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第134話 ネス湖へ、導師と仙人を送る

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス地下。

 極秘危機管理室の分厚い防爆扉の奥で、キャサリン・ヘイズ大統領は、まるで自らの執務机が突然火を吹いたかのような激しい怒りを、包み隠さずに爆発させていた。


「……何が起きているの!?」


 ヘイズの怒号が、冷え切った空調の音しかしない会議室に鋭く響き渡る。

 彼女の視線の先、壁面のメインモニターには、インターネットの海を席巻し、今や世界中のニュースネットワークがパニック状態でミラー配信している『Cicada 3301』の動画が、無音でループ再生されていた。


 スコットランドのネス湖。

 霧の立ち込める暗い岸辺で、イギリス政府が派遣したはずの科学者たちと、最新鋭の装備で身を固めた軍人たちが、まるで何かの宗教的儀式のように泥の上に座り込み、虚空に向かって――いや、彼らにだけ見えている『誰か』に向かって、泣き、笑い、すがりついているという、あまりにも異様で凄惨な光景。


「死者に会える湖? ネス湖? 冗談じゃないわ!」

 ヘイズは、手元の分厚い書類をデスクに叩きつけた。

「どうしてこんな、世界を根底から揺るがすような事態を! 我々アメリカ政府が、CIAでもNSAでもなく、あんな幽霊みたいなハッカー集団の『実況配信』で初めて知ることになるのよ!!」


 情報機関トップが、血の気を引かせた顔で慌てて答える。

「大統領、現在イギリス政府とホットラインで照会中です。……ですが、イギリス側は現地の完全な封鎖対応と、国内で爆発した群衆パニックの処理で大混乱に陥っており、即時の詳細回答は困難であると……」


「またCicadaに先を越されたというわけね」

 ヘイズは、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「連中は、都市にミサイル(爆弾)を落とす代わりに、世界中の大衆の心に直接『情報』を落としていく。……タチの悪さで言えば、物理的な破壊よりも遥かに被害が広がるわ」


『……残念ながら、その通りです。大統領』

 暗号通信の向こう側、セレスティアル・ウォッチのオブザーバー・アルファが、深い影の中から冷徹に同意した。


 アーティファクトの存在が公になって以来、人類は「空を泳ぐ怪物」や「弾薬を無限に生み出す機械」といった、物理的な恐怖に対しては、ある程度耐性(諦め)をつけつつあった。

 だが。

 『死者に会える』という情報は違う。

 それは、人間の最も柔らかく、最も弱い部分を、直接素手で抉り出すような猛毒だ。


「……国内の状況は?」

 ヘイズが、嫌な予感を押し殺して問う。


「最悪です」

 情報機関トップが、絶望的な報告を続ける。

「Cicadaの配信から数時間で、アメリカ国内の検索サイトでも『ネス湖』『イギリス行き航空券』の検索数が異常値を記録しています。

 特に……退役軍人と、戦死者遺族のコミュニティでの反応が激しいです」


「……」

 ヘイズの顔から、さらに血の気が引いた。


「SNSや専用フォーラムでは、“アフガニスタンで死んだ息子に会いたい”、“自分が命令を出して死なせてしまった部下に、最後に一言謝りたい”、“もう一度だけ戦友の顔を見たい”という投稿が、雪崩のように急増しています」

 情報トップは、手元の端末の悲惨なデータを読み上げる。

「それだけではありません。銃乱射事件の遺族、パンデミックで家族を失った人々、事故の被害者……ありとあらゆる喪失を抱えた人々が、イギリスへの渡航手段を探して動き始めています。

 便乗した『ネス湖密航ツアー』などの詐欺サイトも乱立し、宗教団体も『死者の冒涜だ』『いや奇跡だ』と完全に真っ二つに割れて声明を準備しています。……国内は、今にも暴動に発展しかねない寸前の状態です」


