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第一章 私は落ちる

 ――私は、落ちるのではなく、浮いていた。


 目の前には、瞳孔の調節が間に合わないほどに青く眩しい地球が、視界いっぱいに広がっている。


(3Dの地球……)


 地球は円ではなく球であるということを、両目が訴える。


 それが、ほんの刹那だったと解ったのは、絞りかけた瞳孔が漆黒を捉えたからだ。

「――以上がダンスバトルの予選通過者です。それでは、文化祭の本戦を楽しみにしています。では次に、バンドバトルの参加者は準備をお願いします」

 甲高いハウリング音と共に、乾いたマイクの声が耳を素通りする。

(え、落ちた?)

 体育館の舞台には、さっきと同じように照明が当たっている。でも今は、照明の影の方が、圧倒的な存在感を持って目を圧迫する。


御堂(みどう)さ、人より動けすぎて、リズムが突っ込みすぎてんだよ。んで、タメもなさすぎ」

「でも…………」(自分では動けているつもりなんです。先輩)

 言いたい。でも今は下を向くしかない。予選落ちしたのは他でもない私だからだ。

「少しは工藤を見習えよー。まあ、来年もあるしさ……って、来年3年だっけ?」

「え、あ、はい」

「――あー、じゃ、そういうことで」気を使っているらしい。

「……すみませんでした」

 同じ2年の工藤に負けているとは思ってない。断然、私の方が動けている。

(相変わらずきついなー。鍋島先輩)

 私はへこんだ。いや、落ちた。秋の文化祭のヒップホップ・ダンスバトル、二年連続の予選落ち。今年は自信あったのに……。ダンス部員なのに予選落ちしたのは、部の看板に泥を塗っているようなものだ。

「まいったな。やっぱ、リズム感ないのかな……それとも選曲ミスった?……」

 確かにリズム感には自信がない。でも昨年よりは動けている自分がいた。

(動けすぎって、意味わかんないし……)

 審査会場を後にすると、待ってましたとばかりに声がする。

「御堂、ちょっといい?」映研の監督だ。

「いいわけないじゃん。あのさ、予選落ちたばっかなんだけど、わたし……あー、はいはい。例の映画の話でしょ」

「そうそう。話早いね」

(そっちのバイブス来るかな……)

 ダンスバトルの予選に落ちたら、私は映研の映画に出る約束をしていた。もちろん、落ちるつもりは微塵もなかったので、その約束自体に意味はなかったはずなのに。

「はいはい。出ます。これでいい?」

「オッケーもらいましたっ! じゃ、これ撮影スケジュールね」

 手渡された紙には、約十日間に及ぶスケジュールがびっしりと書かれている。

「ちょっとこれ、多すぎない?」

「え、ぜんぜん普通でしょ〜。で、これトークのQRコードね。テキストデータも上げてるから確認しといて。夏休み入ったらすぐ撮影だから。じゃ、よろしくー!」

 と言うなり、目も合わさずに去っていく。

「ガチで下がる〜」わざと聞こえるように言う。



 ――夏休み

 青い空は、これでもかというくらいに広さを見せつける。それは焦点を定めることを拒絶しているようだ。諦めて下を見ると、今度は塀の高さが焦点を妨げる。焦点を合わせることを、私は断念する。

「ハイ! カメラ回ってるよ〜」と監督。

 ここは高校の裏庭に面した塀の上。そして、私はなぜかその上に立っている。夏の日差しは朝から容赦なく、地面までの距離と合わさって、二重にクラクラする。

「わかってる、わかってる……」

(急かさないでよ! 今、落ちるから)


『ボンッ!』


 撮影二日目。私は今日も落ちる。本当なら、ダンスバトル本戦へ向けた練習をしているはずだったのに。

(予選に落ちて、塀から落ちて、なんでこんなことやってんだろ)

 ちょっとだけ白状すると、少しダンスから離れたかった。気分を変えたいというのが本音だ。

「ハイ! カットォ!」監督が叫ぶ。

「今の落ちっぷりは良かったよ。でも撮り直し〜」

「え、なんで? 言う通りに落ちたじゃん」

「ちょっとポーズが硬いんだよな。リテイクねー。みんな、もう1回撮るよ〜」

「いやいやいや、落ちながらポーズってさー」

(いくらなんでも、こだわりすぎでしょ)

