19.老政治家の沈黙
ライラ・ハディッドの個室を後にした主任車掌姿のカケルは、メインラウンジへと戻る途中、複雑な思いに沈んでいた。
ライラの告白、ヴェラの冷静な弁明。どちらも一見、筋が通っているように見えたが、同時に、どこか引っかかる違和感があった。彼らの行動は、真犯人による巧妙な目くらましに利用された可能性が高い。だが、真相はまだ闇の中だ。
ラウンジに戻ると、イヴァンが遺体周辺の再捜査を終え、エミリーが壁面の微細な傷を探している。ノアは端末に食い入るように集中し、膨大なデータを解析し続けていた。カケルは、彼らの元へ歩み寄った。
「ヴェラ・シモンズの尋問を終えた」
カケルは、ベネット車掌の変装を解除しながら言った。
「彼女は、自身の席から麻痺毒が検出されたことについて、護身用のペンから漏れ出たものだと説明した。確かに、ペンには毒物注入の改造が施されていたが、彼女は使用を否定し、クレイン氏の殺害とは無関係だと主張している」
「護身用、ねぇ。いかにも言いそうなセリフだ」
イヴァンが鼻を鳴らした。
「でも、あの女は肝が据わってる。嘘をついてるようには見えねぇな」
「彼女の企業がクレイン氏の政策で多大な損失を被る可能性があったことも、素直に認めた」
カケルは続けた。
「だが、その損失は殺害の動機にはならないと主張した。むしろ、クレイン氏の死が銀河経済を混乱させれば、彼女の会社にも悪影響が出ると」
「確かに、理屈は通ってるわね」
エミリーが冷静に分析する。
「ライラの通信妨害装置も、ヴェラの護身用ペンも、深く考えない方がいいのかもしれない」
「監視カメラの妨害はライラ。麻痺毒の検出はヴェラ。どちらも、クレイン氏殺害に直接結びつく決定的な証拠にはならない」
ノアが端末から顔を上げ、結論を述べた。
「むしろ、それぞれの行動が、別の誰かに利用されたと考える方が辻褄が合う可能性すらある…」
カケルは考えた。真犯人は、これらの状況を全て計算に入れ、巧みに操っているのかもしれない。
「そうだとしたら、他の容疑者についても、もう一回調べ直せばヒントが出るのかもしれないな。ノア、ドミニク・カーターの個人情報と、クレイン氏との過去の政治的対立について、さらに詳しく掘り下げてくれ」
カケルは指示を出した。
「特に、彼が引退後も、政界に影響力を持とうとしていた形跡がないか。裏での接触や、資金の流れなど、全て洗い出せ」
「了解」
ノアは再び端末に集中し始めた。
メインラウンジの一角で、エミリーはドミニク・カーターが座っていたソファと、彼が読んでいた新聞をもう一度詳しく調べていた。彼は、事情聴取の際、ラウンジが騒がしくなるまでずっと新聞を読んでいたと証言していた。その新聞は、ベネット車掌が確保し、証拠品としてラウンジの一角に置かれていたのだ。
エミリーは、白い手袋をはめた指で新聞を丁寧にめくっていく。クレイン議員の政策に関する批判記事、銀河連邦議会の動向、経済情勢……。一見、普通の新聞記事の羅列だ。しかし、エミリーの目は、紙面に記された情報だけでなく、その紙そのものが持つ「微かな違和感」を探していた。
その時、彼女の指先が、ある記事の余白に触れた。そこには、肉眼ではほとんど判別できないほど微細な、しかし確かに手書きの文字が記されているのを発見した。
「カケル、これよ!」
エミリーは、手元の高性能光学拡大鏡を構え、その文字を拡大した。端末の画面に映し出されたのは、乱雑な筆跡で書かれた、いくつかの単語と数字の羅列だった。
「『目標、動向確認。時間……会議室?……ラウンジへ移動。〇〇・〇〇(日付らしき数字)……』」
エミリーは、読み取れる文字を声に出して読み上げた。
「これは……クレイン議員の行動を監視していた記録か?」
イヴァンが顔を近づけてきた。
「おそらくね。政治的な決着はついたから関係ないって言っていたけど、まだ未練があるのかしら…」
エミリーは、思考を巡らせる。
すぐに、ノアの声がインカムから響いた。
「カケル、ドミニク・カーターの通信記録をさらに深く解析していたんだが……興味深いデータが見つかった」
「何だ?」
「ドミニク・カーターは、過去数ヶ月間、定期的に匿名のプライベート通信回線と接触していた記録がある。この回線は、通常の政府関係者や企業とは異なる、非常に秘匿性の高いルートを経由している。追跡は困難だが、その通信の発信源は、どうやら銀河連邦議会内部の、一部強硬派議員が使用する施設と酷似している」
