第18話 撃つな。まだ、何が壊れるか分からない
ヨーロッパの空を異常なオーロラが覆い始めてから、すでに一週間近くが経過しようとしていた。
ヘルメス協会が儀式の『本番』に設定している「次の新月」まで、あと二十二日。
猶予はまだある。通常のアメリカ合衆国の軍事ドクトリンや外交プロセスに照らし合わせれば、三週間という時間は、情報収集、同盟国との調整、そして空母打撃群の展開を完了させるのに十分すぎる期間だった。
しかし、世界はもう「その日」を待ってはくれなかった。
欧州各地の主要都市は、物理的な破壊を伴わないまま、急速に、そして決定的に変質しつつあった。
病院はパニックに陥った不眠症患者と、焦点の合わない目で微笑む『過覚醒者』たちで溢れかえっている。株式市場は一部の異常なパフォーマンスを叩き出すトレーダーたちによって前例のない乱高下を繰り返し、スピリチュアル界隈はオンライン上で何百万人という規模の『同調儀式』を公然と組織し始めていた。
さらに恐ろしいのは、大西洋の対岸であるアメリカ本土や、極東のアジアにまで、微弱ながらも「頭の中で歌が聞こえる」「異常に仕事の効率が上がる」といった、あの精神干渉波の『恩恵』の報告が上がり始めていたことだ。
これはもはや、遠い同盟国の空の異常ではない。放置すれば、人類の社会システムそのものが「戻れないライン」を越えて溶け落ちる、地球規模の不可視のパンデミックだった。
***
ワシントンD.C.。ホワイトハウス地下、極秘状況室。
分厚い防音壁に囲まれた密室の空気は、これまでキャサリン・ヘイズ大統領が経験したどの国際危機――中東でのテロリストの核兵器確保未遂や、大国の軍事侵攻の危機――よりも、重く、粘りつくような緊張感に満ちていた。
円卓を囲むのは、国家安全保障担当補佐官、国防長官、情報長官といった、アメリカの軍事と情報の最高意思決定者たちのみ。
彼らの目の前にある巨大なモニターには、ヨーロッパ大陸の地図と、その上に無数にプロットされた赤いマーカーが映し出されている。マーカーは、ヘルメス協会の地下拠点、あるいは儀式に関与していると疑われる欧州各地の施設の推定座標だった。
「現状、ペンタゴン(国防総省)が提示できる『物理的介入』のリストは以上です、大統領」
国防長官が、重苦しい声で報告を締めくくった。
彼が今しがた机上に乗せたのは、冗談でも机上の空論でもない。覇権国家アメリカが本気で同盟国の主権を無視し、欧州の地下で進行する儀式を強制的に『物理破壊』するための、極めて具体的で血生臭いプランの数々だった。
・地中海および欧州内陸部の儀式疑惑地点への、米海軍特殊部隊(SEALs)およびデルタフォースの極秘投入。
・高高度無人機(UAV)を用いた、地下施設へのバンカーバスター(地中貫通爆弾)による限定精密打撃。
・EA−18Gグラウラー電子戦機を多数投入し、欧州全域の通信・電力インフラを一時的に完全麻痺させることによる、儀式継続の物理的妨害。
・そして、在欧米国市民の保護を大義名分とした、同盟国の同意なき武装部隊の強行展開。
どれ一つとして、平和時には決して許されない、事実上の「欧州への宣戦布告」に等しい強硬策ばかりだ。
「……NATO(北大西洋条約機構)の枠組みを完全に無視した、否認不可能な軍事作戦……」
国家安全保障担当補佐官が、手元の資料から顔を上げ、苦渋に満ちた表情で呟いた。
「これを実行すれば、第二次世界大戦以降、我々が築き上げてきた欧米の同盟関係は完全に崩壊します。最悪の場合、EUとの武力衝突すら避けられないでしょう」
「同盟関係の崩壊?」
ヘイズ大統領は、その鋭い灰色の瞳で補佐官を射抜いた。
