第七章 母夜叉(ははやしゃ)
「神条くん、わたしに任せて!」
私は走りながら、たったいま思いついた高徳寺をスクロールで探す。目的地は高徳寺の裏庭に設定する。入り口は一つだけだから少しは時間稼ぎになるかもしれない。
「奧に階段があるぞ! とりあえず登るか!?」
「あとちょっと!」
走りながらスクロールして転移位置をちゃんと合わせようとすると、思わず速度が落ちる。見かねた神条くんが背中を押してくれる。助かる!
男たちが路地に入って来るのが気配で分かった。もうすぐ撃って来るはずだ。道の行き止まりまで、もう10メートルもない。
プシュッ!
空気が漏れるような音が聞こえた。
(ひょっとして銃声?)
思った通り、男たちが撃って来たようだ。表示がもどかしい。ものの数秒が恐ろしく長く感じる。もうすぐ行き止まり。その時、『転移しますか?』の表示。
「来た!」
「うっ!」
背中を押していた力が急に弱まる。
(え? 神条くんが撃たれた!?)
「神条くん!!」
「行けよ!」
思わず振り向こうとすると、彼は今まで以上に強い力で押してくる。
(絶対においていかない!!)
私は無理やり振り向くと、神条くんを抱き止めつつ、体捌きで彼をかばうように回転しながら装置をタップする。もう、恥ずかしいとか言ってられない。例の浮揚する感覚が私たちを襲う。次の瞬間、私たちは――
――目的の場所へ落ちた。そこは高徳寺にある鎌倉大仏裏手の庭園。
「…………」
地面に叩きつけられるような衝撃で、痛みのあまり声が出ない。やはり、転移する時の体勢が悪かったせいで、完全に受け身を取り損ねてしまった。落下はもちろん痛かったけど、それ以上に気がかりなのは、抱き止めたはずの神条くんがいない。
(なんで!?)
「神条くん、どこ〜?」
私は思わず叫ぶ。まだ、手の中にはまだ彼の感覚が残っている。でも、一緒に転移したはずの彼の姿がない。何か嫌な予感がする。
(きっと私の背中を押しながら、盾になってくれていたんだ……)
そう気づくと居ても立っても居られない。彼は銃で撃たれて怪我をしているはず。一刻も早く手当てしないと。
(一緒に跳んだはずなのに、どうして?)
どんなに辺りを探しても神条くんは見当たらない。とにかく、ここにいたら危険だ。いずれ男たちがやって来る。ふと、微かな記憶の中で、彼がどこかへ飛ばされていくイメージが湧いた。何かが起こったのは間違いない。
(神条くん、絶対に助けるからね)
後ろ髪を引かれるような思いで私は走り出す。その時、携帯の着信が鳴る。伯父からだ。
「おじさん、なに?」
『いいか、落ち着いて聞いてくれ』
「わかったから、早く言ってよ!」
『その装置はもう使わないで欲しい』
「そんなこと言われたって、こっちも命がかかってるんだよ! 逃げなきゃ殺されちゃうよ!」
『それはわかってる。でも、このままだと空間が崩壊してしまうかもしれないんだ』
私は走るのを、止めた。
「おじさん、それ、どういうこと?」
『無茶なお願いだって分かってる。でも、次に連絡するまでは使わないで欲しい。じゃ、切るよ』
画面には『通話終了』の文字。伯父はいつも一方的に切る。
(神条くんは見つからないし、どうすればいいの……)
装置を渡そうにも、ここにきて私を襲う連中の対応の方が明らかに速い。しかも、いい方は防戦一方だ。もう、一人で考えるのは限界だ。私は何がなんだか分からなくなって、気がつくと母に連絡していた。盗聴とか関係ない。どうせやつらはやってくる。
「お母さん……」
『優希、どうしたの?』
「――お母さん……わたし……もう、どうしていいかわかんないよ」
『今どこなの?』
「大仏の裏庭……」
『いい場所ね。じゃ、そこを出て、銭洗弁天の入り口で落ち合いましょう』
「うん。わかった」
『いい、優希。とにかく中庸の精神で対処するのよ』
「――うん」
おじいちゃんにも同じことを言われたのを思い出す。
『じゃ、あとでね』
ここに奴らの気配はない。さすがに高徳寺には近づけないようだ。私は言われた通り、銭洗弁天の入り口へ走る。ずっと上り坂が続くので心臓が破裂しそうだ。入り口が見えてくると、遠くから明晴流師範の道着を着た人物が立っているのが見える。
(誰だろう? あんな師範いたっけ?)
