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第121話 魔女のお茶会と、アシュワース卿の第二問

 深い霧に閉ざされたスコットランドの森の奥深く。

 近代的な衛星測位システムも、高度なドローンによる航空偵察も、その空間の座標を捉えることは決してできない。そこは、招かれた者だけが足を踏み入れることを許される、物理法則の完全に書き換えられた特異点――『魔女の領分』であった。


 鬱蒼とした古木とぬかるむ腐葉土の道を抜けた先に、突如として幻のように現れる古い英国貴族の邸宅。

 その豪奢な応接室の暖炉では、パチパチと心地よい音を立てて炎が燃えている。分厚い絨毯、見事な彫刻が施されたアンティークの家具。だが、磨き上げられた窓の外の景色は、秋の霧の森であるはずなのに、時折、春の暖かな陽光が差し込んだり、身を切るような真冬の吹雪が吹き荒れたりと、季節と時間が完全に狂ったように明滅を繰り返していた。


 そんな幻想的で恐ろしい空間の特等席で、この領域の主である『公認魔女』は、いつものように優雅な所作でティーカップを傾けていた。


「……本日も我々をお招きいただき、誠に光栄に存じます、魔女様」


 イギリス政府を代表して、サー・アリスター・ペンブルックが、非の打ち所のない完璧な礼法で深々と頭を下げた。

 かつて命懸けでこの魔女との『紅茶外交』を成立させた凄腕の外交官である彼は、今日も最高級の茶葉と、ロンドンの一流パティシエが寝る間を惜しんで腕によりをかけた特製の焼き菓子を持参していた。


「招いたというより、あなたたちが外から必死に扉を叩いて(呼んで)いたのでしょう?」

 魔女は、カップをソーサーに置き、くすりと笑った。「まあ……お菓子の質は、以前よりも少し良くなりましたね。あなたたちの努力は認めますよ」


 その一言に、アリスターの背後に控えていたイギリス首相が、張り詰めていた肩の力を抜き、小さく安堵の息を吐き出した。

 外務高官、国防関係者、情報機関のトップ、そして科学顧問。同席しているイギリス政府の最高首脳陣たちは皆、極度の緊張で額に冷や汗を滲ませていたのだ。


 アリスターは、表情を一切変えずに内心で深くため息をついた。

(……今や、持参する紅茶と焼き菓子の品質が、文字通り大英帝国の『国家安全保障』に直結する時代になってしまったな)

 もし菓子が魔女の口に合わず、ほんの少しでも機嫌を損ねれば、この予測不能の超存在は、スコットランドの森ごと何をしでかすか分からないのである。


「それで?」

 魔女は、銀のフォークで菓子を小さく切り分けながら、退屈そうに長いまつ毛を伏せた。

「今日は、また何を恐れて、私の元へ駆け込んできたのですか?」


 イギリス首相が、居住まいを正して本題へと切り込んだ。


「……極東の同盟国、日本の件でございます」

 首相の声には、大国の指導者としての威厳と、隠しきれない畏怖が混じっていた。

「彼らは五日間の国民投票を経て、あの『不老無病』の申し出を正式に拒否しました。……これで、事態はすべて丸く収まったと見てよろしいのでしょうか」


 魔女は、ふふっ、と短く笑った。


 アリスターが、首相の言葉を冷静に補足する。

「日本政府は、与那国島のAIからの提案を密室で隠蔽せず、国民へ問いかけました。そして国民は、圧倒的多数で『即時受け入れの拒否(選択肢C)』を選択しました。

 ……世界的な混乱と、救われなかった患者家族の怒りは火種として残っていますが。少なくとも、人類社会が決定的に分断される最悪の事態(ディストピア化)だけは避けられたと、我が国の情報部は分析しています」


