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第100話 寺院創建以来初めて開いた扉

 インドの首都、ニューデリー。

 外のうだるような熱気とけたたましい喧騒から完全に切り離された、首相官邸地下の国家安全保障会議室。その冷え切った空気の中で、アニル・チャンドラ首相は、壁面を覆い尽くす巨大なマルチモニターを、深く沈み込んだような暗い瞳で凝視していた。


 モニターには、世界中のインテリジェンス機関が血眼になって収集している、各国の「アーティファクト」に関連する最新の映像とデータが、無音で、だが強烈な自己主張を伴って絶え間なく映し出されている。


 アメリカ合衆国が国内で確保したとされる、あらゆる物質を両断するエネルギーの刃『ライトセーバー』。

 ロシアのシベリアの凍土にある秘密工場で量産が進められている、レアアースと人体を結合させた『サイボーグ兵』たちの無慈悲な行軍。

 中国の峻険な山脈の奥深くで、精神と肉体を高次元で調和させ、重力などの物理法則すら書き換えて虚空を歩く『仙人』と呼ばれる超常の者たち。

 イギリスを中心とした闇のオークションで世界の大国を巻き込み、莫大な富と権力を動かした『万象器』。

 日本が独自の強固な防衛網を敷いて管理する『出雲』と『与那国』の神域、そして世界の深淵を見通す三神編集長という存在がもたらす特異な情報網。

 そして――先日、南米アルゼンチンの荒野において、アメリカ、ロシア、EUの精鋭部隊をまるで子供の玩具のように蹂躙し、国家の軍事力という概念そのものを一人の力で過去のものにした、アステカの『太陽の心臓』を宿す超戦士、イツコアトル。


 チャンドラ首相は、革張りの重厚な椅子に深く背中を預けながら、それらの映像が切り替わるたびに、己の胸の内を焼くような焦燥感を覚えていた。


 会議室の円卓を囲む国防相、外務相、内務相、情報機関のトップたちも皆、一様に押し黙り、自分たちの前に突きつけられた「世界の変容」という暴力的な現実に、ただ圧倒されていた。

 アーティファクト時代。神話が物理的な力を持って現実に立ち上がり、世界の覇権構造を根底から書き換えようとしているこの狂騒の時代において、彼らは明確な危機感に苛まれていた。


「……我々には、五千年の文明がある」


 長い沈黙を破ったチャンドラ首相の声は、静かではあったが、その奥に灼熱の炭火のような激しい焦りを秘めていた。


「この広大な亜大陸には、数え切れないほどの神話がある。宇宙の真理を記したヴェーダの経典がある。何千年も人々の祈りを集めてきた歴史ある寺院がある。神々が座す聖山があり、すべての命を浄化する聖河がある。……人類の精神史において、我々インドほど深く、豊かで、広大な土壌を持つ国はないはずだ」


 首相は、円卓を囲む閣僚たちを一人一人、鋭い視線で睨み据えた。


「それなのに……なぜだ。なぜ我々は、アーティファクトというこの新しい時代の表舞台において、他国が次々と恐るべき手札をめくっていくのを、ただ指をくわえて見ているだけなのだ?」


 その問いに、即座に答えられる者はこの部屋にはいなかった。

 人口においては十四億を超え、IT産業は世界の最先端を走り、独自の宇宙開発プログラムを持ち、強大な核戦力さえ保有している。地球という旧来の盤面においては、インドは間違いなく超大国であった。

 しかし、神話が現実を凌駕するこの『アーティファクト時代』において、インドはまだ、世界を驚愕させるような、自国の確固たる「超常の戦力(手札)」を一つも示せていなかった。


 他国が神話の遺産を手にして次々と「神の領域」へと足を踏み入れようとしている中、インドだけが旧時代の軍事力と経済力という古ぼけた武器を持ったまま、取り残されようとしている。