「……アメリカは、死者を抱えすぎているのよ」

 ヘイズ大統領は、深く、重い溜息をついた。

「戦争も、銃撃も、災害も、病も。……あんな残酷な情報、国民に見せていいものではないわ」


『しかし、既に見せられました』

 アルファが、容赦なく現実を突きつける。

『もはや情報統制は不可能です。我々が今なすべきは、この現象の【正体】をいち早く解明し、事態をコントロール下に取り戻すことです』


「ケンドール」

 ヘイズは、画面の向こうの科学主任を鋭く睨んだ。

「科学的に、あれは何? 集団幻覚? 未知の神経ガス? それとも、また空間のホログラム投影?」


 ケンドール博士は、眼鏡のブリッジを押し上げ、極めて慎重に言葉を選んで答えた。


『少なくとも……物理的実体を伴う一時的な蘇り、もしくは【死者情報の再構成現象】と見るべきでしょう』


「蘇り、だと!?」

 国防長官が、信じられないというように椅子から腰を浮かせた。

「馬鹿なことを言うな! 魔法使いの次は死霊術師か!? 死んだ人間が蘇るなど、科学への冒涜だ!」


「断定はしません」

 ケンドールは、軍人の怒号に少しも怯むことなく、冷徹に返した。

「しかし長官。我々はすでに、日本の『出雲』の事案を知っています。

 ……出雲の神域のように、人間の魂、記憶、あるいは精神領域の『記録アーカイブ』が、この世界に高次元の情報として残存し得ることは、もはや否定できない事実なのです」


 ケンドールは、モニターに映るネス湖の映像を指差した。

「したがって、今回のネス湖の現象を“ただの幻覚だ”とか“神経ガスの作用だ”と旧来の科学で切り捨てて断言するのは……現代のアーティファクト科学の観点においては、完全にナンセンス(非科学的)です」


「つまり……あの湖畔にいるのは、本物の死者の可能性があると?」

 ヘイズが、喉の奥を鳴らす。


「可能性としては、排除できません」

 ケンドールは頷いた。

「過去の記憶を読み取って物質化した『模造人格コピー』なのか。並行世界から引き寄せられた『別の可能性』なのか。……あるいは、本当に魂が一時的に定着しているのか。

 ……しかし、大統領。それが本物かどうかと、危険かどうかは、全く別の問題です」


 ケンドールの声が、一段階低く、重くなる。

「本物であろうが、精巧な模造品であろうが。……そこに接触した人間が、自らの意志で『二度と離脱できなくなる(帰ってこなくなる)』のであれば。

 それは、人類社会にとって、いかなる殺戮兵器よりも【極めて危険なトラップ】です」


『だからこそ危険なのです、大統領』

 アルファが、ケンドールの言葉を引き取る。

『完全に偽物の幻影だと証明できれば、まだ説得の余地があります。しかし、「本物かもしれない」という余地(希望)が1パーセントでも残されている限り。……人々は、絶対に止まりません』


 希望という名の毒。

 それは、どのような物理的な壁よりも、人間の判断力を狂わせる。


「……セレスティアル・ウォッチは、ネス湖の異常を事前に把握していなかったの?」

 ヘイズが、情報機関の怠慢を責めるように問う。


『当然、過去に調査しています』

 アルファは、即座に手元のデータベースから古い報告書を展開した。

『ネス湖は、世界的な伝承を持つ未確認生物伝説ネッシーの代表格です。アーティファクトの隠匿場所の候補として、我々も過去に複数回の遠隔調査と、一度の大規模な現地調査を行っています』


「結果は?」


『少なくとも、三年前に我々が調査した時点では……このような現象は、一切発生していませんでした』

 アルファは、過去のデータをモニターに映し出す。

『大型水棲生物、いわゆるネッシーに相当する生物反応はゼロ。

 空間の歪みや、死者の実体化現象もゼロ。

 湖底の一部に、微弱な既存技術外の異常反応エネルギーシグネチャはありましたが……当時は完全に休眠状態、あるいはただの環境ノイズとして処理されました』


『当時の評価としては、“何かがあるかもしれないが、起動アクティブはしていない”という程度の認識だったのです』

 ケンドールが補足する。


「では、今は?」

 ヘイズが問う。


『ネス湖が……【目覚めた】。そう表現するのが、最も実態に近いと思われます』

 アルファが、重苦しい結論を口にした。


「……目覚めた? なぜ今になって?」

 国防長官が訝しげに眉をひそめる。


「原因の断定はできませんが、いくつかの仮説は立てられます」

 ケンドールが、ホワイトボードの代わりにタブレットの共有画面に項目を並べた。


「仮説一:アーティファクト時代の進行による自動起動。世界中で強力なアーティファクトが次々と使用され、地球全体の『異常事象の密度(あるいは現実の歪み)』が上がったことに連動して、休眠していたシステムがアクティブになった。

