13.錯綜する手がかり
密室と化したメインラウンジで、チームYの本格的な捜査が始まった。ノアは列車のAIシステムを完全に掌握し、全ての監視カメラの映像をリアルタイムで分析していた。イヴァンはクレイン氏の遺体と周囲を執拗に調べ、エミリーはラウンジ全体、特に死角となりそうな場所を鋭い目で観察している。ミリアムは、客室乗務員の休憩スペースで不審な点がないか確認に向かっていた。
カケルは、ベネット車掌から提供された資料をノアの端末で確認しながら、ラウンジをゆっくりと歩いた。容疑者たちの顔写真と経歴が次々と脳裏に浮かぶ。ヴェラ・シモンズ、ライラ・ハディッド、ドミニク・カーター、エドワード・ヴァンス、そしてエレイン・ハドソン秘書。誰もが動機を持ち、誰もが犯人である可能性を秘めている。
「ノア、クレイン氏が『星屑のキス』を口にする直前の、監視カメラ映像をもう一度詳しく見れるか?」
カケルが指示した。
「了解。該当時間帯のデータをズームインして再生する」
ノアの声がインカムから聞こえ、カケル、イヴァン、エミリーの端末に映像が送られてくる。
映像には、クレイン氏がグラスを手に取り、唇に近づける瞬間が映し出されている。ギャルソンがカクテルを注いでから、クレイン氏がそれを飲むまでの間に、不審な接触はない。エレイン秘書の証言通り、第三者が何かを混入させる隙は、確かに見当たらない。
「うーん……これだけ見ると、完璧な密室だな」
イヴァンの唸り声が聞こえた。
「でも、毒は体内から出たってんだろ?どうやったんだ?」
「消化管を通らなかった、というのが鍵だ」
エミリーが冷静に答える。
「摂取方法は多岐にわたる。噴霧型、接触型、あるいは何らかの機械的な方法か……」
その時、ドーム内で遺体を調べていたイヴァンが声を上げた。
「おい、カケル!これを見ろ!」
カケルはすぐにクレイン氏の遺体の近くに駆け寄った。イヴァンは、ドロイド警備員の分析ドームの透明な壁越しに、クレイン氏の右手の甲を指差している。
「これだ。見てみろ」
クレイン氏の右手の甲に、ごく微細な、まるで針で刺したような小さな赤い点がある。注意深く見なければ見落としてしまうほどの痕跡だ。
「これは……注射痕か?」
カケルが顔を近づけて確認する。
ドロイド警備員の分析ツールが、その赤い点に光線を当て、即座に分析を開始した。
「分析結果:右手の甲に微細な刺し傷を確認。周辺組織から、クレイン議員の体内から検出されたものと同一の毒物成分の痕跡を検出」
ドロイド警備員が報告する。
「ただし、毒物の注入方法は特定不能。極めて細い針を用いた可能性あり。また、傷口は既に凝固しており、出血は微量」
「つまり、毒は飲み物ではなく、直接体内に注入された可能性がある、ということか」
エミリーが状況を整理する。
「まさか、こんな場所で注射器を使うか?しかも、誰にも気付かれずに?」
イヴァンが首を傾げる。
「超小型の自動注入器か、あるいは、何らかの接触型デバイスか……」
ノアの声にも、わずかな動揺が混じる。
「しかし、クレイン氏の周りには常に護衛がいた。無警戒になるような状況は考えにくい」
カケルは、その小さな赤い点から目を離さなかった。これが真実だとすれば、犯人は極めて大胆かつ巧妙だ。ラウンジの混乱に乗じて、あるいはクレイン氏が無意識のうちに触れた何かに毒が仕込まれていたのか。
その時、ミリアムの声がインカムから響いた。
「カケル!見つけたよ!」
彼女の声には、興奮が混じっていた。
「客室乗務員の休憩スペースの、棚の奥。これ、なんだと思う?」
ミリアムが送ってきた画像データは、カケルの端末に鮮明に映し出された。それは、手のひらサイズの小さな、しかし精巧な通信妨害装置だった。無機質なデザインだが、その表面には、使用済みであることを示すような微かな擦り傷がある。
「これは……ラウンジの監視カメラを妨害した装置か?」
カケルが確認する。
「うん!ノアが言ってた通信妨害の痕跡と一致するタイプだと思う。こんな場所に隠されてたなんて、絶対おかしいよ!」
ミリアムが続ける。ノアもすぐに画像を解析した。
「間違いない。これは、特定の周波数帯域に限定してノイズを発生させるタイプの妨害装置だ。ラウンジの監視カメラの帯域と完全に一致する。これを起動すれば、映像に不審なノイズが入る」
「つまり、犯人は事前にこの装置をここに隠し、事件直前に起動した、と」
エミリーが推測する。
「これで、カメラの妨害の謎は解けたな」
