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第20話 門の外で、異界を測る

 首相官邸からほど近い、内閣情報調査室が管理するダミー企業の雑居ビル。

 その地下に設けられた会議室の空気は、日米の情報関係者による公式な「顔合わせ」の場であるにもかかわらず、極めて奇妙なアンバランスさに包まれていた。


 日本側は、実務責任者である沖田室長をはじめ、科学技術顧問、そして公安のトップエリートたちが、アイロンの効いたダークスーツに身を包み、緊張と警戒が入り混じった硬い表情で長机の片側に並んでいる。

 彼らが迎え撃つ相手は、アメリカ合衆国大統領すらその全貌を把握していない、地球上で最も強大で危険な影の組織――"セレスティアル・ウォッチ"の観測チームである。同盟国からの「非公式な技術協力」という建前こそあるが、彼らが日本国内で好き勝手に動くことへの警戒感は、決して拭えるものではない。


 だが、その張り詰めた日本側に対し、長机の反対側に座る四人の「セレスティアル・ウォッチ研修生チーム」の面々は、あまりにも若く、そして……驚くほど『普通』だった。


 彼らは全員、二十代半ばから後半。服装は清潔感のあるカジュアルなジャケットや、動きやすさを重視したパーカー姿であり、軍人や秘密工作員というよりは、シリコンバレーの若手エンジニアか、あるいは日本の大学に遊びに来た留学生のグループにしか見えない。

 会議室の重苦しい空気を気にする様子もなく、手元のタブレットをスワイプしながら、時折メンバー同士で軽い冗談を言い合って笑っている。


「……彼らが、本当にあの組織の人間なのか?」

 公安の担当官が、沖田室長の耳元で訝しげに囁いた。


「外見で判断するな」

 沖田室長は、静かに窘めた。

 確かに彼らは若く、テンションも軽い。だが、彼らが無造作に足元に置いているマットブラックの巨大なペリカンケース。その継ぎ目のない装甲と、見慣れない規格の生体認証ロックの構造を見るだけで、中に入っている機材が現在の地球上の軍事・科学テクノロジーの数世代先を行く「オーバーテクノロジーの塊」であることは、専門家でなくとも直感的に理解できた。


「お待たせしました。セレスティアル・ウォッチ、極東観測研修チームのリーダーを務める『ゼロ・ツー』です」


 チームの中で最も背が高く、人懐っこい笑みを浮かべた金髪の青年が、代表して立ち上がり、流暢な日本語で挨拶をした。本名ではなく、コードネームでの名乗り。


「本日は急な受け入れ態勢を整えていただき、感謝します。我々はあくまで『研修生』という立場で派遣されていますが……」

 リーダーの青年は、にっこりと笑いながら、その瞳の奥に冷たい技術者としてのプライドを覗かせた。


「観測とデータの取得に関しては、本気でやりますので。よろしくお願いします」


「……観光気分で来ていないことだけは、今の一言で分かりました」

 沖田室長は、わずかに警戒を解き、真っ直ぐに青年の目を見返した。

「こちらこそ、よろしく頼む。ただし、日本国内での活動においては、我々の提示するプロトコル(手順)を厳守していただきます」


「もちろん。我々も、これ以上波風を立てるつもりはありませんから」


 リーダーが席に座り直すと、隣に座っていた小柄で愛嬌のある女性メンバー(認識・知覚フィルター担当の研修生C)が、「あ、そうだ」と思い出したようにポケットを探り始めた。


「日本の皆さん、まだ我々のことを半分くらい疑ってますよね? アメリカのハッカー集団か何かだと思ってません?」

 研修生Cは、悪戯っぽく笑いながら、一枚の真っ白なカードをテーブルの上に滑らせた。


「これ、私の身分証です。確認してください」


 彼女の正面に座っていた日本の科学技術顧問が、怪訝な顔をしてそのカードを手に取った。

 ただの白紙だ。文字も写真もICチップも、何も印刷されていない。

 だが、科学顧問がそのカードに視線を落とした瞬間、彼の表情が劇的に変化した。


「……なるほど。確かに、合衆国国防総省の特殊アクセス許可証ですね。ホログラムの透かしも正規のものですし……いや、お待ちください。なぜ顔写真が、先ほどからずっと明滅しているのです?」

