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第128話 Cicada 3301、存在しない存在

 世界は、ほんの少しだけ息をついていた。


 イギリスが《平和の檻》を破壊したことによる倫理的・政治的な重苦しい余韻は、未だに各国の首脳陣を締め付けていたが。

 その直後に日本のフクシマで芽吹いた巨大な水晶の神樹――《ソーマの樹》のニュースが、人々のささくれ立った心を、確かに癒やし始めていた。


 それは、人類がアーティファクトの力に呑み込まれることなく、自らの意思で「正しく使用した」という、初めての明確な成功体験であった。

 テレビのワイドショーも、夜のニュース番組も、SNSのタイムラインも、連日のようにその淡く輝く翡翠の樹の映像を流し続けている。


 日本のネットでは「久々に明るいニュースだ」「海の匂いが戻ったってコメントで泣けた」と希望を分かち合い。

 インドでは「我々の誇るソーマが、世界を癒やしている」と国威発揚と連帯のシンボルとして讃え。

 アメリカでは「日印米の完璧な連携による、平和的なアーティファクト運用のモデルケースだ」と政権がアピールする。

 欧州や中東、アフリカでも「死の土地が再生するのなら、人類にはまだ希望がある」と、好意的なムードが広がっていた。


 狂気と破滅に彩られていた「アーティファクト時代」において、人類は初めて、温かな光のような『和み』の空気を共有していたのだ。


 だが。

 冷酷な歴史の法則は、人類が油断し、気を緩めたその一瞬の隙を、決して見逃してはくれなかった。


 日本時間、午後8時ジャスト。

 人々が夕食を囲みながら、リビングでテレビを見たり、スマートフォンで動画を眺めたりしている、最もアクセス数の多いプライムタイム。


 何の前触れもなく。

 世界中のあらゆる電子デバイスの画面が、一斉に乱れた。


 ザザザザッ……という、砂嵐のような映像ノイズ。

 スピーカーから流れ出す、一瞬のブラックアウトと、それに続く『ジリリリリ……』という蝉の鳴き声に似た、耳障りな高周波の電子音。


 日本の各家庭で、あるいは駅前の巨大な街頭ビジョンを見上げていた人々が、一斉に顔をしかめた。

「えっ、なに? 放送事故?」

「テレビ壊れた?」

「うわっ、スマホの動画もバグったんだけど。電波悪い?」


 だが、それが単なる一放送局の機材トラブルではないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。


 アメリカのニュース専門局CNNを見ていた者も。

 イギリスの国営放送BBCを視聴していた者も。

 日本のNHKでも、民放のバラエティ番組でも。

 ロシアの厳しく統制された国営放送でも、中国国内の巨大な動画配信プラットフォームでも。

 果ては、個人のスマートフォンのニュースアプリや、地下鉄のデジタルサイネージに至るまで。


 地球上の、ネットワークに接続されたほぼすべてのディスプレイが、全く同じ【一つの映像】に上書きされていたのだ。


 黒い背景の中央に、じわじわと不気味なシンボルが浮かび上がる。

 それは、幾何学的な線で構成された『蝉(Cicada)』のマークだった。


 この時点で、世界中のサイバーセキュリティ機関は完全にパニック状態に陥っていた。

「国家間サイバー攻撃か!?」「テロリストの声明か!?」と、各国情報機関がシステム復旧を試みるが、いかなるハッキング対策や物理的な回線切断すらも、この映像ジャックを止めることはできなかった。

 彼らは既存のネットワーク・プロトコルを無視し、大気中の電磁波そのものを直接書き換えているかのような、理解不能の技術を用いていたのだ。


 ノイズ混じりの画面が切り替わる。

 黒い背景の前に、数人の人影が立っていた。

 服装は統一感がなく、ラフなパーカー姿の者もいれば、黒いスーツ姿の者もいる。だが、全員の顔には強力なデジタルモザイク処理が施されており、表情を読み取ることはできない。


