第九章 特異点
スマホの着信は伯父からだった。
「あ、おじさん? 今、何時だと思ってるの?」
すでに日も変わって午前0時を回っている。私はみんなを代表して抗議する。
『すまない。ちょっと色々あってね……これから大事な話をする。優希ちゃん、今、道場だよね? みんなそこにいる?』
「うん。道場。みんな集まってるよ」
私はみんなにも聞こえるように通話をスピーカーに切り替える。
『今、空間が不安定な状態になっていることは知ってるね?』
「前に言ってたよね。空間が壊れるかもって」
『ああ。観測データを解析した結果、空間が崩壊する可能性が高いことが分かったんだ』
「崩壊って、マジで?……」
『だから優希ちゃんに、空間の崩壊を止めるための転移をして欲しいんだ。今からそのための修正したプログラムと緯度経度と転移タイミングのデータを送るから』
「わかったけど、ほんと大丈夫なの? だってこれが原因なんでしょ?」
『ああ。そのために転移プログラムを修正した。ただ、転移するとき、体重を108キロにしなければならないんだ』
「え、意味わかんないんだけど」なんで体重が関係するの?
『簡単に言えば、空間転移の際の誤差をなくすため必要な重さなんだ』
「でも108キロなんて、わたし一人じゃ無理だよ」
『分かっている。そこで誰かと転移して欲しいんだ』
「誰かって、言われてもさ……」
「俺ならいいよ」
「神条くん……」
彼は、一旦、家に帰ったものの、気掛かりだったせいか、私服に着替えて戻って来ていた。
「一緒に跳ぶよ」
「でもこれ、かなり危ないと思うよ」
「このままじゃマジで空間がヤバいんだろ。いいよ別に。もう一回、跳んでるしさ」
「そうだけどさー」
『ありがとう。助かるよ。それから大至急、体重を測って、二人合わせて108キロにしてほしいんだ』
「え、ちょっと待って。それってわたしの体重がバレるってことじゃん」
『まあ、そうだけど、この際、仕方がない』
「ガチで下がるんだけどー」
その時、祖父が体重計を持ってきてくれた。
「これを使いなさい」
「おじいちゃん、用意よすぎ」
ちらっと目配せして、神条くんがのる。
「俺、59キロだから。あとの計算は任せるよ。それならいいだろ」
「うん。ありがと」
私は体重が見られないように、体重計を少し離れたところまで運んでからのる。
(……私は47キロ)
良かった! そんなに増えてない。まあ、色々大変だったもんね。
(神条くんが59キロだから、合わせて106キロ。あと2キロか……)
その時、ふと思いつき、リュックを背負ってもう一度のってみる。
(49キロ。ぴったりだ!)
「リュックを背負ったら、ぴったり108キロになったよ」
なんてことはない。私たちが最初に二人で飛んだ時の重さだ。
「うまく誤魔化したな」と神条くん。
終わったら絶対、リベンジも兼ねて投げ飛ばす。
『もう時間がない。優希ちゃん、よく訊くんだ。今から空間転移装置にいくつかデータを送るから、言われた通りに操作して欲しい。今、ワイファイはつながってるね?』
私は装置スクリーンのワイファイのアンテナを確認する。
「うん。つながってる」
『OK。じゃ、今から修正した空間転移制御プログラムを送るから』
しばらくすると、スクリーンには『ファイル受信中』の表示とともに、進捗状況を示すプログレスバーが表示される。バーが右いっぱいまで行くと消える。スクリーンには『STCPプログラム Ver.7.2』と書かれたファイルが表示される。
「ファイル来たよ」
『じゃ、そのファイルを開いて。そうしたら、インストールするか聞いてくるから、『はい』を選択して』
スクリーンには『インストールしますか?』の表示。私が言われた通りに操作すると、インストールの状況を示すプログレスバーが現れる。右いっぱいまで行って消えると、スクリーンには『再起動しますか?』と表示された。
