第22話 死者の国は、まだ奪るな
ヨーロッパの空が毒々しい紫と緑に染まり、世界が狂熱と不眠の渦に飲み込まれてから二週間強。
ヘルメス協会が設定した『次の新月』まで、残された猶予は、ついにあと一週間(七日)を切っていた。
アメリカ合衆国が発出した異例の渡航中止勧告と航空便の全休措置は、確かに物理的な防疫線として機能している。しかし、それはあくまで「一般市民の足」を止めたに過ぎない。
インターネットの海では、毎日何百万という人間が『新月待機コミュニティ』にアクセスし、オンラインでの同調儀式に向けて仮想の祭壇を作り上げている。中東や東欧を経由して、陸路や密航船でヨーロッパの震源地を目指す『巡礼者』の波も、一向に衰える気配はない。
社会の変質は、すでに後戻りできない臨界点に達しようとしていた。
ワシントンD.C.。ホワイトハウス地下、極秘状況室。
キャサリン・ヘイズ大統領は、疲労の色が隠せない閣僚たちを前に、一切の無駄を削ぎ落とした鋭い声で緊急ブリーフィングの開始を宣言した。
「時間がないわ。新月まで、あと七日よ」
ヘイズは、テーブルの上のタブレットに視線を落としたまま、冷徹に議題を固定した。
「まずは、ヨーロッパの現状確認と、大西洋圏の防疫措置の進捗から入る」
メインモニターには、暗号化回線を通じて、セレスティアル・ウォッチのトップであるオブザーバー・アルファの姿が映し出されている。さらに今日は、彼らの組織の技術解析主任であるドクター・ケンドールも、別回線から音声のみで同席していた。
新月という破局のタイムリミットが目前に迫っている以上、アメリカ政府と影の組織は、かつてないほど緊密に情報と足並みを揃える必要があったのだ。
「……欧州における精神影響は、依然として拡大・深化の傾向にあります」
アルファは、モニター越しに極めて簡潔に、しかし絶望的な事実を報告した。
「EU中枢の反応は、依然として『調和と連帯』という異常な肯定感に包まれたままであり、我々の介入を拒絶する姿勢に変化はありません。……彼らの社会システムは、新月に向けた『集団的な待機状態』へと、完全に最適化されつつあります」
「我が国の軍事介入プランは、引き続き『完全見送り(スタンバイ)』のままで維持。大西洋における物理的な退避・隔離措置、およびNSAによる欧州発の情報トラフィックの遮断は、現在最大出力で稼働中よ」
ヘイズは、アルファの報告を引き継ぐ形で、アメリカ側の防衛線の現状を短く確認した。
「これ以上の手の打ちようがない以上、我々は……少なくとも新月の当日までは、この巨大な城壁の中で、嵐が過ぎ去るのを『待つ』しかない」
ヘイズは、その無力感に満ちた結論を口にしながら、深く重い息を吐き出した。
本来であれば、このブリーフィングは、新月の夜に予想される最悪の事態(情報災害や超次元存在の流入)に対する、最終的なシミュレーションと被害見積もりのすり合わせで終わるはずだった。
だが。
その重苦しい、防衛戦特有の空気を、一人の男の極度に上擦った、異常なまでの『熱』を帯びた声が、唐突に、そして乱暴に引き裂いた。
「大統領! ヨーロッパの件など、もはや些細なことです!!」
別回線から割り込んできたドクター・ケンドールの声は、普段の理知的な科学者のそれとは完全に異なっていた。それは、生涯を懸けた宝の山を前にして、理性を完全に焼き切られた探掘者のような、異様な興奮に満ちていた。
「……ヨーロッパではなくて?」
ヘイズは、突如として持ち込まれた強烈な違和感に眉をひそめ、モニターの横の音声インジケーターを睨みつけた。
「博士。新月まで一週間を切っているのよ。あのアーティファクトの起動よりも重大な案件が、この地球上に存在するとでも言うの?」
「ええ、存在しますとも! まさに我々の足元……いえ、極東の島国に!」
