第八章 量子超越性
国立重力波研究センター
巨大モニターに映る赤い数字とグラフの羅列。それを見上げる聴衆の顔も幾分、赤く染まって見える。百名は入れそうな大会議場には、白衣を着た、いかにも研究員といった面々が半分ほどの席を埋めている。午後1時からの合同カンファレンスでは、各国の最新の観測データの報告に1時間。カグラ(大型低温重力波望遠鏡)に関しては、環境ノイズの可能性が低いとの解析結果の報告に、すでに1時間を費やしていた。そこから、加藤、安倍の両名から空間転移装置の存在と、その使用による異常重力波発生の可能性について報告があると、たちまち議論が紛糾。すでに2時間近くが経過し、時刻は午後5時を回ろうとしていた。
観測データの解析と、今回の事象の仮説についての報告はまだ始まったばかりだが、内容の混乱もさることながら、まったく結論に近づいている気配はない。その原因の一つに、空間転移装置の存在が報告された後も、誰も信じようとはせず、間違った前提の仮説がますます現実から遠のかせる結果となっていた。
一方、リアルタイムで巨大モニターに表示されている重力波の観測データは、刻々と異常な状況を知らせている。近年では、AIのデープラーニングをさらに進化させた、ディープニューラルネットワーク(多層神経回路網)を介して、ほぼタイムラグなしで環境ノイズの除去ができるようになっている。
「……以上の結果から、今回観測された重力波は、その局地性、周期性がないことから自然現象ではないという結論に達しました。ただ、自然現象ではないと仮定した場合、発生原因が何であるかは現状のデータだけでは不明です。報告は以上です」
男性研究員の発表はどこか歯切れが悪い。
「だから、原因は空間転移装置だって言ってるだろ……」
と、安倍はうんざりした表情で吐き捨てるように口にする。
「私の方は、今回の観測データから導き出せる天体の質量を算出してみました。ご覧のように、1回目の異常重力波は、わし座の連星パルサーと比較しても極めて小さく、計算上では質量にして70万分の一程度の天体から発生する重力波に相当します。当然のことながら中性子星と仮定するには軽すぎであり、天体半径と回転周期の誤差を想定したとしても、今まで観測されたことがないレベルの微小な重力波です。尚、2回目以降は、まだ完全に解析は終わっていませんが、1回目と同程度の質量の天体に相当するものと思われます。特殊なのは、今回の重力波には周期性は認められず、天体運動によるものとは考えられません。私からは以上です」
「さながら重力波のビックウェーブだな……」
次々と発表が続く中、どれも核心をついているとは思えない状況に、加藤は思わず口走った自分の言葉に頭を振る。
「加藤、こんなことをいくら続けても意味がないぞ」
「そんなことは分かっている。研究者として、分析は何より大事だが、今回は実効性の高い手を打たないと取り返しがつかないことになる」
「加藤室長、この局所性はどう考えても自然現象ではあり得ません。やはり、空間転移によるものでしょうか?」
隣の部下が不安げに質問を投げかける。
「だから、今それを分析しているんじゃないか。分析を!」自分に対しての皮肉か、加藤は苛立ちを隠さない。
「そうですが……」
「なにか……なにか、手はないのか」加藤は宙を仰ぐ。
「加藤、一つだけ手がある。って言うか、もうこれしかないけどな」と、安倍が口を開く。
長時間に渡る不毛な議論に終止符を打ちたい、という思いが垣間見える。
「説明してくれ」と、加藤。
「何度も言っている通り、特異点を出現させないためには、特異点に至らないように重力波どうしの干渉を阻止するしかない。あとは空間自体の自己修復力がどこまで働くかにかかっているが……」
「菅井君も同じことを言っていたな」
「そうなのか? 菅井は研究者としての勘がいい。逸材だぞ」
「お前に言われなくても分かっている」
「――今回の事象は、俺が作った空間転移装置による転移が原因なのは間違いない。残念と言うべきか……自然界ではあり得ない空間転移によって、非常に狭いエリア内での発生した微細な重力波どうしが干渉した結果、空間の連続体に亀裂が入った可能性が高いということだ……きれつ?」
安倍はしばらく黙ると、言葉を探しているようだった。
「亀裂という表現は正確ではないな。そうだな……泡だ。水が沸騰する時に発生する泡と言えば分かりやすい。つまり、度重なる局所的なマイクロ重力波によって、ある意味、空間が沸騰しかかっているんだ。それによって空間の連続体が壊れかかっていると、つまりそういうことなんじゃないか」
