第5話 宿の灯りと、静かな訪問者
トットルバの夜は早い。喧騒が一段落すると、町は驚くほど静まり返る。酒場の騒ぎもいつしか遠い余韻となり、人々はそれぞれの宿へと戻っていった。
フェイもまた、自らが定宿としている小さな宿屋の一室に戻っていた。木造の壁には外の冷気がほんのりと染み込み、灯り代わりのランプが部屋を柔らかく照らしている。
「久しぶりに、面白いものが見えたなぁ……」
ベッドの縁に腰掛けながら、フェイは小さく笑みを漏らした。ランプの火に照らされたその表情は、少し少年めいた無邪気さを含んでいる。
先程の騒動――酒場の前で繰り広げられた小さな戦いを思い返していたのだ。騎士を名乗る女性が、酒に酔って増長した男たちを、華麗に、そして冷静にさばいていく姿。力任せではない、洗練された剣技。何より、その剣さばきには隠しきれない「意志」があった。
「かの騎士様は、中々の腕だったみたいだ」
そう呟きながら、フェイは自分の荷物を整理し始めた。木の実や干し肉、交換で得た調味料や薬草などをきちんと仕分けし、持ち運びやすく再整理する。彼にとって、これも長年の癖のようなもので、食後や風呂の前にやっておくことが多い。
「しかし、美人で強いとは……この町にはもったいないくらいだな」
ぽつりと洩らす声に、どこか愉しげな響きが混じる。騎士がこんな辺境までやってくる理由など、そうそうあるものではない。ましてや、あの若さと技量を持ち合わせた女性となれば、なおさら興味をそそられる。
「さて……風呂にでも入って、さっぱりして寝るとするか〜」
のんびりとした口調でつぶやき、フェイは着替えを手に立ち上がった。宿の共同風呂は時間制で、夜の時間帯には混雑することもあるが、今はちょうど落ち着いている頃合いだ。手早く湯を浴び、体を拭いて戻ってくると、部屋にはほんのりと木の香りと石鹸の匂いが漂った。
「ふう……」
湯上がりの体をベッドに預け、少しだけ脱力する。身体を包むこの小さな安堵感もまた、彼がこの宿を気に入っている理由のひとつだった。
――しかし、その静けさは、突然破られる。
コン、コン。
控えめだが、はっきりとしたノック音が部屋の扉を叩いた。
「……ん?」
フェイは眉をひそめた。こんな時間に客が訪ねてくるなど、記憶にない。宿屋の者ならもう少し遠慮がちだし、知人という知人もいない。何より、この時間のノックには、不自然さが付きまとう。
立ち上がり、警戒を隠しつつ扉に近づく。
「……どちら様?」
ドア越しに声をかけると、すぐに返事があった。
「夜分に失礼します」
――女性の声。それも、落ち着きがありながら、どこか鋼の芯を感じさせる声だった。
フェイは軽く息をつき、鍵を外してゆっくりと扉を開けた。
すると、そこに立っていたのは――
先ほどの騒ぎの中心にいた、あの女性騎士であった。
「はい、何か御用でしょうか?」
フェイは驚きを押し隠しつつ、いつも通りの口調で対応した。
女性騎士は一歩前に出て、真っ直ぐフェイの目を見据えて言う。
「あなたがフェイで間違いないですか?」
「……まぁ、この辺りでその名前を持つ人間には、心当たりは私しかいませんけど」
やや困惑しながらも答えるフェイ。その顔には、どこか薄い笑みすら浮かんでいる。だが、内心ではすでに様々な思考が駆け巡っていた。どうして自分を? 何の目的で?
「そうでしたか。それならば、ぜひ一緒に来ていただきたい」
唐突な申し出だった。しかも、理由も目的も語られぬままの要請である。
「えっと……あの~、私が? あなたと? しかも、どちらへ?」
さすがに戸惑いを隠せず、フェイは頭をかきながら少し距離を取る。いきなりの訪問に加え、一緒に来てほしいという要請。普通の旅人なら、断ってもおかしくない展開だ。
だが、相手が騎士であり、しかもただの騎士ではない。あの剣技と雰囲気からして、相当な地位のある人物だろう。怪しいとは思わない。むしろ、何か「事情」があるのだと、本能的に察していた。
それでも――
「突然すぎて……ついて行って良いのか、少し考えさせてもらっても?」
そう言いながらも、フェイの眼差しにはどこか興味が宿っていた。