 仮説二:人類の注目がトリガー。近年、ネッシー目撃ブームの再燃などでネス湖への『人間の集合的無意識(期待)』が集中しすぎた結果、湖のシステムがそれに反応して起動した。

 仮説三:Cicada 3301や他勢力による間接的な刺激。彼らが直接何かを仕掛けた可能性は低いですが、空間跳躍などの過剰な情報干渉によって、湖が活性化した可能性は残ります」


 そして、ケンドールは、最も恐ろしい【第四の仮説】を口にした。


「……仮説四:死者への渇望の増大」

 ケンドールの声が、会議室の空気を凍りつかせる。

「ここ数ヶ月。黒鯨の襲来、アポロンの矢の流出、ソーマの樹の出現、平和の檻の破壊、そしてCicadaのテロ。

 ……度重なる世界の危機によって、人類全体の『喪失感』と『死への恐怖(あるいは身近な死者への意識)』が、極限まで高まりました。

 もし、ネス湖のシステムが、人間の【記憶と喪失】をエネルギー源(あるいは入力プロトコル)として機能するものであるならば……この地球全体を覆う負の感情の増大こそが、起動のトリガーとなった可能性もあります」


「……湖が、人類の感情(絶望)を読んで起きたと?」

 国防長官が、馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたい顔をしながらも、背筋に冷や汗を流して言った。


「笑えない仮説です」

 ケンドールは、全く笑わずに答えた。


「……では、どうしたらいいの!?」

 ヘイズ大統領は、苛立ちと無力感に机を強く叩いた。

「イギリスは現場の封鎖だけで手一杯よ!

 このままでは、世界中の人間が死者に会いたいとネス湖へ向かい始めるわ。軍を派遣して強制的に排除しようにも、その軍人たち自身が湖に囚われてしまう。Cicadaは安全な場所からそれを面白がって配信しているだけ。

 ……誰か、まともな対処案を出して!」


 会議室は、深い沈黙に沈んだ。

 物理的な破壊が通じず、近づく者の心そのものを兵器(罠)にする相手に、近代国家の軍事力はあまりにも無力だった。


 その重い沈黙の中で。

 ケンドール博士が、ゆっくりと手を挙げた。


「……一つだけ、アプローチの方法があります」

 ケンドールの声に、全員の視線が集中する。

「軍の部隊ではなく、少数の【偵察要員】を選ぶべきです。……ただし、通常の軍人や科学者ではいけません」


「誰を送れと言うの?」

 ヘイズが問う。


「……【精神防壁】の強い者です」

 ケンドールは、極めて真剣な目で答えた。

「あの湖は、人間の『未練』と『記憶』を読み取って実体化させます。ならば、それが見えても……決して自分の心を明け渡さず、幻影(あるいは死者)と自分自身を完全に切り離して認識できる、極限まで精神を鍛え上げた者でなければなりません」


「そんな人間が、アメリカのどこにいると言うのだ。イギリス特殊部隊の精鋭でもダメだったんだぞ」

 国防長官が疑念を口にする。


「アメリカにはいません」

 ケンドールは即答した。

「……ですが、この世界には、すでにそのような『精神の修養』を専門とし、アーティファクトの力と日常的に向き合っている者たちがいます」


 ケンドールは、モニターに二つの異なる勢力のエンブレムと、人物の情報を投影した。


「一つ。……EUの【ヘルメス協会】の導師」

「そしてもう一つ。……中国指導部の【仙人】です」


 その二つの名前が出た瞬間、会議室が大きくざわめいた。


「どうしてその二組なの?」

 ヘイズ大統領が、意外な提案に眉をひそめる。


「共通点は、圧倒的な『精神の統御力』です」

 ケンドールは、彼らの特性を論理的に説明する。


「ヘルメス協会の導師たちは、日頃から欧州に眠るオカルト的な遺物と向き合い、秘儀的な訓練を積んでいます。彼らは象徴、幻視、記憶、そして精神干渉に対する【距離の取り方】を誰よりも知っている。