 魔女は、静かに頷いた。

「日本は、正しい判断をしました。……少なくとも、今の『この段階の』人類には、あの果実は早すぎました」


 魔女の肯定的な言葉に、イギリス政府の面々は少しだけ胸をなでおろした。

 だが、イギリス首相は、そこで為政者としての、そして一人の老いを迎えた人間としての偽らざる『本音』を口にしてしまった。


「……正直に申し上げれば。……惜しい、という気持ちはあります」


 首相のその言葉に、同席していた官僚たちがハッとして彼を見た。

 だが、首相は言葉を止めなかった。


「不老無病、です。

 ……中国の仙人たちが、一日にほんの数十人の富裕層や特権階級にしか与えていないあの奇跡を。……日本国民全員に、無条件で配るという機会だったのです。それを、彼らは見送った。

 ……もし、同じ提案が我がイギリスに来ていたならば。果たして我々は、彼らのようにあの誘惑を『拒めた』でしょうか」


 会議室の空気が、重く、粘り気のあるものに変わった。

 情報機関のトップも、国防関係者も、外務高官も、誰も即答できなかった。


 もし、イギリス国民全員に不老無病のパッチが配られると言われたら。

 世界中の嫉妬を買い、社会制度が根底から崩壊すると分かっていても。目の前で病に倒れる愛する者を救いたいという根源的な欲望と、「我が大英帝国が、永遠の命を得て再び世界の頂点に立てる」という国家的な野心に、果たして打ち勝てただろうか。