ケンドールの声は、もはや歓喜の叫びに近かった。
「出雲です!!」
その地名が響いた瞬間、極秘状況室の空気が、水を打ったように静まり返った。
「博士、優先順位を守ってください」
国家安全保障担当補佐官が、即座に不快感を露わにして通信に割って入った。
「我々は今、人類の文明が変質するかどうかの瀬戸際、欧州危機の最中にいるのです。極東の立ち入り禁止エリアの環境データなど、後回しにすべきだ」
「何を言っている! あなた方は事の重大さを全く理解していない!」
ケンドールは、補佐官の正論を鼻で笑い、圧倒的な熱量でまくし立て始めた。
「先日、我々の研修生チームが日本政府の監視下で行った外縁観測のデータ……その詳細な解析結果が、たった今、私の手元で組み上がったのです。……日本の神話に登場する『黄泉』、あるいは『死者が眠る国』という概念。あれは、決して古代人の無知な比喩や、宗教的な恐怖の産物などではなかった!」
ケンドールの言葉に、同席していた宗教・倫理顧問が微かに肩をビクつかせた。
「あの出雲の森の奥深くに存在しているのは、単なる精神を狂わせる霊的汚染地帯でも、空間が偶発的に裂けただけの事故現場でもありません。……明確な維持機構を持った、情報の『保存庫』です!」
ケンドールは、息継ぎすらもどかしい様子で、決定的な仮説を会議室のテーブルに叩きつけた。
「出雲は……人類の『死者のアーカイブ(巨大な記録媒体)』である可能性が極めて高いのです!!」
死者の、アーカイブ。
そのSF映画の狂気的なマッドサイエンティストのセリフとしか思えない概念に、国防長官も情報長官も、呆気にとられたように顔を見合わせた。
「待って。よく分からないわ」
ヘイズ大統領は、ケンドールの熱量に完全に呑み込まれる前に、冷静な思考回路を強制的に起動させた。
「アルファ。……あなたの部下は、今、何を言っているの? 私にも理解できるように、論理的な説明を」
ヘイズは、興奮して使い物にならないケンドールではなく、常に氷のように冷徹なアルファに『翻訳』を求めた。
モニターの中のアルファは、少しだけ間を置いた。
彼にとっても、ケンドールのこのタイミングでの暴走は計算外だったのかもしれない。だが、彼はすぐに組織のトップとしての冷徹な顔を取り戻し、極めてフラットな声で事実関係の整理を始めた。
「……大統領。ケンドール博士の推論は、確かに極端ではありますが、観測データという物理的な裏付けを持った『有望な仮説』の一つです」
アルファは、慎重に言葉を選びながら説明を開始した。
「先日の観測で、我々のチームは、出雲の特異点が『別次元との安定した接続構造』であることを確認しました。そして、そのゲートの境界面の外縁において、極めて特殊で、高密度なエネルギーの漏出を観測しています」
「それが、死者の記録だと言うの?」
ヘイズが訝しげに問う。
「はい。そのエネルギーは、生きている人間が発する動的な生体電流や熱とは根本的に質が異なっていました。それは、経験、記憶、あるいは個人の人格そのものが情報として圧縮され、長期保存されているかのような……極めて静的で、膨大な情報量を持つ波長だったのです」
アルファは、そこで一度言葉を区切り、決定的な数字を口にした。
「我々のチームが外縁で観測できた『漏出分』のエネルギー量と、あのゲートが持つ空間の容量、および構造の強度から逆算した結果……あの空間の向こう側に保存されている『記憶エネルギー』の総量は、最低に見積もっても、およそ『六千万人分』以上」
「六千万……!?」
補佐官が、思わず息を呑んだ。
それは、第二次世界大戦の犠牲者数に匹敵し、あるいは一つの国家の総人口にすら相当する、途方もない途方もない数字だった。
「ですが、それはあくまで『我々の観測機器が計測できた下限の数値』に過ぎません」