よく知っている背格好と顔にピントが合うと、私は思わず足を止めた。
「……おかあさん??」
そこには道着を着た、私の知らない『母』が立っていた。しかも、まるで別人のような雰囲気をまとっている。
「優希、よく頑張ったわね。もう大丈夫よ!」
「お母さん、その道着……」
(なんで師範の道着を着てるの?)私は状況も忘れて聞きそうになる。
「いいからすぐ道場へ行きなさい。みんな待ってるから」
「う、うん。わかった……」
母のそばを通り過ぎようとした瞬間の横顔は、今まで見たことがないくらいに凛々しく、まさに柔術家そのものだった。
「でも、お母さん……」
もう一度、母を見ると、すでに臨戦態勢の視線は例の男たちに注がれている。
「早く行きなさい!」
と叫ぶと、男たちの殺気に反応したようだ。「ハッ!!」という鋭い呼気とともに母の姿が一瞬、霞がかかったように奇妙にぶれる。低い姿勢を取った刹那、母は銃を構える男たちに向かって、地面を這うように鋭くジグザグに走り出す。
(『霧霞之勢』に『弓龍之詰』……初めて見た)
同時に私も走りながら、可能な限り母の動きを目で追いかける。これらの技は、明晴流に伝わる高等技法で、特に、『弓龍之詰』は弓や銃相手に用いる運足法の奥義とされている。低い姿勢の上に急激な重心移動を伴うため、師範でも習得できるのはごく一部とされている伝説の技だ。師匠である祖父も、高齢となった今では、見せることができないと言っていた。今、この技を使える師範はいない。
男の一人が銃を撃つタイミングに合わせて右入り身でかわしつつ、男の懐に深く入るのが見えた。次の瞬間、骨が折れる鈍い音と共に男が宙高く舞う。
(すご……)
母は、前受け身気味に入る、『転石之入』から鳩尾へ右掌底を入れると、そのまま『裏翔雀投』を決める。この時点で男は呼吸ができず、肘関節を折られながら投げられたはずだ。『翔雀投』とは、相手の正面から腕を取りつつ、奥の足をすくって投げる技で、投げる瞬間の形が、孔雀が尾羽を広げたように見えることから名付けられた。その裏技である『裏翔雀投』は、相手に背中を向けて入るので、さらに難易度が高い。しかも、相手の手を逆関節で肩に担いで折りながら足をすくって投げ、受け身は取らせない危険な技だ。当然、師範でもできる人は限られ、道場では禁じ手の一つとなっている。正直なところ、あれだけの動きができる師範も技も、私は見たことがない。その技のキレはとても一介の主婦とは思えない。
私が見たのはそこまでだった。その後、もう一発の銃音と男の呻き声が遠くに聞こえた。
(お母さん……)
私はとにかく走った。道場に着くと、祖父と道着を着た師範たちが集まっていて、手には木刀と六尺棒を持っている。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
「おお、優希! 無事だったか」
安堵とともに母のことを思い出し、目から思わず涙がこぼれる。
「お母さんが、お母さんが……」
私は頭が混乱していた。聞きたいことが山ほどあった。
「沙希か、わかっている。沙希なら大丈夫だ」
「あの道着? お母さん、明晴流やってたの?」
「うむ。ああ見えて沙希は道場きっての使い手で、道場唯一の皆伝継承者だ。わしが知っている師範の中でも3本の指に入るほどのな」
「お母さんが?……」
まったく知らなかった。母は明晴流のことは一切話さなかったし、私はてっきりやっていないとずっと思っていた。
「だから心配するな」
