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第136話 ネス湖、一人目の帰還者

 灰色の空と冷たい霧に閉ざされたスコットランド、ネス湖。

 イギリス政府が展開した強固な物理的封鎖線の内側――「死者に会える湖」の岸辺には、異様で、そして何よりも静かな光景が広がっていた。


 そこにいるのは、最初の調査隊として足を踏み入れた科学者たち。彼らを救出しようとして同じく囚われた精鋭の軍人部隊。そして、Cicada 3301の配信を見て世界中から押し寄せ、強行突破で規制線を潜り抜けてきた数百人規模の一般市民たちである。

 彼らは皆、冷たく湿った泥の上に座り込み、自らの隣に寄り添う『死者』たちと、ただ静かに、途切れることのない対話を続けていた。


 ロンドン・ダウニング街10番地、首相官邸地下の危機対応会議室。

 壁面の巨大なマルチモニターには、遠隔ドローンが捉えたその湖畔の様子が、無音で映し出されている。


 イギリス政府の首脳陣、そして暗号通信越しに参加しているアメリカのヘイズ大統領や日本の矢崎総理たちは、その映像と、手元の端末に送られてくる【最新の観測データ】を見て、完全に理解不能の混乱に陥っていた。


「……一週間だぞ」

 国防大臣が、震える指で報告書を指差し、信じられないというように呻いた。

「彼らが湖畔に囚われてから、丸一週間が経過している。……なぜ、誰も死んでいないのだ!?」


「食事の摂取、確認できず。水分の補給も、ごく一部の人間が湖の水を口にしている可能性がある程度。睡眠に至っては、バイタルセンサーのデータ上、ほぼ全員が『覚醒状態』を維持し続けています」

 科学顧問が、青ざめた顔で読み上げる。

「……しかし、脱水症状の兆候なし。低体温症なし。筋力低下なし。飢餓による臓器不全のサインも、一切検出されていません。

 さらには、極度のストレスによる精神錯乱の悪化も見られない。むしろ、一部の対象は、日を追うごとに情緒が『安定』してきているというデータすら出ています」


 医療担当の高官が、頭を抱える。

「あり得ない。……医学的に、絶対にあり得ない。

 人間が、このような寒冷な環境で一週間も飲まず食わず、眠らずにいれば……数日前に全滅していてもおかしくないはずだ。なのに、なぜ彼らは健康を維持している!?」


「……つまり、あの湖の内側では、人間の通常の『生理機能』が停止している、ということか?」

 サー・アリスターが、冷徹な仮説を口にする。


「停止というより、強制的に【維持(固定)】されているように見えます」

 科学顧問が答える。

「……時間経過による肉体の消耗が、あの空間では人体へ反映されていない。あるいは、湖そのものが何らかの未知のエネルギーで、彼らの生命活動を直接サポートしている可能性があります」


 その報告を聞き、日本の会議室でモニターを眺めていた三神編集長が、缶コーヒーを揺らしながらポツリと言った。


「……ますます、人間を『殺すための罠(捕食器官)』には見えませんね」


「どういう意味です?」

 矢崎総理が問う。


「もし湖が、人間の命や魂を食うための悪意ある存在なら、一週間も彼らを健康な状態で生かしておく必要がありません。とっくにミイラにでもして養分を吸い尽くしているはずです」

 三神は、モニターの湖畔に座る人々を指差す。

「死なせない。衰弱させない。……まるで、彼らが自分の抱える死者と『心ゆくまで語り尽くす(対話する)ための時間』を、わざわざ安全に保証してくれているかのようです」


「安全、などという言葉を使うべきではないわ」

 ヘイズ大統領が、画面越しに厳しく否定する。

「物理的に死なないからといって、精神が永遠に湖畔に縛り付けられている状態を『安全』とは呼ばない。……あれは、人間をミイラにしない代わりに、魂の永遠の牢獄として機能しているだけよ」


「ええ。人間は“死なない”と分かると、恐怖が薄れて、さらに危険な場所へ自ら飛び込もうとしますからね」

 三神も、そこは否定しなかった。


 各国の首脳陣は、この「死なない」という異常な事実を前に、さらに深いジレンマに陥っていた。

 もしこの事実を公表すれば、「ネス湖に行っても死なない。むしろ死者と永遠に安全に語り合える」と世界中の人々が誤解し、今以上の暴動と強行突破が起きることは火を見るより明らかだった。

