第42話 怪しい風 渦巻く混沌
黒き祭壇の間に、重く淀んだ霧がたゆたっている。
光なき空間。天井は果てなく高く、壁は存在するのかさえ定かではない。
その中心に、八つの気配が蠢いていた。
足音一つ響かぬ闇――否。
そもそも足でこの場に“歩いてきた”者など、ほとんど存在しない。
現れたのは、魔王に仕える八つの影。八魔将。
それぞれ異なる姿を持ちながら、共通するのは、空間そのものを侵すほどの異質さと威圧だった。
「……遅いぞ、イーゼル」
低く、地の底から這い上がるような声が空気を裂いた。
《黒鎧の影》ズォルグが、全身を覆う黒鉄の甲冑の内側から声を漏らす。
その中は空洞――虚ろな闇のみ。柄に添えられた手だけが、わずかに反応を見せていた。
「ふふ、気が急いているのかしら? 珍しいわね」
イーゼルがゆらりと現れる。
重力を無視したかのような身のこなし。
長く波打つ髪と、虚ろな瞳を揺らしながら、他の七将の中心へと舞い降りる。
その姿は幽鬼。
彼女が立つだけで、空間が歪み、霧が逆巻く。
「ご機嫌いかがかしら、皆さま」
「戯けた真似はやめろ、深淵の女」
《破砕王》バロッツが唸るように低く吼える。
岩塊のごとき巨体。その巨腕がわずかに動くだけで、地鳴りのような圧が広がる。
「……で、どうだった?」
《氷獄の主》スリュードの声が、凍える夜のように静かに放たれた。
白き仮面の奥、その声音には一切の起伏がない。まるで心を持たぬかのように。
「……会ってきたのよ、“青目の裁定者”に」
その一言で、空気が一段凍りついた。
「ほう……やつも既に動いていたか」
《血を喰う魔女》アルザディアが、赤黒く乾いた血がこびりつく爪を舐め、艶やかに笑う。
「目を合わせただけで、頭の奥に響いてくるの。……美しいけど、あれは、毒ね」
「……面白い」
《虚音》ネメルスの声が、仮面の奥から漏れる。
その音は、まるで複数の存在が同時に囁き合っているような、不協和の囁き。
「で? 殺したのか?」
《飢狼王》ダゴスが牙を剥き、四足で低く構えながら、涎を垂らして笑った。
その獣じみた躯は、地を這うように蠢き、獰猛な気配を撒き散らす。
イーゼルは、ゆっくりと首を振る。
「殺せたなら、私がここに来るわけないでしょ」
「へぇ。お前が尻尾巻いて帰るなんて、珍しいじゃねぇか」
《毒爪》カルメドが毒蛇のように笑う。
その全身から揮発する瘴気に、ズォルグが小さく鼻を鳴らした。
「……あれは、我々の記録にある“古い因果”に繋がっている存在よ。
……それも、魔王様の未来視にすら曖昧な“断裂”を持つ、極めて特殊な個体」
その言葉に、場の気配が一瞬沈黙に包まれた。
「……“断裂”……魔王様が過去にそう呼んでいた、視えぬ未来、か」
スリュードの言葉は、思念のように空間に漂う。
「ま、どっちにしても忌々しい存在だな」
バロッツが重々しく腕を組み、石のような音を立てて座り込む。
その時。
「……そろそろ、復活の時期じゃないか?」
唐突に、カルメドが毒の香をまとった声で言い放つ。
「このまま奴らを泳がせておく手もあるが……我らが“導く時”も近いだろう」
「そうだな。力も時も、もう十分に満ちてきている」
ネメルスの声が空間に溶け、音にならぬ波紋を放つ。
「それに……あの方も目覚めの兆しを見せている」
アルザディアが妖艶に唇を舐め、誰ともなく呟いた。
「魔王陛下が再び現れるとき、我らは再び世界に“原初の夜”をもたらす」
スリュードが冷ややかに告げた。
それは預言であり、確信であり――恐怖を伴う“運命”そのもの。
その瞬間。
黒き霧の端から、一つの異形がゆっくりと現れた。
深くフードを被った影。
しかし、その立ち姿は明らかに“人”の枠を逸脱していた。
その存在に、数名の八魔将が無言で視線を投じる。
「……帝都の“あちら側”から、伝令を預かってまいりました」
影は静かに膝を折る。
その声は機械とも生物ともつかぬ、鈍く冷たい響き。
「我らの“協定”は継続中とのこと。……内部からの進行も、予定通り進行中です」
ズォルグがわずかに剣の柄を握りしめた。
「小賢しい奴らどもめ……このまま好きにやらせておいていいのか」
「利用できるうちは使えばいい」
イーゼルが、あくび混じりに言い捨てる。