 科学顧問は、白紙のカードを顔に近づけ、食い入るように見つめながら、まるでそこに本物の身分証があるかのように指で表面をなぞり始めた。


「ちょ、ちょっと貸してください!」

 隣の公安担当官がカードを横取りする。

「……本当だ。IDナンバーが……いや、IDナンバーの数字が、私の頭の中で直接読み上げられているような……うっ」


 担当官は、急に軽い眩暈を覚えたように頭を押さえた。


「はい、ストップです」

 リーダーの青年が、パチンと指を鳴らした。

 その音にハッとして科学顧問と公安担当官がカードから目を離すと、それは再び、ただの安っぽい真っ白なプラスチックの板に戻っていた。


「……今のは、一体何の催眠術ですか」

 沖田室長が、額に冷や汗を浮かべながら低く問うた。


「簡易的な『知覚フィルター』です。手品の種明かしをすると、ただの暗示みたいなものですよ」

 リーダーの青年は、種も仕掛けもない白紙のカードをひらひらと振って見せた。

「カードの表面の微細な凹凸が特定の波長の光を反射し、同時に我々が身につけている小型デバイスから、人間の脳の『認識を処理する野』に直接干渉する微弱な音波を出しています。それらが組み合わさることで、カードを見た人間の脳が『これは公的な身分証だ』と強制的に誤認(補完)するシステムです。……人間にも、そしてある程度の光学カメラやAIの認証システムにも効きますよ」


 日本側の官僚たちは、息を呑んだ。

 網膜スキャンや指紋認証といった物理的なセキュリティを「人間の脳を直接騙す」ことで根底から無力化するテクノロジー。これが量産されれば、国家の防諜体制など一瞬で崩壊する。

 セレスティアル・ウォッチの若手たちは、挨拶代わりに、自分たちの属する文明の圧倒的な「格の違い」を提示して見せたのだ。


「……なるほど。実に興味深い手品ですが、対処法はありますよ」


 圧倒されかけた日本側の空気を、部屋の隅に座っていたよれよれのスーツの男――三神編集長が、飄々とした声で救い上げた。


「一つは、その名刺を物理的に取り上げて、視界から外すこと。もう一つは……『違和感』を、脳が勝手に補完する前に、ちゃんと『違和感』としてそのまま受け止められる、訓練された人間が見ることです」

 三神は、ニヤリと笑って研修生たちを見据えた。

「暗示ってのは、相手の『常識の枠』を利用して騙すものですからね。『白紙のカードからIDの声が聞こえるわけがない』と、自分の認識のバグを即座に自覚できる人間には、そのフィルターの効き目は途端に落ちるはずだ」


 研修生Cの笑顔が、微かに引きつった。リーダーの青年も、驚いたように目を丸くして三神を見つめた。


「……なんで、日本のただのおじさんが、そんなこと知ってるんですか?」

 研修生Cが、本気で不審がるように呟いた。


「伊達にオカルト雑誌の編集長を長くやってませんからね。オバケの正体を暴くのは得意なんですよ」

 三神は、タバコを取り出そうとして会議室が禁煙であることに気づき、舌打ちをしてポケットに手を突っ込んだ。


「……まあいいでしょう。互いの手札の確認はこのくらいにしておきましょう」

 沖田室長が、咳払いをして場を仕切り直した。

「これより、我々は島根県・出雲の特定山域……我々が『鳴動の淵』と呼称する特異点に向けて移動します。移動中の機内で、具体的な観測プロトコルのすり合わせを行います」


 ***


 東京から出雲空港へ向かう政府専用の小型ジェット機の機内。

 日本側のスタッフが資料の最終確認に追われる中、セレスティアル・ウォッチの研修生たちは、それぞれのタブレットで、日本政府から共有された出雲の過去の観測ログと、自組織の技術解析主任であるケンドール博士のレポートを熱心に読み込んでいた。


