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エドワード・ヴァンス

 アルヴァンド・クレイン氏がメインラウンジに現れて以来、空気は確かに変わった。熱い視線と冷たい視線が交錯し、薄い氷が張った湖面のような緊張感が漂っている。エドワード・ヴァンスは、その変化を肌で感じ取っていた。


 彼はラウンジの片隅で、窓の外を流れる星々を眺めていた。手元には、飲みかけの「アストロ・カクテル」がある。琥珀色の液体がグラスの中で揺れ、宇宙の光をきらめかせた。彼は、クレイン氏を熱心に支持する人々の歓声と、彼に批判的な意見をささやく人々の囁きを、等しく耳にしていた。貿易会社に勤める一介のビジネスマンとして、このような政治的な渦中に身を置くのは、彼にとって慣れないことだった。


「ごきげんよう、ヴァンス様。カクテルのおかわりはいかがですか?」


 優雅な動作でギャルソンが近づいてきた。エドワードは振り返り、人当たりの良い笑顔を向けた。


「ああ、ありがとう。いや、大丈夫だ。この一杯で十分だよ」


 彼の言葉には、嘘偽りのない温かさがあった。エドワードは、誰に対しても礼儀正しく、温厚な人柄で知られている。顧客との商談でも、常に相手の立場を尊重し、穏やかな話し方で信頼を築いてきた。だからこそ、サファイア・エクスプレス号の乗客やクルーにも、すぐに打ち解けることができたのだ。彼と少しでも会話を交わせば、誰もが彼に好感を抱くだろう。


 しかし、その穏やかな笑顔の裏で、エドワードの心は、得体の知れない不安に苛まれていた。それは、最近頻繁に起こる「記憶の欠落」だった。


 つい先ほどのことだ。彼はメインラウンジにいたはずなのに、なぜか一瞬、全く別の場所に立っているような感覚に襲われた。それがどこだったのか、何を見ていたのか、思い出せない。まるで、彼の人生の一部が、ごっそり抜け落ちているような感覚。それは、ほんの数秒のことかもしれないし、数分、あるいはもっと長い時間だったのかもしれない。記憶の喪失は、彼にとって見慣れた光景だった。


 彼は、自分がなぜこのサファイア・エクスプレス号に乗っているのか、改めて考えた。たしか、重要な取引先の役員との会合のためだったはずだ。その会合の内容も、役員の顔も、きちんと頭に入っている。だが、出発前の数日間、彼の記憶は曖切りとしていた。まるで夢の中にいたかのように、曖昧模糊としたイメージしか残っていないのだ。


「またか……」


 エドワードは、小さくため息をついた。手のひらでこめかみを軽く押さえる。頭痛はしない。ただ、漠然とした空虚感だけが残る。彼は以前、この記憶の欠落について医師に相談したことがある。医師は、ストレスによるものだろうと診断し、心身の休養を勧めた。だが、エドワード自身は、自分がそれほどストレスを感じているとは思えなかった。むしろ、最近は、妙に活動的で、普段なら尻込みするような仕事にも積極的に取り組んでいたような気もする。その記憶も、断片的で確かなものではないのだが。


 彼は、ふとメインラウンジの中央に視線を向けた。アルヴァンド・クレイン氏が、多くの人々に囲まれて笑顔を見せている。クレイン氏の推進する和平政策は、エドワードが住む星系にも大きな影響を与えていた。ヴァロリア星系。彼の故郷だ。


 ヴァロリアは、かつて資源を巡る紛争で荒廃した星系だった。惑星連邦による「協調介入」という名目の軍事行動が行われ、その結果、多くの犠牲者が出た。


 エドワードの家族も、その犠牲者の中にいた。幼い彼にとって、それはあまりに衝撃的な出来事だった。彼は、瓦礫と化した故郷を、泣きながら彷徨い歩いた記憶がある。しかし、その記憶もまた、なぜか鮮明さを欠いている。まるで、過去の出来事を見ているようで、どこか現実感がなかった。


 クレイン氏は、その「協調介入」を主導した一人だったと聞いている。当時若手議員であった彼が、和平のためには必要な犠牲だと説明した、と。


 エドワードは、その事実を知った時、心の中で複雑な感情が渦巻いたのを覚えている。怒りや悲しみ、あるいは諦め。だが、彼自身がクレイン氏に対して、個人的な恨みを抱いているかといえば、そうではない。彼の政策によって多くの命が救われたという報道も、耳にしていたからだ。


「複雑な時代だ」


 エドワードは、小さく呟いた。彼の言葉は誰に聞かれるでもなく、ラウンジの賑わいに吸い込まれていった。彼の記憶の空白が、時折彼を不安にさせることはあっても、彼自身は自分が何らかの「問題」を抱えているとは夢にも思っていなかった。彼は、このサファイア・エクスプレス号での旅を、取引先の役員との商談を成功させ、そして少しばかりの休息を楽しむ機会だと考えていた。


 グラスに残った琥珀色のカクテルを一気に飲み干す。その瞬間、彼の視界の端に、先ほどから自分を観察しているかのような、鋭い視線を感じた。ふと、その視線の主を探そうと顔を上げたが、ラウンジにいる誰もがそれぞれの時間を過ごしているように見える。気のせいだろうか?


 エドワードは、空になったグラスをテーブルに置いた。この後、明日の商談の準備をするつもりだった。彼には、まだ為すべきことがたくさんあった。

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