アルファは、無機質な声でさらに絶望的な、あるいは圧倒的なスケールを提示した。
「あの別次元の接続構造は、我々の知る三次元の物理法則に縛られていません。……理論上、あのアーカイブの上限は『閉じない』のです。人類が誕生して以来、地球上で命を落としたすべての人間……百億、あるいは一千億人分の記憶が保存されている『無限量のアーカイブ』であったとしても、あのシステムの構造上、何ら矛盾は生じないのです」
無限量の、記憶のアーカイブ。
その言葉のスケールに、情報長官が思わず眉間を深く揉み込んだ。
「アルファ、無限という言葉を、軍事・情報会議のテーブルで軽々しく使うな。それは科学や情報の範疇を超えている」
「だからこそ、これは人類史最大の発見なのです!!」
情報長官の苦言を、ケンドールが再び圧倒的な熱量で薙ぎ払った。
「もし、あの死者の国のシステムがただの『ゴミ箱』ではなく、何らかのインデックス(索引)に基づいて検索および『閲覧可能』なアーカイブであったなら……我々は、人類の歴史そのものに直接アクセスする権利を得るのですよ!!」
ケンドールの興奮は、もはや狂気の領域に達していた。
「考えてもみてください、大統領! アブラハム・リンカーンが暗殺される直前に何を考えていたのか、彼の記憶のレコードと直接『会話』して引き出すことができるかもしれない! 建国の父たちの真意、アインシュタインの未発表の理論、あるいは歴史の闇に消えた失われた古代の叡智……そのすべてが、あの極東の森の奥底に、手付かずのまま保存されているのですよ!!」
リンカーンの記録と、会話できるかもしれない。
そのあまりにも具体的で、そしてアメリカ合衆国の指導層にとって強烈な魅力を放つ「実例」が出された瞬間。
極秘状況室の空気が、ヨーロッパの危機を案じる重苦しいものから、底知れぬ「欲望」に炙り出されたような、異様な熱を帯びたものへと完全に変質した。
「……出雲は、アメリカ合衆国が何としても所有し、管理しなければなりません! ヨーロッパの連中が欲しがっている星間通信の知識など、この無限の叡智の宝庫に比べれば、ただの通信機のマニュアルに過ぎない!!」
ケンドールの絶叫に近い主張が終わると、会議室には、呼吸音すら聞こえるほどの深い沈黙が落ちた。
誰もが、脳内でその「死者のアーカイブ」がもたらす途方もない戦略的価値を計算していたのだ。
歴史上のすべての知性、すべての国家機密、すべての技術的ブレイクスルーの種が、もし本当にあそこに眠っているのだとしたら。それを独占した国家は、間違いなく向こう数千年間の地球の文明の主導権を完全に、そして永続的に握ることになる。
核兵器や『アポロンの矢』といった物理的な破壊兵器すら、その圧倒的な「知の集積」の前では霞んで見えるほどの、究極の戦略資産。
「……大統領」
沈黙を破ったのは、大統領科学補佐官だった。
彼は、ケンドールほどの狂気は見せないものの、科学者としての抑えきれない興奮で頬を紅潮させていた。
「もし、ケンドール博士の仮説が正しいのであれば……これは火の発見や原子力の制御をも凌駕する、人類史最大級の科学史的偉業です。『死後意識』の物理的な解明。情報の不滅性の証明。……我々は、この事実を無視することはできません」
科学補佐官の言葉に、国防長官も腕を組みながら、重々しく頷いた。
「軍事的・戦略的な観点から見ても、もし仮にあのアーカイブから『過去の敵国指導者の思考プロセス』や『失われた軍事技術』を抽出できるのであれば、その価値は文字通り桁違いだ。……アメリカが持つべき究極のインテリジェンス・バンクになり得る」
会議室の空気が、明確に『賛成派(取得派)』へと傾きかけた。
未知の恐怖よりも、人類史を覆す知の誘惑が、アメリカのエリートたちの理性を急速に麻痺させようとしていたのだ。