「……なるほど。ケンドール博士の見立て通りなら、これは単なる『近づくと気分が悪くなる結界』じゃないですね」

 分厚い眼鏡をかけた、理屈っぽそうな研修生A(空間計測担当)が、タブレットの数値をスクロールさせながら早口で言った。

「人員の拒否反応と機器のジャミングが、対象の距離に完全に比例している。認識攪乱フィルターの力場だけじゃなく、物理的な空間の『境界線バウンダリ』そのものが明確に存在しているはずです」


「でもさ、単なる空間の歪みや結界なら、もっと周囲の磁場が荒れるはずなんだよね」

 少しスピリチュアルな感性を持つ、長髪の研修生B(霊的エネルギー解析担当)が、窓の外の雲を見下ろしながら首を傾げた。

「過去のデータを見る限り、異常値の波形が綺麗すぎる。……安定してるのが、逆に怖いよ」


「……安定しているものほど、無理やり壊した時が怖いんですよ」


 通路を挟んで斜め後ろの席に座っていた三神が、窓の外の景色を見たまま、ボソリと不吉な一言をこぼした。


「それは、ヨーロッパのあの空のことを言っているんですか?」

 リーダーの青年が、三神の方へ身を乗り出した。


「さあてね。ただ、ヘルメス協会の連中が今やらかしているような、素人が見よう見まねで『古代のシステム』の電源を無理やり入れようとする行為は、往々にして取り返しのつかない爆発を招くってことです。……出雲のあれは、ヨーロッパのあれとは『作られた目的』が根本的に違う。あなた方も、せいぜい外から撫でるだけにしておいた方が身のためですよ」


 三神の言葉には、確かな警告が含まれていた。

 研修生たちは顔を見合わせ、それ以上は踏み込んでこなかった。彼らもまた、出発前にトップであるアルファから「出雲への強行突破は絶対にするな」と、異常なほど厳しく念を押されていたからだ。


 ***


 出雲空港から政府の偽装車両を乗り継ぎ、一行は人気のない深い山道へと入っていった。

 舗装された道路が途切れ、木々が鬱蒼と生い茂る獣道の入り口。かつて日本の調査隊が、強烈な拒絶反応と電子機器の完全な機能不全によって立ち往生し、「これ以上は危険だ」と判断して撤退したライン(レッドゾーン)の、わずか数十メートル外側の外縁監視地点である。


 空気は冷たく、静まり返っていた。

 ヨーロッパの空を覆う狂騒や、ネット上の喧騒が嘘のように、ここにはただ、太古から変わらないであろう深い森の静寂だけが存在している。鳥の鳴き声すら聞こえない。


「さて、仕事フィールドワークの時間だ」


 リーダーの青年の合図と共に、研修生たちは車両のトランクから、あの巨大なペリカンケースを次々と引き摺り出し、手際よく機材のセッティングを開始した。


 日本側の科学顧問や分析官たちは、彼らが次々と展開していく装備を目の当たりにして、完全に言葉を失っていた。

 軍用、というレベルですらない。それは、明確に地球の物理学のパラダイムを一つ超えた、別次元の文明の観測機器だった。


「空間位相の固定、完了。……位相測定用マイクロドローン、射出します」

 研修生Aが手元のコンソールを叩くと、彼の手のひらから、銀色のカナブンほどの大きさの球体が三つ、全くの無音で空中に飛び立った。ドローンたちはレッドゾーンの境界線ギリギリまで接近し、見えない壁に沿うようにして静止する。


「よし、空間勾配の読み取り開始。……折り畳み式アンテナフレーム、展開」

 研修生Cが、地面に設置した黒い三脚のような装置のスイッチを押す。すると、三脚の上部から透明なアクリル板のようなスクリーンがスルスルと伸び上がり、そこに様々な色の光の波長スペクトルが直接投影され始めた。