「今、ヨーロッパにまともな政治的判断を下せる政府が残っているとでも思っているの? 彼らはアメリカの治安部隊の支援を『銃の音はうるさいから』という理由で笑顔で拒否したのよ。すでに正常な主権国家としての体を成していないわ」
ヘイズは、テーブルの上に置かれた最新のインテリジェンス報告書を指先で弾いた。
「事態は、もう『新月まで待とう』などと悠長に構えていられる段階を過ぎている。現地の社会は崩壊ではなく、我々の理解を超えた形へと『変質』し始めているのよ。そしてその毒は、間違いなく大西洋を越えてこのアメリカ本土にも届き始めている。……私は、自分の国が、何の意味も持たない合唱と光に脳を溶かされ、何もせずに社会がドロドロに溶け落ちていくのを、ただ黙って見ている気はないわ」
大統領の言葉には、検事時代から培ってきた、不条理に対する圧倒的な怒りと、国家指導者としての重すぎる覚悟が宿っていた。
「必要なら、軍事行動も選択肢から外さない」
その決定的な一言が落ちた瞬間、状況室の空気が一段と張り詰めた。国防長官は静かに頷き、情報長官は唾を飲んだ。アメリカ合衆国が、未知の精神干渉現象に対して『引き金を引く』準備を整えたのだ。
「補佐官」
ヘイズは、一切の躊躇なく次の指示を出した。
「セレスティアル・ウォッチを繋いで。……今すぐ。責任者級で」
「はっ」
数秒後、状況室のメインモニターが切り替わり、暗号化された通信回線を通じて、あの深い闇色のコートに身を包んだ男――オブザーバー・アルファの姿が映し出された。
顔の半分を深い影で覆い隠した彼の姿は、ヨーロッパがパニックに陥り、ホワイトハウスが軍事行動を決断しようとしているこの極限状態にあっても、不気味なほどにいつも通り落ち着き払っていた。
その完璧なまでの冷静さが、逆にこの部屋の切迫した空気の中で異様に浮き上がって見えた。
「単刀直入に言うわ」
ヘイズは、挨拶もそこそこに、鋭い刃のような言葉をアルファに突きつけた。
「私はいま、ヨーロッパのヘルメス協会拠点に対する、米軍の特殊部隊および精密誘導兵器による『限定的な物理的介入(軍事攻撃)』を検討している」
それは、影の組織に対する通達であり、同時に、彼らが隠し持っているであろう情報を引きずり出すための強烈な揺さぶりでもあった。
だが、モニター越しのアルファは、眉一つ動かすことなく、大統領の決断をたった一言で切り捨てた。
「お勧めしません」
その声のトーンは、まるで「今日は雨が降るから傘を持っていった方がいい」と助言するような、あまりにも事務的で平坦なものだった。
会議の主導権が、一瞬にしてアルファの側に引き寄せられる。
「理由は?」
ヘイズは、相手の冷静さに呑まれないよう、語気を強めた。
「あなたは先日の会議で、あの光が『まだ準備段階』であり、新月が本番だと言ったわ。事態がここまで悪化している以上、これ以上待つ方が危険かもしれないのよ。……それとも、あなたたちはあのアーティファクトを無傷で回収したいから、米軍の爆撃を止めているの?」
「大統領」
アルファは、ヘイズの追及を静かに遮った。
「誤解のないように申し上げておきますが、我々にとっても、現在のヨーロッパの状況は許容範囲を超えつつあります。ヘルメス協会の儀式は、確実に阻止されなければならない。その認識は完全に一致しています」
「なら、なぜ止めるの」
「なぜなら、今撃つのは最悪の選択だからです」
アルファのその言葉には、一切の迷いがなかった。
「よろしいですか、大統領。現在、我々が対峙しているのは、地球上の科学では完全に性質が未確定な『高位の地球外アーティファクト』です。彼らが何を起動させようとしているのか、我々もその全容を完全には把握していない」