「馬鹿なことを言うな!!」
その熱を帯びた空気に、冷水を浴びせるように激怒の声を上げたのは、これまで沈黙を保っていた宗教・倫理顧問だった。
彼は顔を真っ赤にして立ち上がり、科学補佐官と国防長官を鋭く睨みつけた。
「死者の沈黙を、国家の『戦略資産』や『データベース』のように語るなど……政治や科学以前に、人間としての決定的な冒涜だ! リンカーンと会話するだと? 狂っている! 死者の魂は神の領域に還るべきものであり、生者が現世の欲望のために無理やり引きずり出して利用していいものではない!」
「博士、あなたの話は飛躍しすぎている」
情報長官も、倫理顧問に同調するように、氷のように冷たい声でケンドールの暴走を咎めた。
「『閲覧可能なら』『会話できるかもしれない』……それはインテリジェンスの報告ではなく、ただのあなたの個人的な『願望』であり、オカルト的な妄想に過ぎない。我々はそのような不確かな仮説のために、国家の戦略を動かすわけにはいかない」
「妄想だと!? データが示しているんだ! あの空間の構造は――」
「それに、最も現実的な問題を忘れていないか?」
国防長官が、取得の価値を認めつつも、厳しい現実を突きつけた。
「その『無限の宝物庫』とやらは、我が国の領土ではなく、極東の最も重要な同盟国である日本の、しかも彼らが『禁足地』として厳重に管理している神域のど真ん中にあるんだ。……今、それに手を出そうとすれば、どうなる? 日本との同盟関係は完全に崩壊し、我々は太平洋の防衛線を自ら破壊することになるぞ」
会議室は、完全に二つに割れた。
科学史的偉業と圧倒的な国家戦略資産として、いかなるリスクを冒してでも確保すべきと主張する『賛成派』。
倫理的禁忌、データの不確実性、そして同盟国への主権侵害という現実的なリスクを重く見る『反対派』。
激しい応酬が飛び交う中。
キャサリン・ヘイズ大統領は、ただ一人、無言のまま冷ややかにその光景を見つめていた。
ヨーロッパは、「圧倒的な安心と生産性の向上」という『恩恵』で大衆の自我を溶かし、狂気へと引っ張っている。
それに対し、出雲は……「人類の歴史と叡智のすべて」という『知の誘惑』で、この国の最高レベルのエリートたちの理性を、いとも簡単に狂わせようとしているのだ。
どちらも、人間の最も根源的な欲望(平穏と知性)をハッキングする、恐るべきシステム。
「……あなたはどうなの、アルファ」
ヘイズは、喧騒を切り裂くように、モニターの中の影の指導者へと真っ直ぐに問いかけた。
「あなたの部下は、今すぐ日本に乗り込んで死者の国を掘り返すべきだと発狂しているようだけれど。……セレスティアル・ウォッチの代表としての、あなたの公式な見解を聞かせてちょうだい」
状況室の全員の視線が、再びモニターのアルファへと集まった。
究極の知を求める組織のトップである彼は、当然、ケンドール以上にこの出雲のアーカイブを欲しているはずだ。誰もがそう思っていた。
しかし、アルファの口から出た言葉は、ケンドールの熱狂を完全に凍りつかせる、極めて冷酷な宣告だった。
「ケンドール博士は、科学者としての抑えきれない情熱からああ言っていますが」
モニターの中のアルファは、ケンドールの熱狂を切り捨てるように、極めて冷淡で、抑揚のない声で言い放った。
「セレスティアル・ウォッチの公式な見解としては……出雲への軍事的、あるいは強制的な介入には、明確に『反対』します」
その言葉に、最も大きなショックを受けたのは、他でもないケンドール博士自身だった。
「……なっ、何を言っているんだアルファ! 正気か!?」
通信回線の向こうで、ケンドールが裏切られたような悲鳴を上げた。
「あそこにあるのは人類の至宝だぞ! 君だってあの『記憶エネルギー』の途方もない密度を示すデータを見たはずだ! あれを放置しておくなど、我々という組織の存在意義の否定に等しい!」
