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第110話 魔女様のお茶会と、イギリス政府が知らないことにした光の柱

 イギリス・ロンドン、ダウニング街10番地。

 首相官邸のさらに地下深くに位置する、核攻撃をも想定して造られた強固な危機対応室は、エアコンの冷風が効いているにもかかわらず、ジットリと重く嫌な汗の匂いが充満していた。


 壁面を覆い尽くす巨大なマルチモニターには、数時間前に極東の島国で起きた信じがたい事象の映像が、様々な角度からのカメラや衛星のデータとともに、音声のないまま繰り返し再生され続けている。


 白くそびえ立つ東京スカイツリーが、下部からじわじわと虚無の黒に染まっていく絶望的な光景。

 空を海のように歪ませて出現した、全土を飲み込まんばかりの巨大な『黒鯨』のシルエット。

 そして――天空を割り、大気圏の彼方から唐突に降り注いだ、一億の光を束ねたかのような圧倒的な【光の柱】。

 光の乱舞が黒鯨の巨体を無慈悲に空間ごと斬り刻み、跡形もなく消滅させた後、スカイツリーは再び元の白い姿を取り戻し、東京には何事もなかったかのように青空が広がった。


「……東京上空で観測された、この異常な『光学的現象』について。各国の民間観測データ、各軍の衛星観測、天文台の記録、さらには航空機に搭載されたセンサーの断片的な情報を統合いたしました」


 科学顧問が、震える手でタブレットの画面をスワイプし、メインモニターの中央に無機質な数値の羅列を表示した。その表情は、科学者としての限界を超えた現象を見せつけられたことによる、一種の虚脱感に覆われていた。


「結論から申し上げます」

 科学顧問は、一度大きく息を吸い込み、円卓を囲む閣僚たちを見渡した。

「あの現象は……人類が地上で発生させられるエネルギーの総量を、完全に、そして【桁違い】に超えています」


「桁違いだと?」

 国防大臣が、忌々しげに顔をしかめて口を挟んだ。「核兵器級、ということか?」


 科学顧問は、首を横に振った。

「比較対象として、不適切です。……仮に、あの光量と空間に対する干渉力を、我々が知る通常の物理的な運動エネルギーとして換算したならば。それは都市への攻撃というよりも、小惑星や【巨大隕石の衝突】に近いレベルのエネルギー量になります」


 科学顧問の指が、映像の光の柱を指し示す。

「もし、あれほどのエネルギーの束が東京上空で無差別に解放(使用)されたのであれば。……本来なら、東京という都市は丸ごと蒸発し、関東平野に巨大なクレーターができていてもおかしくありません」


 会議室に、水を打ったような沈黙が落ちた。


 しかし、映像の中で東京は燃えていない。

 スカイツリーは折れることなく立ち続け、周辺のビル群のガラス一枚すら割れていない。人的被害も、熱線や衝撃波による死傷者は極めて限定的、実質ゼロに近いという奇跡的な報告が上がってきている。


「問題は、そこなのです」

 科学顧問は、信じられないというように首を横に振りながら続けた。

「あれだけの光量と空間変動が発生しているにもかかわらず、周辺への熱被害、衝撃波、そして放射線などの二次被害が、異常なまでに少なすぎる。

 ……つまり、あれは爆弾のような無差別なエネルギーの放出(拡散)ではありません。

 何かを“焼いた”のではなく。……何かを【選んで斬った】可能性が高いのです」


「選んで、斬った……?」

 国防大臣が、その言葉の持つ意味の恐ろしさに、嫌な顔をして唸った。


 円卓の最上座で、両手を組んだまま黙り込んでいたイギリス首相が、深く、重い溜息をついた。

 首相の目は、モニターの中で白く輝きを取り戻したスカイツリーをじっと睨み据えていた。


「……日本は」

 首相の声には、同盟国に対する不信感と、底知れぬ焦燥が入り混じっていた。

「日本は……我々の知らないところで、一体何を隠しているのだ」


 イギリスは、自国に現れたスコットランドの魔女に対して、武力で対応しようとして大敗北を喫した。その後、紅茶とお菓子という屈辱的とも言える対価を支払って、どうにか『公認魔女』という形に収め、体面を保ったばかりだ。

 一方で、極東のあの島国は、ただ黙って頭を下げている防波堤だと思っていたら……いざという時には、空を割り、巨大な怪物を一瞬で消し去るほどの【絶対的な神話の力】を、その内側から引っ張り出してきたのだ。


