103話 安酒の夜 ― 天秤の下で
――第一拠点・中層区画。
刻印室を出た後も、
左脇腹の天秤は、まだ熱を持っていた。
深い緑。
その中央を、細い銀が走る。
完全ではない均衡。
揺れ続ける印。
アシュレイは、無意識にそこへ触れそうになり、やめた。
その瞬間――
「アシュレイ随分疲れた顔しているな」
カインの声が響いた。
振り向けば、案の定。
裸エプロン。
「……それ儀式のあと必須なのか?」
ネロが呆れる。
「刻印と飯はセットだ。刻印の儀式は体力使うからな。」
カインは真顔だ。
「天秤は腹で支える」
◆◆◆
テーブルに並ぶ料理は豪華だった。
第一拠点近海で獲れた白身魚の炭火焼き。
鹿背肉の低温ロースト。
灰港から運ばれた柑橘とハーブのソース。
骨から丁寧に引いた出汁の澄んだスープ。
焼きたてのパン。
そして中央に置かれた、大皿。
分厚い鹿肉ステーキ。
「今日の火は強めだ」
カインが言う。
「主役だからな」
アシュレイが笑う。
「雑だな」
「繊細だ」
譲らない。
◆◆◆
全員が席に着く。
ソフィアが立つ。
だが、グラスは持たない。
ネロが小さく笑った。
「違うだろ」
そう言って、棚の奥から瓶を取り出す。
埃をかぶった、小さなガラス瓶。
ラベルは色褪せ、
値段も安い。
「……それは」
カサンドラがわずかに目を細める。
「結成時のだ」
ネロが言う。
「一番最初に乾杯した酒」
ダリオが笑う。
「特別旨いわけじゃねえが」
「これで乾杯するのが伝統だ」
ラザロが淡々と補足する。
「新メンバー加入時に開ける」
カインが瓶を掲げる。
「ゼロバレットの安酒だ」
◆◆◆
グラスに少量ずつ注がれる。
香りは強くない。
むしろ粗い。
だが――
それが始まりの味。
ソフィアがグラスを持つ。
全員が続く。
アシュレイも、グラスを受け取る。
「これはな」
ネロが言う。
「最初に飲んだ酒だ」
「何も持ってなかった頃の」
カサンドラが静かに続ける。
「都市もなかった」
「補給もなかった」
ラザロ。
「ただ、思想だけがあった」
ダリオ。
「そして無謀さ」
ネオン。
「今よりずっと不安定」
カイン。
「でも、腹は減ってた」
カリナが鼻で笑う。
「今より貧乏だったわね」
ルアンが静かに言う。
「だが、均衡はあった」
◆◆◆
ソフィアがアシュレイを見る。
「ゼロバレットへ、ようこそ」
一拍。
「天秤を背負う者として」
全員がグラスを掲げる。
「乾杯」
安酒が喉を通る。
強い。
荒い。
だが、温かい。
◆◆◆
アシュレイが少し咳き込む。
「……きついな」
ネロが笑う。
「初心を忘れない味だ」
ダリオが肩を叩く。
「これから毎回飲むぞ」
カインが肉を皿に乗せる。
「腹に入れろ。刻印が落ち着く」
カリナが言う。
「死ぬなよ」
ラザロ。
「任せる場面は増える」
ネオン。
「正式登録完了」
ルアン。
「共に均衡を保とう」
カサンドラ。
「期待している」
最後に、ノア。
静かにグラスを上げる。
「よろしく」
短い。
だが、拒絶はない。
◆◆◆
食事が始まる。
笑い声が混じる。
ネロが昔話を始める。
「結成当初はな、銃も揃ってなかった」
ダリオが続ける。
「噂だけで仕事取ってた」
カインが笑う。
「飯も適当だった」
カリナ。
「今より酷かった」
ソフィアが小さく微笑む。
「それでも、崩れなかった」
◆◆◆
ノアは、その光景を見ている。
誰かが加入し、
全員が囲み、
同じ酒を飲む。
以前の戦場にはなかった。
「……残るな」
小さく呟く。
ソフィアが聞く。
「何が?」
ノアは、少し考える。
「時間が」
ソフィアは頷く。
「そうね」
「こういう時間が私は一番好き」
◆◆◆
アシュレイが立ち上がる。
グラスを置く。
左脇腹の深緑の天秤が、わずかに光る。
「……これからよろしく頼む」
静かだが、確かな声。
ネロが肩を叩く。
「もう仲間だ」
カインが笑う。
「もう食わせる」
カリナ。
「もう蹴る」
ダリオ。
「もう守る」
ラザロ。
「もう任せる」
ルアン。
「もう共に立つ」
カサンドラ。
「もう均衡の一部」
ネオン。
「もう登録済み」
リリス。
「もう家族です」
最後に、ソフィア。
「もう、ゼロバレットよ」
◆◆◆
湖面の月が揺れる。
安酒の瓶が、再び棚へ戻される。
まだ少し残して。
次の加入者のために。
ゼロバレットは、都市を得た。
――次回更新:3月14日17:30公開予定
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『ゼロバレット』続編、104話「 」――
をお楽しみに!