 その国家的な恐怖と焦りが、チャンドラ首相の心を激しく焼いていた。


 ***


 その焦燥感から、インド政府は数ヶ月前、すでに国家の威信を賭けた極秘機関を水面下で立ち上げていた。


『国家遺産及び未確認事象調査局』。

 政府内部での通称は、【チャクラ・プロジェクト】。


 その任務は、インド国内に無数に眠る神話、古文書、寺院の伝承、聖地の謎、そして過去に「迷信」や「集団幻覚」として片付けられてきた未確認現象を、アーティファクトという新たな視点から徹底的に再調査し、国家の力となる本物の遺物を発掘・確保することであった。


 その調査対象は、あまりにも広大かつ多岐にわたっていた。

 ヒマラヤ山脈の奥深くで何百年も俗世から隔絶されているチベット仏教系の古刹。

 ガンジス川流域の、古くから生と死の儀礼が行われ続けてきた広大なガート(沐浴場)周辺の地下遺跡。

 南インドの密林の奥底に隠された、古代の王の手によって厳重に封じられた地下寺院。

 砂漠に埋もれた古代王国の遺跡と、そこに残された解読不能のサンスクリット文書。

 ヴェーダの聖典の中に断片的に記された、空を飛ぶ戦車ヴィマナや、神々の放つ絶対的な兵器ブラフマーストラの記述の再検証。

 各地の寺院で「神具」として厳重に保管されている、科学的には説明のつかない機能を持つとされる物品たち。

 そして、インド軍や警察が過去に遭遇し、論理的な説明が不可能であるがゆえに闇に葬り去ってきた、不可解な怪死事件や消失事件の極秘ファイル。


 しかし。

 プロジェクトが発足し、国家予算を湯水のように投じて徹底的な調査を行っても、決定的な「成果」は、未だに一つも上がっていなかった。


「……総理。調査範囲が、あまりにも広大すぎます」


 チャクラ・プロジェクトの長官に抜擢された、プリヤ・ナーラーヤンが、チャンドラ首相に現状の厳しさを報告した。彼女は極めて優秀な官僚であったが、その顔には深い疲労の色が濃く滲んでいた。


「我が国には、星の数ほどの伝承があります。しかし、その多くはただの比喩であり、神話的な誇張です。あるものは単なる観光客向けの作り話であり、あるものは本物に見える精巧な古物に過ぎません」

 プリヤ長官は、手元のタブレットに表示された、膨大な「空振り」の報告書のリストを示した。

「ラジャスタン州で報告された磁気異常はただの鉱脈でしたし、ケララ州の地下で見つかった黄金の神具は、ただの古い時代の見事な装飾品でした。……本物のアーティファクトが存在するとしても、それがこの広大な亜大陸のどこに眠っているのか、我々には見当もつきません」


 プリヤ長官は、表情を一段と険しくして、最大の懸念を口にした。


「そして、最も厄介な問題は別にあるのです。……もし、本当に力を持った本物の『神の遺産』が存在したとして。それは必ずと言っていいほど、その地域の熱烈な信仰の中心となり、地元の人々や僧侶たちによって何百年も手厚く守られているはずです」


 インドという国は、信仰の国である。人々の生活と宗教は完全に一体化しており、その根は国家の法律よりも深く人々の魂に根ざしている。

「我々政府が、国家安全保障という名目で、彼らの信仰の対象を強権的に接収しようとすれば……国内は完全に割れます。暴動が起き、流血の事態となるでしょう。神話の力を掘り起こそうとして、国そのものが崩壊しかねないのです」


 チャンドラ首相は、プリヤ長官の言葉に、苦い薬を飲み込んだような顔で深く頷いた。

 インドの神話に踏み込むということは、インドの魂そのものに素手で触れるということだ。ロシアや中国のように、国家権力で力ずくに封殺したり、完全な統制下に置くことなど、この国では絶対に不可能なのだ。