アルファは、自らの組織の限界(無知)を隠すことなく、堂々と前提として提示した。
「全容が未確定である以上、国家の危機管理として、あらゆる介入の判断は『最悪の分岐』をベースに構築されなければなりません。……そして、我々の分析チームが導き出した最悪想定によれば、性質未確定のアーティファクトに対して、外部から物理的な『起動中断』の衝撃を与えることは、彼らの儀式がそのまま『起動完了』するよりも、はるかに危険で破滅的な結果を招く可能性が高いのです」
起動を途中で止める方が、最後までやらせるよりも危険。
その直感に反する論理に、国防長官が怪訝な顔をした。
「それはどういうことだ? 電源ケーブルを物理的に断ち切るか、儀式を行っている人間を排除すれば、機械は止まるはずだろう」
「現在の異常は、確かに極めて危険です」
アルファは、国防長官の古い軍事的思考を冷ややかに訂正した。
「ですが、少なくとも彼らは、何らかの『儀式』という古代の枠組みと手順に則ってエネルギーを引き出そうとしています。つまり、アーティファクトの力は、まだ彼らの稚拙な型に縛られている状態と言えます」
アルファは、モニター越しに静かに語り続けた。
「我々の第一の『危機想定(仮説)』です。もし、米軍のバンカーバスターや特殊部隊の突入によって、儀式の途中でその『型』が物理的に破壊された場合。アーティファクト内部で高まっていたエネルギーの行き場が失われ、出力が完全に不整流化する恐れがあります」
「不整流化……つまり、暴走ということか」
情報長官が低く呟く。
「はい。現在はヨーロッパを中心とした局所的・段階的な波及で済んでいるあの光と精神波長が、物理的破壊のショックによってタガが外れ、無差別放射に切り替わる可能性があります」
アルファの言葉は、淡々としているがゆえに、確かな恐怖を伴っていた。
「第二の仮説です。現状の精神干渉は、感受性の高い個体や現地住民など、ある程度『同調しやすい層』に偏って影響を及ぼすという選択性を保っています。しかし、途中破壊によってその選択性が失われた場合、事態はヨーロッパ局所の『異常』では済まなくなります。大西洋圏、あるいは地球全体の人類に対する、無差別の重度な精神汚染(発狂)へと一瞬にして変貌するリスクがあります」
「現状は限定的な浸潤に過ぎない、と……」
ヘイズは、眉間を深く揉んだ。
軍事介入が、結果的に被害の規模を地球全体へと拡大するトリガーになる。それは、軍事力の行使を決定する最高責任者にとって、最も恐るべきシナリオだった。
「さらに、物理的な爆撃で事態が収束するとは限りません」
アルファの報告は、まだ序の口だった。彼は、事態の次元をさらに一段階引き上げた。
「第三の仮説です。あのアーティファクトは、単なるエネルギーの発生装置ではなく、高度に圧縮された巨大な『情報構造体』である可能性が高い。もし物理破壊によってその封が解かれた場合、それは熱や爆風ではなく、高次元の『意味の破片』として世界中に飛散する可能性があります」
「情報の飛散? どういうことだ」
補佐官が身を乗り出した。
「割れるのが、目に見える機械や建物だけとは限らないということです」
アルファは、極めて無機質な声で、現代社会における最大の恐怖を語った。
「粉砕されたアーティファクトの情報が、現場の映像データ、飛び交う軍の通信電波、あるいはインターネットの記録媒体を通じて『ウイルス』のように増殖し、それを観測した人間の認知を直接媒介にして拡散する恐れがあります。……例えば、特殊部隊が突入して爆破したその瞬間の『映像』を見ただけで、ペンタゴンの分析AIが異常な解を叩き出し、モニターを見ていた兵士やオペレーターの脳に、アーティファクトの『意味』が直接ダウンロードされ、即座に発狂する」