「その結果が、この異常重力波ということか?」加藤が訊く。
「そういうことだ。だから、空間転移をしていないにも関わらず周期性がない。つまり、自然界では起こり得ない重力波が、ランダムに発生しているんだ。まさに沸騰しかかっている水蒸気の泡がポツポツと発生しているように、だ」
「その仮説が正しければ……言うなれば、空間ナノバブルこそが、異常重力波の発生源ということになるが?」
「それだ。空間ナノバブル。異常重力波は、すでに空間ナノバブルが発生しているということを示している。つまり、この空間ナノバブルが弾けることで異常重力波が発生しているんだ。そして、その重力波がいま、空間を崩壊させようとしている……」
一同は沈黙した。一旦、今の内容を各々が反芻しているようだ。
「とんでもないことを随分さらりと言うんだな……」
「研究者は事実を冷静に受け止めなければならない、は、お前の口癖だろ」
「そうだな。一番冷静じゃないのは、この私かもしれない」加藤は苦笑すると話を続ける。
「話を整理しよう。安倍、おまえの仮説は、空間転移により自然界では起こり得ない、極めて狭いエリア内で発生した複数回のマイクロ重力波が干渉しあい、局所的に空間エントロピーを増大させ、その結果、空間ナノバブルが発生。そして、その崩壊こそが異常重力波の原因であり、その異常重力波どうしがさらに干渉し合って、新たな空間ナノバブルを連鎖的に発生させているという破局的状況にあるということか……」
加藤はあまりに非現実的な事実に対して、研究者としての冷静さを取り戻そうとしているかのように話す。
「ああ。まるで核分裂の連鎖反応のようにだ。このままいくと空間上に無数の空間ナノバブルが指数関数的に増大し、それらが発生させた異常重力波がさらに相互干渉しあい、空間定数の閾値を超えた時、空間的カタストロフィーを招くことになる。まあ、あくまでも仮説だが、空間そのものが虚数崩壊する可能性だってある」
「空間が虚数崩壊だと? 確かに、空間ナノバブルの中は虚数空間である可能性が高い。空間連続性の崩壊……このままでは宇宙創生に立ち合うことになるのか、我々は……」
加藤は冗談なのか、皮肉なのか自分でも分からないといった表情でつぶやく。
「正直、笑えないよ。創生ならいいが、虚無かもしれないぞ。まあ、どっちでも似たようなものか。どうせ俺たちは、そのどちらにも立ち会えないのだからな」
安倍は、精一杯の皮肉を込めて切り返す。
「まさにバタフライエフェクトだな。極微が極大に影響を与える……宇宙の始まりなんて、案外、些細なイベントがきっかけなのかもしれない……」
加藤の呟きが、一つの結論のように響く。気を取り直して加藤は続ける。
「論理はかなり飛躍しているが、今となってはおまえや菅井君の仮説も納得できる。つまり、異常重力波の連鎖を止めるために、空間転移を行わないと人為的ビックバンが起こりうるということか……」
加藤は自分で言いながら、その荒唐無稽さに思わず失笑する。
「そうだ。空間ナノバブルの発生空間そのものを空間転移させることで、空間ナノバブルによる異常重力波の連鎖を断ち切る。それしかない」
一秒が長い。解に近づいたかもしれないという共通認識が生まれた瞬間だった。
「――それには異常重力波の観測データを解析して、空間ナノバブルの発生位置と時刻を正確にシミュレーションする必要があるということだな」加藤が確認する。
「そういうことだ。ただ、その前に、あの装置の核である空間転移制御プログラムを修正する必要がある。今回、空間にマイクロ重力波が発生してしまったのは、プログラムに問題があるかもしれないと考え、一から見直してみたんだ」
「結論は?」
「球である転移空間の中心座標だけで転移させていたが、それでは精度としては不十分だったんだ。つまり、天地、地球の重力方向の軸を設定していなかったために誤差が生じた可能性が高い。おそらく、その点では初回の空間転移の誤差が一番大きかったはずだ。なんせ南半球のエアーズロックに転移して戻ってきた訳だからな」
「人ごとのように言うな。それで修正プログラムはできているのか?」
「ああ。プログラムはもうできている。重力方向の軸を加えることで、精度は限りなく理論値に近づいたはずだ。これなら誤差が空間定数以下になり、マイクロ重力波が発生することはない」