 その中から、リーダー格と思しき一人の人物が一歩前へ出た。


『……我々は、Cicada 3301だ』


 電子的に加工された、性別すら判然としない不気味な声が、全世界のスピーカーから響き渡った。

 ふざけている様子は一切ない。むしろ、圧倒的な力を持つ者特有の、冷たく落ち着いたトーンだった。


『……我々は、これまでに世界中に散らばった、多数の【アーティファクト】を所持している』


 その一言に、画面を見つめていた各国の首脳陣が、息を呑む。

 さらに、加工された声は、人類の常識を根底から破壊する爆弾を投下した。


『そして――我々は、【星間文明のテクノロジー】を手に入れた』


 世界中が、完全に凍りついた。


 魔女の魔法でも、仙人の法術でもない。

 宇宙の彼方からもたらされた、人類を遥かに凌駕する異星の超技術。それを、どこの国の政府でもない、正体不明の集団が握っているというのだ。


『こうして、地球上の全デバイスを同時掌握し、君たちへ声明を出していることこそが、その最も分かりやすい証拠だ』

 モザイクの人物は、軽く両手を広げてみせた。

『……我々は、いかなる場所にも、誰にも気づかれずに入ることができる。

 そして……【存在しない存在】になったのだ』


 ここから、映像は彼らの言葉を証明するための『証拠映像』へと切り替わった。


 画面に映し出されたのは、世界で最も厳重に警備されているはずの空間。

 アメリカ合衆国大統領の執務室、オーバルオフィスであった。


 画面の中央には、キャサリン・ヘイズ大統領の後ろ姿があった。彼女は執務机に向かい、分厚い書類にサインをしている。周囲にシークレットサービスの姿はない、ほんの一瞬の隙を切り取った隠し撮り映像だ。


 だが、恐怖はそこからだった。

 ヘイズ大統領のすぐ背後、わずか一メートルと離れていない場所に。……突如として、音もなく、Cicada 3301のメンバーの一人が『出現』したのだ。


 顔には先ほどと同じモザイク処理。

 その人物は、手にしたスマートデバイスを掲げ、何も気づかずに仕事をしている大統領の背後で、まるで観光地で記念撮影をするように、ピースサインを作って『自撮り』をしてみせた。