 目の前に死者が現れても、それを“見えている現象”と“自分の中心(自我)”として完全に切り分ける訓練をしているのです。“見えても信じ切らない(呑み込まれない)”技術を持つ彼らは、欧州側の超常実務者として、これ以上ない適任です」


 ケンドールは、さらに中国側の情報を示す。


「そして、中国の仙人。彼らは文字通り、自らの気と精神の境界を極限まで鍛え上げた存在です。

 肉体的にも精神的にも、我々通常の人間とはすでにベースの作りが違う。さらに……中国指導部の仙人たちは、権力者としてこれまで膨大な『死者』と『責任(あるいは粛清)』を背負って生きてきました。

 死者や過去の幻影を前にしても、凡人のように簡単に崩れ落ちることはない。……危険ではありますが、精神耐性という点では、彼ら以上の存在は地球上にいません」


「死者の数が多いなら、むしろ危険なのではないか?」

 国防長官が、矛盾を突く。

「彼らの前に、彼らが殺した無数の政敵や犠牲者が現れたら、それこそ発狂するぞ」


「危険です」

 ケンドールは否定しなかった。

「ですが、長官。……死者を一つも抱えていない(後悔のない)人間など、この世界に一人でもいますか?

 軍人も科学者も、皆それぞれに重い過去を抱えているからこそ、湖に呑まれた。……ならば、その過去の重さに『耐えられる(潰されない)可能性がある者』を選ぶしかないのです」


『偵察だけです』

 アルファが、ケンドールの提案を現実的な作戦として後押しする。

『解決ではありません。ネス湖の影響範囲、死者が実体化する具体的な条件、接触の限界ライン、そして彼らの精神防御がどこまで有効かを確認する。……それだけでも、今後の対策の大きな一歩となります』


「無理やり囚われた人たち(調査隊や軍人)を、引き剥がして救出するのは?」

 ヘイズが、人道的な観点から問う。


『極めて危険です』

 アルファは、冷酷に却下した。

『ネス湖から離すと死者が水に戻り崩れるという現象が確認されています。もし、今の状態で囚われた者たちを力ずくで引き剥がせば……彼らは、愛する者を“二度失う”ことになり、その精神を完全に、不可逆的に破壊しかねません。

 ……まずは、偵察だけです。状況の把握を最優先とします』


 ヘイズ大統領は、深く息を吐き、重く頷いた。

「……分かったわ」

 彼女は、為政者としての決断を下す。

「直ちに、EUと中国のトップに連絡を取りなさい。……アメリカ合衆国からの、緊急の要請として」


 ***


 ホワイトハウスから、EU本部の緊急回線へとホットラインが繋がった。


 画面の向こうのEU高官たちも、すでにイギリスからの報告とCicadaの配信を受け、完全な混乱状態に陥っていた。

「アメリカは、我々のヘルメス協会の導師を、あの悪魔の湖へ派遣しろと言うのですか!?」

 EU高官は、自国の貴重な対アーティファクト戦力を失うリスクに、強い難色を示した。


「派遣ではなく、偵察協力よ」

 ヘイズ大統領は、外交的な圧力をかけながらも、理性的に説得を試みる。

「イギリス政府も、それを強く望むはずよ。通常の軍事部隊では、あそこは突破できないどころか、被害を拡大させるだけだわ。精神干渉に耐性のある、特別な専門家が必要なの」


 少しの間ののち。

 画面が切り替わり、EU高官の隣に、純白の祭服を纏った初老の男が静かに進み出た。

 ヘルメス協会の高位導師、マルセル・ヴァイス。

 深いシワの刻まれた顔に、すべてを見透かすような澄み切った青い瞳を持つ男だった。


「……死者に会える湖、ですか」

 導師マルセルは、静かな、波一つない声で呟いた。


「危険よ。強制はしないわ」

 ヘイズが言う。


「強制されずとも、行くべきでしょう」

 導師は、一切の躊躇なく頷いた。

「死者に会える場所ほど、人間の魂にとって危険な『聖地』はありません。……あのような場所に、無防備な人々が群がれば、世界は物理的な破壊よりも早く、精神から崩壊します」