 政府は、この絶望的な「安全」を、何が何でも隠し通さねばならなかった。


 ***


 ネス湖、湖畔。

 冷たい霧に包まれた泥の上で、調査隊長のエドワード・ヘイル博士は、あの日から一歩も動くことなく、目の前に座る一人の女性と向かい合っていた。


 彼女は、濡れていなかった。

 死んだ時の、あの凄惨な姿でもなかった。

 ヘイルの記憶の中で一番美しかった、優しい微笑みを浮かべたまま、ただ静かに彼を見つめている。


 ヘイルは、もう一週間、ほとんど同じことを彼女に言い続けていた。


「……すまない」

 ヘイルの声は、掠れ、涙で震えていた。

「僕が、君を救えなかった。……君が苦しんで、SOSのサインを出していたのに。僕は自分の研究ばかり見て、君の痛みに気づけなかった」

 ヘイルは、泥にまみれた手で、彼女の白く細い手を強く握りしめた。

「君を一人にして、死なせてしまった。……僕は、君を殺したんだ。

 だから、もう絶対に離れない。……君が許してくれなくてもいい。ずっとここで、君に謝り続ける。……愛している。愛しているんだ」


 それは、恋人を自殺で失った男が、何年も何年も心の奥底に抱え込み、決して吐き出すことのできなかった、ドロドロとした罪悪感の塊であった。

 彼は、科学者としての理性を完全に投げ捨て、ただ「彼女への贖罪」という永遠のループの中に自分自身を閉じ込めていた。


 彼女は、彼が泣きながら語るその贖罪の言葉を、ずっと優しく聞いていた。

 怒ることもなく。

 責めることもなく。

 彼を否定することもなく。


 愛する者を見る、穏やかな目で。

 ただ、ずっと受け止めていた。


 しかし。……彼女は、どこかでずっと『待って』いたのだ。


 ヘイルの謝罪の言葉が尽きるのを。

 彼が、「自分の罪悪感」ではなく、「自分自身の本当の声」を聞けるようになる瞬間を。


 一週間目の、薄い夜明け。

 湖畔を覆っていた重い霧が、ふっと薄れ、東の空から微かな青白い光が差し込んだ時だった。


 彼女の表情が、変わった。


 優しさはそのままだった。

 だが、その瞳の中に、明確な『終わらせる』という強い光が宿った。


「……エドワード」


 彼女の声が、静かに、しかしはっきりとヘイルの耳に響いた。


「何だい……?」

 ヘイルは、涙に濡れた顔を上げる。


「そろそろ、目を覚ますべきよ」


 ヘイルの身体が、氷水を浴びせられたように硬直した。


「……何を、言っているんだ」

 ヘイルは、彼女の手をさらに強く握りしめようとした。

「僕は、目を覚ましている。君がここにいるじゃないか。僕の手を握って、笑ってくれている」


 だが、彼女は微笑みながら、ゆっくりと首を振った。


「いいえ」

 彼女の言葉は、残酷なまでに真実を突いていた。

「あなたは、私が死んだ日の夢を……ずっと、見続けているだけよ」


「違う! 君はここに……!」


「私が好きだったのはね、エドワード」

 彼女は、ヘイルの言葉を遮り、優しく、けれど絶対に譲らない声で語り始めた。

「……『科学者』としての、あなたよ」


 ヘイルが、息を呑む。


「分からないことを、怖がりながらも、それでも見に行くあなた。

 誰も信じないようなものを、笑いながら、真剣に調べるあなた。

 ……真実の前では、自分の間違いすらも、素直に認められるあなた」


 ヘイルは、泣きながら激しく首を横に振った。

「ダメだ……! 僕は、君を見ていなかった! 科学ばかり見て、一番大切だった君の心を見落としたんだ! 僕は、最低の人間だ!」


「そうね」

 彼女は、そのヘイルの告白を、全く否定しなかった。

「……それは、本当よ」


 ヘイルの言葉が、詰まった。

 彼女は彼を全肯定して、甘やかしてくれる幻影などではなかったのだ。


「あなたは、私を見逃した。……私は苦しかったし、あなたに気づいてほしかった」

 彼女は、生前の痛みを、嘘偽りなく口にした。

「そして私は……自殺してでも、あなたの気を惹きたかったの」


 ヘイルが、完全に絶句する。


「それを、否定するの?」

 彼女は、ヘイルを真っ直ぐに見つめた。

「私を、ただあなたが救えなかった『哀れな犠牲者』にして。……あなた一人だけが『罪人』になろうとしているの?」


 その言葉は、ヘイルの心を貫く、最も鋭く、最も救いのある刃だった。


「……私には、弱さもあった。あなたに対する怒りもあった。醜い感情も、執着も、そして……愛もあった」

 彼女は、悲しそうに、でも誇り高く言った。

「私の死を……あなた一人だけの『罪』にしないで」


 ヘイルの目から、これまでとは違う、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 彼は初めて気づいたのだ。