「……魔女様へ、相談するべきです」


 重い沈黙を破ったのは、外務大臣だった。

「黒鯨が世界中で猛威を振るい始めた時、彼女は『日本には日本の守り方がある。自分たちの尻拭いは自分たちでやることね』と発言していました」

 外務大臣は、円卓の面々を見回す。

「彼女は、最初から日本が何か手段を持っていることを知っていた。……今回の光の柱についても、その正体や危険性を、何か知っている可能性が極めて高い」


「直ちに聞くべきだ」

 国防大臣が、即座に身を乗り出して賛成した。

「あれがもし兵器であり、その気になれば都市を蒸発させられるほどの出力を持っているのなら、我が国の安全保障に直結する。日本政府の公式な言い逃れを待っている余裕はない!」


 だが、首相は苦い顔をして押し黙った。


 イギリスは確かに、スコットランドの魔女を『政府公認魔女』として迎え入れた。

 しかし、彼女は政府の命令で動く便利な情報データベースでもなければ、気の良い相談窓口でもない。

 呼べば必ず都合の良い答えをくれるわけではなく、一歩間違えれば再び彼女の不興を買い、今度こそロンドンを石に変えられかねないという、極めて危うい綱渡りの関係なのだ。


「……首相」

 円卓の端で、完璧に仕立てられたスリーピースのスーツを着た老練な英国外交官――サー・アリスター・ペンブルックが、静かに口を開いた。


「魔女様へ問うことは、私も賛成いたします。……しかし、聞き方を間違えてはなりません」

 サー・アリスターは、落ち着き払った声で言った。

「問い詰めるのではなく、相談する。情報を引き出すのではなく、知恵を借りる。

 ……命令ではなく、【お茶会】です。それを忘れてはなりません」


 首相は、サー・アリスターのその冷徹な外交的判断に、深く、腹の底から息を吐き出した。


「……分かった」

 首相は、秘書官に向かって指示を出した。

「極秘の応接室を押さえろ。……そして、最高の紅茶とスコーンを用意しろ」


 ***


 場所は、ダウニング街10番地、首相官邸内の特別応接室。

 そこは、通常の要人を招くような殺風景な会議室ではなく、伝統的な英国貴族の邸宅を思わせる、重厚な絨毯とアンティークの家具が設えられた、極めて優雅な部屋であった。


 そして、その部屋の中央にあるマホガニーのローテーブルの上には、国家の威信を懸けて準備された【正式なアフタヌーンティー】のセットが並べられていた。


 王室御用達のブランドから厳選された、最高級のダージリンとアールグレイの茶葉。

 美しく磨き上げられた純銀のティーポット。

 三段のティースタンドには、焼き立ての温かいスコーン、濃厚なクロテッドクリーム、真っ赤な苺ジャム、一口サイズのきゅうりのサンドイッチ、レモンケーキ、そしてバターの香りが豊かなショートブレッドが、芸術的な配置で盛り付けられている。


 その完璧なテーブルの周囲に、イギリス政府の最高首脳陣が、ガチガチに緊張した面持ちで直立していた。

 首相、外務大臣、国防大臣、科学顧問。そして、彼らを先導するサー・アリスター。

 全員が、まるで核兵器の起動スイッチを押す前のような、あるいは神の裁きを待つ罪人のような顔をしている。


 サー・アリスターは、懐中時計で時間を確認すると、姿勢を正し、誰もいない部屋の空間に向かって、深く一礼した。


「――魔女様、お越しください」


 その声が部屋に響いた瞬間。

 応接室の空気が、スッと、まるで冷たい森の霧が流れ込んできたかのように、微かに変化した。


 そして。

 部屋の奥、数秒前まで誰も座っていなかったはずの、最も上等な革張りの一人掛けソファに。

 灰色のローブをゆったりとまとった女性が、いつの間にか、まるで最初からそこにいたかのように座っていた。


 彼女は、すでに自分の手元に引き寄せた繊細な磁器のティーカップを傾け、立ち昇るアールグレイの香りを優雅に楽しんでいた。


「……呼ぶのが、遅いわね」


 フードの奥から響いたその静かな声に、首相をはじめとする政府高官たちの肩が、ビクッと大きく跳ねた。


 サー・アリスターだけが、いつものように穏やかな微笑みを崩さずに、もう一度深く頭を下げた。

「お待たせして申し訳ありません。……本日は、極東の日本で発生した事象について、我々だけでは到底理解の及ばない部分があり、ぜひとも魔女様のご助言を賜りたく、お呼び立ていたしました」