それは、「情報災害」の極致だった。
物理的にヨーロッパを隔離しても、爆撃の映像やデータがケーブルを通じてアメリカ本土に届いた瞬間に、本国の中枢が内側から汚染される。
国防長官の顔から、明確に血の気が引いた。現代のネットワーク化された軍隊にとって、通信そのものが汚染の媒介になるなどという想定は、すべての作戦行動の前提を根底から崩壊させるものだった。
「……まるでSF映画の悪夢だな」
情報長官が、半ば呆れたように吐き捨てた。
「我々は今、そのSF映画よりも遥かにタチの悪い現実に直面しているのですよ、長官」
アルファは、その冷笑を一切意に介さず、さらに常識外れの領域へと踏み込んだ。
「第四の仮説です。我々の観測では、あの星円盤は単なる電磁気現象の枠を超え、周囲の空間位相や観測基準そのものに干渉し始めている可能性があります。もし、それが星間通信や、より高次元の物理法則に関わる装置であった場合……その途中破壊は、局所的な『時空間の破断』を引き起こすかもしれません」
「時空間の破断……」
ヘイズは、もはや検事としての論理的な思考回路が焼き切れそうになるのを感じた。
「はい。例えば、突入した特殊部隊の作戦時間と、外縁部で待機する部隊の時間進行に致命的なズレが生じる。施設に突入したはずの部隊が、空間の不整合によって永遠に目標に到達できない。あるいは、爆撃機が投下した爆弾が『着弾した』という事実と『着弾していない』という事実が、同じ座標上で同時に存在する……」
アルファは、あくまで「可能性の一つ」として、淡々と恐るべき想定を並べ立てた。
「つまり、現実の方が、我々の軍事的な座標系や因果律に従わなくなる可能性があるのです。その場合、破壊が成功したかどうかの確認すら、永遠に不可能になります」
状況室の空気が、もはや恐怖を超え、圧倒的な「理解不能の深淵」を覗き込んでいるかのような、重く冷たいものに変わっていた。
ミサイルが当たるかどうかも分からない。時間がどう流れるかも分からない。そんな不確定要素の塊に向かって、どうやって軍事作戦のゴーサインを出せばいいというのか。
「……アルファ」
ヘイズは、震えそうになる声を必死に抑え込み、彼を真っ直ぐに睨みつけた。
「あなたは、それが現実の脅威だと言っているの? それとも、私たちに軍事介入を諦めさせるために、わざと荒唐無稽なSFのシナリオを並べ立てているの?」
「第五の仮説です、大統領」
アルファは、ヘイズの疑念を完全にスルーし、さらに決定的な終末シナリオのカードを切った。
「儀式の中断は、星円盤が開こうとしていた『通路』を、不完全な『裂け目』として固定してしまう恐れがあります。その裂け目を通じて、我々の三次元の存在論では記述できないような、上位の構造や知性、現象が、こちらの世界へ一気に『流入』したように観測される可能性があります」
「超次元存在の流入……?」
「そのように表現するのが、地球の言語では最も近いでしょう」
アルファは、微かに顎を引いた。
「もちろん、これは現状のデータから弾き出した比喩を含む危機評価であり、確認済みの事実ではありません。ですが……もし、そのような高次存在的な事象が、人間の持つ既存の『宗教的知覚』と不本意な形で接続されてしまった場合、第六の仮説にして、最も厄介な事態が引き起こされます」
アルファの漆黒の視線が、モニター越しにヘイズを冷たく射抜いた。
「人類は、その不可解な現象を、『天使』『悪魔』あるいは『神託の主体』として強烈に解釈し、認識するでしょう」
「神と悪魔……」
補佐官が、呻くように言った。
「私は、神や悪魔が本当に降臨する、とオカルトを語っているわけではありません」