 アーティファクトの探索は、単なる軍事任務でも、宝探しでもない。極めて繊細で、危険な綱渡りだった。


「……焦るなとは言わん。だが、急ぎすぎても国を壊す」

 チャンドラ首相は、重いため息をついた。

「引き続き、調査を急げ。……ただし、絶対に無用な波風は立てるな」


 ***


 ニューデリーの焦燥と熱狂から遠く離れた、遥か北方の地。

 ヒマラヤ山脈の奥深く。


 一年中、万年雪に覆われた峻険な岩山の断崖にへばりつくようにして建てられた、チベット仏教系の古い寺院があった。

 仮にその名を、『白蓮峰寺』とする。


 標高は四千メートルを超え、空気は肺を刺すように冷たく、そして薄い。

 五色の祈祷旗ルンタが、氷のように冷たい強風に吹かれてパタパタと乾いた音を立てて鳴っている。

 寺院のどこかで撞かれる、重く、腹の底に響くような古い鐘の音が、朝の薄青い空気に静かに溶け込んでいく。

 迷路のように入り組んだ石造りの回廊は、何百年という長い年月の中で、無数の僧侶たちの裸足によって滑らかに磨き上げられており、切り立った山肌には、古い時代の言葉でマントラ(真言)が深く刻み込まれていた。


 観光客など、一年に数人訪れるかどうかという秘境中の秘境。

 現代の象徴である携帯電話の電波すら、ここではほとんど届かず、外界のニュースが入ってくることも稀である。


 世界中が大国の欲望とアーティファクトの狂騒に沸き返り、血を流しているというのに。

 この白蓮峰寺だけは、まるで時間の流れが完全に停止し、世界の喧騒から切り離され、取り残されたかのように、ただ圧倒的な静寂と祈りの中に包まれていた。


 ***


 老僧ラオシャンは、東の空がまだ白む前の、深い夜の闇の中で目を覚ました。


 彼が生まれてから、一体何度目の朝を迎えたのか、もう彼自身にも正確には分からない。

 おそらく、百歳は優に超えているだろう。寺の記録簿も、彼がいつこの寺の門を叩き、見習いとして入山したのか、その正確な日付を記したページはすでに虫に食われて失われていた。