「偵察だけでいいわ」

 ヘイズは念を押す。

「囚われた者たちの救出は、今は求めない。まずは情報を持ち帰ってちょうだい」


「賢明なご判断です」

 導師マルセルは、静かに目を閉じた。

「死者と再会し、その温もりに触れてしまった者を……力ずくでそこから引き剥がすのは、地獄の業火に焼くのと同じ拷問に等しい。……我々にも、彼らを救う手立てはまだありません」


 ***


 次に、アメリカは中国・中南海の李天明国家主席へと回線を繋いだ。


 中国側もまた、国内のネット空間が『ネス湖情報』で大きく揺れており、対応に苦慮している最中だった。仙人医療で多くの病者を救っている彼らだが、それゆえに「死者には会えない(死者は治せない)」という現実との落差が、国民の不満や渇望を妙に刺激していたのだ。


「我々も状況は把握している」

 李天明は、忌々しげに画面越しに言った。

「Cicada 3301め。……仙人の病室に来る前に、あの不気味な湖の映像を世界にばら撒いて、余計な火種を増やしおって」


「ネス湖の件で、中国に緊急の依頼があるわ」

 ヘイズは、大国のトップ同士の単刀直入な交渉に入った。

「中国の仙人に、偵察の協力をしてもらいたい。

 あの湖に近づくには、強固な精神防壁が必要よ。通常の部隊では、過去の記憶に飲み込まれてしまう」


 李天明は、渋い顔をした。

「……我々の貴重な仙人を、イギリスの、しかも得体の知れない湖へ送れと?」


 ここで、アルファが冷徹に補足する。

『偵察だけです。……そして、この現象のメカニズムを理解することは、中国にとっても必ず利益になります。

 すでに、中国国内からもネス湖へ向かおうとする国民が多数出ているはずです。……あなた方も、あの湖の正体を知らなければ、いずれ自国民の暴走を止められなくなりますよ』


 その言葉に、李天明は押し黙った。

 事実、中国の富裕層の一部が、すでにプライベートジェットを使って第三国経由でイギリスへ向かおうとする動きを見せていたのだ。


 やがて、李天明の背後から。

 ゆったりとした足取りで、一人の小柄な老人が画面の前に姿を現した。


 中国指導部の仙人の中でも、最も老練で、最も深く『気』を練り上げているとされる、チャオ最長老仙人であった。


「……死者を返す湖か」

 チャオ最長老は、白い髭を撫でながら、どこか遠い目をして呟いた。

「人のごうというものは、洋の東西を問わぬものじゃのう」


「協力していただけますか、最長老」

 ヘイズが問う。


「見てやろう」

 チャオ最長老は、深く頷いた。

「ただし、アメリカの小娘よ。余も万能ではないぞ。

 ……死者とは、実に厄介なものじゃ。アメリカの光る剣や、ロシアの鉄の弾よりも……はるかに深く、鋭く、生者の『心』を斬り裂くからのう」


「偵察だけで結構です。無理はしないで」


「それでよい」

 チャオ最長老は、静かに目を閉じた。

「救出は急ぐな。あそこに囚われた者を、外の理屈で無理に引き剥がせば……魂が裂けるぞ」


 仙人と導師。

 洋の東西を代表する、精神の極地に立つ二人の超常実務者が、図らずも全く同じ『警告』を口にしていた。


 ***


 アメリカは直ちにイギリス政府へ連絡を取り、EUの導師と中国の仙人を偵察に送る許可を取り付けた。


 イギリス首相は、もはや背に腹は代えられない状況であり、深い屈辱を味わいながらもそれを承認した。

「……許可する。ただし、ネス湖周辺の物理的な封鎖線は我が国が維持する。彼らにも、我々が設定した『接近限界ライン』を絶対に厳守させろ」