アルファは、極めて論理的で冷徹な社会学者としての顔を覗かせた。
「ですが、地球上の何十億という人間が、『それは神である』と認識するような圧倒的な事象が起きる可能性は、絶対に排除すべきではないと言っているのです。……もし世界がそう認識してしまえば、文明の秩序は一瞬で崩壊します」
アルファの語る未来予想図は、物理的な破壊よりも遥かに凄惨な、人類社会の完全な自滅だった。
「世界規模の宗教パニック。狂信者たちによる神託政治の横行。死を恐れない集団巡礼と、それによる国家間の境界の消滅。そして、神の意志を巡る、核兵器すら辞さない新しい形の『信仰戦争』の勃発。……大統領、武力介入による途中破壊の失敗は、単なるペンタゴンの『作戦失敗』では済まないのです。それは、人類の歴史を終わらせるトリガーになり得る」
アルファは、一通り話し終えると、口を噤んだ。
極秘状況室には、空調の微かな音だけが響いていた。
国防長官も、情報長官も、反論の言葉を見つけられなかった。
アルファが並べ立てたのは、不完全起動の暴走、精神汚染の全域化、情報災害、時空間の破断、超次元存在の流入、そして神と悪魔の降臨。
どれもこれも、通常の軍事会議のテーブルに乗せるにはあまりにも荒唐無稽で、正気の沙汰とは思えないものばかりだった。
だが、現在ヨーロッパで起きている「物理法則を無視した光と精神干渉」という現実を突きつけられている以上、それを「あり得ない」と一蹴できる人間は、この部屋には一人もいなかった。
ヘイズ大統領は、背もたれに深く体を預けたまま、まるで石像のように動かなかった。
極秘状況室の重苦しい沈黙の中で、彼女の頭脳は、かつて連邦検事として幾多の凶悪犯を追い詰めてきた時と同じ、冷徹で高速な論理的処理を行っていた。
不完全起動の暴走。精神汚染の全域化。情報災害。時空間の破断。超次元存在の流入。そして、神と悪魔の降臨。
アルファが並べ立てたシナリオは、どれも人類の想像力を凌駕する終末のビジョンだった。だが、ヘイズは恐怖に呑み込まれることなく、彼が展開した論理の「構造」そのものを解体し始めていた。
「……つまり」
ヘイズは、静寂を切り裂くように、低く、しかし極めてクリアな声で口を開いた。
「今のあなたの話は、全部“仮説”に過ぎないということね」
その鋭い指摘に、情報長官がハッとして顔を上げた。
「相手は性質が未確定な未知のアーティファクト。だから、あなたは危機管理の原則に則って、考え得る限りの『最悪分岐』だけをひたすら意図的に積み上げている。そして、その山のように積んだ最悪の可能性の頂点から、私を見下ろして……ただ一言、“撃つな”と言っているのね」
ヘイズの言葉は、アルファの完璧なプレゼンテーションの衣を剥ぎ取るような、鮮やかな事実の指摘だった。彼は「こうなる」とは一言も断定していない。すべて「可能性がある」「恐れがある」という言葉で結んでいた。
モニター越しのアルファは、自らの論理の骨組みを見透かされても、全く動じる様子を見せなかった。
「はい」
アルファは、短く肯定した。
「対象の性質が完全に未確定であるからこそ、不確実な希望的観測に基づく拙速な中断は避けるべきだと考えています。国家の存亡を懸けたギャンブルにおいて、最悪の目を想定しないことこそが最大の罪です」
正論だった。危機管理の専門家として、彼の言っていることは一ミリも間違っていない。
だが、ヘイズが引っかかっていたのは、彼の論理の正しさではなかった。彼が言葉を発するその「温度」だった。
「……あなた、妙に落ち着いてるわね」
ヘイズは、目を細め、モニターの中の暗い影をねめつけた。
