第六章 異常重力波
国立重力波研究センター
そこは鎌倉市からほど近い、横浜自然観察の森のふもとにある、国立重力波研究機構の研究施設である。主に日本の人工衛星と世界各国の研究者の間で共有する重力波の観測データの分析を目的に建設され、二〇一五年から研究を行なっている。
その外観は、最新の研究拠点にふさわしいデコンストラクションな構造で、まるで直角という概念を忘れたかような角度で立体が嵌合している。その表面も、よくあるガラス張りではなく、遮熱複層ガラスにハーフミラー処理が施され、もはやガラスというよりは、限りなく鏡に近い。さらに、日本的な格子パターンがあしらわれており、建物同士の写り込みが、まるでエッシャーのそれを彷彿とさせる。
正面エントランスを入ると、連星と重力波をモチーフにした巨大なモニュメントが展示されている。その波を表現している巨大なアクリルパーツは天井から吊るされており、あたかも空中に浮いているかのように演出されている。
ここで日夜研究されている重力波とは、時空を歪ませるほどの質量を持った物体が、軸対象でない運動を行うことによって生じる時空の歪みが波となって伝わる現象のことである。可視光、電波に次ぐ、新たな天体観測の手段として注目されている。
研究者たちが期待しているのは、アインシュタインの一般相対性理論の検証、宇宙誕生のより初期の状態の解析、宇宙重力波背景放射の検出、非常に強い重力場での物理現象の観察などである。
八月某日午前9時、同研究センターのエントランスを上から眺められる2階のラウンジには、白衣を着た研究員が数人集まって議論をしていた。全員が一様に腕を組みながら、深刻そうな表情を浮かべている。
「カグラ(岐阜県飛騨市にある大型低温重力波望遠鏡)の話は聞いたか? 断続的な異常重力波が検出されているらしい。それも何十万光年も彼方の話じゃない。この日本からだ」
一人が話し出すと、他のメンバーも堰を切ったように話し出した。
「ライゴ(米レーザー干渉計重力波観測施設)からも同じような報告があったと聞いたぞ。自然現象ではあり得ない観測データなので、なんらかのシステムエラーの可能性を疑っているらしい。今、ライゴの全システムをシャットダウンして、総点検を行なっているそうだ」
「まてまて。ライゴだけじゃない。ヴァーゴ(欧州レーザー干渉計重力波観測施設)でも同じらしいぞ」
「なんらかの環境ノイズとは考えられないか?」
「いや、少なくともカグラに関しては、量子真空スクイーザー(ゆらぎ制御技術)を組み込んでいるから除去されているはずだ。アメリカだって同様のシステムが入っていると聞いている」
「欧州の素粒子研究所にいる友人の話では、ここ数週間の間で何度か、極めて稀な素粒子の出現が相次いでいるらしい……確率の飛躍で大騒ぎになっているそうだ」
「それはそれでいいじゃないか。素粒子の研究が進むかもしれない」
「まあ、そうかもしれないが、俺たちはどうだ。まさに渦中って感じだぞ」
「そうだな。システムの総点検から、データの再解析、それらに問題がなかった場合、今度は異常重力波の原因を探らないといけない」
各々の研究員たちは疑問を口にするものの、その議論が結論に近づいているようにはまったく見えない。
「くそっ。何が起こっているんだ?」
誰かがまるで独り言のように言うと、全員が一様に口をつぐむ。誰もがその問いに対する明確な答えを持ち合わせていないことが判る。
そこにリーダーらしき男性研究員が現れる。
「あ、加藤室長」
「みんな、こんなところに集まってどうしたんだ?」
「ええ。例の異常重力波の件でちょっと……」
「その件は私も聞いている。今、想定外の環境ノイズの可能性について分析していると聞いているが」
「私は環境ノイズの可能性は低いと思っています」
「塚本君、その根拠は?」