 サー・アリスターが、慎重に付け加える。

「……魔女様には、ご相談されましたか?」


「ああ」

 イギリス首相は、重いため息をついた。

「『導師と仙人ですか。……悪くはありませんね』と、紅茶を飲みながら仰っていたよ」


「……ですが」

 アリスターは、魔女が必ずその後に『毒』を吐くことを知っていた。


「ああ。彼女はこう言ったよ」

 首相の顔が、さらに青ざめる。

「『……ただし、死者を軽く見ないことです』、とな」


『彼らなら、耐えられると?』

 ヘイズ大統領が、通信越しに魔女の評価を確認する。


「……魔女様は、こう答えた。

 『耐えられるかもしれません。耐えられないかもしれません。……ですが、普通の兵士を送るよりは、まだ“少しだけ”マシでしょうね』、と」


 この『少しだけ』という魔女の評価が、これから彼らが向かおうとしている場所が、いかに絶望的な領域であるかを何よりも雄弁に物語っていた。


 ***


 数時間後。

 日米英中EUの五極を繋いだ臨時共有会議において、今回の偵察作戦における厳格な【ルール(プロトコル)】が策定された。


【ネス湖 特別偵察ルール】

 ・湖岸への単独接近の絶対禁止。必ず複数で相互監視を行うこと。

 ・死者らしき存在が目の前に現れても、絶対に触れないこと。

 ・名前を呼ばれても、決して応答しないこと。

 ・過去の個人的な質問(記憶の確認)には、一切答えないこと。

 ・湖面(水面)を、長時間直視し続けないこと。

 ・精神的・感情的な影響(ノスタルジーや激しい悲しみ)を受けた兆候があれば、即時撤退すること。

 ・囚われた調査隊や軍人を、無理に移動させようとしないこと。

 ・いかなる映像・音声データも、外部(一般)へ公開しないこと。

 ・Cicada 3301の配信対策として、強力な電磁・物理的遮断シールドを携行すること。

 ・偵察時間は極めて短く区切り、タイマーによる強制帰還を原則とする。


「名前を呼ばれた時点で、かなり危険な状態と言えます」

 導師マルセルが、欧州の魔術的知見から警告する。

「言葉、特に『名』は、えにしそのものです。縁を結ばれてしまえば……霊的な重力によって、湖に強く引かれることになります」


「目を合わせるな」

 チャオ最長老も、仙道の観点から厳しく忠告する。

「死者は、手ではなく、目で生者の魂を掴むのだ。見つめ合えば、己と死者の境界線が溶けて消えるぞ」


「科学的ではありませんが、すべて採用します」

 ケンドール博士が、プライドを捨てて素直に同意する。


「科学的かどうかより、生還率を最優先します」

 アルファが冷徹に総括する。

「Cicadaに再び配信されるリスクは常にあります。通信遮断と映像妨害の機材を持たせますが、彼らの技術レベルを考えれば過信しないでください」


「蝉が見ているなら、見せるものを選ぶしかありませんね」

 導師マルセルが、静かに言う。


「蝉など、夏が終われば黙って地に落ちるものよ」

 チャオ最長老が、鼻で嗤った。


 ***


 EU某所。

 ヘルメス協会の修道施設で、導師マルセル・ヴァイスは、静かに荷造りを進めていた。


 アサルトライフルや防弾チョッキは持たない。

 彼がカバンに入れるのは、古い銀の護符、精神の揺らぎを感知する銀のペンデュラム、邪視を逸らすための小さな鏡、目を覆うための黒い目隠し布、そして精神を安定させるための特殊な香と、数種類の秘儀的符号が記された羊皮紙だけだ。


