第48話 かつての師、いまもなお
エヴァ・ムーン・カルザは、不思議そうに眉をひそめていた。
(……一体、何があるのかしら)
珍しいことだった。
あのフェイが、わざわざ自分とグライヴを誘ってきたのだ。
しかも、
「面白いもの、見せてあげるよ」
と、珍しく笑みすら浮かべて。
(何かの訓練? それとも、また騎士団絡みの何か……?)
けれど、そのどれでもない気がしていた。
“見せる”と言ったフェイの声には、妙な重みと温度があったのだから。
――そして今。
彼らは、帝都の外れにある秘密の訓練場に来ていた。
そこは、広く円形に開けた石畳の広場。
外部からの視線も魔力も遮断された、完全な隔離空間だ。
この場に立ち入れるのは、帝国直属の騎士たちの中でも、ごく限られた者たちだけ。
その中央に、数人の影が集まっていた。
エヴァ、グライヴ。
第3騎士団のクレア・ノクスと副団長のレーナ・ファン・ルナ。
そして、第1騎士団副団長、シグ・ロウウェン。
黒き鎧に身を包み、背に巨大な盾を背負う男は、寡黙に立っていた。
“盾としての力は団長クラス”と噂される実力者だ。
「……あんたと戦うのは面白そうだな。さしずめ矛と盾ってか」
そう言ったのは、グライヴだった。
軽く槍の柄をたたき、笑みを浮かべる。
「……やりたければ、日を改めてな」
シグの返しは短く、重い。
だが、それが却って本気を感じさせた。
「いいねぇ、そうこなくちゃな!」
上機嫌なグライヴ。
この男にとって、強者との交わりは何よりの歓びだ。
さらに、この場にはもうひとり、特別な存在がいた。
帝国の王――アル・クロード・ヴィクトル。
若き王は、珍しく正装ではなく、軍務用の黒衣をまとっていた。
その姿には、厳かさよりも親しみやすさがあった。
周囲の者たちが一礼しようとすると、アルはすぐに手を振って制した。
「よい、よい。今日は観客だ。気軽にしてくれ」
軽く笑いながら、彼の視線が二人に向かう。
「……これは、いつ以来だ?」
その視線の先――
立っていたのは、フェイ・オーディンと、第1騎士団団長、ライアス・ヴェル=ハルド。
煌断の翼の異名を持つ男。
その背にあるのは、巨大な大剣。すでに鞘から抜かれ、静かに構えられていた。
フェイもまた、愛刀を手に取り、無言のまま相手を見据えている。
今日は、ライアスのたっての希望によって、この“模擬戦”が実現した。
とはいえ、これは公的な訓練ではない。
選ばれた者たちだけに見せられる、極めて“個人的”な戦い。
静かな空気が張り詰める。
やがて、フェイがゆるく口を開いた。
「……少し、体をほぐそうか」
その言葉が、始まりの合図だった。
刹那、二人の剣が交わる。
――模擬剣ではない。本物の武器だ。
鋭い金属音が、空気を突き刺すように鳴った。
何度かの打ち合い。
互いの動きを試すように、力を抜いたやり取りが続く。
一度、距離を取り直し、ふたりは再び構えを取った。
静寂の中、わずかに浮かぶ笑み。
戦いの緊張を愉しむように――だが、それは確かに、剣士としての証だった。
「よし、温まったかな」
フェイの口元がわずかにほころぶ。
同時に、その瞳が――深く、蒼く、澄んでいく。
空気が張り詰めた。まるで全ての音が、彼を中心に凍りつくかのように。
彼の放つ圧が、周囲を静かに包み込んでゆく。
「ええ……そろそろ行きます」
ライアスの声が応じた刹那、
――空気が裂けた。
重厚な大剣が振るわれる。
いや、厳密には“砕けるように分離”したのだ。
ライアスの剣は、中央を軸に、左右の副刃が空中に分離する構造を持つ。
二枚の銀刃が、意思を持ったように浮遊し、ゆるやかに旋回を始めた。
まるで月下に舞う双翼。
だがその軌道は、美しさとともに、確かな“殺意”を帯びていた。
「さぁてと……」
フェイが低く、ひとりごとのように呟く。
それは、狙い定めた獣が、わずかに口を開く瞬間のような緊張だった。
そして――次の瞬間。
風が、唸った。
目では追えぬ速度で、空気が引き裂かれる。
刃と刃が交差し、だが火花は上がらない。ただ、空気が悲鳴のように裂ける音だけが響く。
それはもはや、剣と剣の応酬ではない。
――“剣気”と“意志”のぶつかり合いだった。
最初の数合は、まるで舞のように滑らか。
受け、流し、半歩で踏み、半歩で逸れる。
その一つひとつが、常人ならば命を奪われるほどの精度を持っていた。
だが、ほんの数手で、それは加速していく。
ただの模擬戦ではなく、研ぎ澄まされた“力”と“経験”の衝突へ。
ライアスの副刃が空を舞う。
まるで命を持つかのように背後から襲いかかる刃。
しかし――
(……相変わらず理不尽に強いよね。あの“力”は)
フェイは視線も向けず、それをいなしていた。
その思考と身体は、完全に並列して動いている。
観察、判断、対応。その一連を、まるで“呼吸”のようにこなしていく。
四方八方から襲う斬撃。
空中から、斜め下から、死角から。
――そのすべてを、フェイは読み切っていた。
しかし、次の瞬間。
副刃が、鋭く、地面すれすれの角度から滑り込む。
それは、かつてのフェイなら避けられたであろう角度。
けれど、今の彼は――避けない。
選択したのは、“受け”だった。
カンッ!