 魔女は、カップをソーサーにコトリと置き、三段スタンドからスコーンを一つ手に取った。

 そして、クロテッドクリームとジャムをたっぷりと塗りながら、フードの奥で小さく、面白そうに笑った。


「ほら、言ったでしょう?」


 魔女は、スコーンを一口齧り、そして、カチコチに固まっているイギリスの首脳陣を見渡して、事も無げに言った。


「……私の言った通り、日本は平気だったでしょう?」


「っ……!」

 その一言で、イギリス政府の面々は一斉に顔を強張らせた。


「魔女様」

 首相が、恐る恐る、言葉を選びながら慎重に問うた。

「あなたは……日本が、あの黒鯨という怪物を自力で退けると、最初から分かっていたのですか?」


 魔女は、紅茶を一口飲み、小さく首を傾げた。

「“分かっていた”というほどではないわ」

 彼女は、窓の外のロンドンの空を眺めるようにして言った。

「ただ、日本には日本の【古いもの】があります。あの国は、ただ震えているだけの、何も持っていない国ではありません。

 ……だから、あなたたちがパニックになっていたほど、簡単には食べられないだろうと、そう思っていただけよ」


「……古いもの」

 国防大臣が、その言葉の響きに耐えきれず、身を乗り出した。

「では、魔女様は、あの東京上空に降り注いだ『光の柱』の正体を、ご存じなのですか!?」


 魔女は、少しだけ目を細め、国防大臣をジロリと見た。

 その視線の冷たさに、国防大臣は思わず息を呑んで背筋を伸ばす。


「ええ」

 魔女は、淡々と答えた。

「【見える範囲でなら】ね」


「……見える範囲?」

 首相が、その言葉の意味を測るように聞き返す。


「私は万能ではありません」

 魔女は、二つ目のスコーンに手を伸ばしながら言った。

「あなたたち人間が想像するほど、世界の裏から表まで、何でも知っている神様というわけではないわ。

 ……でも、見えるものは見える。匂いで分かるものもある。

 古いものは、古いもの同士で……その『気配』が分かるのよ」


 サー・アリスターが、静かに会話の核心へと誘導する。

「では……あれは、一体何だったのでしょうか。光学的現象などではないことは、我々も承知しております」


 魔女は、手に持ったスコーンを皿に戻し。

 そして、極めてシンプルに、だが世界を震撼させるような真実を、さらりと口にした。


「……【剣】よ」


 応接室が、完全な沈黙に支配された。


「……剣?」

 国防大臣が、間抜けな声で反復した。


「あの天文学的な光量と、空間そのものを切り刻むような物理法則の歪曲が……剣、なのですか?」

 科学顧問が、自らの科学的常識が粉砕された顔で、震える声で問う。


 魔女は、小さく笑った。


「そう。とても、とても古い剣」

 魔女の言葉は、静かだが、絶対的な重さを持っていた。

「あれは、人間が工場で作ったような剣ではありません。……そして、人間が安易に手にして(持って)いい剣でもありません」


 首相の顔が、サッと青ざめた。

「……日本政府が、そんな規格外のアーティファクトを、我々同盟国にも秘密裏に、ずっと隠し持っていたと……?」


「隠し持っていた、というより」

 魔女は、少しだけ肩をすくめた。

「あれは、ただ【隠れていた】のでしょうね。長すぎる年月の中で、人間たちがその本当の姿に気づかなかっただけかもしれない。

 ……古いものは、よくそうやって、人間の視界の死角に紛れ込んで眠るものですから」


「それは……我々が兵器として認識すべきものなのですか?」

 科学顧問が、汗を拭いながら問う。


 魔女は、少し考え込むような仕草をした。


「兵器と言えば、兵器でしょうね。

 災害と言えば、災害。

 祈りと言えば、祈り。

 ……そして、役目と言えば、役目」


 魔女は、困惑する官僚たちを見て、クスクスと笑う。

「人間の持つ浅薄な言葉で、無理に一つに決めようとすると……だいたい、本質を間違えるわよ」


 だが、国防大臣は、その哲学的な言葉遊びには納得できなかった。彼は国の安全を預かる軍のトップとして、どうしても具体的な数値(脅威度)を知らなければならなかったのだ。