「そこが疑問だったんだ。下手に転移すれば、誤差が誤差を生み、干渉を阻止したつもりがまた新たなマイクロ重力波の発生を招きかねない、とね。今の話だと、今後、空間を入れ替える……そうだな。置換転移と言おうか。この置換転移をしても問題はないということだな?」
「ああ。大丈夫だ」
「あとは、どうやって精度の高い置換転移を行うかだ……」
加藤はやっと納得できたという表情で安倍を見ると、一転して真剣な表情になる。
「安倍、そういうことなら、すぐに置換転移を行うためのシミュレーションプログラムを組んでもらえないか?」
「もちろんそのつもりだよ。一般相対性原理のアインシュタイン方程式をベースに、今回の事象に最適な数理モデルを構築する方向で進めようと思う」
「すぐに取り掛かってくれ! 私の方でもその方向で準備を進める」
その場を立ち去ろうとする加藤に向かって、安倍が続ける。
「菅井にも協力してもらいたい。彼女はアルゴリズム(演算法)構築のエキスパートなんだ」
「わかった。菅井君、頼めるか?」
「はい。問題ありません。あの……念のため確認ですが、プランク定数はhではなく、換算プランク定数のhバーで進めようと思いますが、よろしいですか?」
「hバー……ああ、いわゆるディラック定数だな。演算精度を上げるなら正しい選択だ。hバーで問題ないだろ? 安倍」
「ああ。それで問題ない」
「では、観測データから空間ナノバブル発生の位置と時刻を予測し、さらに異常重力波の干渉を防ぐための置換転移の位置とタイミングを導き出してくれ」
「……あの、一点問題があります。精度を上げるには、演算処理の速いコンピュータが必要です」と、菅井が手を上げながら発言する。
「うちの演算サーバーではダメなのか?」
「ざっと見積もった限りでは、空間定数の閾値を超える可能性のある特異点の出現まであまり時間がありません。猶予は……そうですね……早ければ170時間後、遅くても200時間ほどしかありません」
「それは本当か!? 早ければ1週間後か……」
加藤はもはや動揺を隠す気すらないように見える。菅井は加藤の剣幕に気押され、目をしばたかせながらメガネを掛け直している。
「あの、すぐに空間が崩壊するという訳ではなくて、ですね。そのつまり、観測可能な予兆が始まるのが、という意味です。ただ、まだナノセカンドレベルなので、具体的な影響は出ていませんが、そのうち時間が長くなってきますと、どんな影響が出てくるのか。その具体的な予兆に関してはなんとも……」
「いずれにせよ、時間的猶予はないということだな」
「はい。演算の実行時間が長すぎると間に合わなくなります。短時間で精度の高い演算結果を得るには、うちの演算サーバーではまったく能力不足です」
「じゃ、演算サーバーを持っている各大学、各研究センターのサーバーに分散処理させるってのはどうだ?」
「数が多いと、分散処理させるためのシーケンス(計算手順)構築に時間がかかり過ぎます。それに、通信ロスも考えられるので難しいかと……」
「なら『富岳』を使うのはどうだ? 415ペタフロップス(性能評価指標)の処理能力ならなんとかなるんじゃないのか?」
「あの、『富岳』でも正直、厳しいと思います。おそらく、分析用の観測データだけでもペタバイト級になりますので」
「そうなのか? くそっ、完全に手詰まりじゃないか」腕を組みつつ宙を仰ぐ。
「……あの一つ、プログラム次第では、神先大の『メティス』ならなんとかなるかもしれません。実は、私も開発に関わってました……」
「『メティス』のことは知っている。たしか、国産初の光量子コンピュータだったな。ただ、『メティス』はまだ試作段階で不安定だと聞いている。演算にはリスクを伴うぞ」加藤はどうなんだと言わんばかりに菅井の方を見る。
「も、もちろん知っています。でも、もうそれしか手がありません……」菅井は顔を上げられない。
議論を見守っていた安倍が初めて口を開く。
「――賛成だ。実は俺もそれしかないと思っていたところだ」とだけ告げると、ニヤッと笑う。
「安倍先生……」
安倍の助け舟に菅井は嬉しそうにメガネを掛け直す。
『メティス』とは、神奈川先端科学大学の量子力学研究室が国内メーカーと共同開発した、日本初となる一千量子ビットの特化型光量コンピュータの試作機だ。量子もつれによる高い相関性と、量子テレポーテーションによる非局所的な情報伝達を駆使して、従来のコンピュータでは不可能な高速・並列処理を実現した。『メティス』という名称は、ギリシャ神話に登場する女神で、知恵の意味を持つ知性の神の名前に由来する。