「霊的エネルギー(スピリット・エナジー)可視化センサー、キャリブレーション完了」

 研修生Bは、ボーリングの球ほどの大きさの、中心で青白い液体が渦巻く透明な球状センサーを両手で抱え込み、目を閉じて深く深呼吸をした。


 さらに彼らは全員、こめかみの部分に銀色のヘッドバンド型のモニターを装着していた。これは、観測対象から受ける精神的な負荷(精神干渉波)をリアルタイムで測定し、脳の処理能力が限界(発狂)に達する前に、自動で神経を遮断する安全装置セーフティである。


「……それで、あの見えない壁の向こう側まで、透かして見えるというのですか」

 日本の科学顧問は、透明なスペクトル投影機に次々と表示される、見たこともない数式の羅列と三次元グラフを前にして、素直な驚嘆と、自らの学問への絶望がないまぜになったような声を漏らした。


「見えますよ。光学的な『光』ではなく、空間の歪みや、エネルギーの流れる『形』そのものを数値化して再構築するんです」

 リーダーの青年は、ヘッドバンドのスイッチを入れながら、自信満々に笑った。

「さあ、極東の神秘がどんな顔をしているのか、化けの皮を剥がさせてもらいましょうか」


 観測が開始されてから、わずか数十秒後。

 沈黙を破ったのは、透明なスクリーンを食い入るように見つめていた研修生Aの、抑えきれない興奮の声だった。


「おー……すげえ……!! なんだこの数値……!」


 理屈っぽく冷静だったはずの彼の声が、完全に上擦っている。


「どうした、何が見えた?」

 リーダーが駆け寄る。


「リーダー、これ……単なる認識を遮断する『壁』じゃないです!」

 研修生Aは、画面上の三次元グラフを指差しながら、早口でまくし立てた。

「ドローンからの位相データの跳ね返りを見てください。目の前に『境界面バウンダリ』が存在するのは確かなんですが……その向こう側は、空間が途切れている(塞がっている)わけじゃない。我々のいるこの三次元の空間とは物理法則の異なる『向こう側の空間』が、極めて滑らかに、かつ安定的に『重なっている(オーバーラップしている)』んです!」


 研修生Aは、息を呑み、そして決定的な一言を放った。


「多分これ、別次元アナザー・ディメンションと直接接続してますよ!」


 その言葉に、日本側のスタッフ全員が息を呑み、静まり返った。

 別次元との接続。それは、SF映画やオカルト小説の中だけの話ではない。今、自分たちの目の前にあるこの深い森の奥で、地球とは異なる別の宇宙(あるいは空間)への『扉』が開いているというのだ。


「しかも、信じられないのはこの『安定性』です」

 研修生Aの指が、キーボードを高速で叩く。

「普通、異なる次元の空間同士が重なり合えば、境界部分で凄まじい空間の歪み(位相揺らぎ)や重力異常が発生するはずです。ブラックホールのように周囲の物質を吸い込むか、あるいは強烈な反発力で大爆発を起こすのが物理的な常識です。……でも、ここにはそれがない」


「事故で空いた『次元の裂け目』じゃない、ってことか」

 リーダーの青年が、ヘッドバンド越しに見える空間の構造を脳内で処理しながら、顔をしかめた。

「空間勾配が一定すぎる。我々がドローンから当てている探査用のマイクロ波も、反発して暴れるどころか、結界の表面で極めて滑らかに『受け流されて』いる。……まるで、高度なサスペンションを備えた巨大なシステムのようです」


「ええ。自然発生した特異点なんかじゃ絶対にあり得ない安定度です」

 研修生Aは、畏怖の念を込めて言った。

「これは……明確に『誰かが意図的に接続を維持し、運用しているゲート』です。維持機構システムが存在している」


 誰かが、扱っている。

 その言葉は、この空間の奥底に、地球外のテクノロジーを制御する『管理人マスター』のような存在が潜んでいることを、観測データという確たる証拠をもって日本側に突きつけるものだった。