 魔女は、そんな彼らの沈黙を咎めることなく、紅茶の芳醇な香りを静かに楽しんでから、言った。


「……人間なら、そう思うのは当然です。恥じることはありません」


 魔女は、窓の外の季節が春から冬へと移り変わるのをどこか遠い目で見つめながら、珍しく自分自身の『昔話』を少しだけ語り始めた。


「私のような、上位の理に触れた立場から見れば……不老無病など、そう珍しいものでも、絶対的な価値を持つものでもありません。

 ……けれど。私がまだ、あなたたちと同じただの『人間』として生きていた頃は。……老いも、病も、それは本当に恐ろしいものでした」


 イギリス政府の面々が、息を呑んで静まり返る。

 魔女が「元は人間であった」という事実は、彼らへの最大の牽制であり、同時に途方もない時間的スケールを実感させる告白であった。


「昔の人間は、五十年生きられれば、それだけで十分な『奇跡』でした」

 魔女の声は、何百年、あるいは何千年もの時の重みを纏っていた。

「乳児は名付けられる前に簡単に熱で死に、伝染病はひと夏で村を一つ地図から消し去り、出産は常に母親の命懸けの賭けでした。

 歯の痛み一つで大人が泣き叫び、小さな傷口から死が入り込んで命を奪っていく。……ただ冬を越せるかどうかを、暖炉の前で震えながら神に祈ることしかできなかった」


 魔女は、カップを置き、彼らを見た。

「現代では、健康に気を使えば、百歳まで生きる者も珍しくありません。

 ……昔の私から見れば、あなたたちが今生きているその寿命の長さと医療の力だけでも、十分に『魔法』のようなものなのです」


 首相は、その途方もないスケールの時間軸の言葉に圧倒され、場の空気に呑まれるまま、思わず口を滑らせた。


「魔女様は……失礼ながら、おいくつでいらっしゃるのですか?」


 その瞬間。

 サー・アリスターの顔から、サーッと血の気が引いた。


 魔女は、にこりと、極めて美しく、そして絶対零度の冷たさを持つ笑みを浮かべた。


「……女性に向かって、年齢を聞くものではありませんよ?」

 魔女の周囲の空間が、ピキッと凍りつくような音を立てる。紅茶の湯気が、空中で氷の結晶へと変わった。

「……石にしますよ?」


「ひっ……!」

 首相は、自分の失言の恐ろしさに気づき、顔面を蒼白にして口を覆った。

「し、失礼いたしました……! どうか、お許しを……!」


「首相」

 アリスターが、額から冷や汗を流しながら、しかし外交官としての冷静さを必死に保って割り込んだ。

「……今の質問は、外交儀礼上、そして人類の存亡において、極めて危険な暴言でございました。二度となさらないようにお願いいたします」


 魔女は、ふふっ、と楽しそうに笑い、空間の凍結を解いた。

「アリスター。あなたは、本当に自分の立場をよく分かっていてよろしい」


 少しの冷ややかな笑いが起きたが、空気はすぐに元の重さへと戻った。


「私が言いたいのは」

 魔女は、再び真剣な声で語り継ぐ。

「それほどまでに、人間にとって『死の恐怖』と『生への渇望』は、根源的で抗いがたいものだということです。

 ……だからこそ。日本の国民が下した『拒否』という判断は、決して軽いものではありません。

 ただ社会制度を守るための、綺麗な理性だけでは、あの救いの手は払いのけられない。……途方もない痛みを伴う、血を流すような決断だったはずです」


「……おっしゃる通りです」

 アリスターが、深く頷いて問うた。

「魔女様。日本は、正しく、そして重い判断をした。……では、我々イギリスはどうあるべきでしょうか。今後、同様の超常の存在が我々に接触してきた時、我々はどう対処すべきでしょうか」


 魔女は、ティーカップの縁を指でなぞりながら、ふと、視線を遠くへ向けた。


「日本は、日本として答えました。

 ……同じ問いがイギリスに来た時、同じ答えを出せるとは限りません」


「やはり、我々もいつか問われると?」

 首相が、身を乗り出して問う。


 魔女は、冷酷な真理を告げるように、薄く微笑んだ。

「……もう、問われていますよ」


 この一言で、場が完全に固まった。


「……どういう意味でしょうか」

 外務高官が、怪訝な顔で尋ねる。


 魔女は紅茶を一口飲み、彼ら一人一人を見据えた。

「あなたたちは、既に『第一問』を経験しています」


 アリスターの頭脳が、猛烈な速度で過去の情報をフラッシュバックさせる。

「第一問……。……まさか」


「ええ」

 魔女は、かつてロンドンを狂乱の渦に叩き込んだ、あのアーティファクトの名を口にした。


「『ロンドン万象器』」


 全員が、息を呑んで黙り込んだ。


 ロンドンで発覚した、金属、宝石、希少資源を無尽蔵に生み出す『万象器』の騒動。

 それは、人類の「資産価値」と「希少性」という概念を根底から破壊しかけた事件だった。

 サザビーズのオークションにかけられ、世界中の大富豪、国家、スパイ、投資家が血眼になって群がり、最終的には各国の協調により、半ば封印に近い形で事態は収束した。あれは、単なる未知の遺産を巡るパニックだと思われていた。