 粗末な寝台から体を起こそうとすると、長年の厳しい修行とヒマラヤの寒さで痛めつけられた膝が、ピシリと軋むような痛みを訴えた。

 背中は深く曲がり、その顔にはヒマラヤの山肌のように深いシワが幾重にも刻み込まれている。

 だが、その一連の朝の動作に、迷いや淀みは一切なかった。

 彼は、使い込まれた木の椀で僅かな白湯を飲み、身体を内側から温めると、擦り切れて色の褪せた古い袈裟を丁寧に身に纏った。

 そして、これもまた彼と同じように長い年月を過ごしてきた、手垢で黒光りする菩提樹の数珠を手に取った。


 ラオシャンは、冷え切った石の床をゆっくりと、しかし確かな足取りで歩き出す。


 今日もまた、いつもの『役目』を果たすために。


 開かずの聖域の扉を、確認すること。

 ただそれだけのために。


 ラオシャンは、その一見すると何の意味もないように思える単調な役目を、もう九十年以上もの間、一日も欠かすことなく、ただ黙々と続けていた。


 ***


 ラオシャンがまだ、寺に入ったばかりの幼い見習い僧だった頃の話だ。


 彼は、経典の暗唱を覚えるのも遅く、掃除をさせてもすぐに不注意で水桶をひっくり返し、先輩の僧侶たちからよく叱られる、極めて不器用な少年だった。

 そんな彼に、当時の厳格だが慈悲深かった師であるドルジェが、一番最初に与えた「仕事」が、その朝の扉の確認だった。


 あの日、ドルジェ師は、怯える幼いラオシャンの手を引き、寺の最深部、誰も立ち入らない薄暗い石の回廊の奥へと彼を連れて行った。


 そこには、回廊の突き当たりを完全に塞ぐようにして、一枚の巨大な石の扉が鎮座していた。


 その扉には、見たこともないような複雑で幾何学的な不思議な文様が深く彫り込まれており、中央には、蓮の花に似た円環のレリーフが精緻に施されていた。

 だが、その扉には鍵穴もなければ、取手もなく、そして何より、壁と扉の間に紙一枚通す『隙間』すら存在しなかった。

 それは、作られた時から一度も開かれたことがない、という事実を無言で主張しているかのように、圧倒的な質量と拒絶の意志を持ってそこにあった。


「師よ。……この扉は、開くのですか?」

 幼いラオシャンは、その不気味なほどの重圧感に圧倒されながら、ドルジェ師を見上げて尋ねた。


 ドルジェ師は、静かに、しかし断固として答えた。

「開かぬ」


「では……なぜ、毎朝わざわざ見に来るのですか?」

 ラオシャンは、子供らしい純粋な疑問を口にした。開かないと分かっているものを、毎日確認することに何の意味があるのか。


 ドルジェ師は、ラオシャンの小さな頭を大きな手で撫でながら、深い声で言った。

「開かぬものが、開かぬままであることを、確かに見届けるためだ」


 ドルジェ師の視線は、扉の奥に封じられた「何か」を見透かすように向けられていた。


「この扉はな、ラオシャン。この白蓮峰寺が建てられたその時から、ずっと閉じているのだ」

 ドルジェ師は、静かに、途方もない歴史を語る。

「開山の師も、そのお弟子も、さらにそのお弟子も、皆、毎朝この扉の前に立ち、ただ見た。

 ……誰も、中を見てはおらぬ。誰も、この扉を開けてはおらぬ。

 それでも、見守り続けねばならぬのだ」


 幼いラオシャンには、その言葉の真意が理解できなかった。

 中身も分からないものを、なぜそこまでして守り続けるのか。


 だが、師の次の言葉が、ラオシャンの魂に深く刻み込まれた。


「この扉が、もし開く時が来たら。……その時、この寺は、もはや寺だけのものではなくなる」

 ドルジェ師の声には、明確な畏怖が混じっていた。

「山も、国も、そして世界も、すべてが変わってしまうだろう。

 ……だからこそ。我々は、何も起きていない平和な朝を、毎日確かめるのだ。

 それが……お前の、最初の仕事だ。頼んだぞ、ラオシャン」


 師から直々に「世界に関わる仕事」を任された。

 幼いラオシャンは、その時、胸が熱くなるのを感じた。自分のような不器用な子供が、とても大切な、誇り高い役目を任されたのだと信じた。

 彼は、小さな胸を張り、力強く頷いた。