 私はまた落ちるために塀に登る。これで4回目。映研の部員たちが脚立やハシゴを用意して見事な連携で私を高所へと誘う。その表情は気の毒そうだけど、実際に落ちるのは私だから。

(気のせいかな……)

 なんだか撮影するたびに、どんどん高くなっている気がする。


「よーい、アクション!」有無を言わせず指示が飛ぶ。

『ボンッ!』と、マットの上。

「ハイ! カットォ!」

 撮影するたびに、監督はメンバーと映像を確認する。なんだろう。この自分の運命を他人に決められているような感覚。まるで生殺与奪権を握られているようだ。

「うん。いいね! オッケーっす」

「……で、あとどれくらい落ちればいいわけ?」

 私は立ち上がりながら訊いてみる。正直、答えはなんとなく想像はついている。確かなことは、私の予想を超えているということだ。

「そうだなぁ。少なくとも3分くらいの作品にしたいから……あと50カットは欲しいかな。それに編集してみて、全部使うとは限らないしさ」

「えーっ? まだぜんぜん撮れてないじゃん。ってか、聞いてないし」

(やっぱり予想のはるか斜め上……)

 と、驚いていない自分に驚きながら、一応、抗議を込めて驚いたふり。実際、撮り直しの数も入れたら、その何倍になるか想像もつかない。詰めに詰め込んだスケジュールは伊達ではない。

「言ったら引き受けてくれなかったでしょ」と、あっさり。

「それはそうでしょ」思わず納得。

 ついスイーツに釣られてしまった自分も情けない。

「でも、こんなあっぶない撮影、よく先生が許可したね」

「それはここの使い方でしょ」と言いながら、自分の頭を指差す。

「なんて言って先生を騙したの?」

「騙したなんて人聞きの悪い。まあ、要は高速度撮影で、スロー再生するからあまり高いところから落ちなくても撮影できますって、極めて論理的な事実を述べただけ」

「でも、結構高くない?」

「そこはまあ、作品にかける情熱が先走りしたっていうかさ。やっぱ迫力のある画が撮りたいじゃん」

「…………」

 私は言葉を失う。どうやら、すべて監督のシナリオ通りのようだ。さすがは監督というべきか。

「理解してもらえたようなので、これからもガンガン落ちてもらいますよ〜」

(ん? なんで私が理解したことになってるの?)

 一瞬、思考が混乱する。このままだと完全に監督のペースだ。私は思いつく限りの反撃を試みる。

「言っとくけど、スイーツは増し増しで!」それで見合っているとは到底、思えない。

「それなー。でも、ほんと感謝してますって。実際、こんな撮影、引き受けてくれるの御堂だけだし」

「あー、はいはい」

 意外にも反撃の効果あり? ちょっとは感謝されているみたいなので悪い気はしない。そう思わせるのも監督のシナリオかも。

「で、次はどこから落ちればいいわけ?」

「お、役者魂に火がついたって感じ? それじゃ、次は体育館から落ちてもらおうかな」

 なんとなく操られていると感じてしまうのは気のせい?

「じゃ、みんな次、体育館に移動ね〜」と、声が響く。


 17歳というのは、きっと人生の中で特別な輝きがあるはずなのに、なぜだろう。そういう実感のないまま日々が過ぎていく。自分を変えたくて始めたヒップホップダンスも、どこか空回りしている。極め付けは、所属するダンス部でただ一人、予選落ちした部員として名が知れ渡ったこと。ダメダメ部員の称号は独り占めだ。『優希』という名前は気に入っているけど、どう考えても名前負けしている。

 鎌倉の由比ヶ浜高校。その名の通り、由比ヶ浜にある県立高校で、部活動がとても盛んだ。校則に、『自由とは自らの責任のもとに享受するもの』と明記されているくらい、自由な校風が特徴で、生徒たちは伸び伸びと高校生活を送っている。このゆるい空気は由比ヶ浜の土地柄のせいかもしれない。時に、その自由さにうんざりすることもあるけど、若さゆえと許容されている雰囲気は、むしろ心地いい。家の都合で、やりたくもないことをやらされている身としては、真逆であることは救いになっている。なにより大事なのは、みんなと同じであること。それは母方の祖父の家業が普通じゃないから。私にとって、普通は普通じゃない。