「再起動しますかって出たから、下の『はい』を押すね」
『それでいい』
スクリーンがブラックアウトすると、ボーンという起動音とともに装置が起動を始める。
「おじさん、再起動したよ」
『OK。じゃ、今から転移データを送るから』
装置のスクリーンに『ファイル受信中』の表示とともに、データ読み込みのバーが現れるが、一瞬で消える。代わりにスクリーンには『転移データ』という名称のファイルが表示される。
「来たっぽい」
『スクリーンにファイルは表示されてるね?』
「うん」
『じゃ、左下のアイコンからプログラムという項目を開いて、その中にSTCP(空間転移制御プログラム)という名前があるからそれをタップして』
「ウインドウ開いた」
『次に、そのウインドウ内の転移データ読み込みボタンをタップして。そして、スクリーンに表示されている転移データファイルを選択して』
「うん」
私が言われた通りにファイルを選択すると、突如として意味不明な数字の羅列が表示される。
「ファイル開いたけど。何これ、わけわかんない」
『あとは装置が自動的に作動するから、転移の準備をしてくれ』
「わかった」
『頼んだよ。じゃ、切るから』
スクリーンを見るとすでにカウントダウンが始まっている。
「もう3分、切ってるよ! 早く外に出なきゃ」
慌てて外に出ようとすると、祖父が、おもむろに神条くんに話しかける。
「神条くん、今でも稽古は続けているのかね?」
「はい。師匠」
「そうか。いつでも道場に来なさい」
「ありがとうございます!」
(もう、時間ないのに!)
今度こそ外に出ようとした時、なぜか神条くんが私の手をつかむ。
(な、なに?)
「ちょっと待てよ。前みたいに飛ばされないようにお互いを結ぼうぜ」
「……うん」
神条くんの手にはすでに黒帯が握られている。師範たちに手伝ってもらって、帯でお互いの腕を結ぶ。そして、私たちは急いで外に出る。
「ふたりとも中庸の精神を忘れるな」
「はい!」と二人。
「ありがとう! おじいちゃん」
残り時間は、すでに十秒を切っている。
「御堂、俺のベルトをつかめよ」
そう言って、神条くんは私の目の前に立つ。
(え、ちょっと近すぎ……)
男子とこんな距離で向かい合うなんて、私がちょっと照れながら、神条くんのベルトをつかむと、彼は私のリュックのハーネスをしっかりと握る。
カウントゼロ。
例によって、体がふわっと浮く感覚。私たちは――
――なぜか目の前に地面が迫る。
頭からの落下に、咄嗟に回転受け身を取ると、片膝立ちからそのまま立ち上がる。あたりを見渡すと、その場所は見慣れた由比ヶ浜高校の校庭だ。
「神条くん、どこ?」
ふと、お互いを結んだ帯を見る。
「え? 切れてる!!」
あたりを見渡しても彼の姿はない。しかも、切れた先からはうっすらと煙が立ち昇っている。
「神条く〜ん! どこ〜!?」
呼んでも返事はない。急いでスマホで呼び出してみる。
「早く出てよ。神条くん……」
切ってもう一度呼び出す。でも、何度かけても神条くんは出ない。
『応答なし』の表示が続く。
前は即リプだったのに、どこか様子がおかしい。
(前の時と同じだよね……ただ、別の場所に跳ばされただけだよね)
装置のモニターにはエラーが表示され完全にフリーズしている。
(この、たとえようもない不安はなんだろう……)
しかも、なぜか体が小刻みに震えている。寒い、ものすごく寒い。何かとんでもないことが起こっている気がする。
「ねえ、どこにいるの?」
気ばかり焦って、考えがまとまらない。私は、明晴流に伝わる丹田呼吸を行う。徐々に気持ちが落ち着いてくる。その時、携帯に着信があった。
「神条くん!? なんだ、おじさんか……」
『優希ちゃん、一体なにがあった!?』普段と明らかに口調が違う。
「なにって……」