 ***


 白蓮峰寺には、何百年も前から書き継がれている古い『記録簿』が存在する。


 それは、歴代の扉の守り役の僧たちが、毎朝の確認の結果を一筆一筆、墨で記してきた、寺の歴史そのものとも言える分厚い和紙の束であった。


 その記録簿のページをめくると、そこには、気の遠くなるような長い年月をかけて、全く同じ文言だけが、ただひたすらに並べられている。


『聖域、今日も閉じたり』

『聖域、今日も閉じたり』

『聖域、今日も閉じたり』


 何百年もの間、ただの一度の例外もなく。

 寺院が出来てからずっと、その扉は厳重に封印され続けている。

 誰も開けた者はいない。誰もその中を覗き見た者はいない。そして、自然に開いたという記録も、たったの一度たりとも存在しなかった。


 寺の古い伝承では、その石の扉の奥深くには、【神話の遺産】と呼ばれる、世界を根底から覆すほどの何かが封じられているとだけ言い伝えられてきた。

 だが、それがどのような形をしているのか、それがもたらす本当の効果が何なのか、この寺の僧侶たちの誰一人として知る者はいない。

 知っているのは、それが決して外に出してはならないものである、ということだけだ。


 扉は、閉じている。

 閉じているからこそ、それは守られている。

 それが、この白蓮峰寺に伝わる、絶対的な認識であった。


 ***


 ラオシャンの人生は、文字通り、その「開かずの扉」と常に共にあった。


 少年の頃。

 厳しい修行に疲れ果て、眠い目をこすりながら薄暗い回廊を歩き、扉を見た。

 扉は、冷たく閉じていた。


 青年になり、難しい経典の暗唱を覚え、険しい山道を息を切らさずに駆け上がれるほど強靭な肉体を手に入れた時も。

 彼は毎朝、扉を見た。扉は、変わらず閉じていた。


 やがて、彼を導いてくれた師ドルジェが病に倒れ、床から起き上がれなくなった悲しい朝も。

 彼は涙をこらえながら回廊を歩き、扉を見に行った。

 扉は、主の死を悼むこともなく、ただ静かに閉じていた。


 師の葬儀が行われ、煙がヒマラヤの空へと昇っていった朝も。

 彼は、誰よりも早く起き、扉を見に行った。

 そして、師が遺したあの古い記録簿に、震える筆で書き記した。


『聖域、今日も閉じたり』


 外の世界では、九十年という歳月の間に、あまりにも多くのことが起こった。


 国境線は何度も引き直され、血みどろの世界大戦が起き、インドが独立を果たし、政治の体制は根底から覆った。

 空には飛行機が飛び交い、通信技術は世界を瞬時に繋ぎ、宇宙には無数の人工衛星が打ち上げられ、インターネットという見えない網が人類を覆い尽くした。


 そして今、世界は『アーティファクト』という未知の力に狂奔し、新たな争いの時代へと突入している。


 だが。

 どれだけ世界が狂騒に包まれようとも、どれだけ時代が移り変わろうとも。

 ラオシャンは、毎朝、ただ静かに扉の前に立った。


 扉は、閉じていた。


 九十年以上。三万日を超える長い長い時間。

 彼は、ドルジェ師との約束を守り、「開かないものが、開かないままであること」を、ただ一人で確認し続けた。

 彼の曲がった背中と、深く刻まれたシワは、その気の遠くなるような忍耐と時間の重さを証明していた。


 ***


 だが、最近。

 ラオシャンは、自分の肉体の限界と老いを自覚するにつれ、一つのことを真剣に考え始めていた。


 そろそろ、この役目を、一番若い見習い僧に引き継ぐべき時が来たのではないか。


 その見習いの名は、テンジンといった。


 まだ十代半ばのその少年は、かつてのラオシャン以上に不器用だった。

 朝の起床は誰よりも遅く、掃除をさせればよく水桶につまずいて転び、読経の最中には集中力が切れてしょっちゅう声が裏返る。

 他の僧侶たちは、テンジンのふがいない態度によくため息をついていた。


 だが、ラオシャンは見ていた。

 テンジンが、寺の掃除をしている最中。あの「開かずの扉」へ続く回廊の前を通る時だけは、箒を動かす手を止め、ふざけた態度を収めて、少しだけ静かな、畏敬の念を込めた瞳でその奥を見つめていることを。