 誰かが、意図的にこの別次元との接続を維持し、管理している。

 その事実が突きつける圧倒的な恐怖と畏怖に、日本側の科学技術顧問はごくりと固唾を飲み込んだ。ヨーロッパで起きている、制御不能なエネルギーの垂れ流しによるパニックとは根本的に異なる。ここは、高度に統制された「神の領域」なのだ。


「……空間の構造は分かった。だが、その『門』の向こう側から、あるいはこちら側へ、何らかの物理的な干渉やエネルギーの流出は起きていないのか?」

 沖田室長が、努めて冷静な声を保ちながら問いかけた。


「それを今、測っています」

 透明な球状センサーを抱え込んでいた長髪の研修生Bが、顔を上げた。

 彼の両腕の中にあるセンサーの中心で、青白い液体がまるで生き物のように不規則な渦を巻き、内部の計測モジュールが高速で明滅を繰り返している。


「……うーん、これ、ちょっとヤバくない?」


 研修生Bの口から漏れた、それまでの技術者としての冷静なトーンを微かに崩すような一言に、全員の視線が一斉に彼へと向けられた。


「どうした、放射線の漏れか?」

 リーダーの青年が鋭く問う。


「いえ、熱源反応も、電磁波の異常スペクトルもゼロです。物理的なエネルギーの流出は一切ありません。……ですが、境界面の向こう側から、明らかに何らかの『エネルギー流』が、こちらに向かって絶え間なく押し寄せてきています」

 研修生Bは、球状センサーと連動している手元のタブレットの波形を拡大し、信じられないものを見るように目を細めた。


「生命活動に伴う生体電流や、脳波の放出に近い反応パターンを示しています。ですが、地球上のいかなる生物の固有波長とも完全には一致しない。……しかも、その密度が異常です。何億、何十億という束になって、極めて規則的な大河のような流れを形成している。初見のインプレッションで言わせてもらうなら……」


 研修生Bは、言葉を探すように宙を見つめ、そして言った。


「スピリットエネルギー(精神的・霊的エネルギー)の類ですね。魂の集合体のような何かが、あの空間の向こう側を隙間なく満たしている」


 魂の集合体。

 純粋な科学を信奉するセレスティアル・ウォッチの技術者の口から、またしても「オカルト」と「物理学」の境界線を破壊するような単語が飛び出した。

 公安の担当官や内調の分析官たちが、ざわめきと共に顔を見合わせる。


「……だが、待ってくれ」


 研修生Bは、タブレットの解析フィルターをさらに何重にも切り替え、球状センサーから得られる波形の「質」をより深く分解し始めた。青白かった液体の渦が、微かに銀色を帯びた細い糸の集まりのように変容していく。


「違う。エネルギーの『質』が根本的に違う。……これは、ただのスピリットエネルギーじゃない」


 研修生Bは、息を呑み、モニターの数値を食い入るように見つめながら、その不気味な違和感の正体を言葉にした。


「これは、生きた肉体を駆動するための、熱を帯びた『生命エネルギー』じゃない。……言うなれば、これは『記憶エネルギー』だ」


 記憶エネルギー。

 その聞いたこともない造語が放たれた瞬間、鬱蒼とした出雲の森の空気が、物理的な温度を数度下げたかのように凍りついた。


「記憶エネルギー、だと……?」

 科学技術顧問が、理解が追いつかないというように呻いた。

「それはどういう意味だ。情報そのものがエネルギーとして物理的な質量を持っているとでも言うのか?」


「我々の使う概念で説明するのは難しいですが……」

 研修生Bは、青ざめた顔で言葉を紡いだ。

「現在進行形で生きている人間が発するような、動的で不安定な『欲求』や『感情の揺れ』がないんです。もっと静かで、固定化されていて、それでいて途方もない情報量を持っている。……まるで、無数の人間がこれまでの人生で経験した膨大な記憶、記録、そして人格の残滓ざんしだけが、綺麗に抽出されて長期保存されているような……巨大な『アーカイブ(書庫)』の波動です」