「うん。でも、あんな動き初めて見たよ」
「そうか。今、あれだけの動きができるのは沙希だけだ」
「そうなんだ。お母さんの『弓龍之詰』、本当にすごかった」
「『弓龍之詰』も今では沙希しかできん。今度、教わるといい」
「うん。そうする」
私は涙をぬぐう。今なら母は大丈夫だと信じられる。きっとあの動きこそが『明晴陰陽流』の真の姿に違いない。あれだけの達人なら負けるはずがない。
「いい頃合いだから話しておくが、実は、優希が高校に入った頃から沙希は隠れて稽古を再開したんだ。実際、わしも歳を取りすぎた。晃明もあんな調子だしな。まあ、晃明にとっては沙希の存在が重荷だったようだ。だから今、この道場には真の明晴流を伝えられるものがいない。そこで、わしは京都の宗家に優希を預けようと考えていたんだが、それなら私が教えると沙希が言うのでな。わしも嬉しかった」
「お母さんが……」
母の強い思いが伝わってくる。それはあの技を見れば一目瞭然だ。
「沙希はまだ完全に戻ってないから、優希には言わないで欲しいと言っていたんだが、今回の一件でばれた、とまあそういうことだ」
「そう、だったんだ……」
あれだけの技でもまだ完全じゃないなんて、どれだけ強いのか想像もつかない。
「あと、国際機関の連中にも連絡してある。この家の周りは彼らが監視している。万一に備えて、こうして腕利きの師範たちにも集まってもらった」
「優希ちゃん、これから戦だって?」
「僕は犬の散歩を放り出してきちゃったよ」
師範たちは、まるで遠足に行くかのように、にこにこ笑っている。
「おじさんたち……」私は泣き笑いだ。
「大体の話は、晃明から聞いた」
「じゃ、おじさんと会えたの?」
「ああ。国際機関の施設で会った。今はもう大学に戻っているが、なんでも空間の崩壊を防ぐために、シミ? なんとかをやっておるそうだ。それが終わるまでは、なんとしても持ちこたえるしかない」
他の師範たちもうなずいている。
(おじいちゃん、それ多分、シミュレーションね……)言わないけど。
「この歳で初陣だし、飛び道具相手というのも少々厄介ですな」
師範たちは他人事のように笑っている。さすが肚の座り方が半端ない。ふと、スマホのメッセージに気がつき、すぐに確認する。
『そっちは無事か? こっちは大仏が見える森の中。無事なら連絡しろ』
神条くんからだった。
(良かった。無事だ!)私もすぐに返信する。
『怪我は大丈夫?』
『遅えよ! 無事か?』即リプ。
『ゴメン気づかなくて。でも大丈夫!』
『怪我はたいしたことない。いまどこ?』
『いま道場にいる』
『道場って明晴館道場?』
『知ってるの?』
『ここいらじゃ有名。今からリュック持ってく』
『忘れてた! ヨロシク!』
神条くんが無事だと分かり、私は一気に気が抜ける。改めて自分の所持品を確認すると、手に持っているスマホと、ボトムスのポケットにある転移装置だけだ。
「お腹すいたな……」
緊張が解けた途端、思わず声に出てしまった。よく考えたら、ひなちゃんの自宅で頂いた朝食から何も口にしていない。
「そんなことだろうと思って、食べものを用意してたから台所に行ってみなさい」
「ほんと? うれしい! じゃあ、食べてくるね」
私はすぐに台所へ向かう。
「おばあちゃん、もう、お腹ペコペコ〜」
「優希、ほらお食べ。好きなだけ食べていいからね」
「おばあちゃん、ありがとう! いただきますっ」