 世界中の視聴者が、悲鳴を上げることもできず、画面に釘付けになった。


 その後、その人物はカメラに向かって軽く手を振り。

 ……直後、空間がぐにゃりと歪むようなノイズと共に、その場から完全に『消失テレポート』した。


 大統領は、背後の気配に一切気づくことなく、そのまま書類にサインを続けている。映像はそこで終わった。


 重要なのは、彼らが大統領を『殺傷しなかった』ことである。

 だからこそ、この映像は究極のホラーであり、完璧な脅迫だった。


(我々は、いつでも彼女の首を掻き切ることができた。……だが、今回は見逃してやったのだ)という、無言のメッセージ。

 アメリカの国家安全保障の根幹が、たった数秒の自撮り動画によって、完全に木端微塵に粉砕された瞬間であった。


 映像は、休む間もなく次のターゲットへと切り替わる。


 今度は、豪華絢爛なシャンデリアが下がる、ロシア大統領の私室と思われる空間。

 ウラジーミル・ボグダノフ大統領が、側近の一人とテーブルを挟んでチェス盤に向かっている。


 そのボグダノフ大統領のすぐ真後ろに。

 またしても、モザイク顔の別のCicadaメンバーが、音もなく立っていた。


 メンバーは、盤面を睨みつける大統領の後頭部と、チェス盤を一緒に画面に収めるように自撮りを行う。

 そして、メンバーはカメラに向かって指を一本立て、チェス盤のキングを指差し、声を出さずに口の動きだけで『チェック(王手)』と呟くような仕草を見せた。


 次の瞬間、やはり空間の歪みと共に、その人物は跡形もなく消え去る。


 この映像が流れた瞬間、ロシア国内外の政府関係者や軍のトップたちは、血の気を引かせて総毛立った。

 絶対的な権力者である自国の大統領が、完全に無防備な状態で、背後から見知らぬハッカー集団に嘲笑われていたのだ。


 そこから先は、悪夢のような隠し撮り映像の短いモンタージュ(連続再生)だった。


 中国の国家主席が歩く厳重警備の回廊。

 イギリス首相の官邸の私室。

 フランス大統領の会議室。

 中東の王族の執務空間。


 そのすべての映像の背後に、Cicada 3301のメンバーが幽霊のように出現し、自撮りを行い、そして消えていく。


 どの映像も、明らかにフェイクや合成ではない。

 各施設の非公開の内装と完全に一致し、監視カメラのタイムスタンプが証拠として表示され、さらには別アングルからの映像までご丁寧に添えられていた。


 世界中の一般市民でさえ、この映像が意味する圧倒的な恐怖を理解していた。


「……これ、ただのハッカー集団じゃないぞ……」

「国家の物理的な警護網を、完全に無意味にしてる……」

「密室だろうが、地下シェルターだろうが、こいつらは誰の背後にでも立てるんだ……!」


 彼らの脅威の誇示は、暗殺の示唆だけでは終わらなかった。


 映像が切り替わり、カメラを固定した状態で、Cicadaのメンバーがどこか広大な砂漠の真ん中に立っている様子が映し出された。

 画面の隅には、現在地を示すGPSの座標がリアルタイムで表示されている。


『我々の力を、少しだけ見せておこう』


 モザイクの人物がそう言った直後。

 ノイズと空間の歪みが発生し。……彼らの背景が、一瞬にして『東京・渋谷のスクランブル交差点』へと切り替わった。


 さらに数秒後、再び空間が歪み、今度は『ニューヨーク・タイムズスクエア』のネオンサインの前へ。


 そこから先は、瞬きをする暇もないほどの連続ジャンプだった。


 極寒の雪原。

 高層ビルの屋上。

 無人の地下鉄ホーム。

 厳重な国境の検問所地帯。

 高級ホテルの静かな廊下。


 距離の概念、物理的な壁、出入国管理。

 そのすべてを無視して、彼らは世界中のあらゆる場所へと、瞬時に【空間跳躍テレポート】を繰り返してみせた。


 最後に、再び黒い背景に戻り、リーダー格の人物がカメラの前に立った。


『……分かったかい?』

 加工された声が、世界中の人々の鼓膜を直接揺さぶる。

『我々は、あらゆる場所にいて。

 ……同時に、どこにも【存在しない存在】になったのだ』


 だが、Cicada 3301の本当に恐ろしいところは、この絶望的な技術格差を見せつけた上で、彼らが『国家の支配』や『大量虐殺』といった、分かりやすいテロリストとしての要求を、一切口にしなかったことである。


 彼らは、まるでこれから始まる新番組の予告編を語るエンターテイナーのように、極めて軽いトーンで話し始めた。


『我々は、この退屈な世界に、少しばかりのスパイスを与えたいと思っている』

 リーダーの言葉は、愉悦に満ちていた。

『世界中で面白い事件や、隠された秘密があれば、我々はそれを直接レポートして、君たちに配信するつもりだ。

 ……例えば、そうだな。……中国の中南海にいるという、あの尊大な【仙人様】のところに、挨拶に行ってみるかもしれないし。

 ……あるいは、イギリスの森の奥深くに引きこもっている、【魔女様】のお茶会に、勝手に混ぜてもらうかもしれないね』


 その予告は、各国のインテリジェンス機関にとって、最悪の爆弾宣言だった。

 彼らは自分たちを、革命家でも、テロリストでもなく。ただ技術力とアーティファクトを振り回す、神出鬼没の【遊撃記者(あるいは超常の愉快犯)】として、世界にポジショニングしようとしているのだ。