「静粛に、ドクター」
アルファは、一切の感情を交えずに部下を黙らせ、大統領へと視線を向けた。
「大統領。誤解しないでいただきたい。私も、出雲という特異点が極めて高価値な対象であり、最終的にはアメリカ合衆国が何らかの形で保有、あるいは管理のイニシアチブを握るべき戦略的対象であるという可能性については、全面的に認めます。……ですが、それは『今』でなくてもいい」
アルファは、理性の怪物としての本領を発揮し、その『反対』の強固な論理的根拠を積み上げ始めた。
「第一に、物理的な『防壁』の問題です。我々の観測チームは、あの別次元の接続構造の周囲に、明確な防衛システムが存在することを確認しています。強引に結界をこじ開けようとすれば、侵入を試みた人間の脳の処理能力を遥かに超える情報の奔流に晒され、部隊が全滅……いえ、一瞬にして廃人と化すリスクが極めて高い。我々にはまだ、あの門を『安全に開ける鍵』がないのです」
それは、裏を返せば、ティアナ・レグリアから受けた「強引に入れば廃人だぜ」という警告を、彼が絶対の危機評価として重く受け止めている証左でもあった。
「第二に、仮に無傷で手に入れたとしても、安全に閲覧・実用化できる保証はどこにもありません」
アルファの冷徹な分析は続く。
「六千万人分、あるいはそれ以上の死者の記憶。それを、現代の地球のコンピューターや人間の脳に、どうやって安全にダウンロードするというのです? 検索システム(インデックス)の構造すら不明な未知のアーカイブに不用意にアクセスすれば、閲覧者の精神が過去の死者の人格に上書きされ、消滅する恐れすらある。……実用化までには、天文学的な時間と犠牲を伴う研究が必要です」
「時間がかかるからと言って、諦める理由にはならない!」
ケンドールが再び食い下がる。
「最大の理由は第三の点です、博士。……『外交とタイミング』だ」
アルファは、初めて微かな苛立ちを声に滲ませた。
「あのシステムは、我が国の最も重要な極東の同盟国である日本の、しかも彼らが古来より神域として厳重に管理している土地のど真ん中にあります。現在、我々はヨーロッパという最大の危機を前にして、同盟国との緊密な連携を必要としている。……新月まであと一週間というこの絶望的なタイミングで、日本への主権侵害(強行作戦)に踏み切り、太平洋の防衛線を自ら崩壊させるなど、戦略的自殺行為に他ならない」
アルファは、最後にヘイズ大統領を見据え、その結論を重く響かせた。
「……出雲は魅力的です。ですが、少なくとも今は、不用意に触る利益よりも、現在の国際秩序とシステムを壊す危険の方が、あまりにも大きすぎる。……今は、手を出すべきではありません」
「馬鹿な……日本政府はあの土地の真の価値(死者のアーカイブ)など一ミリも理解していないんだぞ! 彼らが無知なまま放置して、万が一システムが破損でもしたらどうする! 今こそ抑えるべきなんだ!!」
ケンドール博士の悲痛な絶叫を皮切りに、極秘状況室は、かつてない激しい『賛成派』と『反対派』の応酬の渦へと叩き込まれた。
「博士の言うことにも一理ある!」
国防長官の一部に同調する強硬派の将官が声を上げた。
「もし日本が先にあのアーカイブの引き出し方に気づき、過去のあらゆる軍事技術や戦略思想を独占したとすれば、日米の力関係は完全に逆転する! ヨーロッパの星間通信などという不確かなものより、よほど現実的で致命的な脅威だ! 先手を打って、最低限の特殊部隊だけでも潜入させ、内部の確保を――」
「正気か将軍! 日本への主権侵害などあり得ない!」
情報長官が、机を叩いて激怒した。
「たかが一つの仮説のために、同盟国の神域を米軍のブーツで踏み荒らす気か!? もし失敗して日本側に露見すれば、日米安保は即座に破棄される! 新月まで一週間の中で、これ以上新戦線を増やすな!」