 撮影も三日目に突入。でも私はマットに突入。

「いくら実験映画だからといって、落ちる映像をつなぎ合わせるなんて、無茶すぎると思うんだけど。わたしになんかあったら、どんだけの男子が悲しむと思うの?」

 誰も聞いていないことを確認しての独り言だった。明らかに、自由の暴走が今、私に襲いかかっている。人生にたった一度の華の高2の夏休みを、こんなことに費やしていていいのだろうか。思いは複雑だ。

 私は、実験映画『重力のレゾンデートル(存在理由)』の一応ヒロインを演じている。題名は大げさだけど、簡単に言えば、広角レンズで高速度撮影をして、スローモーション再生した落下シーンをつなぎ合わせるだけの映画と言ったら監督は怒るかもしれない。実はヒロインと言っても、ただ落ちているだけなんだけど、そこは色々なポーズや表情を演技することも求められる。 

 わたし的には見た目も悪くないから指名されたと信じたい。もちろん、人気アイドルと比べられたら辛いけど、母親譲りの日本的な顔立ちは、小学生の頃にアメリカ人の英語の先生から、ジャパニーズビューティと言われたことだってある。

 ヘアカラーデビューは高2から。アッシュグレーでクールに決めている。ただ、キャップをかぶると見えないのが難点。私としては可愛いというよりは、かっこいいと言われたい。なぜって、可愛いは媚びている印象があるから。嫌いではないけど、世の中、可愛いが溢れすぎていて、ちょっと距離を置きたい。

 撮影のファッションに関しては、当初、監督からは、中はスパッツでもいいからスカートを強く要望された。さすがにスパッツはダサいし、かといってスパッツなしでは、文化祭での上映はきっと無理だ。何より親に見せられない。

(そりゃ、男子は喜ぶかもしれないけどさ……)

 監督は納得していなかったけど、出演条件として、普段通りのファッションを貫いている。派手なロゴの大きめなTシャツに細めのボトムス、トレードマークのキャップと、ハイカットのスニーカーはヒップホップダンサーとしては外せない。そのせいか、ヒロインというよりはストリート系の脇役といった感じが監督は不満らしい。とは言え、いかにもヒロインといった女子力全開な服装は好きじゃないし、ましてやフリフリな格好は嫌というより無理。私的には身長がもう少しあればと思うことはある。ダンスにとって身長は強力なアピールポイントになるし、165センチを超えると途端に栄える。この5センチがくやしい。

 最初はヒロインだからオッケーしたのに、蓋を開けたら、ただのスタントマンだったという現実。

(どっちかと言えば、スタントガールか……)

 自分でも意外だったのが、ヒロインという言葉に隠された、女子を惑わす魔法にかかってしまったこと。世の女子たちで、ヒロインというニンジンをぶら下げられて断れる女子はいないはず。もう一つ、私には他にも重要な出演理由がある。それは私が、母方の実家に伝わる古流柔術、『明晴陰陽流(めいせいおんみょうりゅう)』をやらされているということ。自分の意思とは関係なく、幼い頃から祖父の道場で柔術の手ほどきを受けてきた。変な話、自転車に乗るより早く受け身を取っていたくらいなので、受け身だけなら道場の誰よりも上手い。なんの因果か、映研の監督は、元道場生だったこともあり、今回の強行に繋がっている。もちろん、口外したら出演しないという約束で口止めもしている。


「監督さぁ、タイパ最悪〜。もっと、ちゃっちゃと撮れないの?」

「ムリムリ。どんなに頑張っても一日、5、6カットが限界っす」

「ちょっと、こだわりすぎなんじゃないの?」

 時間の大半はアングルやライティングなどの撮影準備で、そのほか太陽待ちなども含め、私は、ほとんどの時間をただ待っている。ちなみに今は待ち時間。アングルを決めるために、映研の1年生が私の代役で何度も、何度も落ちまくっている。ほんとお気の毒さま。