 生きた人間の力ではない。人生を終えた後に残る、経験と情報のエッセンス。

 それが、あの見えない壁の向こう側に、海のように広がっている。


「……生命を動かす力じゃなく、人生を沈殿させた力、ですか」


 会議室の片隅で、あるいは機内で、ずっと飄々としていた三神編集長が、この日初めて、完全に気配を消したような低い声で呟いた。

 彼は一瞬だけ目を閉じ、脳裏に浮かぶ『魂の庭』の真実――全人類の魂のバックアップ機能にして、輪廻と記憶の貯蔵庫――と、セレスティアル・ウォッチの弾き出した「記憶エネルギー」という数値を完全にリンクさせていた。


「なるほど、そういう顔をしてるわけだ。……通りで、生きている人間が不用意に近づけば、許容量を超えた情報の濁流に脳を焼き切られて、弾き出されるはずですよ」

 三神は、誰に語りかけるでもなく、ただその圧倒的なシステムの完成度に感嘆するような、乾いた息を漏らした。


 一方、その恐るべき観測結果を前にして。

 セレスティアル・ウォッチの若き研修生たちの反応は、日本側の恐怖や畏怖とは全く異なるベクトルへと振り切れていた。

 彼らの瞳の奥に、未知への純粋な探求心と、科学者特有の抑えきれない「欲望」が、危険な炎のように燃え上がり始めたのだ。


「すげえ……マジですげえぞ、これ……!」

 空間計測を担当していた研修生Aが、タブレットを握りしめたまま、震える声で叫んだ。

「リーダー! これ、ただのエネルギー観測じゃない! 人類の精神の根源的な構造を解き明かす、決定的な鍵になりますよ! ヨーロッパの連中が欲しがってる『星間通信』の知識なんかより、よっぽど高次元のシステムだ!」


「入りたい……!」

 研修生Cも、知覚フィルターのコンソールから顔を上げ、魅入られたように見えない壁の方へと一歩足を踏み出しそうになった。

「あと十メートル。あと十メートルだけ近づいて、ドローンを境界面に接触させられれば、向こう側の空間の『内部サンプル』のデータが取れます! これ絶対、中に途方もない答えがありますよ!」


 彼らの精神は、出雲の放つ威圧感によってパニックを起こしているわけではない。

 彼らの額に装着されたヘッドバンド型のモニターは、脳波の乱れを完璧に制御し、恐怖や拒絶反応を物理的にシャットアウトしている。彼らは恐怖を感じないからこそ、純粋な知的好奇心に突き動かされ、神の領域へと土足で踏み込もうとしていた。


 だが、人間が平気であっても、彼らの持ち込んだオーバーテクノロジーの「機械」の方が、先に悲鳴を上げ始めていた。

 研修生Aが展開した空間投影スクリーンの映像に、ノイズが走り始める。位相測定ドローンのテレメトリーが赤く点滅し、研修生Bの抱える球状センサー内部の青白い液体が、まるで沸騰するように激しく暴れ、今にもガラスの球体を内部から破裂させんばかりの圧力を放ち始めた。


 機械が、「これ以上は絶対に近づくな」と警告を発しているのだ。


「そこまでだ!!」


 リーダーの青年が、かつてないほど鋭く、そして絶対的な冷酷さを帯びた声で、部下たちの欲望を力ずくで叩き斬った。


「下がれ! ドローンを現在位置で固定しろ! センサーの出力を最低レベルまで落とせ!」


「でも、リーダー! ここで引いたら、世紀の大発見が――」


「駄目だと言っている!!」

 リーダーは、研修生Aの肩を乱暴に掴み、強引に後方へと引き摺り戻した。

「上の命令だ。……いや、アルファ様からの絶対の厳命だ! 『絶対に強行突破はするな』。いかなる理由があろうとも、接触型の観測は禁止されている! 今日は外縁データだけだ、それ以上は一歩も進むことは許されない!」