「あなたは先ほど、人類の文明秩序が崩壊するかもしれないという、身の毛もよだつようなシナリオをいくつも語ったわ。でも、あなたの声には、焦りも、恐怖も、そして同盟国が今まさに異常な社会変質に呑み込まれていることへの痛痒すら、微塵も感じられない」
ヘイズは、テーブルの上に置かれたペンを手に取り、それを指先で弄りながら言葉を続けた。
「まるで、遠い星で起きている出来事を安全なガラス越しに観察しているような……ヨーロッパの社会変質そのものを、あまり深刻に受け取っていないように見えるわ。それどころか、あのオーロラの下で数千万人が正気を失っていくのを、ただ『待つ』ことすら許容しているように聞こえる」
状況室の空気が、単なる「作戦会議」から、大統領と影の組織のトップとの、ヒリつくような「心理戦」へと移行した。
「あなた……一体、何を守ろうとしてるの?」
ヘイズは、ペンをテーブルに置き、アルファの深淵のような瞳の奥を覗き込もうと身を乗り出した。
「ヨーロッパの同盟国? 世界の秩序? 人類の精神? ……それとも、このアメリカ本土だけ?」
この核心を突く問いに対し、アルファはほんのわずかな間を置いてから、極めて冷たく、そしてアメリカ合衆国の防衛機構の一部としてはあまりにも「正しすぎる」答えを返した。
「我々の最優先は、北米圏への波及阻止です」
その言葉は、同盟の理念や人道主義を完全に切り捨てた、純度100%の国益の宣言だった。
「アメリカ合衆国の継続性を守ることが第一義です、大統領。……私は決して、欧州の危機を軽視しているわけではありません。しかし、もし『確実な封じ込め』と『不確実な救済』のどちらかを選択を迫られるのであれば、我々は躊躇なく、封じ込め線(防衛ライン)を大西洋のこちら側で引きます」
アルファの声は、氷のように冷徹だった。
「欧州域内という、まだ海を隔てて物理的に隔離可能な範囲で収まっている事象を、無謀な軍事介入によってタガを外し、世界規模へと押し広げてしまうかもしれない……そのような不確定な判断を、我々は決して容認できません。アメリカを守るために、今は手を出さず、彼らの儀式が『どう転ぶか』を遠隔で監視し続ける。それが最善の手です」
ヘイズは、その言葉を聞きながら、内心で冷たい戦慄を覚えた。
この男は、欧州を見捨てることに何の躊躇いもないのだ。アメリカさえ無事ならば、ヨーロッパ全土がカルトの実験場になろうと、人々が廃人になろうと、彼にとっては許容範囲の「コスト」に過ぎない。
それが、セレスティアル・ウォッチという組織の真の冷酷さだった。
「そう……」
ヘイズは、表情筋の微かな震えを意志の力で押さえ込み、冷笑を浮かべた。
「つまりあなたは、最悪ヨーロッパの社会が完全に崩壊し、あのカルトの手に落ちたとしても……アメリカ本土への物理的・精神的な波及さえ防げるなら、それは許容範囲だと。そう言っているように聞こえるわ」
大統領の言葉は、アルファの意図を最もグロテスクな形で翻訳したものだった。
だが、アルファはそれを完全には否定しなかった。
「そうは言っていません」
アルファは、あくまで公式な建前を維持しつつ、決定的なラインだけを引き直した。
「ですが、アメリカ本土への波及という最悪のリスクを招くような、不用意な軍事的介入には断固として反対します。……我々が守るべきは、旧大陸ではなく、この国です」
二人の視線が、モニター越しに激しく交錯した。
そこにあるのは、世界全体を見渡して同盟国を救おうとする大統領の「責任」と、アメリカという砦(あるいは自らの組織の暗躍の舞台)だけを死守しようとする影の組織の「冷徹さ」との、決して交わらない絶対的なズレだった。
ヘイズは、深く、重い息を吐き出した。