しばらく考えていた加藤が口を開く。
「分かった。じゃあ、こうしよう。『メティス』をメインに、フェイルセーフとして『富岳』と大手メーカーの演算サーバーで分散処理させるというのはどうだ?」
「……いいと思います」菅井はうなずきながら答える。
「そうと決まれば、メーカーのプログラマーにも協力を要請しよう」
「あの……そうですね。大学のサーバーよりは高性能ですし、台数を絞り込めばシーケンス構築の手間も省けるかと。あと量子コンピュータを持っているアメリカ、中国、フランスにも依頼してはどうでしょうか?」
菅井からの積極的な提案に、加藤は驚きながらも納得した様子で話を進める。
「それもありだな。ことは一刻を争う。科学者の国際ネットワークを使えば皆、協力してくれるはずだ。とにかく、今は非常事態だ。官も民も国も関係ない。動ける人間は総動員しよう。政府にも事情を説明して動いてもらうしかない。私の方から館山センター長に文科省と経産省……外務省もか? とにかく打診してもらうように掛け合ってみるよ」
「いいね。そっちの方は頼んだぞ。加藤」安倍は加藤を指差すと、いかにも任せたといった表情を見せる。
菅井もうなずくと、ゆっくりとメガネを掛け直した。
「いつも面倒なことはこっち任せかよ。後で酒でもおごれよ」
「ああ。全部終わったらな」
「安倍、すぐにおまえの研究室にある『メティス』の演算準備を進めてくれ」
「もちろんだ。こうなることを見越して、すでに『メティス』はスタンバイさせてある。とにかく俺たちは、なる早でアルゴリズムを組むよ」
「そうだな。それが先決だ」
「ただ、試作段階なので量子ゲートがまだ不安定で、エラーも多い」
「だろうな。何か策はあるのか?」
「同じ演算をパラ(並行)で流して検証するのが常套手段だが、まあ、いくつ流すかは計算量次第だな。懸案としては、異常重力波が発生している現状では、量子が相手だけにどんな影響が出るのか予想がつかないことだ」
加藤は安倍の返答に、一瞬だけ不安な表情を見せる。
「とは言え、時間的猶予はない。なんとかしてくれと言うしかない」
「言われなくてもそのつもりだよ。これから研究室に戻ってアルゴリズムを組み次第、シミュレーションを開始する」
「頼んだぞ!」
その後、政府を通じて、現在、『富岳』が行なっていた、国立大の地殻活動シミュレーションの演算を一旦止め、異常重力波のシミュレーションを優先的に使えるように便宜を図ってもらった。また、センターの各メンバーが大手メーカーにいるそれぞれの友人、知人に協力を要請し、間もなく官民有志によるスペシャルチームが結成された。並行して、センター内のカンファレンスルームに空間補正対策本部を設置。三十名ほどの研究員が集結し、シミュレーションのための本格的な活動を開始した。
一方、政府を通じて、アメリカ、中国、フランスに協力を要請。各国もある程度、状況を把握していたこともあり、その緊急性からすぐに要請は承諾された。直ちに各国と専用の光通信回線を確保し、国家間をまたいだ合同対策チームが立ち上がった。その裏で、原因が日本にあることを知っている各国は、さまざまなチャンネルを通して圧力をかけてきた。日本としては国際問題に発展しかねない厳しい立場に置かれたのは語られない事実だ。
そして、3時間余りが過ぎた午後8時、菅井が加藤に報告する。
「加藤室長、あの、空間ナノバブル発生予測アルゴリズムは組めました……ただ、問題はデータ量です。観測データをざっと見積もりますと八百ペタバイトはあります……」
想像以上のデータ量に、菅井は圧倒されているようだ。その顔には長時間の緻密な作業の過酷さが見て取れる。
「そんなにあるのか……それではさすがに『富岳』でも厳しいか。ところで、安倍は?」
「あの、神先大へ戻りました。『メティス』の最終的な準備をするとかで……」
「そうか分かった。次はプログラミングだな。『富岳』用のプログラムは、ここの対策本部で組めるだけの体制は構築した。あとは京都近辺の大学とメーカーには話を通したので、すでに『富岳』の施設に集結してくれているはずだ」
「菅井さん、アルゴリズムのデータをください。僕の方から『チーム富岳』に送ります」
研究員の1人が買って出る。
「よろしく頼む」