『空間の連続性が一気に不安定になったんだ! 演算とは異なる重力波の発生により空間がカオス化して、あちこちで連鎖的に空間ナノバブルが発生している! このままだと特異点が発生するのも時間の問題だ!』
「おじさん、なに言ってるの? ぜんぜんわかんないよ!」
『置換転移が失敗したとしか思えない……』
「え、失敗? そうだ、神条くん……一緒に跳んだはずの神条くんがいなんだよ!」
『なんだって!? くそっ、恐れていたことが起こった』
「探したし、何度、スマホにかけてもぜんぜん出ないんだよ!」
『それが原因かもしれない……ってことは、彼は位相空間に飛ばされた可能性が高い……』
「前みたいに別の場所に飛ばされただけだよね? ねえ、おじさん、そうでしょ!?」
『今は特異点の発生を回避するために、片っ端から置換転移をおこなうしかない! (おい、大至急、アメリカ、中国、フランスにさっきの条件でシミュレーションするように連絡しろ!)』
電話の向こうで叫んでいる伯父の声が聞こえる。
「ちょっと待ってよ! 神条くんはどうするの?」
『時間がない。これから連続で跳んでもらうことになるから』
「わたしもうやだ。跳ばない」
『優希ちゃん、よく聞いて。このままでは、地球が、宇宙が崩壊してしまうかもしれないんだ』
「そんなのどうでもいい。じゃ、神条くん助けてよ! 一緒に跳んでくれたんだよ!」
割り切れない思いが溢れて涙が出る。たとえ、他のみんなを救えても、彼を救えなかったら私は耐えられない。
『……優希ちゃん、落ち着いて。彼も助ける。方法を考えてみる。だから頼む!』
「…………わかった……おじさん、約束だよ。絶対、神条くんを助けてよ」
『ああ、約束する。いいか優希ちゃん、一つだけ頼みたいことがある。まずはスクリーン右上のバッテリーの残量を教えてくれないか?』
「……ちょっと待って。あれ、なんかフリーズしてる」
『フリーズ?……なんらかの負荷がかかったんだな。優希ちゃん、電源スイッチを長押しして』
「うん。わかった」
私は電源スイッチを長押しする。起動音の後にプログレスバーが表示される。
「……あ、起動した。右上のバッテリーは……あと残り半分くらい」
『そうか……あと7、8回ってとこか。優希ちゃん、左下の歯車のアイコンを開くと、中の項目にコントロールパネルがあるからそれを開いて』
「……コントロールパネル……開いた」
『その中のチャージという項目を開いて』
「……あった。うん。開いた」
『今、標準になってると思うけど、高速に変更して』
「……変更した」
『それで回数は減るが、すぐに転移できるようになる。じゃ、今からデータを送るから、頼んだよ』
「ちょっと、おじさん!」
(神条くんはいなくなるし、また跳ばなきゃいけないし、地球とか、宇宙とか、もう、わけわかんない……)
何もかもに猛烈に腹が立ってきた。そのせいか少しだけ体に力が湧く。神条くんのことは心配だけど、今は空間が壊れるのを防ぐために、とにかく転移するしかない。転移装置にデータが送られて来た。前と同じようにファイルをSTCPからファイルを読み込むと、また意味不明な数字の羅列が表示される。そして、すでにカウントダウンは始まっている。
気配を感じて校舎の方を見ると、案の定、黒服の男たちが銃を手に、こちらに向かっている。あらかじめ待機していた国際機関との間で銃撃戦が始まる。
(来るなら来なよ……)
カウントゼロ。私は――
――落ちる。
そこは屋根の上、私はそのまま屋根を滑り落ちていると、無情にも軒先が足元に迫る。
「えー、ないない、それはないー!!」
もう落ちるのは避けられない。ならば最善を尽くすしかない。私は落ちながら空中で体制を立て直しつつ、足から着地して転がりながら受け身をとる。地面が土でよかった。ただ、服は見事に泥だらけだ。
(なんでこんな目に合わなければなんないわけ!)