 自分は一週間、彼女に謝り続けていたつもりだった。だが本当は、「彼女の死」という事実を、すべて自分の罪悪感の物語の中に閉じ込め、自分だけが傷つくことで楽になろうとしていたのだと。

 彼女にも、一人の人間としての弱さと、残酷さと、そして選択があったという事実から、逃げ続けていたのだ。


「でも……僕は……」

 ヘイルの口から、嗚咽が漏れる。


「謝罪は、もう十分よ」

 彼女は、優しく微笑んだ。


「十分なわけがない……!」


「いいえ」

 彼女は、彼の頬にそっと手を添えた。

「あなたは一週間、謝ったわ。……本当は、十年分、二十年分、これからの人生全部を使って、ここに座って謝り続けるつもりだったんでしょうね。

 ……でもね、エドワード」


 彼女は、彼の涙を拭いながら、静かに告げた。


「謝罪は、死者を生かすためのものじゃない。

 ……生者が、次に進むためのものよ」


「僕が進んだら……君を置いていくことになる」

 ヘイルは、子供のように泣きじゃくった。


「違うわ」

 彼女は、きっぱりと首を横に振った。

「あなたが進まないなら。……私は、ずっとあなたの『足枷』になる。

 ……私は、そんなものになりたくないの」


 彼女は、ヘイルの顔を両手で優しく包み込み、そして、彼が最も愛した、あの凛とした笑顔で言った。


「私が愛したあなたは、死者の影に膝をついて、永遠に謝り続ける人じゃない。

 ……知らない世界へ向かって、前を向いて歩く人よ」


 ヘイルは、声にならない声を上げて泣き崩れた。

 謝罪でも、後悔でもない。それは、彼が長い間抱えていた「呪い」が、彼女の言葉によって完全に解け、崩れ去っていく涙だった。


「さあ」

 彼女は、まるで迷子を家へ帰すように、優しく言った。


「良い子だから、前を向きなさい」


 ヘイルは、泥の上に手をつき、むせび泣きながら、何度も何度も深く息を吸い込んだ。


「……僕は、君なしで……生きて、いいのか……」


「生きなさい」

 彼女は、迷いなく答えた。

「それが、私が最後にあなたへ頼むことよ」


 長い、長い沈黙。

 風が、ネス湖の冷たい霧を吹き払っていく。


 ヘイルは、ゆっくりと、震える足に力を込め、泥の中から立ち上がった。

 不思議なことに、一週間座り込んでいたはずの脚は、全くふらつくことはなかった。むしろ、憑き物が落ちたように、身体は羽のように軽かった。


 彼は、彼女から目を逸らさず、しかし、確実に一歩、後ろへと下がった。

 湖畔から、遠ざかるための一歩。


「……行くよ」

 ヘイルは、涙に濡れた顔で、しかし真っ直ぐに彼女を見て言った。


「ええ」

 彼女は、嬉しそうに微笑んだ。


「……ありがとう」


「行ってらっしゃい、あなた」


 ヘイルが、さらにもう一歩、後ろへ下がった瞬間。

 彼女の姿は、以前のように醜く崩れて「水」になることはなかった。

 悲鳴も、苦しみも、泣き顔もなかった。


 彼女はただ、最も美しい笑顔のまま。……朝の淡い光と霧の中に溶け込むようにして、静かに、そして完全に消え去った。


 正しい別れだった。


 ***


 ロンドン、ダウニング街の危機対応室。

 モニターを監視していた観測班が、信じられないものを見たように絶叫した。


「……対象一名、湖畔から離脱を開始!!」


「何だと!?」

 首相が、弾かれたように身を乗り出す。


「ヘイル博士です!」

 オペレーターが、震える声で報告する。

「死者との接触対象が……消失しました! 水化現象(崩壊)は確認されません! ヘイル博士、歩行安定! 封鎖線へ向かって、自らの足で歩いてきます!」


「本当に……戻ってくるのか……?」

 国防大臣が、息を呑む。


「……自分で、戻ると決めたのでしょう」

 サー・アリスターが、モニターの中で前を向いて歩くヘイルの姿を見て、深く、静かに息を吐き出した。


 日本の首相官邸地下。

 同じ映像を見ていた三神編集長が、少しだけ嬉しそうに目を細めて呟いた。


「……最初の、成功例ですね」


 ヘイル博士は、ゆっくりとした足取りで、軍が張った物理的封鎖線を越えた。

 待機していた医療班が、防護服姿で一斉に駆け寄る。


「博士! 大丈夫ですか! すぐに検査を!」

 医師たちが、彼をストレッチャーに座らせ、次々とバイタルを測定していく。


「……信じられない」

 医療班のリーダーが、モニターの数値を見て絶句した。

「体温正常。脱水症状なし。栄養状態正常。筋力低下なし。睡眠不足反応なし。……ストレスホルモンの値は高いですが、致命的なレベルではありません。精神状態も……極めて安定しています」