 ラオシャンは、不器用で何をやっても上手くいかないテンジンの姿に、九十年前の、幼かった自分自身の姿を重ね合わせていた。


「……守るとは、何かを自分一人の手で抱え込み、墓場まで持っていくことではない」


 ラオシャンは、擦り切れた数珠を撫でながら、仏の教えに照らし合わせて考える。

「守るとは……次の手へ、静かに、そして確実に渡していくことだ。

 ドルジェ師が、あの朝、未熟だった私にこの役目を渡してくれたように。……私もまた、去る前に、彼に渡さねばならないのだ」


 明日、テンジンを呼ぼう。

 そして、あの回廊の奥へと連れて行き、師が自分に言ってくれたあの言葉を、今度は自分が彼に伝えてやろう。


『開かぬものが、開かぬままであることを確かめるためだ』と。


 だが。

 今日だけは。……もう一度だけ、自分一人きりで、あの扉に朝の挨拶をしよう。


 ラオシャンはそう心に決め、いつものように、重い足を引きずって石の回廊を歩き出した。


 ***


 ヒマラヤの朝の空気は、肺が凍りつくほどに冷たい。

 外では、風に煽られた祈祷旗がパタパタと鳴り、遠くの堂宇からは、若い僧たちが読経の準備をする微かな物音が聞こえてくる。

 いつもと変わらぬ、白蓮峰寺の穏やかな朝の風景だった。


 ラオシャンは、薄暗い石の回廊を、杖をつきながらゆっくりと進む。

 見慣れた石積みの壁。

 見慣れた冷たい床。

 見慣れた、何百年も火が灯され続けてきた黒い灯明の跡。


 そして。

 回廊の突き当たり。


 聖域の扉の前に、彼は着いた。


 ラオシャンは、そこで、ピタリと足を止めた。


 呼吸が、止まった。

 手から、乾いた音を立てて、菩提樹の数珠が石の床へと滑り落ちた。


 扉が。

 九十年以上、ただの一度たりとも動くことのなかった、あの巨大な石の扉が。


【開いている】。


 ほんの、わずかだった。指が数本入る程度の、微かな隙間。

 だが、あの強固に密閉されていた扉が、確実に、自らの意志で動いたように、内側に向けて開いているのだ。


 ラオシャンは、目をこすり、自分の老いた目が幻覚を見せているのではないかと疑った。

 だが、九十年以上、毎朝毎朝、穴が空くほど見つめ続けてきた扉だ。見間違えるはずがなかった。


 そして、その開いた扉の細い隙間から。

 まるで夜明けの太陽の光を凝縮したかのような、清冽で、神々しい【白金色の光】が、回廊の暗闇に向かって一条の線となって漏れ出していた。


 さらに、その光とともに。

 嗅いだことのない、脳の髄が直接痺れるような、甘く、そして極めて純度の高い【芳香】が、冷たい風に乗って漂ってきた。


 ラオシャンは、ガタガタと震える膝を抑えきれず、その場に崩れ落ちるようにして両膝をついた。


 彼の脳裏に、九十年前の、ドルジェ師のあの低い声が、鮮明に蘇ってきた。


『この扉が開く時、寺は寺だけのものではなくなる』

『山も、国も、そして世界も、変わる』


 ドルジェ師は、予言していたのだ。

 いつか必ず、この扉が開く朝が来ることを。そして、その時が来れば、この静かな寺院は、世界の激動の中心へと投げ出されることになるということを。


 ラオシャンは、漏れ出す白金色の光に額を擦り付けるようにして平伏し、枯れ木のような手で床を掻き毟りながら、震える声で呟いた。


「……師よ」


 九十年間、待ち続け、同時に恐れ続けていたその瞬間に。

 彼の目からは、止めどなく涙が溢れ出していた。


「……開きました」


 ***


 ラオシャンは、すぐにはその隙間に手を入れることはしなかった。扉の奥へと踏み込むこともしなかった。


 九十年以上、ただひたすらに「守り続けてきた」彼だからこそ。その未知の神域に、己のような老いぼれが不用意に足を踏み入れるべきではないと、本能で理解していたのだ。


 彼は、最後の力を振り絞って立ち上がると、回廊を引き返し、本堂の脇にある、寺院に致命的な危機が迫った時(緊急時)にしか鳴らしてはならないとされる『大鐘』の元へと急いだ。


 ゴォォォォン……!

 ゴォォォォン……!!