無性に腹が立つ。直後、再び伯父から着信。
『優希ちゃん、データを送るからすぐに転移して』
データが来た。すぐにファイルを開くと、すでにカウントダウンが始まっている。カウントゼロ。再び私は――
――落ちる。
今度はなんと木の上。足元を見た瞬間、思わず絶望的になる。
「ちょっと冗談!!」
手でなんとか枝にしがみ付き、足がかりの枝を頼りに、なんとか地面に落ちる。途中、枝に引っかかって服が敗れる音がした。しかも、あちこち擦りむいて痛い。
(これ、いつまで続ける気!?)
伯父から着信。完全にキレた私はスマホに怒鳴る。
「おじさん、いい加減にしてよ!」
『ごめん、優希ちゃん、あとで埋め合わせはするから、今は我慢してくれ!』
(言ったね。あとで後悔するくらい、埋め合わせしてもらうから)
データが来た。また跳べって言うの?
「これで最後だから!」
私はファイルを開く。
(この意味わかんない数字、ほんと腹立つ!)
もう装置は見ない。どうせカウントは始まっている。私は――
――落ちる。
ここはどこかの河川敷。
「いい加減にしてよっ!!」
思いっきり叫んでみる。声が虚しく空間に吸収される。
ここがどこなのか、そんなことはどうでもよくなっていた。私は受け身を取った記憶もないまま、ただその場所に呆然と立ちすくむ。なんだか頭がクラクラする。もう、何もかもどうでもいい。
微かな気配に気づくと、少し離れたところに黒服の男たちが立っていた。大丈夫だ。殺気はない。間違いなく国際機関の人たちだ。
「御堂様。どうぞ、こちらへ」示された方向には車が停まっている。
「これ、欲しいんですよね。どうぞ」
「いえ、本部より御堂様を保護するようにという指示しか受けていません」
遠くから銃声が聞こえる。もはやなんの感情も湧かない。
「ばっかみたい……」
私は誘われるままに黒いワンボックスに乗り込む。どうやら転移先に迎えに来てくれたようだ。そのまま警察車両に誘導されながら移動する。
朦朧とした意識の中で装置のモニターを見ると、画面には『充電してください』と赤く表示されている。バッテリーを使い切ったようだ。ぼうっと眺めていると、国際機関の人から、ビニールに包まれたグレーのパーツを渡される。
「こちらのバッテリーに交換してください。晃明様から預かっています」
「……え? また跳ぶんですか?」
パーツを受け取ったまま、ふとスマホを見ると、伯父からの着信が3件も入っていた。今はとても電話する気にはなれず、SNSのメッセージだけ目を通した。
『優希ちゃん、ありがとう! お陰でひとまず収まった。少しは時間が稼げそうだ。それから、国際機関の人間にバッテリーを渡したので交換して欲しい。じゃ、よろしく頼む』
装置を投げ捨てたいという欲求に耐えながら、私はスマホを閉じた。
国際機関の車で帰る道すがら、私はうとうとしながらこの数日間のことを思い返していた。
(いつ終わるのかな……)
とても疲れていてあまり頭が働かないせいか、どこか遠い過去のように感じる。きっと出来事が、あまりにも現実離れしているせいだ。
(おじさんに関わると、ホントろくなことがない……)
ぼうっとした意識の中で考える。知っている大人の中でも群を抜いて面倒な人なのは間違いない。今度会った時は、財布のお金がなくなるまでスイーツを食べて、服を買ってもらおうと決心する。そうでもしなければ、とても腹の虫が収まらない。
唐突に、一緒に跳んでくれた神条くんの顔が脳裏に浮かぶ。ハッとして現実に引き戻される。
(神条くん大丈夫かな……)
急に、心臓がどきどきして胸が苦しくなる。私が神条くんを助けないと……。
車で走ること十数分。私はしばらく意識を失っていた。
「御堂様。到着しました」