「……導師。本当に行かれるのですか」

 傍らで手伝いをしていた若い弟子が、不安げな声で尋ねた。

「あそこは、軍隊ですら飲み込まれる地獄です。危険すぎます」


「誰かが、見に行かなければならないのです」

 マルセルは、鏡を布で包みながら、穏やかに答えた。

「……ただし、見すぎてはならないのが、今回の難しいところですがね」


「もし……もし、あの湖で、導師の『死者』が現れたら」


 弟子のその問いに。

 マルセルの手が、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まった。


「……その誘惑に打ち克つために。私は今日まで、厳しい修行をしてきたのです」

 マルセルは、静かに答えた。


 だが、カバンを閉める彼の手は、本当にわずかにだが……震えていた。

 どれほど修行を積もうと、彼にもまた、会いたい死者がいるのだ。


 ***


 中国、北京。

 中南海の静かな一室で、チャオ最長老は、座禅を組んで深く気を練り上げていた。


 部屋の入り口に、李天明国家主席が立ち、重い表情で彼を見送りに来ていた。


「……最長老。本当に、大丈夫なのですか」

 李天明は、自国の最強のカードの一つを失うリスクに、懸念を隠しきれなかった。


「大丈夫かどうかは、自分の目で見てみねば分からぬな」

 チャオ最長老は、目を開き、ゆっくりと立ち上がった。


「もし、ネス湖が……あなたの『死者』を出してきたら」

 李天明が、最も恐ろしい可能性を口にする。


 チャオは、フッと短く笑った。

「……出すじゃろうな。間違いなく」


 李天明の背筋が凍る。


「長く生き、権力を握り、多くの人を動かし、そして切り捨ててきた者に……死者がいないわけがない」

 チャオ最長老の瞳に、中国という巨大な国家の歴史の闇を生き抜いてきた者の、深く冷たい色が宿る。

「……だが。それを見てなお、己の気を乱さず、座していられるかどうかが、仙人としての『修行』じゃ」


「どうか、ご無事で」

 李天明は、深く頭を下げた。


「心配するな」

 チャオ最長老は、道着の袖を翻し、皮肉っぽく笑って部屋を出ていった。

「……余は死者より、生者の愚かさの方に、よほど慣れておるからな」


 ***


 二人は、それぞれ別ルートの軍用機でイギリスへと入り、厳戒態勢の敷かれたスコットランド北部へと向かった。


 上空から見るネス湖周辺は、まさに異様な光景だった。

 湖の周囲数キロメートルにわたって、イギリス軍と警察による何重もの強固な物理的バリケードが構築されている。

 だが、その封鎖線の外側には……。


「夫に会わせてくれ!!」

「弟に、一言謝りたいだけなんだ!!」

「お願いです、通してください! お金ならいくらでも払います!」


 世界中から押し寄せた、泣き叫ぶ数千人の群衆が、バリケードにすがりつき、警備の兵士たちに必死に懇願していた。

 彼らの手には、亡くなった家族や恋人の写真が握りしめられている。


 導師とチャオ最長老は、防弾ガラス越しにその惨状を見つめていた。


「……これが、一番厄介じゃな」

 チャオ最長老が、目を閉じて嘆息する。

「湖の幻影などよりも。……生きた人間の『願い』の方が、よほど止めにくい」


「……同感です」

 導師マルセルも、胸の前で十字を切りながら、深く同意した。


 夕暮れ時。あるいは、夜の闇が迫る逢魔が時。


 二人は、ネス湖の外周、最終封鎖線のゲートを抜け、車を降りた。


 目の前には、深い霧に包まれた、黒く沈むネス湖が広がっている。

 そして、遠くの岸辺には……囚われた調査隊と軍人たちの影が、それぞれの『死者』たちと寄り添うように座り込んでいるのが、ぼんやりと見えた。


 風が、ピタリと止まった。


 完全な静寂の中。

 遠くの霧の奥から、ヒソヒソと、誰かの微かな『声』が聞こえてきたような気がした。


 導師マルセルの顔が、わずかに強張る。

 チャオ最長老の目が、鷹のように細く、鋭くなる。


「……もう、呼んでいますね」

 マルセルが、銀の護符を握りしめながら、静かに言った。


「うむ」

 チャオ最長老も、体内の気を極限まで高めながら、冷たく吐き捨てた。

「こちらの名を知らぬくせに。……魂の奥底の『名』を呼んでおるわ」


 二人は、互いに顔を見合わせ、頷いた。


「行きましょう」

「ああ。……ただし、戻る道だけは、決して忘れるなよ」


 欧州の秘儀を受け継ぐヘルメス協会の導師と。

 中国の権力と仙道の果てに立つ最長老。


 二人の精神的超人が、人類の誰もが逃れられない「過去の記憶と喪失」という最強の罠が待つ、ネス湖の冷たい霧の中へと、ゆっくりと、第一歩を踏み出した。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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