悔しいが、彼が提示した「最悪のシナリオ(リスク)」を無視してまで、今すぐミサイルを撃ち込むだけの確証が、ヘイズ側には何一つないのもまた事実だった。もし本当に爆撃の映像を見ただけでペンタゴンが汚染されれば、アメリカは戦わずして内側から崩壊する。
「……結論を出すわ」
ヘイズは、円卓を囲む閣僚たち、そしてモニターのアルファに向けて、最終的な大統領権限を行使した。
「新月前の、米軍による欧州への直接的な軍事介入(物理破壊作戦)は、現時点で見送る」
国防長官が、微かに安堵の息を漏らすのが聞こえた。誰も、時空間が破断するかもしれない標的に部隊を送り込みたくはなかったのだ。
「分かったわ。今は撃たない」
ヘイズは、アルファを睨み据えたまま、はっきりと言い放った。
「でも、勘違いしないでちょうだい。私が介入を見送ったのは、あなたという人間や、セレスティアル・ウォッチという組織の判断を信用したからじゃない。……あなたが並べ立てた『最悪想定』の被害規模が、あまりに大きすぎて、大統領の権限で賭けに出るには分が悪すぎた。ただそれだけのことよ」
それは、大統領としての敗北宣言ではなく、彼らへの明確な「不信」の表明だった。
だが、アルファは微塵も気にする素振りを見せず、静かに頭を下げた。
「それで十分です。賢明なご判断に感謝いたします」
「ただし!」
ヘイズは、アルファが通信を切る前に、声を張り上げた。
「ただ手をこまねいて、ヨーロッパが狂っていくのを全面静観するつもりは毛頭ないわ。撃てないのなら、撃たずに自国を守り、同盟国を救うためのあらゆる『代替措置』を即時発動する」
ヘイズは、国家安全保障担当補佐官へと向き直り、矢継ぎ早に命令を下し始めた。
「第一に、ヨーロッパからの米国市民および政府関係者の退避を、さらに加速させなさい。チャーター機、軍用輸送機、あらゆる手段を使って、大西洋を越えさせるのよ。
第二に、『継続政府措置(COG)』の警戒レベルを一段階引き上げ。万が一、ヨーロッパの異常が情報ネットワークや未知の媒介を通じて北米に波及した場合に備え、政府中枢のバックアップ体制を完全稼働状態に移行。
第三に、大西洋圏における大規模な『防疫・情報遮断』の準備。欧州発のすべての通信トラフィック、特に映像・音声データの流入に対する強力なフィルタリングと閲覧制限の仕組みを、NSA(国家安全保障局)に構築させなさい。
第四。これは単なる軍事や気象の危機じゃない。心理戦・宗教対応・災害認知対策の各専門家を集めた特別対策班を今すぐ立ち上げて。国民が『神が降りた』などというカルトの妄言に呑み込まれないよう、徹底的な情報統制と心理的防壁を敷くのよ」
「承知いたしました。直ちに各省庁へ通達します」
補佐官が、即座にメモを取り、動き始める。
「そして、国防長官」
ヘイズは、最後に軍のトップを見据えた。
「新月の当日に向け、欧州周辺の基地および大西洋上の空母打撃群における『即応部隊』の警戒態勢を維持。もし彼らの儀式とやらが完了し、最悪の事態(物理的な脅威の出現)が現実のものとなった場合……その瞬間に、我々はすべてを灰にする。NATO枠外での極小規模『否認可能』作戦の投入案も、白紙にはせず継続検討としなさい」
「イエス、マダム・プレジデント」
撃つなと言われたからといって、無防備に喉首を差し出すつもりはない。アメリカ合衆国は、持てるすべての国力を使って、見えない波動に対する巨大な「盾」を構築しようとしていた。
「私の指示は以上よ。……セレスティアル・ウォッチも、精々その『監視』とやらを続けることね」
ヘイズは、冷たく言い捨てた。
「了解しました。大統領」
アルファの短い返答と共に、通信は一方的に切断され、モニターはホワイトハウスのロゴマークへと切り替わった。