従来のノイマン型コンピュータの『富岳』と光量子コンピュータの『メティス』では、演算方式がまったく異なるため、同じアルゴリズムが使えない。『富岳』は従来的な二進法だが、『メティス』は量子もつれを利用した超並列コンピューティングだ。そのため、それぞれの演算方式に合わせて別々にアルゴリズムを組む必要がある。
「問題は『メティス』の方だな。まずは量子アルゴリズムに組み直してから、さらに関数型量子プログラムを組まないといけないということか……」
加藤は腕組みしたまま考え込む。
「あの、そうなります」
「二度手間になるな。今の段階では優劣はつけ難い状況ということか」
「は、はい。でも、関数型量子プログラム化は、私が以前、組んだ変換プログラムがあるので、そんなに時間はかからないと思います。安倍先生も持っています」
「それはグッドニュースだ。菅井君、量子アルゴリズムのデータが出来次第、安倍に送ってくれないか?」
「わかりました。あの、もう少しお時間をください」
「ああ。構わない。量子プログラミングは安倍に任せよう」
「あの、私もこちらからサポートします」
「そうしてくれ」
プログラムを構築する時間は『富岳』の方が短いが、演算に時間がかかる。一方、『メティス』の方は、演算そのものは圧倒的に早いが、プログラム構築に時間が必要となる。
1時間が経過した午後9時、対策本部に連絡が入る。
「『チーム富岳』、プログラム組めました!」
「よし。直ちに演算を開始してくれ!」指示を出す加藤。
一足先に『富岳』が演算を開始する。
「『メティス』の方はまだか……」
まずは『富岳』が先行する形になった。さすがは世界屈指のスーパーコンピュータだけに、モニターには驚異的な速さで演算が進む様子が映し出されている。
「このまま順調にいけば『富岳』でもなんとかなるんじゃないでしょうか?」と、研究員が期待を口にする。
「いえ。1時間あたりの処理能力はおよそ4%ですので、このままでは丸1日かかります」
別の研究員が答える。
「そうか……やはり『メティス』にかけるしかないな」加藤がつぶやく。
しばらくすると、菅井が申し訳なさそうに現れる。
「あの、ちょっとバグの修正に手間取りましたが、なんとか量子アルゴリズムは組めました。データは安倍先生にも送りましたので……これから量子プログラムも手伝います」
その表情は、集中力の限界を経験したかのように憔悴しきっている。
「そうか。ご苦労だった。菅井君、少し休んでどうかね?」
「あの、はい。少し休みます。でも、その後で量子プログラムのサポートに入ります」
「頼む」
菅井はいかにも疲れたように、ふらふらと歩きながら、近くの椅子に座るとテーブルに伏せた。
さらに2時間が経過し、午後11時、東京科学大学の安倍から連絡が入る。
『こちら神先大の安倍だ。関数型量子プログラムは組んだ。そちらにも送ったので確認してくれ』
そこに慌てた様子で菅井が現れると、申し訳なさそうに頭を下げる。
「あの、加藤室長、すみません……わたし、寝てました……」
「大丈夫だ。量子プログラムは無事に終わったよ。あとは演算だけだから、ひとまず待機していてくれ」
「わかりました。なにかあったら呼んでください……」ふらふらと椅子に座り込む。
「プログラム来ました」研究員が告げる。
「よし。直ちにアメリカ、中国、フランスのチームへも送信するように」
「分かりました」
「安倍、『メティス』も演算を開始してくれ」
『分かっている。もうすでに始めたところだ』
「よし!」
大型モニターの端に映る安倍が答える。現在、神奈川先端科学大学の量子力学研究所とはTV会議システムで常時接続している。ところが、開始早々、モニターにエラーが表示され、演算が止まってしまう。
「おい、安倍! どうなっている?」
『量子テレポーテーションの発生率が低下している。これでは演算できない!』
安倍が悲痛な声で訴える。
「くそっ。試作機だけのことはあるな。とにかく、なんとかしてくれ!」
『もちろんやっている! 異常重力波の影響かもしれない……』
「あ、安倍先生、菅井です。あの、過去にもありました。光子もつれのクラスタ状態が不十分なのかもしれません。あと、量子ゲートの補正操作を通じて間接的にゲートを適用してみてはどうでしょうか?」
『なるほど。ハードは任せっきりだったな。菅井、手伝ってくれないか?』
「わ、わかりました。システムデータを送ってください。解析します」
『頼む!』
「安倍、間に合いそうか?」
『ああ! なんとしても間に合わせてみせる』