「量子真空スクイーザーとAI(人工知能)によるノイズ除去精度の向上です。ディープラーニング(深層学習)の蓄積により精度は日々向上しています」
「確かにな。だが、一次データとAIによるノイズ除去後での偏差が少ないのはどう説明する?」
「それは……」
塚本と言われた研究員は、必死に言葉を探している。
「私も環境ノイズではないという可能性が高いと考えている。だからこそ、ノイズではないという確証が欲しい」
加藤が見かねて助け舟を出すと、塚本はホッとした表情を見せる。
「科学的真実は疑い尽くした先に存在する。地味かもしれないが、疑問を一つひとつ潰していかない限り、真実にはたどり着けないんじゃないかな?」
「はい。軽率でした……」
「いや、別に君を責めているわけではないんだ。誤解しないで欲しい。まあ、研究者たるもの、感情に左右されずに、今、起こっている事象に冷静に向き合うことが大切だと、私は常々考えているんだ」
「はい。分かります」
「しかし、君たちの不安もよく理解できる。私の研究者としての勘も、あのデータを見せられてからはアラートがなりっぱなしだよ」
と言って、固まった場の空気を和ませようと、加藤は肩をすくめた苦笑いも付け加える。
「加藤室長、我々にできることはないでしょうか?」
「そうだな。早急に館山センター長に報告しよう。その前に、今なにが起こっているのか我々で現状を把握する必要がある」
重力波研究室、室長の加藤はメンバーを見渡しながら提案する。
「加藤室長、我々も手伝います。とにかく、今ここにいるメンバーで可能な限りの情報を集めましょう!」
「そうだな、そうしよう。まずは国際研究ネットワークの共有サーバーのデータから当たってみてはどうだろうか」
「あの……」
と、手を上げながら、大きめな額縁メガネをかけた、いかにも理系女といった女性研究員が口を開く。
「君は確か、重力波分析グループの菅井君だったね?」
「――はい。そうです」
「例の分析結果だね?」
「はい。その件でご報告があります。あの、ちょっとよろしいでしょうか?……」
「ああ。構わんよ。ぜひ聞かせて欲しい」
「あの、結論から申しますと、ノイズの可能性は極めて低く、観測データは98.795%の精度で正しいと判断いたします」
「そうか……いよいよ腹をくくらねばならないようだ……」
「一つ気がかりなことがありまして、実は、その、空間の連続体に亀裂が入りそうな兆候が出ていまして……」
「空間の連続体に亀裂? それはどういうことだ?」
「あの、結論から申しますと、このままでは空間が崩壊する可能性があります。あ、もちろん、自然収束する可能性もありますけど……」
予想してなかった内容に加藤は一瞬、言葉を詰まらせる。
「……ちょっと待ってくれ。空間が崩壊するだと?」
普段は穏やかな加藤の語気の強さに辺りは騒然となる。皆、にわかには信じられないといった顔をしている。
「現実問題として、そんなことが起こり得るのか?」
「あの、あくまでも仮定の話です。ただ、観測データからは空間連続体の理論的限界である空間定数を最大21%超えた値を3ナノセカンド検出しました」
まるで人ごとのような菅井の態度とは対照的に、加藤は腕を組むとしばらく考え込む。
「仮に空間が崩壊するとして、それを阻止する方法はあるのか?」
「はい。あの、もし異常重力波どうしの干渉が原因であれば、その干渉さえ阻止できれば……」
加藤は次に口を開くまで、思考を巡らす時間を求めた。
「君は確か……神先大の量子力学研究室の出身だったな。安倍は知っているか?」
「あ、はい。安倍先生がまだ助教だった頃にお世話になりました」
「なら話が早い。大至急、その根拠を資料にまとめてもらえないか?」
「え、わ、わかりました」
菅井は意外な展開に驚いているように、しきりにメガネを掛け直している。
「各自、情報を集めて、可能なら各々の仮説も加えて欲しい」