私は夢中でおにぎりをほおばる。おにぎりって、こんなにおいしかたっけ。豆腐のお味噌汁と無限サイクル。祖母の沢庵は口休めに絶品。日本人に生まれて良かったと、私は思う。
「優希、食べながら聞きなさい」
「?」
普段は穏やかな祖母がいつになく硬い声で話す。私はほおばりながらうなずく。
「なんか空の間が震えていてね、このままだと大変なことになるかもしれないよ」
ふと、手元にある装置を見る。
「――うん。わかってる。きっとこの装置のせいだ……」
かろうじて飲み込んだタイミングで答える。祖母は静かにうなずく。
「ただの伝承だと思っていたけど……。まさか、私が生きている間に起こるとは……」
「そうなの? 昔からわかっていたの?」
「開祖から、代々の陰陽師には伝承されてきたのよ」
「それって伝承じゃなくて、予言じゃない」
「今となってはそうね。さっき、鎌倉宗家からも連絡があってね。ほら、優希も知っているでしょう? 同い年の寿賀子ちゃん。今こっちに向かっているって」
「寿賀子ちゃんが来るの?」
このことは、宗家が動き出しているということだ。それだけ事態は逼迫している。
「この空の間の乱れは、この数百年間、どの陰陽師も経験したことがないくらいなのよ」
引き起こしてしまった身としては、心が傷む。空間が壊れてしまっては元も子もない。
私の祖母は伝説の陰陽師、安倍晴明から続く陰陽道を今に伝える陰陽師の一人だ。母方の安倍家には、安倍晴明をルーツとする陰陽道を代々伝える宗家と、陰陽道の考えに基づいて作られた古流柔術の『明晴陰陽流』を伝えるいくつかの分家が存在している。陰陽道を主とするなら、その教えを守護する『明晴陰陽流』は従という関係だそうだ。しかも、伝承の断絶を防ぐため、陰陽道は分家にも伝わっている。詳しいことは分からないけど、宗家と分家が双方で養子を取り合ったり、婿養子を入れたりしながら、教えが断絶しないように今に伝えている。そして、大元の京都には安倍宗家と、大阪本家、愛知にも岡崎本家が存在している。12年に一度、安倍晴明祭の時に、持ち回りで安倍一門同士の集まりもあると聞く。
今からこっちに来る寿賀子は、安倍の鎌倉本家の同い年の再従姉妹だ。名前は安倍寿賀子。16歳という若さで、陰陽道の皆伝を授かった才女だ。子供の頃は、正月に親戚で集まった時に、同い年だったせいもあり、よく遊んだのを覚えている。ただ、中学生になってからはあまり会うこともなくなった。噂では京都宗家の陰陽師たちも舌を巻くほどの式神使いで、その術の習熟度は歴代でもトップクラスとの呼び声が高い。成人と同時に安倍晴明流陰陽道28代目正統継承者を拝命するのは確実とされている。私とは正反対のクールなお嬢様系、ちょっとだけ苦手なタイプだ。
お腹いっぱい食べた後、道場に戻ると、そこには母が到着していた。
「お母さん!!」
無事な姿を見た途端、私は安心したせいで一気に体の力が抜けて、その場に立っているのがやっとだ。でもよく見ると、母の左腕の道着が血に染まっている。
「お母さん、血が!」
私は慌てて駆け寄ると怪我を確認する。良かった。怪我はたいしたことなさそうだ。
「大丈夫、こんなのかすり傷よ。お母さん、久しぶりだったので、ちょっと勘が鈍っちゃってたみたい」
と言って、どこか他人事のように笑う。
「お母さん、本当に無事で良かった……」
思わず涙が溢れる。もう顔を上げられない。
「優希が無事で、お母さんもホッとした」
そう言いながら、怪我をしていない右手で背中を撫でてくれる。
「でもお母さん、明晴流やってたなんて聞いてないよ」