 最後に、画面の中の人物が、カメラ(視聴者)に向かって指を差し、こう締めくくった。


『もしかすると……次に我々が自撮りをするのは。

 今、この画面を見ている【君の後ろ】かもしれないよ』


 プツン、と。

 映像が切れ、全世界のデバイスが、何事もなかったかのように元のテレビ番組やニュース映像へと戻った。


 嵐のような五分間が終わった。

 そして、世界の本当のパニックは、ここから始まった。




 世界中のテレビやスマートフォンが、普段のバラエティ番組やニュースキャスターの顔へと切り替わった直後。

 数秒前まで画面に映し出されていた悪夢のような光景を処理しきれず、地球上のあらゆる場所で、人々は完全に言葉を失い、石のように固まっていた。


 そして、その沈黙は長くは続かなかった。


 日本のネット空間は、ソーマの樹がもたらした希望と安らぎのムードから一転し、得体の知れない恐怖と阿鼻叫喚の渦へと叩き落とされた。


 [X(旧Twitter) / タイムライン]


「は????? なに今の」

「乗っ取り怖すぎるんだけど……! いきなり画面真っ暗になって変な声聞こえてマジで心臓止まるかと思った」

「ちょっと待って、フクシマのソーマの樹で人類にも希望があるねって和んでたのに、なにこの最悪のタイミングでの水差し……」

「大統領の背後で自撮りってなんだよ!! CGだろ!? CGって言ってくれ!」

「『我々は存在しない存在になった』って、言葉だけ聞けば中二病の極みみたいなセリフだけど……やってることが規格外すぎて全然笑えない」

「仙人様とか魔女様にも凸る(突撃する)とか予告してたぞ。あいつら命知らずすぎるだろ」


 海外のネットフォーラムも、瞬く間にこの話題で埋め尽くされた。


「どうせAIで作ったフェイク(合成)映像だろ? 空間跳躍なんてありえない」

「フェイクじゃない。俺はCBSを見てたが、ヨーロッパにいる友人はBBCで全く同じ映像を見たって言ってる。地球上の全デバイスを『同時かつ完全に』乗っ取る技術なんて、アメリカ国家安全保障局(NSA)にだって不可能だぞ」

「国家元首の警護、完全に終了のお知らせじゃん。密室に一瞬でワープしてこれるなら、どんな要塞も意味がない」

「テロリストよりタチが悪い。彼らがもし『暗殺』をビジネスにし始めたら、世界中のどの国の政府も防げないぞ」


 だが、大衆の反応は純粋な恐怖だけではなかった。

 圧倒的な力を持つ者が、あえて殺さずに「自撮り」という滑稽な手段で権力者を嘲笑ってみせたその姿は、ある種のアンダーグラウンドな熱狂を呼び起こしていた。


『チェックメイト大統領』というハッシュタグと共に、ロシア大統領の背後でピースサインをするモザイク男の画像が大量に拡散される。

『君の後ろにいるかも』という不気味なキャッチフレーズが、若者たちの間で瞬く間にミーム(流行)と化し、ショート動画サイトには「Cicadaの真似をして友達の背後に現れる」という悪ふざけの動画が溢れ始めた。