 ヒマラヤの静寂を切り裂くように、重く、激しい鐘の音が、白蓮峰寺の全域に鳴り響いた。

 突然の異常事態に、僧侶たちが何事かと慌てふためきながら本堂の広場へと集まってくる。

 引き継ぎの相手として考えていた見習いのテンジンも、寝癖を爆発させたまま、袈裟を半分しか着ていないだらしない姿で、目を丸くして駆け込んできた。


 ラオシャンは、集まった僧侶たちを率いて、再びあの聖域の回廊へと向かった。


 そして、僧侶たちは皆、開いた石の扉と、そこから漏れ出す白金色の光を見て、完全に言葉を失い、その場に平伏した。

 テンジンもまた、信じられないものを見るような目で、その光に魅入られていた。


 ラオシャンは、僧侶たちの一人に持ってこさせた、あの古い『記録簿』を開いた。

 歴代の僧が、何百年にもわたって書き継いできた、寺の不変の歴史。


『聖域、今日も閉じたり』

『聖域、今日も閉じたり』


 その、永遠に続くかと思われた同じ文言の連なりの、一番最後の行。


 ラオシャンは、震える手で筆を握り、墨をたっぷりと含ませた。

 そして、九十年の人生で初めて。

 彼は、その記録簿に、全く新しい文字を書き入れた。


【聖域、今朝、開きたり】


 そのたった一文が。寺院創建以来続いてきた歴史を終わらせ、新たな神話の幕を開けた。


 事態は、即座に動いた。

 白蓮峰寺の長老たちによる緊急の合議が行われ、この異常事態は、山を降りる使いの僧によって、麓の地方行政局へと伝えられた。

 そこから、暗号化された緊急通信が、州政府へ。

 州政府から、中央の内務省へ。

 そして、未確認事象を統括する【チャクラ・プロジェクト】のデスクへと、その報告はリレー形式で駆け上っていった。


 最初、チャクラ・プロジェクトの分析官たちは、その報告を「また地方の寺の誇大妄想か」と疑った。

 だが。

 寺院から送られてきた、扉の隙間から漏れ出す異常な光の映像データと、寺の歴史そのものである『記録簿』の写しを見た瞬間。

 プロジェクト本部を支配していた退屈な空気は、一瞬にして爆発的な熱狂と極度の緊張へと変わった。


 寺院創建以来、ただの一度も開いたことのない聖域が、今朝、ひとりでに開いた。

 古代の伝承の中にしか存在しなかった『神話の遺産』が。

 ついに、回収可能な【現実の案件アーティファクト】として、彼らの目の前に姿を現したのだ。


 ***


 ニューデリー、首相官邸。


 その日、アニル・チャンドラ首相は、主要閣僚を集めた経済政策の会議の真っ最中であった。

 だが、会議室の扉が静かに開き、顔面を蒼白にした側近が、チャンドラ首相の耳元で何かを囁き、タブレット端末をテーブルの上に置いた瞬間。


 チャンドラ首相の表情が、劇的に変わった。


 周囲の閣僚たちが息を呑む中、首相はタブレットに表示された【極秘報告書】の見出しに目を通した。


『ヒマラヤ奥地、白蓮峰寺。寺院創建以来封印されていた開かずの聖域が、開門』


 チャンドラ首相は、会議の議長役を即座に止め、側近に通信を繋がせた。

 画面越しに、チャクラ・プロジェクトのプリヤ・ナーラーヤン長官が、緊張で強張った顔で敬礼した。


「……詳細を言え」

 チャンドラ首相は、逸る心を抑えつけ、低く命じた。


「現地の最長老、ラオシャンという僧からの直接の報告です」

 プリヤ長官は、送られてきたデータを示しながら、簡潔に状況を説明した。

「当該の聖域の石扉は、寺院が創建されて以来、一度も開いたという記録がありません。歴代の僧が、毎朝確認し、閉じていることを記録し続けてきました。

 ……その扉が、今朝、外部からの物理的な干渉を一切受けずに、ひとりでに開きました」


 プリヤ長官は、画面の映像を、あの白金色の光が漏れる扉のものに切り替えた。


「寺の古い伝承では、この聖域の奥には……【神話の遺産】が封じられているとされています」

 プリヤ長官は、慎重に言葉を選んだ。「現在のところ、内部の詳細は不明です」


 彼女は、それが何をもたらすのか、その正体が何なのか、一切の推測を口にしなかった。

 ただ、「開かずの扉が開いた」ということ。そして「そこに神話の遺産があるかもしれない」ということだけを、純粋な事実として首相に伝えた。


 チャンドラ首相は、タブレットの画面に映る白金色の光を見つめたまま、静かに目を閉じた。


 焦りと無力感の中で、彼が喉から手が出るほど待ち望んでいた「インドのアーティファクト」の報告。

 しかし、いざそれが現実のものとして突きつけられた時、彼の胸を満たしたのは、単純な喜びや高揚感ではなく……とてつもなく重い、国家の命運を背負うという巨大な重圧プレッシャーであった。