「落ち着きたまえ、皆さん」
科学補佐官が、両手を広げて宥めるように言った。
「ドクター・ケンドールの興奮は、一人の科学者として痛いほど理解します。もし彼の推論が正しければ、これは疑いようもなく人類史最大の発見だ。……しかし、『発見』することと、それを国家として『所有』すること、そして安全に『利用』することは、全く次元の違う問題です。今はアルファの言う通り、静観が最も理にかなっている」
「所有も利用も許されない!」
宗教・倫理顧問が、怒りで肩を震わせながら叫んだ。
「死者の魂を、便利な図書館のように扱うなど、文明の倫理の完全な崩壊だ! アメリカ合衆国がそのような冒涜的な野望に手を染めれば、我々は真の意味で神の罰を受けることになるぞ!」
怒号、欲望、倫理、そして戦略的打算。
アメリカ合衆国の頭脳とも言うべき最高レベルのエリートたちが、顔を真っ赤にして口角泡を飛ばし、一つの仮説を巡って激しく対立している。
キャサリン・ヘイズ大統領は、その醜悪とも言える混乱の様相を、冷ややかな灰色の瞳で黙って観察していた。
彼女の内心では、すでに一つの確信が恐ろしいほどの冷たさを持って結像していた。
(……なるほど。これが、あの出雲という土地が持つ『毒』の正体なのね)
ヘイズは、内心で深い戦慄を覚えた。
ヨーロッパの空を覆うヘルメス協会の異常は、「完全なる調和」と「圧倒的な恩恵」という甘い蜜で、一般大衆の自我を溶かし、狂熱的なパニックへと引っ張っている。
それに対し、出雲はどうだ。
あそこはただ静かに沈黙しているだけだというのに。「人類史のすべてが保存されているかもしれない」という、たった一つの『知の誘惑』を提示されただけで、この部屋にいる最高の知性と理性を誇るはずの男たちが、狂人のように我を忘れ、同盟国への侵略すら正当化しようと争い始めている。
無知な大衆を幸福感で支配する、ヨーロッパの炎。
優秀なエリートを知識の欲望で狂わせる、出雲の深淵。
この地球上には今、人類の精神を根本からハッキングする、全く異なる二つの巨大なバグが同時進行で存在しているのだ。
「……そこまでよ」
ヘイズ大統領は、低く、しかし状況室のすべての喧騒を圧殺するほどの圧倒的な威圧感を込めて、声を落とした。
大統領のその一言で、言い争っていた長官たちも、通信越しのケンドールも、弾かれたように口を噤んだ。
「議論は終わりよ。私の中で、最終的な決断は下ったわ」
ヘイズは、ゆっくりと円卓を見回し、そしてモニターのアルファへと視線を固定した。
「ケンドール博士の仮説がもたらした衝撃は理解したわ。出雲の特異点が、我が国の未来にとって計り知れない戦略的価値を秘めている可能性があることも、大統領として重く認識した」
そこまで言って、ヘイズは一拍の間を置き、鋼鉄の意志を込めて断言した。
「……だが、私はリンカーンと話すために、今この瞬間の地球を壊す気はないわ」
その言葉は、欲望に駆られた者たちの頭に、強烈な冷水を浴びせる絶対の楔だった。
「新月まで、あと一週間。我々が今、全国家リソースを傾けて対処すべき絶対の最優先事項は、ヨーロッパで臨界点を迎えようとしている『現在進行形の危機』よ。……未知の防壁に守られ、安全に引き出せるかも分からない死者の書物のために、同盟国との関係を破滅させ、新たな火種を抱え込むような愚行は、この政権下では絶対に許可しない」
ヘイズは、机の上に広げられていた出雲の観測データを、手の甲でバサリと払いのけた。
「出雲の件は、決して忘れない。……でも、今は触らない」
それは、最高権力者としての絶対の決定だった。