「強硬派議員……」
カケルは眉をひそめた。それは、かつてクレインの和平政策に強く反対していた勢力だ。
「そして、これらの通信でやり取りされていたデータの解析に成功した。内容は暗号化されていたが、パターン分析の結果、これはクレイン議員の政治的活動に関する極秘情報を共有していた可能性が高い。彼の動向、政策立案の状況、さらには個人的な交友関係まで、かなり詳細な情報がやり取りされていた痕跡がある」
イヴァンが唸った。
「あいつ、引退したって言ってたが、やっぱり裏で糸を引いてやがったか!」
「彼の政治的野心は健在だということね」
エミリーが冷ややかに言った。
「クレイン議員の排除を望んでいたとしても不思議じゃない」
エミリーは、手元の新聞に書かれたメモと、ノアが報告した情報が、見事に符合していることに気づいた。
「ノア、このメモの筆跡と、ドミニク・カーターが過去に作成した機密文書の筆跡データを照合してみて。もしデータがあるなら」
「了解。照合開始……一致した。完全に一致する」
ノアの声が、確信に満ちていた。
「このメモは、間違いなくドミニク・カーター自身が書いたものだ」
カケルは息をのんだ。このメモは、やはりドミニク自身のものだったのか。
「つまり、これらの情報から、ドミニク・カーターがクレイン議員の動向を把握し、裏で強硬派議員と連携していた可能性が極めて高い。彼には、クレイン議員を排除する政治的動機があった。これは、ライラやヴェラとは異なる、より明確な殺意の可能性を示唆している」
ノアが冷静に分析した。カケルは、ノアの報告を聞きながら、メインラウンジの隅に座るドミニク・カーターの姿を思い描いた。あの老練な政治家が、裏でこれほどまでに暗躍していたとは。彼は、長年の怨恨を晴らすため、あるいは再び権力の座に返り咲くため、クレインを殺害したのだろうか?
「よし。ベネット車掌に変装する。今度はドミニク・カーターの事情聴取に向かう」
カケルの心臓は、静かに、しかし力強く鼓動していた。謎のピースが、一つ、また一つと繋がり始めている。しかし、この複雑な事件の全貌は、まだ見えてこない。
・
ベネット車掌に変装したカケルは、ドロイド警備員を伴い、ドミニク・カーターの個室のドアをノックした。
室内からはすぐに、「入れ」という、しわがれた、しかし重みのある声が返ってきた。ドミニク・カーターは、室内のデスクに座り、古めかしいデータパッドを眺めていた。カケルたちが入室すると、彼はゆっくりと顔を上げ、その深々と刻まれた皺の合間から、鋭い視線を向けた。
「また私ですか、主任車掌。何か新たな進展でも?」
ドミニクの声は落ち着いており、彼が動揺している様子は微塵も感じられない。
「カーター様、夜分遅くに失礼いたします。先ほどお話いただいた件について、いくつか追加で確認したいことがございます」
カケルは、あくまで丁寧な口調で切り出した。
「ほう。構わんよ。尋問であれば、慣れている」
ドミニクは、自嘲するように笑った。
「どうぞ、座りなさい」
カケルは、ドロイド警備員と共にドミニクの向かいに座った。
「早速ですが、カーター様」カケルは本題に入った。
「我々の捜査で、貴方が普段お読みになっている新聞から、貴方の筆跡で記されたメモが発見されました。その内容は、クレイン議員の動向を監視しているかのような記述が含まれていました」
ドミニクの表情に、微かな変化があった。しかし、それは動揺ではなく、むしろ、挑戦的なものだった。
「ほう、随分と細かいところまで見ていますな。それが何か?」
彼は、メモの存在をあっさり認めた。
「そして、貴方が過去数ヶ月間、銀河連邦議会の一部の強硬派議員が使用する、極めて秘匿性の高い通信回線と頻繁に接触していた記録も確認されています。これらの通信では、クレイン議員の政治活動に関する極秘情報がやり取りされていた痕跡がありました」
カケルは、さらに踏み込んだ。ドミニクの目は、初めてわずかに細められたが、その奥には、依然として揺るぎない自信が宿っている。