「万象器は、富と希少性を問うものでした」

 魔女は、当時の狂乱を思い出すように目を細める。

「人間は、無限に価値を生む箱を前にして、どこまで自制できるか。……果てしない欲望を、国家は、富豪は、市場は、どこまで抑え込むことができるか。

 ……それが、彼から人類へ突きつけられた『第一問』でした」


「第一問……」

 首相が、呆然と呟く。


 情報機関のトップが、信じられないというように身を乗り出した。

「つまり……あの事件そのものが、『アシュワース卿』による『試験』だったと仰るのですか?」


「そう見てもよいでしょう」


 アリスターが、極めて慎重に、言葉を選びながら問うた。

「魔女様は……あの遺産の元の持ち主であった、『アシュワース卿』をご存じだったのですか」


 魔女は、少しだけ懐かしそうに、しかしどこか呆れたような笑みを浮かべた。

「ええ。少しだけね。

 ……あの人は、意地悪でした」


 この一言で、会議室の温度が数度下がったような錯覚に陥った。

 アシュワース卿。ただの奇人コレクターだと思われていた男が、この魔女と面識があり、しかも彼女に「意地悪だった」と言わしめるほどの存在だったという事実。


「彼は、ただの収集家ではありませんでした」

 魔女の言葉の端々に、底知れぬ敬意と警戒が入り混じっている。

「ただの貴族でも、ただの狂人でもありません。

 ……人間という種族が、超常の力を前にして、どこまで自分自身を律することができるのか。どこまで理性を保てるのか。

 ……それを『見る』のが好きな人でした」


「それは……」

 首相が、不快感を隠せずに言った。「ひどく悪趣味な人物だったということですか」


「悪趣味でしたね。否定はしません」

 魔女は、クスクスと笑った。「ですが、彼を悪人と呼ぶには、少し違います。

 彼は、人類を憎んでいたわけではありません。……むしろ、期待していたのでしょう」


「期待していたからこそ、あのような危険な問い(万象器)を残した、と?」

 アリスターの問いに、魔女は頷く。


「ええ。期待していなければ、問いなど残しません。ただ世界の片隅で、ひっそりと焼いて捨てればいいだけですから」


 国防関係者が、背筋に冷たいものを感じて小さく息を呑んだ。

 つまり、アシュワース卿は意図的に人類を試し、万象器という時限爆弾をロンドンに配置したのだ。


「彼は人類を試しました」

 魔女は、ティーカップをソーサーに静かに置いた。

「そして……おそらく、今も試しています」


「……万象器は、第一問でした」

 魔女の瞳が、深く、静かに光る。

「……では。第二問は、何でしょうね?」


 場が完全に凍りついた。

 誰も言葉を発することができない。


 首相が、震える声で沈黙を破った。

「……第二問。……それは、既にこの世界のどこかに、存在しているのですか」


「ええ」

 魔女は、無慈悲に肯定した。


「どこに!?」

 情報機関トップが、職務上の焦りから思わず声を荒げた。


 魔女は、冷たく彼を見た。

「それを私が教えたら、問題にならないでしょう?」


「魔女様。どうか……」

 首相がすがるように言うが、魔女は首を横に振った。


「焦らないことです。

 ……問題文を読まずに回答欄へ飛びつく者は、たいてい落第しますよ」


 アリスターが、情報機関トップを手で制し、極めて冷静に交渉を試みた。

「では、魔女様。せめて……少なくとも、その第二問が『何を問うものか』の方向性だけでも、ご教示いただけませんか。我々も、無闇に探し回ってパニックを引き起こしたくはありません」


 魔女は、少し考える素振りを見せた。


「……第一問は、富と希少性でした。分かりやすい欲望ですね。

 第二問は……そうですね。

 人類が、『持つべきでないもの』を前にした時、どう振る舞うか。

 ……あるいは、『知ってしまった時』、どうするか」


 イギリス政府高官たちは、各自の専門領域で猛烈な速度で推測を巡らせ始めた。


(知ってしまった時……)

 情報機関トップは、冷や汗を拭う。(国家機密、諜報の根幹を揺るがす情報、あるいは世界の歴史の隠蔽に関わる何かか?)


(持つべきでないもの……)

 科学顧問が思案する。(技術か。物理法則を捻じ曲げる危険なアーティファクト、あるいは既存の科学を完全に否定する知識体系か)


(まさか……)