「御堂、いい? 次、あそこから落ちて」

 私は言われるままに指示された塀まで歩いて行くと、まさに登れと言わないばかりに、どこか申し訳なさそうな部員たちが脚立を用意している。

「あのさ、ぶっちゃけ用意良すぎ」これは嫌味だ。

「みんなー、次は逆光だから劇的によろしく〜。特にレフ、頼むよ」

「ハーイ。じゃ、落ちまーす」半ばやけくそに元気よく宣言。

「カメラ、レフ、さっきの要領ね。じゃ、オッケーなら始めるよー」

 OKサインを出すメンバー。私の意思は関係ない。

「よーい。アクション!」

『ボンッ!』と、マットが受け止める。

 マット、ホントにありがとう。君だけが頼りだよ。

「ハイ! カットォ!」

 みんなで確認しながら、なにやら議論している様子。私は、ただ判決を待っている心境だ。

「うーん。アングルがいまいち。もう1回撮り直しかな〜」

「勘弁してよ。もう……」私は大きくため息。

 なぜ、塀に登るのか? そこに塀があるから、ではなく落ちるためです。 

「おっ、今度はオッケー! いいね、いいね。タケッチ、今回のアングルばっちしじゃん!」

(なにがオッケーだよ。こっちの身にもなれっての)

 それでも始めの頃と比べると、リテイクは減ってきた。さすがと言うべきか、映像は確かにかっこいい。ヒップホップ系のファッションと落下は相性がいいのかもしれない。それに、私の落ちっぷりも様になってきたと思う。


 今日の撮影も無事に終了し、自宅に着いた頃には午後6時を回っていた。なんとか今日も乗り、いや落ち切ったって感じ? 高校から自宅までは自転車で5分ほどの距離で、正直なところ歩いても行ける。一言で言えば、一駅離れた隣町と言ったところ。そのせいか同じ中学の子たちもたくさんいて、顔見知りも多い。

「ただいま〜」

「あら、お帰りなさい。どう、映画の撮影は順調?」と、母が聞く。

(お願い、聞かないで……)

「ま、まあね……」

「上映が楽しみだわ〜。秋の文化祭で上映よね?」

「間に合うかな〜。監督、なんかこだわっちゃってるし。ハハハ……」

 乾いた笑いでその場をやり過ごす。とてもじゃないけど、可愛い我が子が高所から落ちまくっているとはとても言えない。間違いなく、母は学園もののヒロインを演じているくらいにしか思ってない。

(ああ、とても真実は言えない。秘密を持つって辛い……)

 意味もなく深刻な気分に浸りながら、2階の自分の部屋へ向かう。

「もうすぐご飯だから、着替えたら降りて来るのよ〜」

「は〜い。汗かいたからシャワー浴びるねー」

 今日の料理はお魚。シャケと椎茸とえのきをアルミホイールで包んだシャケの包み焼き。醤油とレモンをかけて食べると格別だ。それにサラダと里芋の煮物も並んでいる。ちなみに、今日のお味噌汁は夏の定番ナス。美味しいけど、いつも火傷するので注意しないと。

(今日も生きててよかった!)

 ちょっと大げさだけど、ご飯は何よりの楽しみ。そして、デザートはブルーベリーのアイス!


 夕食後はいつものように弟とゲームをする。今流行りのファンタジー系のロールプレイングゲーム。最近のゲームはグラフィックがすごくきれいで、それだけでも十分に楽しめると言って感心して見ていると、ついついやられてしまう。できればゆっくり風景を楽しみたいので、のんびりモードとか付けてくれないかなといつも思う。弟はというと、そんなことはお構いなしのガチの対戦モードなので、当然、姉である私より強い。