「いやね、言ったら優希にプレッシャーになるかなーって思ってずっと黙っていたのよ。ほら、そこの道場師範の名札の中に、一枚だけ名前の書いていないものがあるでしょ、あれがわたしの。ひっくり返すと名前が書いてあるはずよ」
「そうだったんだ……」
「ほら、わたしもあなたの気持ちがよく分かるから。やるかやらないかは優希に決めて欲しかったのよ」
「お母さん……」
「でも、もう隠さなくてもいいかな。バレちゃったし……」
今更ながら、この母の元に生まれて良かったと思う。
「お母さんの『霧霞之勢』と『弓龍之詰』、それに『転石之入』と『裏翔雀投』、本当すごかった。あんな技、初めて見たよ」
「あらそう? そんなに褒められちゃうと、ちょっと嬉しいかも」
「この道場で『弓龍之詰』ができるの、お母さんだけなんだってね。おじいちゃんが言ってたよ」
「ちょっとキレが落ちてたけどね〜。それでほら、この通りやられちゃった」
と言って母は笑う。でも、訓練された人間、それも銃を持った男二人を素手で倒した上に、この程度で済んでいるのは、母の方こそ普通じゃない。
「お母さん、これが終わったら、今度、稽古つけてよ」
「まだ、優希には負けないわよ。ビシバシしごくからね」
「まだ白帯なんで、お手柔らかにお願いします」
「あらそう? 男二人を投げ飛ばしたそうじゃない。だったら手は抜けないなぁ。師範として……じゃなかった、元師範ね。今はただの主婦だけど」
二人して笑う。なんだかすごく嬉しい。そして、誇らしい。自分の母親とこんな会話ができるなんて夢にも思わなかった。ふと道場の入り口から人の話し声がするので振り向くと、そこには師範たちと話している神条くんの姿があった。
「あっ! 神条くん」
私は涙をぬぐいながら、彼の方へ駆け寄る。
「神条くん、怪我は大丈夫?」
私は急いで、彼の全身をくまなくチェックする。
「……肩から血が出てる! 早く手当てしないと」
「ああ、これ? かすり傷だよ。たいしたことない」
「でも……」
「ふたりの手当てが先だ。みんな手伝ってくれ」祖父が叫ぶ。
師範の中にはお医者さんもいるので心強い。気を利かした師範の一人が道場備え付けの救急箱を取ってくる。
「じゃ、レディーファーストで。沙希さん、こっちへ」
レディーと言われてまんざらでもない感じの母。自分で腕をまくると、医者の師範に診てもらう。
「はい大丈夫。じゃ、傷を洗ってきて。次、そこの若者、こっちへ来なさい」
「はい。お願いします」
神条くんは、思い出したように撃たれていない右手で、私のリュックを手渡してくれる。
「ほら、これ」
「ありがとう。ほんと助かった」
「いや。まあ……家の途中だし。いてっ!」
肩の傷を診るために服を脱がされて痛かったようだ。
「がまん、がまん。男だろ」と医者の師範。
「神条くん大丈夫? 家、近いの?」
「ああ。ここから10分くらい。痛っ!」
「そうなんだ」
「二人とも傷は浅い。かすり傷とは言えないが、心配ないですな」
医者の師範が慣れた手つきで治療を行いながら言う。周囲に安堵の空気が広がる。
「――実は俺、ここに通ってたことがあるんだ」
治療を受けながらのまさかのカミングアウト。
「え、そうなの? 神条くん、明晴流やってたの?」
「まあね……」
「それって、いつ頃?」
「小学生の頃だから、5年くらい前かな」
師範の一人が咳払いをすると、師範たちは何やら意味深な微笑みを浮かべている。
(何、そのリアクション!)