加藤はメンバーを見渡しながら指示を出す。
「加藤室長、いつまでがよろしいでしょうか?」
「そうだな。事態は緊急を要する。13時ではどうだろうか? 私の方で会議開催は出しておく」
メンバーたちは顔を見合わせながらうなずく。
「そうだな。もう少し人数がいた方がいいだろう。私の方から何人かに声をかけておく。それでは早速、取り掛かかって欲しい」
メンバーは足早に各自のデスクに戻っていく。加藤は手を上げてそれを見送ると、自身も大股でデスクに向かう。その途中、着信音に気づきスマホを確認すると、一瞬立ち止まる。
「安倍?」
再び歩きながら、『応答』をタップする。
「おう。安倍じゃないか。ちょうど今、おまえの話をしていたところだよ」
『え、俺の? まあいいや。加藤、ちょっといいか? 今、起こっていることはおまえも知ってるだろ?』
「ああ。今、うちのセンター内でも大騒ぎになってるよ」
『実は……思い当たることがあるんだ。今から、おまえのアドレスにデータを送るから見てほしい』
「わかった。今、席に戻っている途中なんだ。もう少し待ってくれ」
『ああ。わかった』
「じゃ、一旦切るよ」
加藤は、3階の南側にある重力波研究室の自動扉が開くと、無駄のない動きで奥にある自分のデスクへと向かう。そこは研究室というよりは、オペレーションルームと言った方が相応しい。正面の壁全体が大型モニターになっており、そこには、天球儀をベースとして、今現在、測定されている重力波のデータが、さまざまなグラフや数値となってリアルタイムに表示されている。加藤は自席に座ると、パソコンにパスワードを入力しスリープを解除する。メールアプリを開くと、今まさに着信したばかりの安倍からのメールを開く。その添付資料を開くなり、加藤は弾けるように立ち上がる。その勢いで椅子が後方に倒れるが、本人は気づいてすらいない。
「なに? 携帯型空間転移装置だと!?」
モニターを両手で押さえつつ、食い入るように見つめている。そのメールには電子回路図と数式などがびっしりと書き込まれている。
「バカな! 空間転移などあり得ない……安倍、おまえ一体なにを作ったんだ?」
加藤はスマホを取り出すと、おもむろに電話をかける。
「安倍か? 加藤だ。メールは見させてもらった。おまえ、これは本当なのか?」
『ああ。ノーベル賞級の大発明だとは思わないか? 世界の物流に革命が起きるぞ。しかも、すでに実証済みなんだ。原理的には空間触媒素粒子を用いて、特定の座標同士の空間を量子もつれ状態にして等価交換するという……』
安倍は興奮気味に語る。
「ちょっと待て。おまえ、それはもう使ったってことか? それが事実だとして、どういうことか解っているのか?」
『すまん……プログラムも実用レベルまで到達していた。正直、ここまで深刻な影響が出るとは思わなかったんだ……』
「安倍、小なりとはいえ空間に切れ目を入れるようなものだ。そんなことをしたら、空間にどんな影響が出るかまったく予想もつかない。おまえだってそのくらい解るだろう」
加藤の剣幕に、安倍は言葉を失う。
『――ああ……世紀の大発明なんだがな……』
「そんなこと言ってる場合か! とにかく、今すぐこっちに来い!」
『わかった、わかった。今から行くよ』
「なる早で来いよ。おまえ、いつも時間にルーズだからな」
『ああ。分かったよ。じゃ、あとで』
「ったく。あいつはいつもこうだ……」
加藤は通話を切ると、疲れたように額を手で押さえる。何か違和感を感じたように自分の手を見ると、愕然とした表情をする。その手はあり得ないほど汗まみれだった。
「今日は家には帰れないかもしれないな……」
その顔には覚悟した表情がうかがえる。彼はティッシュを無造作に取って手を拭くと、倒れた椅子を起こす。しばらく呆然と椅子を眺めた彼は、体を投げるように座ると大きくため息をついて宙を仰いだ。