***
極秘状況室での重苦しい会議が終わり、閣僚たちがそれぞれの部署へと散っていった後。
部屋には、キャサリン・ヘイズ大統領と、彼女が個人的に最も信頼を置く情報機関の側近(情報長官)だけが残されていた。
ヘイズは、誰もいなくなった円卓を見つめたまま、深い疲労感と共に椅子の背もたれに寄りかかった。しかし、その瞳の奥には、先ほどまでの会議中よりもさらに鋭く、冷たい疑惑の光が燃えていた。
「……長官」
ヘイズは、低い声で側近を呼んだ。
「はい、大統領」
「先ほどのアルファの態度……あなたはどう見た?」
情報長官は、少し言い淀んだ後、慎重に言葉を選んで答えた。
「極めて理路整然としていました。リスク評価としては妥当です。彼らが言うように、未確定なアーティファクトを途中で破壊することの危険性は、我々も認めざるを得ません。……北米の防衛を最優先とする姿勢も、冷酷ですが、彼らなりの合理性に基づいているのでしょう」
「ええ、論理は完璧よ。建前としてはね」
ヘイズは、嘲るように鼻を鳴らした。
「でも、私は検事時代から、ああいう『正しすぎる論理』で何かを隠そうとする人間を山ほど見てきたわ。彼は、私に介入を諦めさせるために、わざと『時空間の破断』だの『超次元存在の流入』だのといった、確証のないSFのような終末シナリオまで引っ張り出してきて、全力で私を止めにかかった」
ヘイズの目は、薄暗い部屋の中で猛禽類のように光っていた。
「彼らはヨーロッパを見捨てることに躊躇がない。それは事実でしょう。でも……彼らが介入を止めた『本当の理由』は、北米防衛というもっともらしい建前だけじゃない気がするのよ」
「本当の理由、とは?」
「分からないわ。だから、あなたに洗ってほしいの」
ヘイズは、情報長官の目を真っ直ぐに見据え、極秘の追加命令を下した。
「セレスティアル・ウォッチの、すべての動向に対する監視レベルを最大まで引き上げなさい。NSA、CIA、NROのあらゆるアセットを使って、彼らの通信、資金の流れ、人員の動きを徹底的に追うのよ。……特に、彼らが今『欧州案件』に対してどれほどのリソースを割いているのか。そして、先日の会議で彼らが口にした『アポロンの矢の解析』と、日本の『出雲案件』について、裏で具体的にどんな動きをしているのか。すべて洗い出しなさい」
「彼らの真の『優先順位』を探るのですね」
情報長官が、ごくりと息を飲んだ。
「ええ。あの組織が、今世界で起きているこの異常事態の中で、一体『何を』最優先にしているのか。彼らの掲げる“北米防衛論”が本心からのものなのか、それとも……もっと別の、おぞましい野望を遂行するための、単なる時間稼ぎ(隠れ蓑)に過ぎないのか。それを見極める必要があるわ」
ヘイズは、立ち上がり、誰もいないモニター画面を一瞥した。
「彼は私を止めた。あの未知の現象に対して、無闇に引き金を引かなかったことは、結果的に正しかったのかもしれない」
ヘイズの独白は、静かな防音室の壁に吸い込まれていった。
「いまは、撃てない。……けれど、私を全力で止めたあの男のことも、私は決して信用はしないわ」
ヨーロッパの空が歌い、世界が狂気へと傾いていく中。
アメリカ合衆国大統領は、人類の脅威であるヘルメス協会だけでなく、自国の深部に巣食う「影の組織」に対しても、終わりの見えない暗闘を強いられようとしていた。
誰も信じられない。何が真実かも分からない。
それでも、時計の針は無情に『次の新月』へと向かって、確実な足音を刻み続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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