 恐怖と、それに相反する無責任な熱狂。

 得体の知れない非国家主体が、世界中を『観客』として巻き込んだ瞬間だった。


 ***


 ワシントンD.C.、ホワイトハウス。

 大統領執務室オーバルオフィスの空気は、これまで経験したことのない異常なほどの緊迫感と、氷のような恐怖に支配されていた。


 キャサリン・ヘイズ大統領は、先ほどまで自分が座っていたまさにそのデスクを、信じられないものを見るような目で見つめていた。


「……私の後ろに。……本当に、立っていたというのね」


 ヘイズの声は低く、怒りに震えていたが、それ以上に、自らが全く気づかぬ間に『死の淵』に立たされていたという圧倒的な恐怖が滲み出ていた。

 執務室には、シークレットサービスの長官をはじめとする警護チームが青ざめた顔で立ち尽くし、誰一人として軽口を叩ける者はいなかった。


 モニター越しに緊急会議に参加しているセレスティアル・ウォッチのオブザーバー・アルファが、冷徹な分析結果を告げる。


『……映像の解析結果が出ました。フレーム単位での検証を行いましたが、デジタル合成やCGによる改竄の痕跡は一切見つかりません。……あの人物は、物理的に、大統領の背後に【存在】していました』


「馬鹿な」国防長官が呻く。「ホワイトハウスのセキュリティは世界最高峰だ。電磁波のシールドも、熱源センサーも、生体反応の監視も、すべてをすり抜けたというのか!」


『さらに』アルファは言葉を重ねる。『今回の世界的な通信インフラへの侵入規模は、我々が想定するいかなる国家級のサイバー部隊の能力をも完全に超越しています。既存のネットワークの概念を無視した、大気中の電磁波への直接的な物理干渉に近い』


 ケンドール博士が、暗鬱な声で引き取った。

『……彼らの声明通り、もし本当に【星間文明のテクノロジー(アーティファクト)】を手に入れているのだとすれば。……連中は、警護、国境、監視カメラ、物理的な隔離といった、地球人類のあらゆるセキュリティ概念を、完全に無意味にします。我々が城壁だと思っているものは、彼らにとってはただの紙切れです』


 ヘイズ大統領は、自身の首筋を無意識に撫でた。

「……つまり。連中が本気で私を殺そうと思えば、私は今日、間違いなく死んでいたということね」


『……その通りです』アルファは残酷な真理を肯定した。


 ヘイズは、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 アメリカ合衆国大統領としての絶対的な権力が、単なるハッカー集団の『気まぐれ』によって生殺与奪の権を握られている。これほどの屈辱と恐怖はなかった。


「……全米の通信インフラ、軍の指揮系統、そしてホワイトハウスの物理警護を、すべてゼロから見直しなさい」

 大統領の号令が飛ぶ。

「連中を、単なるテロリストと断定するのはまだ早い。彼らの目的が分からない以上、無闇に挑発することは避ける。

 ……だが。彼らを、アメリカ合衆国に対する【最悪の非国家主体】として、最高警戒レベルで監視リストのトップに置きなさい。

 ……二度目(私の背後に立つこと)は、絶対に許さないわよ」


 アメリカ合衆国は、建国以来最大の『見えない敵』に対して、サイバー、物理警護、超常技術のすべての面で、事実上の非常事態宣言下へと突入した。


 ***


 東京、首相官邸地下。

 既存技術外事象評価セルの会議室もまた、絶望的な重苦しさに沈んでいた。


 《ソーマの樹》の植樹が成功し、フクシマの地に希望の光が差したことで、世界は確かに和み、日本政府もようやく一息つくことができた、まさにその直後だったのだ。


「……世界がようやく安堵し、未来へ向かって少しだけ息をついたというのに。……本当に、最悪のタイミングで水を差してくれたわね」

 矢崎総理は、冷え切ったコーヒーを見つめながら、深い疲労を滲ませて呟いた。


「全世界のデバイスの同時乗っ取り。各国元首の完全なプライベート空間への接触。そして、空間跳躍テレポートの実演」

 沖田室長が、手元のタブレットで情報を整理しながら、血の気を引かせた顔で言う。

「総理。……もし、彼らの主張する『星間テクノロジーの保有』がすべて本物であるならば。これは、国家の安全保障上の意味合いが、文字通り計り知れません。核の傘も、軍事力の均衡も、すべてが無に帰します」