 医師は、ヘイルの顔を覗き込んだ。

「博士……本当に、一週間湖畔にいた人間の数値ではありません。あなたは……」


 ヘイルは、医療班の言葉を静かに聞き、そして、澄み切った瞳で周囲の軍人や医師たちを見回して、はっきりと言った。


「……私は、帰ってきました」


 その言葉は、単に物理的に帰還したというだけでなく。……彼が、自らの過去という名の地獄から、完全に帰還したことを意味していた。


 ***


 数時間後。

 ロンドンの政府中枢と、暗号通信で繋がった英米日の合同会議。

 隔離された医療施設から、ヘイル博士に対する公式な聞き取り調査が行われた。


 画面の向こうのヘイルは、一週間前の「ネッシーを笑い飛ばしていた傲慢な科学者」とは、完全に別人のように落ち着き、成熟した空気を纏っていた。


「あなたは……あの湖畔で、何を見たのですか」

 イギリス首相が、慎重に問う。


「彼女です」

 ヘイルは、一切の躊躇なく答えた。

「私の死んだ恋人……いえ、私にとって、妻のような人でした」


「彼女は、あなたを引き留めましたか?」

 アリスターが、事象の性質を確認するために問う。


「……最初は、私が勝手に残ろうとしていました」

 ヘイルは、静かに過去の自分を振り返った。

「彼女は、ずっと待っていたのだと思います。……私が謝り尽くして、自分の声を聞けるようになるのを」


 日本の会議室から、三神編集長が問う。

「彼女は、最後に何と言いましたか?」


「前を向け、と」

 ヘイルの目に、微かな涙が浮かんだが、彼の表情は崩れなかった。

「科学者としての私が好きだった、と。……死者の影に膝をついて永遠に謝る私ではなく、知らないものへ向かって歩く私が好きだった、と。そう言ってくれました」


 ヘイルは、ゆっくりと目を閉じた。

「私は、彼女を救えなかった。……その事実は、一生変わりません。

 でも、彼女の死を私一人の罪として抱え込むことも……彼女を一人の人間として否定し、もう一度殺すことだったのだと。……理解しました」


 そのヘイルの言葉に、各国の首脳陣は言葉を失い、深い沈黙に包まれた。


 アーティファクト。超常の力。

 それは、人間の肉体を切り裂く兵器でも、経済を破壊するシステムでもなかった。

 ……一人の人間の、最も深く、最も治癒の困難な『魂の傷』を、直接解剖し、荒療治で縫い合わせたのだ。


 ***


 そして、ヘイル博士の帰還は、決して彼一人の奇跡では終わらなかった。


 彼が自らの意志で立ち上がり、湖に背を向けたという『行動』は。

 まるで、湖畔に囚われていた他の人々にとっての【見えない合図】となったのだ。


 ドローンが映し出すネス湖の岸辺で、次々と変化が起き始めていた。


「お兄ちゃん」

 ソナー技師の膝の上で、小さな妹が微笑んだ。

「もう、私は沈んでないよ。……だから、お兄ちゃんも、もう沈まないで」

 ソナー技師は、泣きながら立ち上がった。


「お前は、まだ生き物を信じていないのか」

 生物学者の父が、眼鏡を押し上げて笑う。

「なら、まず生きている自分自身を信じてやれ」

 生物学者は、笑って、そして泣きながら歩き出した。


 軍の応援部隊の隊長の前に立つ、若い部下の幻影が敬礼する。

「隊長、もう置いていかれたくありません。

 ……だから、あなたは戻ってください。次は、誰も置いていかないために」

 隊長は、涙で顔を濡らしながら、完璧な敬礼を返し、湖に背を向けた。


 亡き夫と座っていた老女。

「ここで一緒に座るには、まだ少し早い。茶は、そっちで飲んでからにしよう」

 老女は、夫の言葉に笑い泣きしながら、杖をついて歩き出した。


 亡き娘と抱き合っていた母親。

「ママ、泣いてばかりだと、私の話を聞いてくれないじゃない。……ちゃんと生きてから、また会おうね」

 母親は、倒れそうになりながらも、決して後ろを振り返らずに戻ってきた。