道場に到着すると、時刻は午前1時を回っていた。母は私を見つけると、明晴流の運足を思わせる勢いで駆け寄ると、何も言わずに抱きしめる。
「優希……大変だったわね。本当に無事でよかった」
「……お母さん」
思わず泣きそうになったけど、強い視線を感じて涙腺が閉まる。そこには、同い年で陰陽師の寿賀子がすでに到着していた。
(泣いている場合じゃない)涙腺の活動を許すのはすべてが終わってからだ。
「優希、待っていたわよ」
会うたびに綺麗になっている気がする。ただでさえ整った顔立ちなのに、神様は本当に不公平だ。この子の凜とした存在感は相変わらずだ。とても同い年の女子高生とは思えない。
「あ、寿賀子……道士」
陰陽道の皆伝を授かった正式な陰陽師は『道士』と呼ぶしきたりになっている。
「道士はいらない。今まで通りでいいから。それにどうしたの、優希。あなたらしくもない」
「ちょっと、疲れただけ……」
よほど疲れた顔をしていたに違いない。その時、改めて自分の格好を見てみる。お気に入りのTシャツは、あちこち破れている上に泥だらけ、しかも一部焦げたような跡さえある。ボトムスは右膝の部分は破れ、左脛の横は裂けている。恐る恐る裂け目を覗くと、案の定、血が滲んでいる。『ズキン』。傷を見た途端、傷が痛みで存在を主張する。
「痛っ。あ、わたしのキャップ……」
風通しの良い頭に手を乗せる。トレードマークのキャップがない。私は、頭に手を乗せたまま固まる。虚脱感から手を下ろすのも億劫だ。
(なんだかなぁ……)気持ちの置き場が見つからない。
「もう知ってると思うけど、空の間が乱れていて、このままじゃ大変なことになる」
「えっと……空の間が乱れてるって?……」
(ああ。おばあちゃんも同じことを言ってたっけ……)
「おじさんが、空間が壊れるかもって言ってたけど、そのこと?」
「誰かが空の間に風穴を開けてしまった。放っておけば、この現世が壊れてしまう」
「きっと、この装置のせいだ……」
私は手に持っている装置を寿賀子に見せると、彼女の表情がみるみる険しくなる。
「……優希、あなたなの? そうね。元凶はその箱だわ」
彼女は一瞬だけ困ったような表情をする。次の瞬間、その表情は決心へと変わる。
「今から『間刻鎮清之祭』を執り行う。『陰陽九星之型』は優希がやるのよ」
前に聞いたことがある。この『間刻鎮清之祭』は、古来より伝わる陰陽道の奥義で、大きな災いのときに執り行われる。歴代の陰陽師でも、人生のうちに一度あるかないかの祭祀と言われている。これは、分家の『明晴陰陽流』に伝わる『陰陽九星之型』と連動させることで、空間に強力に作用させるという、陰陽道の中でも最高難度の祭祀だ。具体的には、陰陽師が陰となってあの世に式神を飛ばし、『明晴陰陽流』の伝承者が、陽となって『陰陽九星之型』を演武することで、場を共鳴させて時空を操る。複数の式神を同時に使役しながらあの世に飛ばすのは至難の技で、術者同士の緻密な連携と術の精度が要求される。この『陰陽九星之型』は、陰陽道に伝わる禹歩という邪気払いの特殊な歩法を取り入れた型となっていて、『明晴陰陽流』の正統伝承者が行う決まりになっている。
「そんな……わたしには無理だよ」
「『陰陽九星之型』は知ってるでしょ」
「もちろん知ってるけど……あの型は正統伝承者じゃなきゃ駄目だよ」
「優希には今回の縁起が絡み付いている。優希がやらなきゃ駄目なの」
「そんな……ほんとにわたしじゃなきゃ駄目なの?」
「ダメよ!」
駄目出しの応酬に負ける。でも神条くんを連れ戻すには、きっとそれしか手がないんだ。
「わかった……やってみる」
体は誰よりも動ける。技はかけられないけど、型には自信がある。
寿賀子は祖母に向かうと、一礼して口を開く。
「道士さま、こちらの祭祀場をお借りします」
「どうぞお使いください」そう言う祖母は、どこか別人のようだ。
