第34話 潮風の先に、新たな星
帝都の夜。
第十三騎士団の宿舎は、静寂とわずかな温もりに包まれていた。
外では薄い雲が空を漂い、月の光はぼんやりとにじんで、石造りの窓辺に淡い影を落としている。
その影の揺らぎの中、暖炉の火が時折パチ、と音を立てた。
床の一角では、リィがぐるりと丸くなって寝息を立てている。
ふご、ふご……という音が柔らかく空間を包み、眠りの匂いさえ漂ってくるかのようだった。
フェイは片膝を立て、背にもたれて座ったまま、手の中のカップをゆるりと傾ける。
香ばしい薬草茶の湯気がほのかに揺れ、くつろいだ空気が流れていた――が。
その空気に、微かな“揺らぎ”が走った。
気配が変わる。
まるで、部屋そのものが誰かに“触れられた”ような感覚。
数拍後、気配の中心から、ゆっくりと影が立ち上がった。
「……どうした」
フェイの声は低く、だがどこか懐かしさを含んでいた。
姿を現したのは、黒衣の影――ヴァーグ。
人ではなく、“気配を消すこと”に特化した何者か。
騎士団の中で彼を見かけることは稀だったが、だからこそ、その登場には意味がある。
「報せを持ってきました」
「聞こうか」
フェイはすでに表情を引き締め、指先から力を抜いたまま視線をヴァーグに向ける。
「西方の港町――カルディナにて、最近になって目立ち始めた者がひとり」
「目立つってのは……どう目立ってる?」
「若い槍使い。荒削りで粗暴、言葉遣いも荒い。だが――戦いは、極めて鋭い。
随分と闘技場で稼いでるみたいです。
しかも……暴れ方に、妙な“筋”がある」
フェイは眉をわずかに寄せる。
それは興味というよりも、感覚に触れた時の直感的な反応だった。
「名前は?」
「本名かどうかは、わかりませんが、グライヴと名乗っているようです。」
「……なるほど。槍、ね。」
ヴァーグの声が、わずかに低くなる。
「体格、所作、目の鋭さ……完全な証拠はありませんが、“七星”の系列の子孫である可能性が高い。
特に槍を扱うときの構えが、過去に記録された型に酷似しています」
沈黙。
暖炉の薪が一つ、ぱちりと弾ける音を立てた。
フェイは、静かに立ち上がった。
カップを棚に戻し、黒布の上から刀に手を添える。
「やっぱり、“いた”か……」
そう呟いた彼の横顔には、どこか安堵と、ほんの少しの“時間の重さ”が滲んでいた。
「……血だけがすべてじゃない。でもな、“縁”ってのは、案外バカにできないんだよ」
「行きますか?」
ヴァーグの問いに、フェイはふっと微笑む。
その微笑みは、これまで幾つの別れと出会いを越えてきたのか――そんな深さを湛えていた。
「行くよ。……迎えに、な」
静寂の中で、また一つ火が灯る音がした。
第十三騎士団の物語は、新たな“輪”を迎えに、西へと動き出す。
***
静かな朝だった。
帝都に淡い陽が差し始めたばかりの頃、第十三騎士団の宿舎はまだ人の気配も少なく、
街のざわめきも届かない、ほんのわずかな“隙間”の時間が流れていた。
食堂の扉がきぃと音を立てて開く。
寝起きのまま髪を指でとかしながら、エヴァ・ムーンカルザが顔を覗かせる。
その視線の先――
窓際のテーブルでは、すでにフェイ・オーディンがコーヒーを手に座っていた。
カップからはかすかな湯気。
その前には、丁寧に折られた地図と、数枚のメモが広げられている。
床の片隅では、リィが大の字になって寝そべり、時おり足をぴくぴくと動かしている。
その寝息は、どこか平和そのものだった。
「……早いわね。まだ朝食も出てないのに」
エヴァのぼやきに、フェイは視線を上げることなく、さらりと答えた。
「情報が入った」
「情報……?」
「カルディナって知ってる? 西方の港町。かなり遠いけど」
「ええ、帝都からの流通も少なくないと思うわよ。……まさか、そこに“用事”?」
「うん。気になる人物がいる。“次の候補”になりそうな奴」
エヴァが一瞬だけ目を細める。
「――団員候補?」
フェイは静かに頷いた。
「腕は申し分ない。でも、粗削りで暴れん坊、しかも口も悪いらしい。
どうやら義憤に駆られて喧嘩ばかりしてるとか……なんだか、妙に惹かれるね」
「……また“変わったの”を拾おうとしてない?」
「その可能性は高い」
エヴァは椅子を引き、音を立てて腰を下ろす。
「やれやれ……あなたの“気配読み”も、当たる時は怖いくらい当たるのよね」
「“縁”ってのは、偶然よりも正確な羅針盤になることがあるんだ。
感じるんだよ、“何か”が呼んでるって」
「ほんと、変なところで感覚派なんだから」
ぼやくエヴァだったが、声にはとげがない。
代わりに、どこかもう“慣れている”という安堵の響きがあった。
「で? 出発はいつ?」
「――今日」
「…………えっ?」
エヴァの手が止まり、眉がぴくりと動く。
「今日って、今日?」
「旅支度はもう終わってるよ。あとは君が“行く”って言ってくれれば、すぐにでも」
「……まったく、急すぎるのよ。そういうとこ、ほんとに直らないのね」
呆れたように言いながらも、エヴァの目にはもう迷いはなかった。
「……行くわよ。もう慣れてきたから。あなたの“予感”には」
フェイの口元が、穏やかに緩んだ。
「ありがとう。――じゃあ、リィを起こしてくるよ。あいつにも久々に、潮の匂いを嗅がせてやらないとね」
フェイが立ち上がり、リィに近づく。
エヴァはその背中を見つめ、ふと微笑んだ。