「すべての政府機関、および軍に対し、日本国への主権侵害に繋がるいかなる強硬行動・極秘工作も固く禁ずる。……セレスティアル・ウォッチも同様よ、アルファ。あなたたちが独自に出雲へ手を出して、いらぬ『破局』を引き起こすような真似は、アメリカ合衆国の名において絶対に許さないわ」
「……了解いたしました。大統領の賢明なご判断に従います」
アルファは、深く頭を下げ、その決定を極めて恭しく受け入れた。
「ただし」
ヘイズは、最後に国家安全保障担当補佐官へと向き直り、冷徹な為政者としての顔で付け加えた。
「将来的な事態の推移に備え、水面下で出雲を『国家戦略上の最上位監視対象』として指定しなさい。日本政府との水面下での情報共有の糸口を探りつつ、いざという時に我々がイニシアチブを握れるよう、極秘裏に別枠での長期的な対策チーム(タスクフォース)を編成すること。……以上よ。本日のブリーフィングはこれで終了する」
大統領の明確な指示により、状況室の張り詰めていた空気は、強引に「解散」へと向けて収束していった。
***
会議が終わり、次々と通信が切断され、閣僚たちが疲労困憊の体で部屋を後にしていく。
通信回線の向こう側、エリア・デルタの暗闇の中で。
ドクター・ケンドールは、モニターの電源が落ちた後も、荒い息を吐きながら、血走った目で虚空を睨みつけていた。
「……愚かな。政治家という生き物は、なぜこうも目の前の小さな火事ばかりを気にして、永遠の価値から目を背けるのだ。……諦めるものか。あのアーカイブは、必ず我々の手で開いてみせる」
彼の科学者としての業と執着は、大統領の命令で消えるどころか、禁じられたことでより一層深く、暗く燃え上がっていた。
そして、そのケンドールの背後で。
オブザーバー・アルファは、深い影に顔を覆われたまま、誰にも読み取れない静かな笑みを微かに浮かべていた。
大統領の「今は触るな」という命令は、彼にとっても都合の良い隠れ蓑だ。ティアナからの警告通り、今は手を出せば確実に火傷を負う。だが、アメリカ政府がこれを『最上位の戦略資産』として正式に記憶してくれたことは、将来、彼らが日本から出雲を合法的に奪い取るための、巨大な政治的足場(大義名分)となる。
アルファは、ヨーロッパの騒乱のずっと先にある、より巨大な野望の達成に向けて、着実に布石を打ち終えていた。
ホワイトハウスの極秘状況室。
一人残されたキャサリン・ヘイズ大統領は、誰もいなくなった円卓の前に立ち尽くし、重い頭痛に耐えるようにこめかみを指で押さえた。
ヨーロッパの狂熱という、国境を越えて迫り来る巨大な火事。
それに加えて、今日、彼女は出雲という『地下に眠る人類史最大の爆弾』の存在を、明確に知ってしまった。
「……ヨーロッパは、世界を変えるかもしれない。でも、出雲は……人類史そのものを書き換えるかもしれないのね」
ヘイズの小さな独白は、冷たい空調の音にかき消されていった。
新月まで、あと一週間。
表向きは、すべての国家リソースがヨーロッパの防衛に向けて注がれている。
だが、この日この極秘の部屋で『死者の国』の存在を共有してしまったアメリカのエリートたちは、もはや誰も、その魅惑的で恐ろしい深淵の輝きを、頭から消し去ることはできなかった。
決して口には出さないが、この日、覇権国家ホワイトハウスは、“死者のアーカイブ”を未来のアメリカ合衆国が奪い取るべき『究極の戦略資産』として、その欲望の辞書に深く、強烈に刻み込んでしまったのである。
ヨーロッパの炎がすべてを焼き尽くすか。それとも、出雲の深淵が人類の知を狂わせるか。
破滅へのカウントダウンは、誰の意志も置き去りにしたまま、無情な速度でゼロへと向かっていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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