「魔女様。失礼を承知で伺います」

 国防大臣は、苛立ちを押し殺しながら言った。

「我々は、あれが他国へ向けられた場合の安全保障上の評価を必要としているのです。

 ……具体的に、あの剣には、どれほどの【威力】があるのですか」


 魔女は、紅茶のカップを持ったまま、ピタリと動きを止めた。


 そして、フードの奥の灰色の瞳で、国防大臣を冷たく見据えた。


「…………」

 その視線のあまりの冷ややかさと、空間そのものが凍りつくような重圧に、国防大臣はごくりと喉を鳴らし、完全に押し黙った。


 数秒の沈黙の後。

 魔女は、紅茶を一口飲み、静かに言った。


「……今回の出力なら。私でも、防げます」

 彼女は、カップを置いて付け加えた。


「……たぶんね」


「……たぶん?」

 首相が、その言葉の揺らぎに、血の気を引かせて聞き返す。魔女でさえ、絶対の自信を持てない力だというのか。


「ええ」

 魔女は頷いた。

「あれは、黒鯨を斬るために振られた。……だから、黒鯨を斬った。

 都市を焼くための光ではなかった。人間を殺すための刃でもなかった。

 ……だから、東京という都市は、無傷のまま残ったのよ」


 サー・アリスターが、その言葉の恐ろしい本質に気づき、静かに言った。

「……対象を、選んだ。ということですか」


 魔女は、満足げに頷いた。


「ええ。あれは、対象によって自在に出力(意味)を変える剣です」

 魔女の言葉が、部屋の温度をさらに奪っていく。

「草を斬ると思えば、草を斬る。

 鉄を斬ると思えば、鉄を斬る。

 黒鯨を斬ると思えば、黒鯨を斬る。

 ……そして。空を斬ると思えば、空すらも裂くでしょうね」


 会議室の空気が、完全に凍結した。


 首相は、震える指でティーカップを支えながら、なんとか思考を立て直そうとしていた。

 紅茶の表面に走る微かな波紋が、彼の動揺を映し出している。

 しばらくの沈黙の後、首相は紅茶のカップを置き、慎重に新たな問いを切り出した。


「……魔女様。一つだけ、確認させてください」


 魔女は、にっこりと首を傾げた。


「どうぞ」


「ネット上でも、識者の間でも、何度も指摘されている疑問があります。

 ……あの光の柱は、なぜ東京スカイツリーが食われる、その寸前まで動かなかったのですか。

 日本政府には、もっと早い段階で黒鯨を斬る選択肢があったはずだ。市民の不安、被害規模、世界中の生中継。……それでも、あの剣はずっと、動かなかった。

 なぜ、もっと早く振らなかったのですか」


 サー・アリスターも、その問いに深く頷いた。


「私からも、伺いたかった点です。

 政治的決断の遅さなのか、あるいは、何か原理的な制約があったのか。我が国としても、判断の材料にしたいのです」


 魔女様は、ティーカップを唇に近づけたまま、片方の眉だけを上げて笑った。


「ああ、それね」


 魔女は、紅茶を一口含み、何でもないことのように言った。


「……あれはね。【完全に具現化したもの】しか、捉えられないのよ」


「完全具現化……?」


 首相が、聞き慣れない言葉を反復する。


「うん」


 魔女は、空中に指で大きな円を描いてみせた。


「黒鯨はね、最初から完全な姿で現れていたわけじゃないわ。最初は街の影に滲んだだけ。次に半透明の輪郭。少しずつこの世界に染み出してきて、最後にようやく、物理法則に縛られた『一個の確かなもの』になる。

 ……さっき言ったでしょう? あの剣は、『斬ると思ったもの』を斬る。

 でもね。そもそも"ある"と認識できないものは、斬ろうと思っても、対象にならないの。

 半分しかこの世界にいないものを斬ろうとしても、空振るだけ。空気を斬ったのと同じよ」


 サー・アリスターが、ハッと息を呑んだ。


「……つまり。あの剣は」


「うん。防衛兵器じゃないわね」


 魔女は、あっさりと頷いた。


「『脅威が近づいてきたから、念のため早めに撃っておきましょう』なんて使い方は、できないの。

 敵が完全に喉元まで来て、この世界に完全に踏み込んで、ようやく振れる剣。

 ……それまでは、ただ見ていることしか、できないのよ」


 会議室が、再びしんと静まり返った。


「……日本政府は、それを知っていたのですね」


 首相が、絞り出すように言った。


「黒鯨が完全に実体化するまで、待たなければならなかった、と」


「知ってたでしょうね。三神あたりはね」


 魔女は、楽しそうに目を細めた。


「だから、撃たなかったんじゃないわ。撃てなかったの。

 ……日本政府はずっと、『その瞬間』が来るのを、市民を見殺しにする一歩手前で、息を殺して待ち続けていたのよ」


 首相は、紅茶のカップを握る手が、微かに震えるのを感じた。

 国民の命を、建造物を、生中継のカメラの前に晒して、ぎりぎりまで黒鯨に食わせ続けた日本政府の判断。

 それは実際には、神話級の兵器を抜くために必要だった、絶対の沈黙の時間だったのだ。


「では……東京上空で観測された、あの一億の光の柱の乱舞は……」

 科学顧問が、震える声で問う。


 魔女は、さらりと、そして最も絶望的な真実を口にした。


「あれでも。……あの剣にとって、全力には程遠いわ」


 誰も、言葉を発することができなかった。

 東京全域を昼間のように照らし出し、宇宙空間にまで届くかのようなエネルギーを放ち、空間を喰らう怪物を一瞬で消滅させたあの光が。

 ……まだ、全力ではないだと?