寿賀子は全員の方のへ向き直すと、一呼吸おいてから話す。
「みなさまにお願いがあります。今から『間刻鎮清之祭』を執り行います。急ぎ、準備をお願いいたします」
声は凛と響き渡る。残響音が残る声に反応して、祖母と母たちが慌ただしく、準備に取り掛かる。
私たちは、近隣の一族にも集まってもらうと、急いで祭祀の準備に入る。まずは、祭祀場に『間刻鎮清之祭』用の特別な祭壇を用意する。その祭壇の前には護摩壇を置き、あらかじめ祈祷してあった護摩木を焚く準備に入る。これらにより、式神を使役しやすい場を作る。場作りは陰陽道の基本だ。
「優希、誰かが因果の果てに飛ばされている……」
突然、そう話す寿賀子は、自前の六壬式盤を使ってなにやら調べている。
「それって、神条くんかも……」
そうは思いたくないけど、それ以外に彼がいなくなった理由が浮かばない。
「今、あの世をさまよっている……」
「ということは、今、この世にはいないということ?」
信じたくなかったことが、にわかに現実味を帯びてくる。
「そういうことになるわね。このままだと間違いなく現世には戻れない」
「そんな……どうしよう……」
私は神条くんと結んだ帯を取り出し、思わず握りしめる。
「ちょっと優希! それはなに!?」
帯を見た寿賀子が私から奪うように帯を取る。彼女らしくないうろたえようだ。
「なんで、あなたがこれを持っているの!?」
「なんでって、その、神条くんと結んだ帯で……」
寿賀子らしからぬ気迫に気押される。
「――これと同じものを京都の宗家で見たことがある」
「京都で?」
「ええ。陰陽道皆伝の証書を受け取る時に見せてもらった。千年前から皆伝者は皆、証書を受け取る時にこの帯の伝承を聞くのがしきたりになっているの」
「そうなんだ。知らなかった……でも本当にこの帯なの?」
「間違いない。開祖の安倍晴明から代々伝わっているものと聞かされた。道士の間では、『晴明の帯』と呼ばれていて、陰陽道の秘伝書にも、空の間に災いが起こる時、この帯を辿れと書かれているのよ」
ということは、この帯は千年以上も前から伝わっていることになる。
「え、どういうこと? 晴明さんから伝わってるって……」
「そう。開祖はすでにご存知だったのよ」
「そんなことって……」
「あるのよ。この帯を見て確信した。単なる伝承ではなかったって」
「ちょっと待って、じゃあ、このことは千年前からわかっていたことなの?」
寿賀子は、すっとこちらを向く。彼女の目力は半端ない。
「その通りよ」
「そ…………」(そんなまさか……)
断言されて言葉を見失う。一体なんの話? 陰陽道ってタイムマシンなの? 私は完全に思考という手段を失う。
「優希が混乱するのも無理ないかな。わたしだって混乱してるんだから」
「いやいやいや〜」ぜんぜんそうは見えない。
そう言う寿賀子は、少しだけ同い年の女子高生に見えた。
「その話が本当なら、神条くんを助けられるかもしれない……」
安倍晴明ならきっとなんとかしてくれるはずだ。私は少しだけ希望が見えた気がした。
寿賀子はしばらく考え込むと、確かめるように口を開く。
「すべての鍵は、伝承にある帯を辿れということ。今が『晴明の帯』を辿る時なのかもしれない……すぐに取り寄せないと」
そう言うなり、スマホを取り出し、素早くタップする。一瞬だけ画面を確認すると、すぐにスマホを耳に当てる。
「鎌倉の寿賀子です。一つお願いがあります。え? もうこちらに送っていただいたのですか? はい。わかりました。到着を待ちます。ありがとうございました」
「どうしたの?」
「京都宗家は今回の状況を察して、すでに帯をこちらに送ってくれたそうよ」
さすがは京都宗家。怖いくらいに話が早い。
「もう届く頃だと言っていたわ。わたしたちも準備しましょう!」