 三神編集長は、いつものようにパイプ椅子に深く腰掛け、天井を仰ぎ見ていた。

「……ええ。中国の仙人やイギリスの魔女と違って、彼らは『国家(領土)』や『特定のコミュニティ』に縛られていない。守るべき国を持たない、完全に自由な【動く異常】です。

 ……しかも、連中、かなり性格が悪いですね」


「三神さん、笑い事じゃないのよ」

 総理が、厳しい視線を向ける。


「笑ってませんよ」三神は、真顔で答えた。

「心の底から、一番相手にしたくない、嫌なタイプの新勢力が現れたなと、心底ウンザリしているだけです」


 三神は、立ち上がり、ホワイトボードに乱暴に文字を書き殴った。

「Cicada 3301の、何が最も厄介か。

 それは、彼らの【目的が全く不透明】であることです」


 三神は、マーカーでボードをトントンと叩く。

「彼らの行動には、明確な政治的主張も、殺意も、金銭の要求もありません。ただ純粋に、圧倒的な技術を誇示して世界を混乱させる『面白さ』が先にあるように見えます。

 ……そして、一番恐ろしいのは。彼らが『まだ一人も殺していない』ということです」


 沖田が、ハッと気づいたように顔を上げる。


「人を殺せば、彼らはただのテロリストとして、世界中が容赦なく敵対し、排除に動けます。……しかし、彼らは誰も傷つけず、ただ背後に立って笑っただけ。

 だからこそ、我々国家側は、彼らに対する『武力攻撃の正当性』を確保しづらいのです。

 おまけに、彼らは『次は仙人様や魔女様に会いに行く』と予告までした。もし本当にそんなことをすれば、世界中のアーティファクト勢力を巻き込んだ大混乱になります」


 三神は、ボードに大きくバツ印を書いた。

「そして、大衆は愚かです。誰も殺されないスリリングなショーを、彼らは『エンタメ』として消費し始める。『次も見たい』『もっと権力者をコケにしてくれ』と、世論が彼らを支持する危険性すらある」


 矢崎総理は、頭を抱えて呻いた。

「……つまり。星間文明のオーバーテクノロジーを手に入れた、タチの悪い『世界規模の愉快犯』だと?」


「ええ。控えめに言って、最悪ですね」

 三神は、忌々しげに缶コーヒーをゴミ箱へ放り投げた。


 ***


 ロシア、モスクワ。

 クレムリンの奥深く、あるいは大統領専用の秘密の離宮。


 ウラジーミル・ボグダノフ大統領は、執務室の巨大なマホガニーのデスクを、自身の拳で粉砕せんばかりの勢いで叩きつけた。


「……私の後ろで。……自撮りをした、だと……!?」


 ボグダノフの怒号は、室内の空気を物理的に凍らせるほどの凄まじい覇気を放っていた。

 彼の周囲に控える軍の将官や情報機関(SVR)のトップたちは、顔面を真っ青にし、ただ震えることしかできない。


 ロシアという国家は、絶対的な権力者の「強さ」と「不可侵性」によって成り立っている。

 その大統領が、完全に無防備な状態で、チェスを打っている背後を取られ、あまつさえ「チェック」などと侮辱されたのだ。これは、単なる暗殺未遂以上に、国家の威信を根底から破壊する行為であった。


「直ちに、この執務室を含むすべての重要施設を物理的・電子的に完全封鎖しろ!」

 ボグダノフは、怒りの中にも極めて冷徹な判断力を失わず、矢継ぎ早に命令を下す。

「警護体制をゼロから総点検だ! 空間の歪みや電磁波の異常を感知する電子戦部隊を総動員しろ! そして、サイボーグ兵部隊を中心とした『対異常戦術班』を緊急招集せよ!」


 将官たちが一斉に敬礼し、部屋から飛び出していく。


 ボグダノフは、一人残された部屋で、ギリッと奥歯を鳴らした。

(……もし、あれがただの『人間』のハッカー集団であるならば、最悪だ。世界中のテロリストが我々を舐める)