「頼んだぞ! 安倍、菅井君」
40分が経過した午前0時前。
「『富岳』の方はどうだ?」と、加藤。
「いまのところ問題なく進んでいます」
「問題なく、か……」
そこに安倍から連絡が入る。
『こちら神先大の安倍。『メティス』が復旧した!』
安倍の声が対策本部内に響くと、歓喜のどよめきが起こる。そこによろよろと加藤に近づく菅井の姿があった。その表情には、限界を超えた疲労が色濃く滲んでいる。
「あの、加藤室長……システムを解析した結果、光子もつれのクラスタ状態が不十分だったことが原因でした。最適なパラメータに調整することで安定しました……」
「そうか。ありがとう! よし、演算を再開してくれ!」
驚いたことに、ものの数十秒で演算は完了した。光量子コンピュータは圧倒的な速さで演算結果を表示する。光量子コンピュータの超並列処理の速度は従来の常識をはるかに超えるものだった。
「頑張ったね。メティスちゃん……」菅井は涙ぐむと、床にへたり込む。
『安倍だ。演算結果が出た。結果はそちらにも表示されているな?』
「ああ。まさに量子超越性のなせる技だな。転移合計3回、転移起点と終点の緯度経度と転移時刻か。あまり時間がないな。こちらは引き続き、『富岳』の演算は継続する。あとで演算結果を擦り合わせたいからな」
「加藤室長、アメリカ、中国、フランスから、演算結果が送られて来ました」
「そうか。いいタイミングだ。すぐにモニターに映してくれ」
「分かりました」
すぐに結果が大型モニターに表示される。その数値に、一様にどよめきが起こる。
「安倍、聞いたか? たった今、各国の演算結果が送られてきた。そっちでも確認できるな?」
『ああ。見たところどの演算結果も同じだ。これで確信が持てた。驚いたのは、アメリカと中国の演算精度の高さだよ。桁が違ってる。まあ、予算も桁違いだけどな。しかも、この短時間に誤差が生じた場合のいくつかの可能性も並行して演算してくるとは恐れ入ったよ。それに、この演算結果は空間転移装置の精度を超えている』
「ってことは、使えるということだな」
『そうだな。悔しいがまったく問題ないね』
安倍は少し自嘲ぎみに笑う。
「やはり最適解は3回の置換転移だな。特異点の発生確率が一番低い。ところで、このmは転移時の質量で間違いないか?」
『……そうだ』
「108キロだと? これでは大人二人分の体重じゃないか」
『ああ。そうなるな……』
「この質量に何か意味があるのか?」
「あくまでも推測だが……転移境界面の摩擦を減らせる効果があると思う。つまり、質量による引力の歪みで、転移空間の体積が量子レベルで小さくなるからな」
「なるほど。転移自体による重力波を軽減できるということか。安倍、すぐにこのシミュレーション結果をもとに置換転移を行うように手配してくれ」
ところが、モニター越しの安倍の表情はなぜか冴えない。
『そこなんだが、あの装置は一人用だ。二人で転移したら何が起こるか判らない。ヘタをすると取り返しのつかない事態が起きるかもしれない……』
「そうなのか? だが今は時間がない。なんとか帳尻を合わせて転移してもらうしかない。すぐにこのデータを転移装置の持ち主に送ってくれ」
『いや。しかし……条件を変えて、もう一度シミュレーションさせてもらえないか?』
「そんな時間がないことぐらい、おまえだって解ってるだろ! 各国の演算結果も同様に質量を下げれば、転移回数が増える。この演算結果からも質量と転移回数が反比例しているのは明らかだ。それに、転移回数が増えれば時間もかかるし、思わぬ誤差も生じかねない。なにより、特異点の発生確率が一番低い。これがベストだ」
『そんなことは俺だって解っている。やはり……、この条件で転移するしかないのか……』
「じゃ、他に策でもあるというのか? データからも、早ければ早いほど発生確率も低いじゃないか」
『…………』
安倍は答えない。頭では理解しているが、心が拒んでいるようだ。
『くそっ。宇宙の命運を姪っ子に預けなければならないなんて……』
「安倍、時間はないぞ」
『分かっている……。誰かこのデータをHTMLに変換して、メールで送ってくれないか』
「了解だ。誰でもいい、すぐに安倍にデータを送ってくれ」
「では、私が送ります」近くの研究員が対応を申し出る。
「そうか。よろしく頼む」
安倍はしばらく沈黙してから、決心したように話す。
『姪に連絡するよ……』
そう言うと、安倍はスマホを手にした。