 魔女は、残っていたショートブレッドを齧りながら、淡々と続ける。

「あれは、ずいぶんと抑えて使われています。……正確に言えば、“守るため”に使われた。だから、被害が最小限で済んだ」


 魔女の目が、スッと細められる。


「もし、あれを【怒り】で振れば……光はもっと遠くまで行くでしょうね。

 【恐怖】で振れば……空間をもっと深く、回復不能なまでに裂くでしょうね。

 【誇り】で振れば……もっと高く、星にまで届くでしょうね」


 魔女は、人間の本質を嘲笑うように言った。

「人間の意志や感情に直接反応する古いものは……そういう意味で、本当に厄介なのよ」


 首相は、顔を真っ白にして、震える声で言った。

「それは……日本政府が望めば。……世界中を、斬れるということですか?」


 魔女は、少しだけ首を傾げた。


「望めば、というより。

 ……望んでしまえば、ね」


 その微妙な言葉の違いが、この剣の最も恐ろしい性質を表していた。

 剣は、軍事コンピュータのように「命令通りに動く便利な兵器」ではない。人間の心の奥底にある無意識の意志や、暴走する感情(恐怖や怒り)に、過敏に反応して出力が青天井に跳ね上がってしまうのだ。


 サー・アリスターが、深く、重いため息をついて言った。

「……つまり。所有している日本政府にとっても、あれは極めて【制御困難な代物】であるということですね」


「ええ、そうよ」

 魔女は頷いた。

「だから、彼らも簡単には使わないでしょう。……人類に向けてあれを振るうとしたら、それは彼らにとっての最終手段。

 あるいは……もう、人類という種が終わる時でしょうね」


 その言葉に、国防大臣が、額に冷や汗を流しながら、最も聞きたくない、しかし国家防衛の責任者として絶対に聞かなければならない質問を口にした。


「……魔女様。もし、仮に。

 あの剣が、我が国……イギリスへ向けられたとしたら。どうなりますか?」


 外務大臣が「馬鹿なことを聞くな!」と止めようとしたが、もう遅かった。


 魔女は、少しだけ考えるように沈黙し、紅茶のカップをテーブルに置いた。

 応接室の空気が、張り詰めた糸のようにピーンと張る。


「……今回の威力(黒鯨を斬った程度の出力)なら。私は、守ります」

 魔女は、静かに言った。

「ロンドンくらいなら、たぶんね」


「イギリス全土は……防げませんか?」

 首相が、すがるように問う。


 魔女は、楽しげな表情を完全に消し去り、冷酷な現実を突きつけた。


「……微妙ね」


 その一言で、大英帝国の首脳陣は、完全に死刑宣告を受けたような顔になった。


「イギリスの土地に向けられた攻撃なら、私は守ります。それが、あなたたちと交わした約束(対価)だから」

 魔女は、淡々と続ける。

「でも……あれが本気で、“イギリスという国を斬る”という絶対的な意志で振られたら。

 私がそれを押し返せるか、それともイギリス全域が光に飲まれて蒸発するか。……それは、正直なところ、やってみないと分からないわ」


 国防大臣の顔が、真っ白を通り越して土気色になった。

 首相も、言葉を失い、机の上に置いた手を強く握りしめた。


 サー・アリスターだけが、目を閉じ、静かにその事実を受け止めていた。


 魔女は、そんな彼らの絶望を少しだけ和らげるように、軽く肩をすくめた。

「もっとも、日本政府がそんな狂った真似をするとは、私は思いませんけどね。

 ……あの国は、あれを振るうことの【怖さ】を、誰よりも理解しているでしょうから」


 沈黙が続く中。

 それを破ったのは、やはり国家の責任者である首相だった。


「……この情報は。同盟国であるアメリカへ、至急共有すべきではないのか」


 首相は、顔を上げ、決然とした声で言った。

「いや、共有するべきだ。日本政府が、これほど危険なアーティファクトを保有していると判明した以上、同盟国として管理体制の透明性を確認しなければならない。……場合によっては、国際的な管理枠組みの構築、あるいは……日本からの技術の移管も視野に入れるべきだ」