「いずれ“人間の秩序”は崩れる。その端から喰らえばいいのよ、ダゴスのように」
「ガルル……任せろ」
牙を剥き、舌なめずりをするダゴス。
その眼には、既に次の獲物の影が宿っていた。
魔族たちの影は、静かに――しかし確実に、動き始めている。
そしてその中心には、今はまだ姿を見せぬ“魔王”の名が、確かに脈打っていた。
***
帝都、東塔区画――かつて軍の研究班が使用していたという地下倉庫。今は廃棄指定区域となっているが、夜ごと灯がともるという噂が絶えない。
その日の深夜、静かに扉が開いた。
「……時刻通りか。律儀なものだな」
現れた男は、漆黒の軍装に赤い帯を巻いていた。帝国騎士団の制式に酷似しながらも、細部が微妙に異なっている。
胸元には紋章の代わりに、銀の輪郭だけが刺繍されていた。
対する影は、異形のフードを被った存在。イーゼルの配下と見られる存在が、滑るように膝をついた。
「“深淵”より、伝言を。……予定通り、王の復活を優先するそうです。ただし、その前に青の裁定者に挨拶してきたとのことです。」
「……奴らに接触したと?」
「はい。イーゼル様が、直接、現界にて観測。……お互いを認識したようです。」
「……成るほど。よし、“目覚め”も近いな」
男の声には、微かに帝国騎士団特有の言い回し――特に中央直轄部隊で使われる軍令口調が滲んでいた。
「そちらの準備は?」
「問題はありません。帝都の内側は、すでに“古き理念”に共鳴した者らで整えられています」
「……“第十三”にだけは、手を出すな」
男は鼻で笑った。
「あれは“見せ札”だ。高く掲げられた分、倒れた時の衝撃は大きい」
最後に男の影が振り返ったとき、壁際に立てかけられていた隊旗の断片がちらりと見えた。
――そこには、かすれてはいたが、二本の交差した剣の意匠が残っていた。
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帝都・中央軍司令庁。その奥まった一角に設けられた戦功報告所は、今日も各騎士団の報告書と報告者で賑わっていた。
分厚い書簡が山積みになった文机の前で、記録官たちが忙しなく筆を走らせるなか、一際威圧的な足音が場の空気を割いた。
「おい、そこをどけ。先に済ませるぞ」
鋭い声と共に現れたのは、第四騎士団副長――カイル・シェルダン。精悍な顔に刻まれた古傷と、赤銅色の装甲外套が彼の長年の武勲を物語っていた。
報告台の前に立った彼は、ちらと報告帳を覗き込む記録官に目をやり、わざとらしく笑った。
「……第十三騎士団? ああ、奴ら、また何か“大物”でも斃したつもりか?」
記録官が眉を上げる。「現地で“異常存在”との交戦があったと、報告されています」
カイルは鼻で笑い、片手で机を軽く叩いた。
「奴らの言う“異常存在”なんざ、せいぜい魔物ぐらいだろ。俺たちなら斥候小隊で片付く雑魚さ。大袈裟な脚色だよ、あの連中は昔から」
「しかし……かなりの“大物”との遭遇報告も……」
「よせやい、帝都の兵の威光を借りてる分際で、神話じみた嘘までつき出したか」
口調こそ軽薄だが、その眼は本気で十三騎士団を見下している。
記録官たちは目をそらした。反論したくても、第四の発言力は帝国内でも大きく、軽々しく否定できない。
「それに今回の件――最初に現地と連絡を取り、民の避難路を確保したのは我々第四騎士団だ。現地の混乱を最小限に抑えたのもな」
そう言って、カイルは分厚い報告文の束を叩きつけた。
堂々と書かれた一文――“本件の功績の大部分は第四騎士団の指導力によるものである”。まるで自らを英雄と称えるかのような内容だ。
「こうして正式に戦功として認められれば、十三の連中の“運頼みの戦果”も霞むってもんさ。女が先頭に立ってりゃ目を引くが、実力の差は明らかだろう?」
その言葉に、周囲の数人が小声でささやき合う。「……やっぱり、嫉妬じゃないか?」
カイルは聞き逃さなかった。だが怒ることもなく、にやりと口角を吊り上げた。
「――違うな。これは“現実”だよ。俺たちは、飾り物じゃない“帝都の誇り”だからな」
冷たい風が窓から吹き込み、報告所の壁に掲げられた紋章がかすかに揺れた。
――燃え上がる双頭の鷲、それが第四騎士団の旗印だった。




