ラウンジの静かなざわめき
エドワードは、空になったカクテルグラスをテーブルの隅に押しやり、改めて手元のデータパッドに視線を落とした。明日の商談の資料が、ホログラムで鮮やかに浮かび上がっている。貿易会社の経営戦略、市場の動向、そして競争相手の最新情報。
普段であれば、こうした数字の羅列は彼の心を躍らせるものだったが、今はどこか上の空だった。記憶の欠落による漠然とした不安が、彼の意識の底に澱のように沈んでいる。
メインラウンジの賑わいは、時間が経つにつれていくらか落ち着きを見せていた。ディナーの時間が近づき、多くの乗客がそれぞれの個室へと戻り、身支度を整えているのだろう。それでも、ラウンジにはまだ、クレイン氏を中心に数組の乗客が残っていた。
クレイン氏は、特等席で護衛に囲まれながらも、複数の要人たちと活発な意見交換を続けている。彼の穏やかな笑顔は変わらないが、その声のトーンには、政治家特有の熱意が感じられた。エドワードは、その会話の一部が耳に入ってくるたびに、故郷ヴァロリアの瓦礫の山を思い出しかけたが、意識的に思考を断ち切った。
過去は過去だ。今の自分には、未来の商談の方が重要だ。
エドワードは、ふと周囲を見回した。ラウンジに残っているのは、彼の他に数人だ。
窓際の一番奥の席では、一人の女性が、グラスを傾けながら、熱っぽい視線でクレイン氏を見つめていた。彼女はヴェラ・シモンズ。銀河最大の資源採掘企業『ギガ・マイン』の若きCEOだ。
クレイン氏の和平協定は資源の公平な分配を謳っており、彼女の企業にとっては、その利権を脅かすものとなる可能性があった。彼女の表情は、どこか険しく、怒りにも似た感情が宿っているように見えた。
その対面のテーブルでは、銀河中の情報を扱う独立系通信社の記者、ライラ・ハディッドが、熱心にノート端末に何かを打ち込んでいる。彼女の視線はクレイン氏に釘付けで、時折、その口元が批判めいた言葉を紡いでいるのが見えるようだった。
彼女の通信社は、以前からクレイン氏の和平政策の「裏」の部分を鋭く批判してきた経緯がある。彼女もまた、クレイン氏に恨みを持つ一人かもしれない。
そして、ラウンジの入り口近くのソファでは、厳めしい顔つきの老紳士が、腕を組みながら新聞を読んでいる。彼は、ドミニク・カーター。かつて惑星連邦議会の重鎮だったが、数年前にクレイン氏の主導する派閥との政治的対立に敗れ、失脚した人物だ。引退後は表舞台から姿を消していたはずだが、なぜこの列車に?彼の新聞の裏側から覗く視線は、クレイン氏に向けられているようにも、あるいはただ虚空を見つめているようにも見えた。彼が持つのは、単なる敵対心だけではないだろう。過去の怨恨が、彼の瞳の奥で燃えているように感じられた。
エドワードは、彼ら一人ひとりに、どこか陰鬱な雰囲気が漂っているように感じた。彼らは皆、クレイン氏の政治的活動によって、何らかの形で影響を受け、そして不満を抱いているように見える。自分のように、穏やかなビジネスマンとは全く異なる、強烈な個性と、隠された感情を抱えているのだ。
「フゥ……」
エドワードは、データパッドの画面を閉じた。もう十分だ。明日の商談は万全だろう。彼は疲れてきた目を軽く擦る。先ほどから感じている、記憶の空白による空虚感と、頭の奥で聞こえる微かなざわめきが、彼を苛んでいた。
「何か、忘れ物をしているような……」
彼は呟いた。それが何を指すのか、自分でも分からない。ただ、どこか重要な、しかし思い出せない何かが、自分の意識の奥底に隠されているような、そんな気がするのだ。
その時、クレイン氏が、護衛の一人に何かを指示しているのが見えた。護衛はすぐに、ラウンジのサービスカウンターへと向かい、ギャルソンに何かを伝えている。まもなく、ギャルソンが、特別製のクリスタルグラスと、それに注がれた透明な液体をクレイン氏のテーブルへと運んでいった。どうやらクレイン氏は、ディナーの前に、特別な一杯を楽しもうとしているようだ。
エドワードは、その光景をぼんやりと見ていた。ラウンジのスピーカーからは、心地よいヒーリングミュージックが流れている。ギャルソンの足音、グラスがテーブルに置かれる微かな音、クレイン氏の低い笑い声。全てが、まるでスローモーションのように、彼の意識の中を通り過ぎていく。
彼の胸の奥で、再び、あの掴みどころのない「ざわめき」が強くなる。それは、彼の脳が、ある種の危険信号を発しているかのようだった。しかし、その警告は、あまりに漠然としていて、エドワードの意識がそれを明確な情報として捉えることはできなかった。
クレイン氏が、ギャルソンが運んできたグラスを手に取る。琥珀色の照明が、クリスタルグラスの表面で妖しくきらめく。クレイン氏は、そのグラスを軽く持ち上げ、周りの要人たちに笑顔を向けた。
「では、銀河の新たな調和に、乾杯」
彼の言葉がラウンジに響き渡り、周囲の要人たちも笑顔でグラスを掲げた。エドワードは、無意識のうちに、その光景をじっと見つめていた。まるで、その瞬間が、永遠に続くかのように。
そして、クレイン氏のグラスが、ゆっくりと彼の唇へと近づいていく。エドワードは、なぜかその光景から目が離せなかった。何か、非常に重要なことが、今、まさに起ころうとしている。その確信だけが、彼の心の中で、大きく膨らんでいく。
その時だった。