 国防大臣も、それに同調しかけた。

「あれほどの無制限な力を、一国が単独で持つのは、あまりにも危険すぎます。世界のパワーバランスが崩壊する」


 だが。

 魔女が、冷たい声で、ピシャリと言い放った。


「……やめておきなさい」


 その一言で、首相と国防大臣の動きが止まる。


「なぜですか」

 首相が、不満げに問う。


「アメリカ政府に共有するのも、駄目」

 魔女は、まるで愚かな子供を諭すように言った。

「彼らは、確実に【発狂】してしまうわ」


「発狂……」

 外務大臣が、青ざめる。


「この惑星の命運が、自分たちではなく、極東の島国(日本)のまさに手のひらの上にあると知ったらね」

 魔女は、人間の、特に超大国の持つ「傲慢さと恐怖」の本質を、冷酷に指摘した。

「彼らは、自分たちがコントロールできない力を許容できない。必ず、狂ったようにそれを奪おうとするわよ」


 サー・アリスターが、ゆっくりと、深く頷いた。

「……魔女様のご指摘は、外交的にも、極めて正しいと思われます」


 首相が、驚いて振り向く。

「サー・アリスター?」


「アメリカ政府、特に安全保障部門やセレスティアル・ウォッチの連中は、日本の放った光の柱に対して、すでに極度の警戒と恐怖を抱いています」

 サー・アリスターは、冷徹な外交官の視点で分析を述べる。

「そこへ我々が、“あれは剣である”、“出力は青天井である”、“イギリス全土すら防げるか不明である”などという、悪夢のような情報を伝えたら、何が起きるか。

 ……日本への強硬な情報開示要求、共同管理の強要。そして最悪の場合、アメリカによる『奪取計画』の立案すら始まるでしょう」


「まさか、同盟国に対してそこまで……!」

 国防大臣が、信じられないというように絶句する。


 サー・アリスターは、その言葉を冷たく遮った。


「同盟国だからこそ、です、大臣」

 老外交官の目は、国際政治の泥沼を見据えていた。

「アメリカは、世界を滅ぼし得る絶対的な力が、自国以外の同盟国の手にあることを……ただ信頼して、黙って放置できるような寛容な国ではありません。必ず、自らの管理下に置こうと動く」