「うん。ところで、わたしは何をすればいいの?」
寿賀子は、私の頭の先から足の先まで見ると、眉をひそめながら口を開く。
「……優希は、まずはシャワーと怪我の手当てじゃない?」
「やっぱ、そうだよね……」
改めて自分の格好を見ると、お世辞にも無事に戻ってきたとは言えないくらいにボロボロだ。「優希、準備は私たちでやるから、少し休んでもいいわよ」
「ありがと。じゃ、ちょっと行ってくる」
寿賀子の言う通りだ。祭祀の前にまずは自分をなんとかしないと。そこに、母がタイミングを待ってたとばかりに、衣服の入ったバックを渡してくれる。
「優希、着替えは持ってきたから、これを持ってそのままお風呂を借りなさい」
「うん。お母さん、ありがとう」
母は色々な意味で強い。今回そのことを痛感させられた。
(私もお母さんみたいになれるかな……)本音だった。
お風呂に向かっていると、少しずつ気分が落ち着いてくるのが分かる。きっとお風呂を出たら、いつもの自分に戻れるという確信がそれを後押しする。
「ザブンッ」少しお湯をこぼしながら入るお風呂は格別だ。
「やっぱ、おばあちゃん家の檜のお風呂さいこー!」
思わず言葉が漏れる。本当は最高よりも、もっと上だけど、乏しい語彙力ではそれ以外の言葉が思いつかない。唯一の難点は、あちこちの傷がしみることぐらい。確かに、神条くんのことは気掛かりだけど、きっとなんとかなる。そんな気分にさせてくれる。お風呂を出ると、私は、清潔な服に着替える。思った通り普段の自分を取り戻すことができた。擦りむいたところに大きめの絆創膏を貼ったところで一気に疲れが出た。
「ソファー……」居間のソファーに倒れ込む。
――しばらく寝ていたようだ。すでに午前2時を回っている。
「やっば、わたし寝てた? そうだ。行かなきゃ!」
慌てて、寿賀子がいる祭祀場へと向かう。
祭祀場の寿賀子は、まるで毎日行っているかのような手際の良さで、式神を用意していた。
「お待たせ!」
「随分ゆっくり入っていたようね。でも、いつもの優希に戻ってよかった」
少し喜んでいるように見えたのは気のせい?
「何か手伝えることはある?」
「いいえ。もう、ほとんど終わったから大丈夫」
「ほんと、ゴメン……」と、手を合わす。ちょっとばつが悪い私。
「帯のことをちょっと話しておくと、京都の宗家で見た帯には、安倍清明開祖の直筆と思われる『五芒星』のみが書かれた式神の半分が張り付けてあって、きっと、もう片方にはその彼が持っている帯に付いているはずよ。このことは強力な縁起になる。この3つの帯が揃った時、彼はこの世に戻って来られるかもしれない」
「……つまり、可能性はゼロじゃないってこと?」ぜんぜん話は見えないのだけれど。
「ええ。ただ、一度、あの世に行った人をこの世に連れ戻すのは、誰もやったことがないの」
やはり、寿賀子とはいえ、難しいことにかわりはない。
式神は人の形を型取った和紙に、朱墨で五芒星と文字を書き込んで作る。今まさに寿賀子は五芒星と『刻』と『間』という文字を書き加えた式神を作っている。これらはそれぞれ『時間』と『空間』を司る式神になる。『間刻鎮清之祭』はこの二枚の式神を使役して行う。そして、3枚目の式神には五芒星のみを書いている。これで神条くんとの縁起を辿るようだ。
(きっと晴明さんが千年前に準備してくれていたんだ……)
そうだとしたら本当にすごいことだ。でも、どうしても私には解らない。
「寿賀子、ちょっといい? いくらなんでも千年前から伝わってるっておかしくない?」
「そうね。この世の感覚ではおかしいけど、実はね、あの世では時間は関係ないの」
「関係ないって、どういうこと?」
「説明するのは難しいけど……そうね、一言で言えば『空』かな。何にもないけど何でもあるという感じなんだけど、わかる?」