 国防関係者が口を開く。「……超常の『兵器』である可能性は?」


 魔女は、ふっと笑った。

「兵器であれば、殺し合うだけですから、むしろ分かりやすいですね」


 この一言で、第二問が「単純な兵器よりもさらに厄介な何か」であることが確定してしまった。

 外務高官が呟く。「国際秩序や、国家という枠組みそのものを破壊する情報、という可能性もあります」


 アリスターが、鋭い視線を魔女に向けた。

「あるいは……価値や力ではなく、『真実』を問うものかもしれませんね」


 魔女が、少しだけ口角を上げ、微笑んだ。

「アリスター。あなたは本当に、勘が良いですね」


 だが、魔女はそれ以上は決して語ろうとしなかった。


「第一問は、分かりやすい誘惑でした。富、資源、希少性、所有。……人間なら誰もが欲しがるものです。だからこそ、第一問としては『優しかった』」


 全員が「あれが優しかった?」という信じられない顔をした。万象器一つで、ロンドンの金融街は崩壊の危機に瀕したのだ。


「ええ、優しいですよ」

 魔女は事も無げに言う。「欲望が見えやすい問いは、対処もしやすいのです。人間は、自分が欲しがっていること(強欲であること)を自覚できますから。

 ……しかし、第二問は違います。もっと厄介です。

 人間は、自分が『正義』だと思っている時ほど、止まりません」


 ここで、魔女の言葉が、先ほどの日本のガイアズ事件と明確に繋がった。


「日本人は、不老無病という『救い』を前にして、止まりました。

 ……第二問で問われるのは、おそらく単純な欲望だけではありません。

 正義、義務、真実、記憶、救済、あるいは……復讐。

 そういう、美しい言葉や正しい大義名分をまとった何かでしょう」


 イギリス政府側は、もはや反論する気力すら失い、ただその絶望的な予言に打ちのめされていた。


 首相は、顔を上げ、実務のトップとして決断を下した。

「……アシュワース遺産財団に、まだ我々が把握していない未確認の資料が眠っている可能性は?」


 情報機関トップが即座に答える。

「万象器騒動時に、警察と我が情報部で押収、照会、調査した範囲では、危険なアーティファクトは確認されていません」


「『確認した範囲では』、ですね」

 アリスターが、鋭く釘を刺す。


 科学顧問が補足する。

「アシュワース卿の収集品は膨大です。財団の金庫だけでなく、個人保管の別荘、大学への寄贈品、博物館の収蔵品、さらには過去のオークションで海外のコレクターへ譲渡された品まで、世界中に分散しています」