 外務大臣が、苦い顔で引き取る。

「そして、日本は……絶対にそれを渡さない。出雲や与那国の対応を見ても明らかです」


「その通りです」

 サー・アリスターが頷く。

「結果、日米同盟には決定的な亀裂が入る。西側陣営の安全保障の枠組みが揺らぐ。……そして、その隙を、ロシアや中国が必ず突いてくる。

 世界は、黒鯨という怪物を退けた直後に……今度は人間同士の疑心暗鬼によって、内側から崩れ始めるでしょう」


 魔女は、満足げに紅茶の残りを飲み干した。


「人間は、いつもそう」

 魔女は、呆れたように、しかしどこか楽しそうに言った。

「怪物を退けた後、今度はその『怪物を退けた力』を恐れ、奪い合おうとする。……歴史の堂々巡りね」


 首相は、まだ納得しきれない様子で、机に両手をついた。

「しかし、放置していい問題ではない。……あの剣が暴走したらどうする。日本という一国の政治判断、いや、現場の人間の感情一つで、世界の命運が左右されるのだぞ」


 魔女は、ティーカップをソーサーに戻し、真っ直ぐに首相を見て言った。


「では。……誰なら、安全に持てるの?」


 首相は、言葉に詰まった。


「アメリカなら安全? イギリスなら? 国連なら?」

 魔女は、次々と候補を挙げ、そして鼻で嗤った。

「あなたたちの言う『国際管理』にすれば、あれが安全になると、本気で思っているの?」


 誰も、答えられなかった。


「あれは、持つ者を選ぶというより……【振る意味を問う】剣です」

 魔女は、静かに、本質を突いた。

「管理する人数を増やせば、安全になるものではありません。

 むしろ、欲望が増える。恐怖が増える。……責任の所在が曖昧になる。

 そして、最悪の時に、誰の意志も統一できず、誰も止められなくなるのよ」


 サー・アリスターが、魔女の言葉を現実の政治に翻訳して補足する。

「……現時点では、日本政府があの剣の『恐怖』を正しく理解し、使用を最小限に留めた。

 これは、むしろ【最良】に近い結果と言えます」


「最良、だと?」

 国防大臣が、信じられないという顔をする。


「はい」

 サー・アリスターは、深く頷いた。

「日本は、黒鯨を撃退し、東京を救い、熱被害を出さず、人的被害を最小化しました。あれほどの圧倒的な力を見せながら、自国の都市を破壊しなかった。

 ……つまり、日本政府は少なくとも、あの剣を“無意味に振り回してはいない”ということです。極限の自制心を見せた」


 魔女が、軽く手を叩いた。

「そういうこと。……あの剣を持つ国が日本でよかった、とまでは言わないわ。

 でも、少なくとも今回、彼らは【間違えなかった】。……それだけは事実よ」


 首相は、長い、長い沈黙の後。

 目を閉じ、そして、深く息を吐き出して、決断を下した。


「……この情報は、ここだけに留める」


 外務大臣が、念を押すように確認する。

「アメリカへも、ですか?」


「共有しない」

 首相は、目を開き、厳しい顔で宣言した。

「魔女様からお聞きした内容は、国家最高機密とする。……公式には、我々は日本の光の柱について、公開情報以上のことは『何も知らない』。科学的解析を継続中であるという、従来の立場を貫く」