 彼は、冷たい窓ガラスに映る自身の顔を見つめる。

(だが……もしあれが、本当に異星文明に由来する『未知のオーバーテクノロジー』であるならば。……なおさら、状況は悪い。我が国の強大な核戦力も、機甲師団も、彼らの前ではただのブリキの玩具に過ぎないということだ)


 ***


 一方、中国・中南海。

 中国指導部の混乱と恐怖は、アメリカやロシアのそれをも遥かに上回っていた。


 李天明国家主席は、報告書を握りしめ、ワナワナと震える唇を噛み締めていた。


「……『仙人様に会いに行く』……だと……?」


 中国にとって、彼らが手に入れた仙人と宝貝アーティファクトの力は、現在の国際社会における唯一絶対のアドバンテージであり、国家の生命線である。

 《平和の檻》の破壊によって世界が再び暴力を手にした今、仙人の武力と治癒力は、何があっても守り抜かねばならない至宝だった。


 その仙人の懐に、正体不明の集団が「遊びに行く」と公言したのだ。

 それは、中国指導部にとって、最悪の悪夢であった。


「警備網はどうなっている! もし彼らが空間跳躍で中南海の奥深くに侵入し、仙人様から宝貝を強奪したらどうするつもりだ!」

 李天明は、公安と軍のトップに向かって怒鳴り散らした。

「そればかりではない! 監視カメラの映像すら自由に改竄・乗っ取れる連中だ。我が国が誇る『天網(国内監視システム)』の面子は完全に丸潰れだぞ!」


 国内のあらゆる情報を統制し、監視するシステムが、Cicada 3301の前では完全に無力化されてしまう。それは、中国共産党の統治システムそのものへの重大な脅威であった。