「……ついに、来たか」


 チャンドラ首相が呟いたその一言で、経済会議は完全に解散となり、直ちに国家安全保障の【緊急会議】へと移行した。


 ***


 官邸地下の会議室。


「総理! 現地を、直ちに軍で完全封鎖・確保すべきです!」

 国防相が、机を叩いて強硬な主張を繰り広げた。

「もしそれが本物のアーティファクトであり、アメリカやロシアに匹敵する戦略的価値を持つものであれば、一刻の猶予もありません! 一個師団を派遣し、寺院ごと軍の管理下に置くべきです!」


「馬鹿なことを言うな!」

 文化相が、激怒して立ち上がった。

「白蓮峰寺は、何百年も地元の人々の信仰を集めてきた神聖な場だ! そこに土足で軍靴を踏み入れ、強権的に聖域を接収すれば、チベット仏教徒だけでなく、全国の宗教コミュニティから猛反発を受ける! インド国内が完全に割れて、内戦になりかねないぞ!」


「だが、モタモタしていれば、外国のインテリジェンス勢力や、闇の民間ブローカーに情報が漏れます!」

 情報機関のトップが、現実的なリスクを警告する。

「すでにヒマラヤ周辺には、中国の仙人筋の工作員や、アメリカの偵察衛星の目があります。我々が動く前に彼らに横取りされれば、インドは二度と立ち直れません」


 閣僚たちの意見は、真っ二つに割れ、激しく対立した。

 アーティファクトを軍事的に確保したい国防派と、国内の信仰と安定を守りたい文化派。


 その激論の中、チャクラ・プロジェクトのプリヤ長官が、静かに進言した。


「……寺院側との協議と尊重を最優先としつつ。……科学、軍の特殊部隊、宗教行政の専門家、そして情報保全チームを完全に統合した【特別調査隊】を編成し、派遣するべきです」


 チャンドラ首相は、閣僚たちの怒号とプリヤ長官の冷静な進言をすべて聞き終えると。

 ゆっくりと立ち上がり、両手をテーブルについて、会議室の全員を威圧するような鋭い視線で見渡した。


「……これは、インドという国家の未来を左右する、重大な転換点だ」


 首相の低く力強い声に、閣僚たちが静まり返る。


「我々は、アーティファクトの力を手に入れねばならない。……だが」

 チャンドラ首相は、言葉に力を込めた。

「インドが何千年もかけて守ってきた信仰と歴史を、我々インド政府自身の手で踏みにじるような真似は、絶対に許されない」


 首相は、最終的な決断を下した。


「国内最高の精鋭を集めた、【特別調査隊】を編成し、直ちに白蓮峰寺へ派遣する」


「名目は、『国家遺産保全及び未確認事象の調査』とする」

 チャンドラ首相は、国防相に釘を刺すように言った。

「軍は、あくまで調査隊の『護衛』であり、主役ではない。……寺院の強制接収は、いかなる理由があろうとも認めない。寺院の長老たちの信仰と儀礼を、最大限に尊重せよ」


 そして、首相は情報機関トップへ視線を移す。


「……だが、他国にだけは、絶対に先んじろ。この遺産は、我々インドの土壌から生まれた、我々の神話だ」


 チャンドラ首相は、モニターに映る白蓮峰寺の映像を見据え、最後に、自らの退路を断つような覚悟の言葉で、この会議を締めくくった。


「……国家の未来を賭ける」


 ラオシャンからの報告を受けたアニル・チャンドラ首相は、国家の未来を賭け、国内最高の精鋭を集めた特別調査隊を派遣した。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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いよいよインドも参戦か。チベット仏教だから思想系かな?
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