密室の異変
メインラウンジの喧騒が、突然、不自然なほどに静まり返った。カケルは、手元の宇宙雑誌をそっと閉じ、顔を上げた。この種の「異変」には、彼らは敏感だ。ほんの数秒前まで心地よく流れていたラウンジの音楽が、まるで何者かに強制的に切られたかのように途絶えたのは、その予兆だった。
「何だ?」
イヴァンが低い声で呟く。彼の視線は、すでにラウンジの中心に固定されていた。屈強な体躯を持つ彼だが、その動きは常に俊敏だ。
「ラウンジ中央で、急激な空気の淀みを確認。酸素濃度、心拍数、急上昇。複数のパニック反応が検出された」
ノアが、即座に手元のタブレット端末に表示された生体データを読み上げた。彼の指は、もう既に列車の全システムにアクセスしようと動き始めていた。
カケルは、ラウンジの中央、アルヴァンド・クレイン氏が座っていた特等席へと視線を向けた。遠目にも、その場で何かが起こっているのは明らかだった。人々の視線が一点に集中し、悲鳴ともつかない声が、抑えきれないかのように漏れ聞こえてくる。
「クレイン氏だ……」
エミリーが、ほとんど無意識に呟いた。彼女の瞳は、既に状況の全貌を把握しようと、ラウンジ全体を高速でスキャンしていた。人々の動き、表情、そしてクレイン氏の護衛たちの動揺。全てが、彼女の脳内でデータ化されていく。
その瞬間、けたたましい非常ベルが鳴り響いた。
『警告!警告!メインラウンジ車両にて緊急事態発生!全ての旅客は現状を維持し、指示に従ってください!』
列車内のアナウンスAIの無機質な声が響き渡る。その直後、ラウンジの四方の壁から、頑丈な金属製のシャッターが音を立ててせり上がり始めた。乗客たちの退路を塞ぐように、瞬く間に空間を封鎖していく。
「密室になった」
カケルが静かに言った。彼の顔には、予期していた事態が起きたことへの、わずかな緊張感が走る。しかし、それは動揺とは違う。むしろ、任務への集中を深める兆候だった。彼の脳裏で、アラン局長の言葉が反響する。「何が起こっても不思議ではない」。
「通信遮断も同時だ」
ノアが素早く報告する。
「メインラウンジ区画は、外部から完全に隔離された。ここから外部へのアクセスは不可能、逆も然りだ」
シャッターが完全に閉まりきると、ラウンジは重苦しい静寂に包まれた。そして、その沈黙を破るかのように、護衛の一人の悲痛な叫びが響いた。
「クレイン議員!クレイン議員!!」
クレイン氏が倒れ込んだ場所に、ドロイド警備員や車掌が駆け寄る姿が見える。状況は、一瞬で最悪の事態へと転じた。
「行くぞ」
カケルが小さく、しかし明確に指示を出した。
「隠密で頼む。まだ状況は不明だ。我々がGRSIだと悟られてはいけない」
彼らは、警乗という名目で一般客に紛れ込んでいる。緊急事態とはいえ、即座に身分を明かして行動することは、かえって彼らの任務を複雑にする可能性があった。彼らはあくまで「ただの乗客」として、情報収集を行う必要があった。
イヴァンは、その指示に従い、人々の混乱に乗じて、素早く行動を開始した。彼は、パニック状態の乗客たちが形成する人波に紛れ込み、クレイン氏が倒れた場所へと静かに近づいていく。体躯の大きさは目立つが、群衆の中に身を置けば、かえって目立たない場合もある。彼の視線は、クレイン氏の身体の状態、そして周囲の乗客の反応を観察していた。
ミリアムは、顔をしかめていた。
彼女は、今、メインラウンジ全体に満ちる空気が、かつてないほどに重く、ざらついているのを感じていたのだ。悲鳴、混乱した会話、恐怖に震える呼吸音。それらが彼女の頭の中で嵐のように渦巻き、明確な情報を得ることを妨げている。しかし、そのざわめきの奥底で、かすかに、けれど確かな「何か」が、これまで感じたことのないほど強く、不穏に「振動している」のを感じた。それは、クレイン氏のテーブルの方向から発する、奇妙な「変質」した空気の塊だった。
彼女は、それが何を意味するのか、まだ理解できないでいたが、ただ漠然と、それが事件の核心に関わる何かであるという予感を抱いていた。
エミリーは、ラウンジの混乱に乗じて、壁際の柱の陰へと移動した。彼女の狙撃手の目は、常に状況を全体的に把握しようとする。クレイン氏が倒れた場所から、彼の護衛、そしてラウンジに残された乗客たちの顔を、一人ひとり確認していく。ヴェラ・シモンズの険しい顔、ライラ・ハディッドの焦り、そしてドミニク・カーターの無表情。それぞれの乗客が持つ感情が、彼女の視界に映る。彼らの誰もが犯人である可能性があった。
ノアは、既に彼らのテーブルの下に身を屈め、端末を操作している。メインラウンジのシステムは封鎖されたが、彼は列車全体のシステムを掌握しようと試みていた。監視カメラのバックアップ映像、各乗客のデータ、列車の内部構造図。デジタル情報の海から、事件の手がかりを探し出す。
「ラウンジ内部の監視カメラ、一部がオフラインだ。これは意図的な操作の痕跡がある」
ノアの冷静な声が、耳元のインカムから聞こえてくる。
「何者かが、事前に仕込んでいた可能性が高いな」
カケルが答える。彼の視線は、クレイン氏のテーブルへと向けられていた。護衛たちが、クレイン氏の身体をそっと横たえる。彼の口元からは、赤い液体が流れ続けていた。
「死因は毒物か?」
イヴァンが、無線で問いかける。
「その可能性が高い。毒物中毒の初期症状に似ている」
エミリーが冷静に分析する。
「毒物の種類は特定できるか?ノア」
カケルが尋ねる。
「現在、分析を試みている。だが、外部からの物質持ち込みには、厳重なチェックがあったはずだ。どうやって運び込んだのか……」
ノアの声に、わずかな苛立ちが混じる。
状況は混迷を極めていた。列車は密室。容疑者は限られた乗客の中にいる。そして、何よりも、誰が、何の目的で、クレイン氏を殺害したのか、現時点では全く不明だ。政治的な対立、個人的な怨恨、あるいは全く別の動機か。
「各自、情報収集を続けろ。外部からの指示を待たず、ここでの状況を把握する。決して、動揺するな」
カケルの指示が、インカムを通じて他のメンバーに伝わる。彼らは、それぞれの持ち場で、静かに、しかし確実に任務を遂行しようとしていた。
メインラウンジは、今や、豪華な装飾とは裏腹に、不気味な密室と化していた。美しい星々の輝きが窓の外を流れる中、その内部では、銀河の未来を揺るがしかねない、闇の事件が静かに、そして確実に幕を開けていたのだ。チームYの若きエージェントたちは、まだその事件の深淵を窺い知ることはできない。だが、彼らの戦いは、今、始まったばかりだった。