名前に聞き覚えがあったのはそのせいかもしれない。
「はい。若者終わり。傷痕は残るかもしれないが、まあ、男の勲章だ。はい次、沙希さん、傷は洗ってきたかね? どれどれ、ああ、きれい、きれい」
医師の師範は次に母を治療する。子供扱いしている風がなんとも笑える。
「梶先生、痛くしないでね〜」母はまるで他人事のように笑う。
私は改めて神条くんの顔を覗き込む。その途端、彼は顔を背ける。確かに見覚えがある気がする。
「……ひょっとして、あっく……あつしくん?」
「ああ!」
ぼやっとしていた輪郭が急に像を結ぶ。そうだとしたら彼の名前は神条篤志くんだ。苗字を聞いてもピンとこなかったのは、当時は苗字ではなく、『あっくん』と呼んでいたからだ。つまり、5年越しに苗字と名前が一致したことになる。彼は小学校の頃、私が唯一かなわなかった相手だ。当時の私は、師匠の孫で明晴流が唯一の存在証明だったので、子供ながらに何度も苦い涙を流した覚えがある。
「え、だって雰囲気ぜんぜん違うし、あ、それにわたしより小さくなかった?」
悪いと思いつつも、私はワザと手の平を下げたアクションでからかう。
「それ言うか」
「ごめん、ごめん。気にしてた?」
「当たり前だろ。おまえだって、格好も今時って言うか、ぜんぜん違うしさ。名前聞くまでわからなかったし」
「そうなんだ。どう? 髪も染めたんだ。イケてない?」と、ヒップホップダンスのポーズを決める。
「自分で言うか。でも、髪型は変わってないのな」
(え、ポニーテールは覚えてくれてたんだ)
二人してプッと吹く。ああこの感じ、どこか懐かしい。
「でも、悔しかったな。わたし一度も、あっ、じゃない、神条くんに勝てなかったから……」
ふと、当時の記憶が脳裏をよぎると、胸に氷を押し当てられているような冷感と息苦しさを覚える。まるで思い出したくないと、体が拒んでいるようだ。
(私はあの時、神条くんに怪我をさせてしまったんだ……)
当時、彼に勝てなかった私は、危険な技をかけて失神させた上に、鎖骨を骨折させてしまった。ぐったりした神条くんの青い顔は今でも目に焼き付いている。年少部の約束組手では、技をかけられた時は受け身を取る決まりだった。しかし、投げられたくない一心で、私は約束組手で禁止されている捨て身技をかけてしまった。投げられながらかける捨て身技は、相手が受け身を取るのが難しく、年少部では禁止されていた。案の定、神条くんは受け身を取れず、もろに肩から落ちて後頭部を強打してしまった。
当時、かなり叱られたことを覚えている。それがトラウマとなって、それ以来、技をかけるようとすると、無意識に体が強張るようになってしまった。
その後、神条くんは怪我から回復しても道場には来なかった。父親の転勤で引っ越したのが理由と聞いたのは、中学に上がった頃だった。それ以降、音信不通になっていた。
「――あの時は、ごめんね」
「済んだことだろ。俺も下手くそだったしね」
「でも、いつこっちに戻ってきたの?」
「今年の春から」
「あ、そうなんだ。その制服、ひょっとして北高?」
「そうだけど」
その高校は、地元でも有名な進学校だ。確かに、彼は当時から勉強ができた。
「でも、今日は神条くんのお陰で助かったよ。ほんとにありがとう」
私は心から神条くんにお礼を伝える。彼がいなかったら、ここにはたどり着けなかったかもしれない。
「久々に先生たちにも挨拶できたし、今日は帰るよ」
「そっか。また道場には通わないの? リベンジもしたいしさ」
「今じゃ勝てないよ。あれからずっと稽古してたんだろ」
「……まあね」技をかけられず、ただ投げられていたとは言えない。
「ああ。考えとく。じゃ、俺はこれで」
師範たちは、満足げにようやく物語の結末を見たといった表情で頷いている。
(さっきからなんなの? みんな)
「先生方、お邪魔しました!」
神条くんの凛とした声が道場に響く。
「神条くん、せっかくだからご飯でも食べて行きなさい。優希が世話になったようだしな」
帰ろうとした神条くんに祖父が声を掛ける。
「はい。じゃ、ご馳走になります」
(さっきまでの俺様キャラはどうしたの?)
神条くんは、ここでは違うキャラでちょっと笑える。その直後、私はスマホの着信音に気づいた。