「なるほど。それは、私の知己との連絡ですな。私が彼らの政治的意見に同意していることは、今更隠すことでもないでしょう。あのクレインの理想主義が、銀河にいかに危険な混乱をもたらすか、彼らも私も、深く憂慮していた。当然、情報交換もしますわな」
ドミニクは、堂々と言い放った。彼の言葉は、まるで全てを予期していたかのように、淀みがなかった。
「彼らは、クレイン議員の失脚を望んでいた。貴方も、かつてクレイン議員によって政治的地位を失った。貴方には、クレイン議員を殺害する動機があったのではありませんか?」
カケルの直接的な問いに、ドミニクは静かに笑った。その笑みは、冷たい氷のようだった。
「動機、と仰るか。確かに、私は彼によって失脚した。長年築き上げてきた政治的基盤を、彼の掲げる薄っぺらい理想論によって破壊された。恨みがなかったと言えば嘘になる。だがな、主任車掌」
ドミニクは、カケルを真っ直ぐに見つめた。
「私は、政治家だ。そして、私は、政治家として、クレインを合法的な手段で排除しようと試みた。彼が死んだところで、私の目的が達成されるわけではない。むしろ、彼の死によって、彼の理想が殉教者として祭り上げられ、銀河連邦の世論が彼に傾けば、私にとっては何の得にもならん」
彼の言葉には、確かに政治家としての論理があった。クレインの死は、彼の政策を後押しすることにもなりかねない。
「裏での情報共有や、メモの記述は、貴方がクレイン議員の動向を把握し、政治的な動きを封じようとしていた証拠ではありませんか?」
「その通りだ。私は、彼の動きを全て把握し、先手を打つつもりだった。しかし、それと殺人は別問題だ。私は、政治家として、汚い手は使わん。ましてや、人殺しなど、私のプライドが許さん」
ドミニクは、きっぱりと言い切った。彼の声には、まるで一点の曇りもないかのような響きがあった。ドロイド警備員の生体反応分析も、彼が嘘をついているという明確な兆候は示さなかった。彼の言葉は、彼自身の政治哲学に根ざしているかのように聞こえた。
「事件発生時、貴方は新聞を読んでいたと証言しましたね。ラウンジが騒がしくなった時、クレイン議員が苦しんでいる姿は確認しましたか?」
「ああ。騒ぎに気づき、顔を上げた時には、既にクレイン氏が苦しんでいた。だが、誰が何をしたのか、私には何も見えなかった。残念ながらな」
ドミニクは、最初の尋問と全く同じ証言を繰り返した。その口調は冷静で、矛盾もなかった。彼がラウンジの混乱に乗じてクレインに毒を盛った可能性は、依然として否定できないが、それを裏付ける具体的な証拠はない。彼の政治的動機は明らかだが、それは殺人に直結するものではないと、彼は完璧な論理で反論していた。
カケルは、ドミニクの言葉を注意深く分析した。彼は、政治家としての誇りを強く主張し、非合法な手段を用いることを頑なに否定している。その態度は、まるで「私のような高貴な人間が、そのような野蛮な行為をするはずがない」と言わんばかりだ。
しかし、その裏で極秘裏に情報収集を行い、強硬派議員と連携していた事実は、彼の言葉との間に微妙な不協和音を生み出している。
だが、現時点では、彼を犯人と断定する決定的な証拠にはならない。彼の論理は、巧妙に彼の行動を正当化しており、彼が嘘をついているという明確な証拠も出てこない。
「分かりました、カーター様。貴方の証言は記録いたしました。引き続き、個室での待機をお願いいたします」
カケルは、尋問を切り上げた。ドミニク・カーターは、満足げな、あるいは、嘲るような笑みを浮かべたまま、彼らを見送った。
個室のドアが閉まる音を聞きながら、カケルは重い溜息をついた。ドミニク・カーターは、これまで尋問した誰よりも手強かった。彼の言葉は、全てが論理的に構築され、彼の行動の裏には、巧妙な政治的駆け引きが隠されている。しかし、それが殺人までを企む動機なのか。
今回の尋問で、ドミニクがクレインの動向を監視し、裏で強硬派と連携していたことが確実になった。彼の政治的動機も明確だ。だが、彼はあくまで合法的な手段にこだわり、殺人を否定している。そして、その証言に嘘をついている明確な兆候もなかった。
容疑者たちは、それぞれが独自の「真実」を語り、事件はますます深みにはまっていく。このサファイア・エクスプレス号の密室には、一体どんな闇が潜んでいるのか。真犯人は、誰なのか。そして、彼らがひた隠す、真の動機とは何なのか。