 リーダーの青年の声には、アルファの冷徹な命令に対する絶対の服従と、そしてその奥に、彼らの組織のトップですら手を出そうとしなかった「見えざる警告(ティアナからの釘刺し)」に対する、本能的な恐怖が宿っていた。

 どれほどの功績が目の前にぶら下がっていようと、ここを越えれば「死」すら生温い破滅が待っている。その冷厳な事実を、リーダーは正しく理解していたのだ。


「……ッ、了解。ドローン、現在位置で待機。パッシブ(受動)観測モードへ移行します」

 研修生Aは、悔しそうに唇を噛みながらも、組織の規律に従って即座にキーボードを叩き、強引な探査プロセスを停止させた。暴れかけていた球状センサーの液体も、徐々に静かな元の渦へと戻っていく。


 その一連のやり取りを、沖田室長をはじめとする日本側のスタッフたちは、息を呑んで静かに見守っていた。

 彼らがこの数十分の間に見せつけられたのは、セレスティアル・ウォッチという組織の圧倒的な技術力と、それを支える狂気じみた探求心だけではない。


「……あなた方ほどの技術と防衛装備を持っていても、そこ(境界線)は越えないんですね」


 沖田室長は、安堵と、さらなる深い恐怖の入り混じった声で、リーダーの青年に語りかけた。

 人間の脳を直接騙し、別次元の構造を数値化し、魂のエネルギーすら可視化するほどのオーバーテクノロジー。そんな魔法のような技術を自在に操る彼らですら、あの見えない壁の向こう側に踏み込むことを、明確な「死の危険」として避け、門前で立ち止まることを選んだのだ。


「越えませんよ」

 リーダーの青年は、額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭いながら、先ほどの興奮を完全に抑え込み、プロフェッショナルとしての冷たい顔を取り戻していた。


「我々は優秀な技術者ですが、無謀な自殺志願者ではありません。……越えた先で理解不能な何かに脳を焼かれて死ぬより、無事に生きて帰って、この途方もない外縁データの報告書を書く方が、我々の『仕事』ですから」


 そのドライな徹底ぶりこそが、この組織が世界の裏側で生き延び、覇権を握り続けている最大の理由なのだろう。


 日本側は、出雲という土地の「格」を、これ以上ないほど残酷な形で再認識させられていた。

 ここは、ヨーロッパの空を覆うあの狂騒への対抗軸(防波堤)たり得る、圧倒的な上位のシステムだ。だが同時に、触れ方を一つでも誤れば、セレスティアル・ウォッチですら一瞬で壊滅するほどの、純粋で絶対的な「拒絶の領域」なのである。

 国家の危機管理の道具として都合よく扱えるような代物では、決してない。


「……ほら、言ったでしょう」


 機材の撤収作業が静かに始まる中。

 三神編集長が、ポケットに手を突っ込んだまま、見えない壁が立ち塞がる暗い森の奥へ向かって、独り言のように低く呟いた。


「外から数値が測れたからといって、分かった気にならない方がいいですよ。……こういう場所は、測れるもの(データ)が出れば出るほど、それは単なる『入り口の看板』を読んだに過ぎないってことを、思い知らされるだけですからね」


 その言葉は、万能感を誇っていたセレスティアル・ウォッチの若き研修生たちに対する皮肉であり、同時に、この底知れぬ神秘を抱え込んでしまった日本政府に対する、重い忠告でもあった。


 出雲の森は、彼らがどれほど高度なテクノロジーの光を当てようとも、微動だにせず、ただ静寂を保ち続けていた。

 数字は出た。三次元のグラフは描かれ、エネルギーの波長は可視化された。

 だが、本当の答えは、依然として誰一人触れることのできない「門の向こう側」に、分厚い沈黙と共に沈殿している。

 地球上で最も強大な影の組織の技術力ですら、出雲という神域の圧倒的な威容の前では、ただ門前で頭を垂れ、礼儀を強いられることしかできなかったのだ。



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荒っぽい連中かと思ってたけど、知的フィールドワークする要員もいるんだセレスティアル・ウォッチ。
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