「あ、そうそう。おじいちゃんがもうじき昇段試験があるから、受けたらって、言ってたわよ」

「わたし、昇段には興味ないって言ってるじゃん。どうしても受けないとだめ?」

 正直、期待されることに疲れた。それに、試験と名のつくものが嫌いな私は、昇段試験もずっと避け続けてきた。

「黒帯、かっこいいと思うけどな。まあ、おじいちゃんに相談してみたら?」

 と、いつもどこか他人事の母。

(自分はやってないくせに!)カチンと来る。

「わかった。今度、おじいちゃんと話してみる」

 明晴流は、家の都合でやらされているだけで、本心ではやりたくない。それに、私には決定的に欠けていることがある。それは人に技をかけられないことだ。技をかけようとすると、体がこわばって動けなくなる。だから、いまだに白帯のままだ。黒帯を締めている自分なんて想像もつかない。きっと、万年白帯が私には似合ってる。

(また断る理由を考えないと……)

 ゲームの後は部屋に戻って、彼氏のいない友達と通話しながら宿題をする。私の部屋は2階の南向きにあって、窓を開けると海がよく見えるのが自慢だ。晴れている時は、本当に地球が丸いということがリアルに感じられる。

(みんなどうして、あんなひらひら部屋を飾るんだろ)

 よく友達からは、女の子らしくない部屋と言われる。改めて見渡すと、可愛いぬいぐるみや小物はあまりない。さすがに、もらったものは捨てないで飾っているけど、自分では買った覚えがない。私にとって居心地のいい部屋とは、物がないことだ。物に支配された部屋は息苦しい。きっと、窓から見える景色があまりにも素晴らしいので、部屋を飾り立てる必要がなかったのかもしれない。とは言え、高校から始めたヒップホップダンス用の服と小物は、それなりに部屋を占有している。これは今の私のアイデンティだから譲れない。ひとつ自慢できるとしたら、母のこだわりの洒落た木製机と椅子で、シンプルで温かみがあるデザインがとても気に入っている。

「せっかくの高2の夏休みなのに、こんなんでいいのかな……」

 不満があるわけではないけれど、何か刺激が欲しい。そんな思いが頭の隅をよぎる。

 映研の男子たちと過ごすことになる今年の夏は、恋話(こいばな)なんて、奇跡の二乗の確率でできる気がしない。私は、今日も女子力を期待できないポニーテールを結ぶ。そういえば、いつからポニーテールをするようになったのか。

「ま、楽だしね」


 連日の炎天下での撮影が祟って、監督がダウン。今日の撮影は延期された。それでも、スマホで確認しながら撮影する、と言い張る監督をみんなで説得した。

 夕方からは祖父の道場で稽古がある。私は白帯ではあるけれど、受け身だけは師匠のお墨付きなので、年少部の子供たちの面倒をみている。定期的に大人に混じっても稽古もするけど、私は投げられるのが専門。基本的に技はかけない。というより、かけられない。

(わたし、いつから技をかけられなくなったんだっけ?)

 特に強いポリシーがあるわけではなく、ただ単に技をかけるのが怖いのだ。相手を壊してしまうかもしれないという恐怖感がある。時々、記憶が疼くけど、その厳重にも錠をかけられた記憶だけは、そう簡単に扉の外には出てこれない。

 その日は、練習が終わってから、道場主でもある祖父のところに行く。例の昇段試験の件だ。

「おじいちゃん、昇段試験のことなんだけど……」

 何気なく祖父に話し掛けたのがまずかった。

「優希、道場では師匠と呼べと言ってるだろう」

「すみません……師匠」

(油断した……)

 子供たちが笑っている。手をひらひさせて、あっちへ行ってと合図する。

「あの、昇段試験ですが、もう少し稽古してからでもいいでしょうか?」

「いつまで逃げ続けるつもりだ。優希」祖父が静かに言う。

(逃げ続ける? わたしが?)どこか心に引っ掛かる。

「――いえ、その……まだ、わたしには早いかと……」

 私は、ただ昇段試験を受けたくないだけだ。黒帯になったら、また期待に応えなければならなくなる。

「いいだろう。明晴流と、どう向き合っていくのかよく考えることだ。ただ、後悔だけはするな」

 叱咤(しった)とも激励ともつかない言葉は、私の気持ちの裏側を見透かしている証拠だ。

「はい……」と一礼すると、その場から立ち去る。今は一秒でもいたくない。

(やっぱり逃げているのかな。わたし……)

 明晴流は待っている。でも、応えられない自分がいる。

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