「科学者だろ。冷静になれ」
加藤は半ば強引に呼吸を整えると、センターのチャットアプリを開く。素早くメンバーを選択すると、メッセージを書き込む。
『関係各位 作業を一旦中止して、至急、カンファレンスルームCへ集まって欲しい。新たに判明した事実について報告がある』
キーボードを打ち終えて立ち上がると、ラップトップPCを小脇に抱え、足早に部屋を後にした。
カンファレンスルームの中央には、研究所にしては洒落た白いテーブルが出迎える。十名ほどが入れる広さで、正面のホワイトボードには、前の会議で使われた形跡がわずかに残っている。部屋のコーナーには、60インチはあろうかという大型モニターの対照的な黒さが、無機質な存在感を放っている。
加藤が、カンファレンスルームで慌ただしくPCの操作をしていると、4名のメンバーが次々と集まって来た。
「みんな忙しい中、ありがとう」立ったまま視線を合わせず、操作をし続ける。
「いえ。それは構いません。ところで、新たに判明した事実って何ですか?」
「ああ。今から説明する。モニターにつなぐからちょっと待ってくれ」
加藤は、もどかしいといった感じで、電源を入れモニターとのワイファイ接続を試みている。
「あの、加藤室長、顔色が優れないようですが、どうかしましたか?」菅井が聞く。
「私は、そんな顔をしているかね?」意外だという風に聞き返す。
「ええ。とてもお疲れのご様子ですが……」
「そうかもしれん。だが、今は時間がない。まずはこれを見てくれ」
言い切らないうちに、安倍から送られて来た、『携帯型空間転移装置』の概要が記された資料を表示する。
「加藤室長、これは……」
メンバーは口々に信じられないと言った感想を漏らす。
「事実だけ言う。すでに実証済みだそうだ」
「ということは、すでに使用したってことですか?」
「そうだ」加藤らしくなく、ぶっきらぼうに答える。
「あの、加藤室長、これは安倍先生が研究していたものではないですか?」
菅井があたかも事情を知っているかのように口を開く。
「そうだが、なぜそのことを知っている?」
「はい。あの、大学院時代に、安倍先生の……確か、『空間触媒素粒子の理論的可能性と、量子もつれ現象を応用した空間等価交換技術に関する考察』という研究論文のお手伝いをしました」
それを聞くなり、加藤は机に両手をつきうなだれると、しばらく頭を横に振り続ける。
「……なんてことだ。菅井君、その論文はあるか? 何年前の話だ?」
「あ、あの、論文データはあります。結局、主任教授の査読で、まったく理解してもらえず、リジェクト(却下)されました。安倍先生は抗議しましたが、学術誌に投稿すらさせてもらえませんでした。た、確か3年前です」
「そうか……あいつ、本当に作っちまったんだな。自分なりに証明したかったんだろう」
やっと顔を上げると、加藤は乱れた髪をたくし上げる。
「私は、今回の異常重力波の原因はこの空間転移によるものではないかと考えている。このことはまだ他の研究員には伝えていない」
加藤は、一旦、宙を仰ぐと、大きく深呼吸して続ける。
「君たちには、このことを前提としたデータ収集と分析、および仮説の構築を進めて欲しい」
「加藤室長、それはつまり、人為的な原因を前提とした、という理解でいいですか?」
「ああ。それで構わない。それと菅井君、至急、安倍の論文を私に送ってくれないか?」
「はい。分かりました」
「くれぐれもこのことは他言無用で頼む。私なりにある程度確証を得てから、15時のカンファレンスで皆に報告するつもりだ」
「分かりました」全員が真剣な顔で応える。
「――以上だ」
メンバーがそれぞれの持ち場に向かうのを見届けると、ラップトップPCを静かに閉じた。
「さあ、忙しくなるぞ!」
自分に言い聞かせるように呟く。加藤は白衣の襟を正すと、思考を加速するかのようなスピードで歩き始めた。