静寂を破る死
「では、銀河の新たな調和に、乾杯」
その時だった。
クレイン氏の口元が、わずかに引きつった。グラスから視線を外し、彼の瞳が大きく見開かれる。鮮やかな赤色の液体が、彼の口角から一筋、スーッと流れ落ちた。一瞬、それが何なのか理解できなかった要人たちが、次の瞬間、絶句した。
「ぐっ……があぁあ!」
クレイン氏の喉から、苦悶の呻きが漏れ出た。彼は、手にしたグラスをガシャンと音を立てて床に落とし、両手で喉元を強く押さえつける。その白いローブに、赤い染みがみるみるうちに広がっていく。呼吸が荒くなり、まるで魚が水から引き上げられたかのように、口をパクパクと開閉する。
メインラウンジの賑わいは、一瞬で凍りついた。音楽が突然、ブツリと途切れたかのような静寂が訪れる。乗客たちは、何が起こったのか理解できず、ただ呆然とクレイン氏の苦しむ姿を見つめていた。
「クレイン議員!?」
彼の隣に座っていた要人が、驚愕の声を上げた。他の者たちも、ようやく事態を把握し、悲鳴やざわめきがラウンジを満たしていく。
「お、おい!どうしたんだ、クレイン!」
「誰か、医者を!早く!」
クレイン氏の護衛たちが、即座に駆け寄る。彼らは訓練された動きでクレイン氏を支え、簡易的な医療キットを取り出して処置を試みるが、その顔には明らかな動揺が見て取れた。クレイン氏の身体は痙攣し、呼吸はさらに弱々しくなっていく。彼の瞳は虚空を見つめ、生命の光が急速に失われていくのが分かった。
エドワードは、恐怖で身体が硬直していた。目の前で繰り広げられている光景が、まるで悪夢のようだった。数秒前まで優雅に談笑していた人物が、なぜこんなことに?彼の脳裏に、「記憶の欠落」の空白が、まるでこの状況と結びついているかのように、不気味な影を落とす。
「毒だ!猛毒だ!」
護衛の一人が、青ざめた顔で叫んだ。その言葉に、ラウンジは再び混乱の坩堝と化した。悲鳴が上がり、人々は我先にと出口へと向かおうと動いた。
その時、メインラウンジの入り口付近に設置された非常ベルが、けたたましく鳴り響いた。
『警告!警告!メインラウンジ車両にて緊急事態発生!全ての旅客は現状を維持し、指示に従ってください!』
列車内のアナウンスAIの無機質な声が響き渡る。その直後、ラウンジの四方の壁から、頑丈な金属製のシャッターが音を立ててせり上がり始めた。乗客たちの退路を塞ぐように、瞬く間に空間を封鎖していく。
「何だこれ!?」
「閉じ込められたのか!?」
乗客たちの間に、パニックが広がる。窓際のヴェラ・シモンズは、怒りとも恐怖ともつかない表情でシャッターを見つめていた。ライラ・ハディッドは、震える手でノート端末を操作しようとするが、通信は既に遮断されている。ドミニク・カーターは、無表情のまま、ただクレイン氏の倒れる場所を凝視していた。
そして、そのわずか数秒後。
「ぐ……っ……」
クレイン氏は、最後の苦悶の声を絞り出すと、大きく目を見開いたまま、その場でぐったりと倒れ込んだ。彼の身体はぴくりとも動かない。口元から流れ出た血は、美しいローブの上で、見るも無残な染みとなっていた。
「クレイン議員!クレイン議員!!」
護衛の一人が、必死に呼びかけるが、彼の声は空しく響くだけだった。ラウンジ全体が、深い絶望と恐怖の静寂に包まれた。
その沈黙を破ったのは、ラウンジの自動ドアが開く音だった。屈強な身体のドロイド警備員と、顔色の変わった車掌が飛び込んできた。彼らの顔には、何が起こったのかを理解しきれない困惑と、緊急事態への緊張が入り混じっていた。
「何事ですか!?何が起こったのですか!」
車掌が、その場にいた乗客たちに問いかける。彼もまた、サファイア・エクスプレス号の歴史上、これほどの大事件に遭遇したのは初めてのことだろう。
「クレイン議員が……毒を盛られたんです!今、息を引き取られた!」
護衛の一人が、震える声で答えた。車掌の顔から血の気が引いていく。
『お客様にお知らせします。メインラウンジ車両にて事件が発生しました。お客様は、乗務員の指示があるまで、その場から動かないでください』
車掌の指示は、自動アナウンスによって列車全体に響き渡った。ドロイド警備員たちは素早くラウンジ内に散開し、乗客たちの動きを制止する。彼らの瞳は、疑いの色を帯びて、ラウンジに残された数少ない乗客たちを順に見て回っていた。
エドワードは、その光景をぼんやりと見ていた。彼の耳には、車掌の言葉も、警備員の動きも、ほとんど届いていなかった。彼の視線は、床に横たわるクレイン氏の冷たくなった身体に釘付けになっていた。
(なぜだ……なぜ、こんなことに……)
彼の心の奥底で、得体の知れない感情が渦巻き始める。それは、恐怖でも、悲しみでもない。何か、彼自身でも理解できない、冷たく、そして鋭い感情の奔流だった。頭の奥で、再びあの微かなざわめきが大きくなる。
そして、エドワードの意識は、ふと、数秒前の光景を捉え返した。クレイン氏がグラスを口にする、その直前。彼自身の手が、クレイン氏のテーブルの近くに伸びていたような……。
彼は自分の手を見下ろした。何もない。だが、その指先が、わずかに震えているような気がした。
「一体、何が……」
彼の喉から漏れた声は、あまりにも小さく、メインラウンジの重苦しい沈黙の中に、かき消されていった。列車は、何事もなかったかのように、広大な宇宙の暗闇の中を、静かに航行を続けていた。その内部で、恐ろしい密室殺人が起きたことなど、微塵も感じさせないほどに。