 そんなパニックに陥る政府首脳陣をよそに。

 中南海の最深部、結界に守られた絢爛な庭園で、太乙真人は一人、空に浮かぶ月の光を浴びながら、静かに杯を傾けていた。


「……ふん。空間のことわりを少しばかり弄る程度の技で、ずいぶんと調子に乗ったものよ」

 太乙真人は、報告を持ってきた政府高官の怯えた顔を見て、鼻で笑った。

「面白い猿どもだな。……だが、この余の御前で、そのような浅薄な手品(芸)を披露しようとするには、少々修行が足りぬぞ」


 仙人は、あくまで余裕を崩さない。

 しかし、その余裕すらも、Cicada 3301が本気で牙を剥いた時、果たして通用するのかどうかは、誰にも分からなかった。


 ***


 イギリス、ロンドン。

 ダウニング街の首相官邸もまた、対応に苦慮していた。


「……彼らの言う『魔女様に会いに行く』という予告。……無視するわけにはいかないだろう」

 イギリス首相は、頭を抱えながらサー・アリスターに相談した。

「国家元首の背後にすら音もなく立てる連中だ。もし彼らがスコットランドの森へ侵入し、魔女様を怒らせるような事態になれば……イギリス全土が灰にされかねない」


「ええ。早急に、魔女様に事態をご報告し、ご意向を伺うべきでしょう」

 アリスターも、かつてないほどの危機感を露わにしていた。


 彼らは即座に特別な通信手順(あるいは魔法的な回路)を用いて、スコットランドの魔女の屋敷へとコンタクトを試みた。


 数分後、微かなノイズと共に、魔女の優雅で、どこか楽しげな声が返ってきた。


『――ええ、見ましたよ。全世界のデバイスを一斉に乗っ取るなんて、なかなか派手な挨拶ですね。面白い子たちです』


 魔女の声には、恐怖も焦りも一切なかった。

 むしろ、長すぎる退屈な日々に、新たな玩具が放り込まれたことを喜んでいるかのようだった。


「魔女様、彼らは空間跳躍の技術を持っています。もし、あなたの御屋敷へ無断で侵入するようなことがあれば……」

 首相が必死に警告する。


『心配には及びませんよ、首相』

 魔女は、コロコロと鈴が鳴るように笑った。

『私の森のルールは、星間文明のガラクタ程度で簡単に書き換えられるほど、安くはありませんから。

 ……まあ、彼らが本当に私のお茶会へアポ無しで乗り込んでくるほど、命知らずで無作法な子たちなのだとしたら。

 ……少しばかり、可愛らしい『石の彫像』にして、庭に飾ってあげましょうかね』


 その軽やかで恐ろしい返答に、首相とアリスターは、何も言えずに通信を切った。

 仙人も魔女も、相手の底知れぬ技術に対して、引く気は全くないようだ。


 世界は、アーティファクトの所有を巡る『国家間の冷戦』から。

 予測不能の非国家主体がトリックスターとして暴れ回る、『混沌のゲーム』へと、完全にフェーズを移行してしまったのだ。


 ***


 世界中の政府が緊急会議を招集し、各国のインテリジェンス機関が血眼になって彼らの痕跡を探し求めている、その裏側で。


 地球上のいかなる人工衛星の監視網も、監視カメラのネットワークも届かない場所。

 それが打ち捨てられた廃ビルの中なのか、地下深くの秘密基地なのか、あるいは雲の上の成層圏に浮かぶ見えない空間なのか。


 薄暗い無人の空間に、無数のホログラムモニターが展開されていた。

 そこには、世界中のニュース番組の阿鼻叫喚、SNSで拡散されるミーム、そして各国の軍隊が右往左往する映像が、リアルタイムで並べられている。


 そのモニターの明かりに照らされるように、数人の人影が立っていた。

 彼らは顔を隠し、リラックスした様子で、世界中がパニックに陥る様を眺めている。


「……ふふっ。いい反応だ」

 リーダー格の男が、満足そうに笑い声を漏らした。


「最初の挨拶としては、完璧だったね」

 傍らに立つ別のメンバーが、手元のスマートデバイスを弄りながら言う。

「で? 次はどうするんだい?」


 リーダー格の男は、ホログラムの映像を指先で弾き、いくつかのターゲットの情報を空中に浮かび上がらせた。


「そうだな……」

 彼は、少し考え込むような仕草を見せ、そして愉悦に満ちた声を上げた。


「有言実行といくか。……中国の奥深くにふんぞり返っている『仙人様』に、ちょっと挨拶でもしてみるか。

 それとも、イギリスの霧の森に住む『魔女様』のお茶会に、とびきりの手土産を持って混ぜてもらうか」


 別のメンバーが、楽しげに笑う。

「どちらにしても、最高にスリリングな配信になりそうだね」

「世界は、ようやく面白くなってきたよ」


 彼らが囲む机の上には、地球上のどの国家もまだ手にしたことのない、未知のアーティファクトと思しき奇妙な物体がいくつも転がっていた。

 そして、その中央には、彼らに空間跳躍と絶対的な秘匿性をもたらす、星間文明由来と思しき発光装置が、静かに、青白い光を放って脈打っている。


 福島に芽吹いた『再生の樹』を見上げ、人類が少しだけ希望と安らぎを取り戻そうとしていた、その数日後。


 今度は、世界そのものが、恐怖と共に『自分の背後』を振り返ることになった。


 国家でもなく、神でもなく、仙人でも魔女でもない。

 ただ、どこにでも現れ、どこにも存在しない者たち。


【Cicada 3301】。


 彼らの電撃的な出現は、このアーティファクトの時代が、もはや強大な国家や伝説の英雄たちだけが主役の舞台ではなくなったことを、世界中のすべての人間に、強制的に理解させる最初の『放送』であった。


 ゲームの盤面は、完全にひっくり返されたのだ。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
迷惑系インフルエンサー
また厄介そうな連中が出て来た・・・。EUいい加減会議じゃなく仕事して。
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