 一人、また一人と。

 死者たちが『帰れ』と告げ、生者たちがそれに頷き、湖から離れていく。


 最初に囚われた調査隊の全員。

 彼らを救出に向かった軍人たち。医療スタッフ。

 そして、初期に強行突破して囚われていた民間人の一部が。


 次々と、封鎖線を越えて、生還を果たしていった。


 全員が、肉体的には一切の異常がなく、健康そのものだった。

 精神的には激しく揺さぶられていたが……彼らが抱えていた核心的なトラウマ(傷)は、信じられないほど綺麗にほどけ、安定と成熟を見せていた。


「……これは、治療です」

 アメリカのケンドール博士が、モニターのデータを見つめながら、震える声で言った。

「しかも、肉体ではなく……精神の」


「精神的な生まれ変わり、と言ってもいいでしょうね」

 三神が、静かに同意する。


「ネス湖は、彼らを囚えていたのではなく……」

 アリスターが、驚愕の事実を口にする。

「彼らの心の傷の治療が『終わるまで』、帰さなかった……?」


『おそらく、そういうことなのでしょう』

 通信の向こうで、魔女が淡々と答えた。


「では、あの湖は安全なのか!?」

 イギリス首相が、希望を込めて問うた。


「いいえ」

 魔女は、即座に、冷酷に否定した。

「刃物は、手術で人を救うこともできれば、殺人に使うこともできます。

 ネス湖は、心の手術台です。

 ……麻酔なしで、本人の一番深い傷を開き、素手で縫い合わせる場所です。

 ……それに耐えられず、永遠に傷口を見つめたまま帰ってこられない人間の方が、世の中には圧倒的に多いのですよ」


 その言葉通り。

 湖畔には、後から強行突破した民間人たちの多くが、まだ死者と寄り添ったまま、戻ってくる気配を見せていなかった。

 未練が深すぎる者。別れをまだ受け入れられない者。

 希望は見えた。しかし、それは完全な解決には程遠かった。


 ***


 イギリス政府は、再び巨大なジレンマに直面していた。


 もし、「ネス湖に入っても死なない」「死者と対話すればトラウマが消える」「生まれ変わったように帰ってくる」という事実を公表すれば。

 ……世界中から、さらに数百万人のトラウマを抱えた人々が、救いを求めて殺到する。


「どう発表する?」

 首相が、アリスターに問う。


「『現象は依然危険。初期被拘束者の一部が生還。詳細は調査中』……これしかありません」

 アリスターは、冷徹に情報統制のラインを引く。


「“治療”とは絶対に言わない方がいいですね」

 日本の三神編集長も、強く忠告する。

「“精神的成長”も駄目です。そんな言葉を出した瞬間、世界中の病んだ人々が、宗教的な救済を求めてネス湖へ押し寄せてきます。完全に手がつけられなくなる」


「今はまだ、“帰還例が確認された”という事実だけで十分です」

 魔女も、同意した。


 政府は、この奇跡の全貌を、再び重い蓋で覆い隠すしかなかった。


 ***


 隔離された医療テントの中で。

 ヘイル博士は、政府の記録用カメラに向かって、最後に一言だけ、静かに証言を残した。


「……あそこは、死者に会える場所ではありません」


 彼は、少しだけ笑った。

 それは、憑き物が落ちたような、とても穏やかな笑顔だった。


「死者と、もう一度【別れる】場所です。

 ……別れられない人間が入れば、決して出てこられない。

 私は……彼女に、追い出されました」


 ヘイルは、テントの窓の外、霧が晴れ始めた空を見上げた。


「……そして、ようやく。

 私は、帰ってくることができたんです」



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
随分と荒療治なリハビリ施設だ。
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