アルヴァンド・クレイン
メインラウンジの壁面に埋め込まれたホログラフィッククロックが、穏やかな音色で正午を告げた。その瞬間、ラウンジの奥にある扉が静かに開き、中にいた乗客たちの視線が一斉にそちらに集まる。まるで、舞台に主役が登場するのを待ちわびていたかのように。
現れたのは、惑星連邦議会の次期議長候補、アルヴァンド・クレイン氏だった。
彼は、その年齢を感じさせない引き締まった体躯と、銀河で広く知られた知的な顔立ち、そして白く輝く髪を撫でつけ、控えめながらも上質な深紅のローブを身につけていた。その存在は、単なる一人の乗客というにはあまりに大きく、彼が足を踏み入れた瞬間、ラウンジ全体の空気が目に見えて変わった。それまでの和やかな談笑は一瞬にして静まり返り、空間にはぴんと張り詰めたような緊張感が漂う。
カケルは、手元の宇宙雑誌をそっと閉じ、クレイン氏を注視した。アラン局長の言葉が脳裏をよぎる。「理想は美しい。だが、現実は常に理想通りにはいかない」。クレイン氏の登場は、まさにその言葉の真意を体現しているかのようだった。
彼の周囲には、すぐに複数の乗客が集まってくる。そのほとんどは、彼を支持する者たちだ。
「クレイン議員!ご多忙の中、まさかこのサファイア・エクスプレスでお会いできるとは光栄です!」
「銀河間協定の再締結、我々はこの上なく支持しております!」
彼らの声には、尊敬と期待がにじんでいた。中には、深く頭を下げ、熱心にクレイン氏の理念に共感する言葉を語りかける者もいる。クレイン氏は、一人ひとりの言葉に耳を傾け、穏やかな笑顔で応じていた。その佇まいからは、彼が長年培ってきたカリスマ性と、人々の心を掴む力がにじみ出ている。
しかし、その一方で、ラウンジの別の場所からは、明らかに異なる視線と、ささやくような不満の声が上がっていた。
「和平?どの口が言う。彼らの言う平和は、常に誰かの犠牲の上に成り立っている」
「あのヴァロリアの一件を忘れたのか?奴らが『協調介入』と呼ぶ名の、一方的な武力介入を」
「彼が推し進める協定は、結局は弱肉強食を助長するだけだ。強硬派の言うことも一理ある」
直接的な非難の声ではない。だが、その言葉には、クレイン氏の理想がもたらした「弊害」に対する深い不満と、強硬覇権派が掲げる「秩序」に共感する複雑な感情が混じり合っていた。彼らは、クレイン氏から少し離れた場所で、警戒するように、あるいは軽蔑するように、その姿を見つめている。
ミリアムは、その変化を肌で感じ取っていた。ラウンジ全体に満ちていた「音」が、クレイン氏の登場を境に、複雑な和音へと変質したのだ。
称賛と尊敬の「明るく響く音」。そして、不満や軽蔑、過去の悲劇への怒りといった「ざらついた不協和音」。それらが混じり合い、ミリアムの耳には、まるで調和を失ったオーケストラのようにも聞こえた。
彼女は、これが一体何を意味するのか、まだ理解できないでいたが、ただ漠然と「この音は、この列車の、この銀河の、真の姿なのかもしれない」と感じていた。その感覚は、彼女を少しだけ落ち着かなくさせる。
イヴァンは、その空気の変化に最も敏感に反応していた。彼の屈強な身体は、言葉よりも早く状況の危険を察知する。
「なんだよ、この空気。まるで爆弾でも持ってきたみてぇじゃねぇか」
彼が不機嫌そうに呟くと、カケルが静かに首を振った。
「彼は、銀河の『爆弾』そのものかもしれない」
カケルの視線は、クレイン氏の穏やかな表情の奥に、何か別の感情が潜んでいるのではないかと探っていた。彼の予感は、クレイン氏の存在によって、再び漠然とした形のない波のように、カケルの心に押し寄せようとしていた。
ノアは、その間も端末の画面から目を離さなかった。しかし、その指先の動きは、ラウンジの空気に合わせて、微かに速くなっていた。彼の端末には、クレイン氏の周囲に集まる乗客たちの顔写真と、その人物データが次々と表示されていく。彼らがクレイン氏の支持者なのか、それとも批判的な立場なのか、瞬時に判別していく。
「面白いデータだ」と、ノアが小さく呟いた。
「クレイン氏に近づく者、遠ざかる者。そのどちらにも、共通の属性が見当たらない。純粋な支持と、個人的な不満、それが混在している」
エミリーは、ラウンジ全体をゆっくりと見回した。彼女の狙撃手の目は、表面的な表情の裏に隠された感情を読み取ろうとする。クレイン氏に賞賛の言葉を投げかける者の瞳の奥に、計算高さが潜んでいるように見える。そして、批判的な視線を送る者の中には、単なる不満だけでなく、深い悲しみや、隠された怒りを宿している者もいた。彼女の観察力は、この複雑な状況を少しずつ紐解こうとしていた。
クレイン氏は、自身の周りに集まる人々からの賛辞に答えながら、やがてメインラウンジの中央に設けられた特等席へと向かった。彼が席に着くと、彼の護衛らしき屈強な男たちが、さりげなく周囲を固める。彼らはGRSIの管轄外の警備員で、クレイン氏が個人的に雇っている者たちだろう。
カケルは、再び雑誌に視線を落とした。しかし、その思考は、もはや記事の内容には向いていなかった。
アラン局長が言った「銀河の調和とは、表面的な平和だけでなく、その裏に潜む不調和とも向き合うことだ。だが、不調和の全てが悪とは限らない」。その言葉の意味が、目の前の光景によって、一層深く胸に響く。このサファイア・エクスプレス号の旅は、単なる警乗任務では終わらない。銀河の複雑な政治状況、そしてその裏に潜む人間の感情が、この豪華な列車の中で、やがて何かを引き起こすであろう予感が、カケルの心を強く掴んでいた。