「記録は、どうしますか?」

 国防大臣が問う。


 サー・アリスターが、即座に答える。

「本日のお茶会の議事録は、一切作成しません。録音も、メモも残さない。参加者の記憶のみに留めます。

 必要ならば、首相専用のオフラインの封印ファイルに、抽象化された『危機評価』の記述だけを残すべきです」


「しかし、何も記録しなければ、後世の政府が誤った判断を――」

 科学顧問が、歴史への記録の欠落を懸念して言いかけたが。


 魔女が、クスクスと笑ってそれを遮った。

「後世の政府が、知らない方がいいこともあるわよ。……知恵(呪い)のバトンタッチなんて、ろくな結果にならないから」


「少なくとも、いまデータに残せば、いつか必ず漏れます」

 サー・アリスターも同意する。

「そして漏れた時、世界は日本に向かって、疑心暗鬼と強奪のために走り出す。

 ……それは、我々が黒鯨よりも早く、この世界を壊すことになります」


 首相は、最終的な決定を全員に言い渡した。

「この件は、絶対の国家秘密だ。アメリカ政府には絶対に知られないようにする。

 我々は、日本の光の柱について、何も知らない。

 ……分かったな」


 閣僚たちは、全員が重く、無言で頷いた。


 魔女は、その決断を見届けると、ゆっくりとソファから立ち上がった。


「……覚えておきなさい」

 魔女は、最後に、静かに忠告した。

「日本の剣は、日本だけの問題ではない。でも、日本から取り上げれば解決する問題でもない。

 あれは、黒鯨を斬った。

 けれど……あれを巡って人間が争えば、次に斬られるのは怪物ではなく、あなたたち【人間の世界そのもの】よ」


 首相は、顔を伏せ、その重い言葉を受け止めた。


 サー・アリスターが、去りゆく魔女に向かって、最後に一つだけ問うた。

「魔女様。……もし、再び黒鯨のような理不尽な怪物が、世界に現れた場合。我々はどうするべきでしょうか」


 魔女は、少しだけ足を止め、振り返った。


「……自分の土地を、守りなさい」

 彼女の灰色の瞳が、真っ直ぐにサー・アリスターを見た。

「他人の剣を欲しがる前に。……自分たちが『何を守るのか』を、自分たちで決めなさい」


 サー・アリスターは、深く、敬意を込めて一礼した。

「……肝に銘じます」


 魔女は、それを見て小さく頷き、そして、少しだけ楽しそうな、イタズラっぽい笑みを浮かべて言った。


「それと。……次のお菓子は、もう少し【甘さ控えめ】でお願いね」

 魔女は、空になったティースタンドを一瞥する。

「今日のは悪くないけれど、私には少し重いわ。次は、もっと軽い食感のものを期待しているわよ」


 その、緊迫した会議にはあまりにも不釣り合いな、可愛らしい日常的な要求に。

 張り詰めていた応接室の空気が、一瞬だけ、フッと緩んだ。


「……承知いたしました」

 サー・アリスターが、完璧な執事のようにお辞儀をして答える。


 だが、首相をはじめとする閣僚たちの顔は、世界の命運と、途方もない秘密を抱え込んだ重圧で、青ざめたままだった。


 魔女は、来た時と同じように。

 霧が晴れるように、フッと音もなく、その場から姿を消した。


 応接室には、最高級のダージリンとアールグレイの香りだけが、微かに残されていた。


 誰も、すぐには口を開かなかった。

 沈黙が、重く部屋を満たしている。


 やがて。首相が、絞り出すような、ひどく掠れた声で言った。


「……イギリスは、恐ろしいものを聞いてしまった」


「はい」

 サー・アリスターは、静かに頷いた。

「ですが。……知らないふりをすることもまた、外交です」


「アメリカに黙っていることが、本当に正しいのか」

 外務大臣が、同盟への裏切りともとれる行為に、苦悩の表情を浮かべる。


「正しいかどうかは、分かりません」

 サー・アリスターは、冷徹に答えた。

「ですが、賢明ではあります」


「我々は、同盟国に隠し事をするわけか」

 国防大臣が、苦々しく吐き捨てるように言う。


「違います」

 サー・アリスターは、言葉を明確に定義し直した。

「我々は、魔女様とのお茶会で聞いた『検証不能な神話的比喩』を、同盟国へ誤って『軍事情報』として流布しないだけです。……我々は、何も確証を得ていないのですから」


 この言い回しは、外交官特有の、極めて見事な『逃げ道(自己正当化のロジック)』の構築であった。


 首相は、疲れたように椅子に深く沈み込んだ。

「……サー・アリスター。今後、日本との関係をどう見るべきだ」


「慎重に。……しかし、極めて友好的に」

 サー・アリスターは、迷いなく答えた。

「日本は、黒鯨を撃退しました。それは、世界を救った行為です。

 その恩を忘れて、力の正体だけを疑い、奪おうとすれば……我々は、世界で最も愚かで、最悪の同盟国になります」


 首相は、目を閉じ、深く頷いた。


 ***


 翌日。

 イギリス政府は、定例の公式記者会見を行った。


 世界中のメディアが注目する中、記者が鋭く問い詰める。

「日本の光の柱について、イギリス政府は公認魔女に意見を求めたのですか?」


 官邸報道官は、極めて事務的な、鉄壁の表情で答えた。

「日本で観測された光学的現象について、我が国は同盟国および国際社会と緊密に連携し、公開情報を基に科学的な分析を進めております。

 ……現時点で、我が国政府として、その正体について断定的な見解を示すことはありません」


 記者。

「しかし、魔女様であれば、何かご存じなのでは!?」


 報道官。

「政府と公認魔女とのやり取りについて、個別の内容を公表する予定はありません。

 ……ただし、イギリス国内の安全保障に関しては、政府として万全の体制を維持しております」


 ネットのタイムラインは、当然のように騒ぎ立てた。


「絶対聞いただろ!!」

「聞いたけど言えないやつだこれ!!」

「イギリス政府の報道官、目が泳いでたぞww」

「魔女様、絶対なんか知ってるだろ」

「何を聞いたんだよ……逆に怖い」

「日本の光の柱、マジで何なんだよ……」


 大衆の憶測と大喜利が飛び交う中。

 イギリス政府は、ただ頑なに口を閉ざし、沈黙を守り通した。


 ***


 その日の夜。

 ダウニング街10番地の首相執務室。


 首相は一人、窓の外の静かなロンドンの街並みを見下ろしていた。

 公認魔女が守る国。

 しかし、それでもなお、極東の島国が放った光の柱の正体を知ってしまった今、決して心からの安心を得ることのできない国。


 首相は、机の上に置かれた、最新の日本の衛星写真に目を落とした。

 東京スカイツリーは、元の白い姿で、無傷で立っている。

 黒鯨は去った。


 だが、その空に降った光の正体(剣の存在)を、イギリスは知ってしまったのだ。


 背後に控えていたサー・アリスターが、静かに言った。


「……首相」

 老外交官の声は、深く、重かった。

「恐ろしいのは、日本があの剣を持っていることではありません」


 首相は、窓から振り返らずに問うた。

「……では、何だ」


 サー・アリスターは、人間の業の深さを見透かしたように、静かに答えた。


「我々が。……それを、欲しがってしまうことです」


 首相は、答えなかった。

 ただ、冷たい窓ガラスに映る自分の顔が、ほんの少しだけ、貪欲な影を落としているように見えたことに、自嘲の笑みを浮かべることしかできなかった。


 その日、イギリス政府は学んだ。

 世界を救った光は、必ずしも世界を安心させる光ではないということを。


 そして。

 同盟国の手の中にある神話(恐るべき力)を、決して暴こうとせず、ただ「知らないふり」で見守り続けることもまた。……このアーティファクトの時代における、一つの立派な国家の生存戦略なのだと。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
アルゼンチンどころではない醜い争奪戦が起きそうだからなあ。
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