「…………」ますます解らないんですけど。
私は思わず作り笑い。聞いてはみたけど、まったく理解できなかった。ひょっとしたら四次元空間みたいなものなのかもしれない。それを察した寿賀子が続ける。
「う〜ん……。はっきり言っちゃうと、あの世には時間という概念がないの。というより、時間そのものがないの」
「時間がない?」
「そう」
私には時間のない世界なんて、まったくイメージできない。
ちょうどその頃、京都宗家の使者がいかにも古そうな木箱を運んできた。寿賀子がそれを開けると、赤い絹の布で包まれたものが入っている。それを開くとさらに和紙で丁寧に包まれている。丁寧にその和紙を開くと、中から古びた黒い帯が現れた。
「これが『晴明の帯』よ。私も皆伝証書をもらった時以来だから、1年ぶりかな」
「ふ〜ん。これが……」
本来、免許皆伝者しか見られない代物と聞いて、漠然とすごいものを想像していたけど、そこにあるのは何の変哲も無い、ただの黒い帯の切れ端だ。
確かに、古びてはいるけど似ている。とは言え、黒い帯なんてありふれているから、それ自体は特に珍しくもない。
「優希、ちょっと待って」
と言うなり、寿賀子は祭壇の方へ行き、神条くんと結んだ帯の切れ端を持ってくる。そして、京都から送られてきた帯を大事そうに手に取ると、おもむろに二つの帯を並べる。
「……うん。やっぱり同じ帯だね」
「そうね。それにこの帯は切れているわけじゃないの」
また意味の解らないことを言う。そこにある帯はどう見ても切れている。
「いや、それで切れてないって言われてもね……」と、私。
「切れ端をよく見て」
寿賀子に言われた通り、よくよく見てみると確かにおかしい。
「ん? なんか、ぼやっとしていてピントが合わない……」
切れ端の先端部分が空間に溶け込んでいるようにも見える。そのせいか、どんなに目を凝らしてもピントが合わない。
「でしょ。切れ端にしては不自然だと思わない?」
「うん。確かにおかしいけど……これってどういうこと?」
私は、訊いたところで分からない、という不安を抱きつつ訊いてみる。
「切れている様に見えていても、あの世ではまだつながっているということなの。つまり、この世にある二本の帯と、彼があの世で持っている帯はまだつながっているということよ」
「そうなの? まだつながっているなら、神条くんを助けられるかもしれないってこと?」
今回は訊いてよかった。たとえ理解できなくても意味ある情報だ。
「可能性はあるわね……ところで、その神条くんとはどういう関係なの?」
「え、どうして?」
寿賀子らしからぬ、質問に少し面食う。
「いえ。別に言いたくないなら、言わなくてもいいけど……」
(いやいや、興味あるってことだよね〜)
「別にいいけど。今回、たまたま通りすがりの男子に助けられて、そしたら、たまたま昔この道場に通ってた知り合いだった、というだけの話なんだけど」
「ふ〜ん。そう」
一瞬、寿賀子の目が光ったように見えたのは気のせい?
「え、なに、付き合ってる、とか思った?」
「別にそういうわけじゃないけど、ちょっと気になったっていうか……」
「へぇ〜」
ちょっとからかうと、少し照れたようにそっぽを向く。こういうところは同い年の女子なんだと嬉しくなる。
「ただなんとなく、その彼には特別な縁起を感じる。すべてが偶然じゃないような……」
と言う寿賀子の表情は、いつもの彼女に戻っていた。
「それってどういうこと? なんか気になる」
「いずれ分かるわ」
寿賀子は立ち上がると、祭壇の方へと戻って行く。
祭祀の準備はほぼ終わり、寿賀子は二つの帯の切れ端と転移装置を祭壇に供える。これらは神条くんとの縁起を辿る上で、式神以上に重要なアイテムになる。
「優希、いい? 私たちも支度するわよ」
私は強くうなずいた。