イヴァンが言う。
「でも、これが誰の物かはまだわからねぇか」
「この装置に、何らかの指紋やDNAが残っている可能性もある。回収してドロイド警備員に渡せ。科学分析に回すんだ」
カケルがミリアムに指示を出した。
「了解!」
カケルは、再びクレイン氏の遺体へと視線を戻した。
「毒は注射によって注入された。監視カメラは妨害された。これらの状況が意味するのは、犯人がクレイン氏の身体に直接接触し、かつ、その瞬間を隠蔽する必要があった、ということだ」
だが、誰が、どうやって?ラウンジには限られた人間しかいなかった。そして、クレイン氏の周りには常に護衛がいたはずだ。
「ノア、事情聴取の時に、あの容疑者たちの生体反応データと、ラウンジ内の全ての行動記録を照合してくれ。特に、クレイン氏がこの列車に乗った後、誰がクレイン氏の近くにいたのか、不自然な動きはなかったか、徹底的に洗い出すんだ」
「了解。かなり時間がかかるかもしれないけど、やってみる」
ノアの声に、集中が感じられた。
カケルは、ラウンジの壁を見上げた。そこに設置された監視カメラは、今はAIによって完全に制御され、彼らの捜査の「目」となっている。しかし、事件の瞬間、その「目」は盲だった。
この密室で、何が起こったのか。毒物の注入方法と、監視カメラの妨害。二つの手がかりが、まるでそれぞれ別の方向を指し示しているかのように錯綜している。犯人は一体、誰なのか。そして、この複雑なトリックの裏には、一体どんな意図が隠されているのだろうか。
捜査は、まだ始まったばかりだったが、既に深い闇の中へと引きずり込まれ始めていた。
メインラウンジでの捜査が続く中、ノアは列車AIの監視カメラのバックアップ映像を隅々まで解析していた。クレイン氏の右手甲に見つかった微細な注射痕。毒物が消化管を通らずに体内に注入された可能性。この密室で、一体どのようにしてそれが為されたのか、全ての証拠が巧妙なトリックを示唆していた。
「カケル、見つけた」
ノアの声がインカム越しに響いた。
「クレイン氏の死亡推定時刻から遡って、彼の行動履歴と接触者を洗い出していたんだが……これを見てくれ」
カケルの端末に、ノアが抽出した監視カメラの映像が送られてきた。それは、事件発生の数時間前、列車内の通路を映した映像だった。
映像の中のクレイン氏は、秘書のエレイン・ハドソンと共に、個室から出てきたところだった。廊下を歩く彼の表情は穏やかで、護衛もいない。おそらく、メインラウンジに向かう途中だったのだろう。そのクレイン氏の向かいから、一人の男が歩いてくる。それは、事情聴取の際に動揺を見せていた、貿易会社のビジネスマン、エドワード・ヴァンスだった。
二人がすれ違う瞬間、映像がわずかにブレた。エドワードが、なぜか足元をよろめき、持っていた書類の束を落とす。そして、その拍子に、彼の右手が、クレイン氏の右腕に、一瞬だけ触れるのが映っていた。クレイン氏は、驚いた様子もなく、むしろ笑顔でエドワードに話しかけ、散らばった書類を拾い上げるのを手伝っている。二言三言言葉を交わした後、エドワードは恐縮した様子で頭を下げ、クレイン氏はそのまま歩き去っていく。一見すれば、何の変哲もない、単なる偶然の接触だ。
「接触したのは、クレイン氏の右腕、手の甲に近い位置だ」
ノアが解説を加えた。
「例の注射痕のある場所と、ほぼ一致する」
「これは……」
カケルは映像を凝視した。
「偶然の接触に見える。しかし、その瞬間、彼が毒物を注入する装置を使っていたとしたら?」
エミリーが冷静に分析する。
「極めて小型で、瞬時に毒物を注入できるタイプのものならば、このわずかな接触で実行は可能だ」
「つまり、エドワード・ヴァンスが犯人だってことか!?」
イヴァンが興奮気味に言った。
「あいつ、事情聴取の時も妙にオドオドしてたし、なんか隠してるって感じだったぜ!」
「まだ断定はできない。あくまで可能性の一つだ」
カケルは冷静に返した。
「だが、彼の行動は確かに不審だ。ノア、エドワード・ヴァンスの現在の位置は?」
「個室で待機中だ。部屋からは出ていない」
ノアが即座に答える。
「よし。ベネット車掌に連絡だ。エドワード・ヴァンスの個室へ向かう。再度の事情聴取を行う」
カケルの指示で、ベネット車掌は再び戸惑いながらも、エドワード・ヴァンスの個室へとチームYを案内した。彼が、この巧妙な密室殺人の真犯人なのだろうか。チームYの疑念は、今、一人の男へと集中し始めていた。