金属同士がぶつかる音が、空気を震わせる。
全身に響く衝撃。骨が震える。
だが、フェイは剣を離さない。わずかに目を細め、そして、呟いた。
「……強くなったね」
その声には、懐かしさがあった。
かつての記憶と重なるものを見出した、柔らかい温度。
同時に、どこか寂しげでもあり、確かな喜びが滲んでいた。
その言葉を受けて、ライアスがわずかに目を細めた。
「……ようやく、少しは届いた気がしますよ。あなたの背に」
淡々と、けれど確かな熱を込めて言う。
「それでも、まだまだです」
フェイはふっと息を吐き、目を伏せるように笑った。
「……いや、十分すぎるくらい、迫られてたよ。ちょっと懐かしい感覚だった」
「それは、光栄です」
静かに頭を下げるライアスの声音には、研ぎ澄まされた者同士にしかわからない、敬意の色がにじんでいた。
やがて、剣が止まる。
二人の間には、なお熱を孕んだ空気だけが、静かに漂っていた。
遠くから、アル王が静かにその様子を見つめていた。
クレアも、レーナも――息を詰めて見守っていた。
そして、シグ・ロウウェンがグライヴの方を向く。
「……あれに、勝てるか?」
低く、重く。短い問い。
グライヴは何も言わず、その場を離れる。
黙って歩きながら、1人なったところで、空を仰いで――
「……思わねえよ」
ぽつりと、呟いた。
静寂が、訓練場を包んでいた。
剣は語らず――されど、互いを知るには充分だった。
戦いが終わり、静寂が落ちた後。
刃の残響がまだ空気のどこかに漂っている中で――
クレア・ノクスは、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
「……芸術よね。やっぱり、あの人の戦いは」
言葉ににじむのは、どこか懐かしさと畏怖が混ざった響きだった。
その目は、過去に目にした“人外”の剣を、再び見た悦びを宿している。
その隣で、レーナ・ファン・ルナが息をひとつ吐く。
冷静な目をしていたが、その奥にはわずかな揺らぎがあった。
「……聞いてはいたけど。思っていたより……恐ろしいわね」
彼女の言葉は、戦術家としての冷静な評価だった。
――あの領域に、届く者はいない。届こうとするだけで、命を落とすだろう。
シグ・ロウウェンは何も言わなかった。
ただ、鋭いまなざしをフェイに向ける。
やがて、彼の胸の奥で、重たい声が一つ、響いた。
(……あれが、サイラスの師というわけか)
その眼差しには、団長にすら匹敵する深い敬意と、鋭い警戒が滲んでいた。
一方、エヴァはその場で立ち尽くしていた。
(……どこまで遠いの? フェイ……)
息が浅くなる。距離の差が、まざまざと目の前に突きつけられていた。
そんな彼女の横に、ふと影が差す。
アル・クロード・ヴィクトル――若き国王が、いつの間にか隣に立っていた。
「今、彼に教えてもらってるのだろう?」
「えっ……?」
「なら、私と君は“兄弟弟子”ということになるな」
エヴァは目を見開いた。
「し、師……? まさか、陛下が?」
アルは楽しげに頷く。
「私の師でもあるよ。フェイ・オーディンは、かつて私に剣と……それ以上のものを教えてくれた。あの男は、間違いなく――“闘神”だ」
その言葉に、エヴァは言葉を失った。
だがアルは気にする様子もなく、笑みを浮かべて背を向ける。
「いやあ、久しぶりに良いものを見た。……少し、やる気が出てきたよ」
その言葉を残して、彼は軽やかにその場を去っていった。




