だけが、アメリカという国の『真の恐ろしさ』を正確に秤にかけていたのだ。
「理由は聞かないで。……でも、これが今、この国が生き残るための『一番安全な手』なのよ」
矢崎総理は、それ以上の説明を拒絶し、実務責任者である沖田室長へと向き直った。
「沖田室長。現地への指示を」
「はっ」
「与那国現地の『有人潜航』は、当面の間、完全に停止。ダイバーおよび直接的な接触を伴う調査要員は、速やかに安全圏の母艦、あるいは陸上へと再配置しなさい」
総理は、撤退派の意見を部分的に汲み取りつつ、監視の継続を命じた。
「ただし、完全撤退は許可しない。無人探査機による外縁からの監視、および非破壊調査は、限界のラインまで継続。……そして、この『龍宮の扉』案件を、出雲と並ぶ国家の【最上位極秘】に指定。対米共有は当面凍結し、この会議室の外へ情報が漏れることを一切禁ずる」
「了解しました」
沖田室長は、総理の孤立無援の決断を重く受け止め、即座に現地への通信ラインを開いた。
「現地指揮所へ伝達。……有人潜航プランは完全アボート(停止)。だが、目は絶対に離すな。我々は今から、あの『龍宮の扉』を、何があっても見張る」
会議室の空気が、パニックから、冷たく重い「覚悟」へと強制的に切り替わっていく。
***
激論が終わり、指示を受け取った幹部たちが、重い足取りで次々と部屋を後にしていく。
最後に残ったのは、矢崎総理と、コンソールで現地の監視映像を確認し続ける沖田室長の二人だけだった。
総理は、誰もいなくなった円卓の椅子に深く腰掛け、天井の蛍光灯を見上げながら、長い、長い息を吐き出した。
彼女の肩には今、一つの国家のトップが背負うには、あまりにも重すぎる「孤独」がのしかかっていた。
「……出雲だけでも、胃に穴が空きそうだったのに。……今度は、海の底で光る門まで抱え込むことになるのね」
総理の呟きは、疲労困憊の極致にあった。
「同盟国には、頼れないのですね」
沖田室長が、モニターから目を離さずに、静かに確認した。
「ええ。呼べば、確実に彼らはやって来るわ。最高の技術と軍隊を持ってね。……でも、助けを呼んだその瞬間に、日本という国は『終わる』のよ」
総理は、自嘲気味に笑った。
「呼ばなくても、あの海底の扉から何かが這い出してきて、日本が終わるかもしれない。……どう転んでも地獄なら、せめて自分たちの手で抱えて、自分たちで結末を見届けるしかないじゃない」
「……日本だけで抱えろ、ですか」
沖田室長は、静かにモニターの電源を落とし、総理に向かって深く一礼した。
「我々の手札だけで、どこまで抗えるか……。限界までお供します」
その結論は、国家の主権を守るという意味では、極めて正しい選択だった。
だが、二つの「国家を終わらせる巨大な扉」を、誰の助けも借りずに単独で抱え込み、ただ爆発しないように見張り続けるという行為は、極東の島国にとって、あまりにも重すぎ、そして残酷すぎる重圧だった。
日本政府は、世界の誰も知らない暗い海の底で、巨大な休眠知性の寝息にただ一人怯えながら、絶望的な監視任務を続けていくしかなかった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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