 外務高官が絶望的な声を上げる。

「つまり、第二問がどこにあるか、全く見当もつかないということですか」


 魔女は、彼らの議論を面白そうに聞きながら、静かに助言した。

「探し物は、探し方を間違えると、永遠に見つかりませんよ。

 ……そして、見つけ方を間違えると、見つけた瞬間に『失敗(落第)』します」


「ならば、我々はどう探せばよいのでしょうか?」

 首相が、藁にもすがる思いで問う。


「『問い』として扱いなさい」

 魔女は、冷徹な目で首相を見据えた。

「軍事的な戦利品としてでも、国家を富ませる資産としてでもなく。……彼からの挑戦状として、誠実に向き合いなさい」


 魔女は、直接的な答えは出さないものの、いくつかのヒントをテーブルの上に置いた。

「アシュワース卿は、几帳面に記録を残す人でした。

 ……ただし、彼にとって本当に重要なことほど、表の目録には書きません。

 彼は、『所有物そのもの』よりも、それに対する『所有者の反応』を見ることを好んでいましたから」


 アリスターの外交官としての脳が、そのヒントを瞬時に解析する。

「……つまり、第二問の在り処は、物そのもののリストではなく、物に対する人々の『行動記録』や『異常な執着の痕跡』にある、ということですか?」


「さあ?」

 魔女は、わざとらしく首を傾げた。


「魔女様」

 首相が食い下がる。


「答えを言ってしまったら、あの意地悪な人に怒られますから」

 魔女は、またしてもアシュワース卿との関係を匂わせ、口を閉ざした。


 情報機関トップが、背筋に冷たいものを感じながら問う。

「アシュワース卿は……すでに亡くなっているはずですが。まだ何らかの形で、我々を……」


「そこは聞かない方がよろしい」

 魔女の瞳が、一瞬だけ、人間ではない底知れぬ深淵の色に変わった。

「死者が、本当に死んでいるかどうかは。……このアーティファクト時代において、あなたたちが考えるほど、単純なものではありませんからね」


 全員が、恐怖に言葉を失い、完全に黙り込んだ。


 首相は、この会談で得た情報を元に、その場でイギリス政府の調査方針を決定した。


「……アシュワース卿関連のすべての資料を、再調査する」

 首相の顔は険しかった。「ただし、今回は万象器騒動時のような、力任せの接収ではない。

 アシュワース遺産財団への再接触。押収資料、照会資料、財団文書の再確認。彼の私的書簡、日記、蔵書、寄贈記録をすべて洗い直す。

 軍や情報機関の局員だけでなく、歴史家、文献学者、美術史家、神話学者をチームに入れろ」


 アリスターが頷く。「承知いたしました。……公認魔女様への定期相談枠の確保も手配いたします。

 ただし、第二問の存在は『極秘』とします。アメリカへの情報共有は、具体的な手掛かりが出るまで保留。日本には、必要に応じて限定的な共有を検討します」


「首相。これは、死せるアシュワース卿との『第二のゲーム』です」

 アリスターが、静かに宣告する。


「ゲームでは済まないだろう」

 首相が苦渋の表情で返す。


「ええ。ですが、あの方はおそらく……ゲームとして、我々にこれを仕掛けています」


 帰り際。

 立ち上がったイギリス政府の一行に対し、魔女が最後に口を開いた。


「一つだけ、忠告しておきましょう」


 全員が、魔女の言葉を聞き逃すまいと立ち止まる。


「第一問で、人類は欲望に耐え、万象器による富を『封じる』ことを選びました」

 魔女は、彼らの目を見据えた。

「……第二問で。人類は、何を封じるのでしょうね」


「……『封じる』ことが、常に正解なのですか?」

 首相が、慎重に問う。


「それも、問いの一部です」

 魔女は微笑んだ。「使うべきものか、封じるべきものか。それを見極めるところから、すでに試験は始まっている」


 アリスターが、日本の決断を引き合いに出す。

「日本は、救いを拒む(封じる)ことで正解しました」


「ええ」

 魔女は頷く。

「しかし。……『次も拒めば正解』とは限りません。

 何でもかんでも、恐れて拒絶すればよいというほど、この世界は単純ではありませんよ」


 その忠告は、極めて重要だった。

 日本の『C(拒否)』を絶対的な正解だと思い込んでいれば、第二問では確実に対応を誤る。アシュワース卿の問いは、常に形を変え、人間の最も弱い部分を突いてくるのだ。


「魔女様」

 アリスターが、最後に一つだけ尋ねた。

「アシュワース卿は……なぜ、死してなお、このような悪辣な問いを残したのでしょう」


 魔女は、窓の外の霧を見つめ、少しだけ遠い目をした。

「人類に、期待していたからでしょう。

 ……そして、いつか必ず失望する準備もしていた」


「……残酷な人物ですね」

 首相が吐き捨てるように言った。


「ええ」

 魔女は、かつての友人を思い出すように、少しだけ笑った。

「あの人は、本当に意地悪でした」


 そして、彼女はティーカップを傾け、今回の謁見の締めくくりとなる言葉を放った。


「……次の問題に。人類は、合格できるかしら?」


 その言葉を最後に、魔女の屋敷の光景がぐにゃりと歪み、イギリス政府の一行は、気がつけばスコットランドの森の入り口へと戻されていた。


 夜のスコットランド。

 肌を刺すような冷たい霧が、濃く立ち込めている。

 周囲には、待機していたSASの警備部隊と、黒塗りの公用車が並んでいた。


 首相たちは、屋敷の中で突きつけられた現実の重さに、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。


 情報機関トップが、沈黙を破って問うた。

「……首相。アシュワース財団へ、すぐに部隊を?」


「……すぐに連絡を取れ」

 首相は、首を横に振った。

「ただし、強硬な姿勢は絶対に取るな。……これは接収ではない。残された『問い』を読むための作業だ」


 アリスターが、霧の向こうを見つめながら呟く。

「第一問は、万象器でした。

 ……第二問は、我々はまだ、問題文すら分かっていない」


「ならば、まず問題文を探すところから始めるしかない」

 首相が、重い足取りで車へと向かった。


 一行が車に乗り込み、エンジン音が森の静寂を破る。

 その背後で。

 霧の奥深くに、魔女の屋敷の窓の明かりが、一瞬だけ幻のように瞬いた。


 魔女は一人、暖炉の前でティーカップを傾けていた。


「さて、アシュワース」

 魔女は、そこにいないかつての知人に向かって、静かに語りかける。

「あなたの第二問。……人類は、どう答えるのでしょうね」


 日本は、女神の救いに一度手を伸ばさなかった。

 中国は、仙人の力で民を癒やし続け、世界の嫉妬を買い集めている。

 アメリカは、神の矢という絶対的な暴力を管理しようと足掻いている。

 インドは、ソーマの雫で死の川を蘇らせた。


 そしてイギリスは、再び、アシュワース卿の遺した『底知れぬ問い』へと向かう。


 第一問は、富と希少性だった。

 では、第二問は何か。


 まだ誰も、その問題文を読んでいない。

 ただ、魔女だけが知っていた。


 あの最高に意地悪な男が、たった一つの問いだけで、満足して舞台を降りるはずがないことを。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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魔女様と知己で本当に死んでいるかどうかも微妙とか、アシュワース卿が何者だったかも気になりますね。
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