第13話 答えなき問い
模擬剣を手に、ふたりは静かに向かい合った。
練武場の空気が、先ほどまでの喧騒を嘘のように手放していく。
まるで音という音が吸い込まれていくようだった。風も止んだかのように感じる。
地を踏む音も、布擦れの気配もない。
広い練武場に存在しているのは──ただ、フェイとエヴァのふたりだけ。
時間すらも、ふたりの間で膠着しているようだった。
「──じゃ、軽くいこうか」
フェイが口元を緩めて、気の抜けた調子で言う。
けれどその声は、妙に芯があり、よどみがない。
「……手加減はしないでよ?」
エヴァは淡々と応じた。だが、その足元には細やかな緊張がにじんでいる。
「もちろん!」
にやり、と笑いながら、フェイは構えを取った。
重心は後ろへ、左足は斜めに流し、両手の握りも斜めにゆるく。
一見すれば隙だらけ──だがその隙がどこまで“本物”なのかは、判別がつかない。
一方、エヴァの構えは完璧だった。
まるで教本の挿絵から抜け出してきたように、鋭く、精緻で、無駄がない。
剣先の高さ、脇の角度、視線の置き方──どれも実戦の場を幾度もくぐった者のそれだった。
だが、動かない。
いや、正確には──《動けない》。
エヴァの目は、フェイの一挙手一投足を観察していた。
呼吸の深さ、胸の上下、足指の力のかかり方、手の内の握り……
ありとあらゆる情報を、鋭い分析眼で拾い上げる。
──が、それでも“読めない”。
(……呼吸が揺れていない。重心も、どこにも寄ってない……。けど、動ける。いつでも)
気配が軽い。だが、それは隙ではない。
まるで、糸が風に泳いでいるような動きの中に、芯が一本だけ通っているようだった。
柔らかいが、ぶれない。しなやかで、折れない。
フェイが、わずかに身体を傾けた。
たった半歩にも満たない、微細な移動。
エヴァの視線が一瞬、反射的にそちらへ流れる。
──そこだ。剣先が揺れた“ように”見えた。
エヴァの神経が瞬時に反応し、動きかけた右足が微かに沈む。
が、フェイの動きは、そこで止まった。
それ以上は何もしない。ただ、佇んでいるだけ。
けれど、それが“意図的”であることにエヴァは気づいていた。
今のは牽制。
動かせるかどうか、試してきたのだ。
(動けば、読まれる)
剣を交える前から、圧がある。
目の前にいる男は、ただの剣士ではない。
目に見える“動き”の外側から、精神を削るように、じわじわと包囲してくる。
静寂が続く。
けれど、刃が交わる瞬間よりも、張り詰めている。
誰も息を飲まない。観客すらいない。
ふたりきりの舞台で、張り巡らされた沈黙の罠の中──
数合。剣と剣の交錯の合間に、足の位置が刻一刻と変わる。
ほんの数歩に満たない移動が、地図を塗り替えるように間合いを揺さぶる。
視線がぶつかり合い、呼吸が交錯する。
そして――ふいに、エヴァが一歩、強く踏み込んだ。
(……見えないなら、“削る”。)
鋭い気迫とともに、剣が火花のように走った。
一撃、また一撃。息をする間も与えぬよう、矢継ぎ早に繰り出される連撃。
下段から斜めに切り上げ、そこから一転して側面を狙う横薙ぎへ。
続く動きには一切の溜めがない。流れるような重心移動のまま、二段、三段。
力でねじ伏せるのではなく、積み上げた理と技術で織りなす連撃。
まさに、“剣技”と呼ぶにふさわしい洗練された流れだった。
──だが、それでも“届かない”。
当たらない。
フェイの姿が、視界の中に確かにあるというのに。
斬撃は、全て“空間”へと吸い込まれていく。
いや──フェイが、無理なく自然に、逸らしていた。
ほんの指先の調整、剣の腹を滑らせるような柔らかな軌道、
あるいは、意図的に刃を触れさせながらも、力を消すような受け。
剣の重さ、角度、速度、その全てを正確に“読んだ上で”処理している。
極端な力も、大仰な防御もない。ただ一撃ごとに、最小限の“否定”だけが積み重なっていく。
そして何より、フェイは視線を逸らさない。
打ち込まれる刃のすぐ先、エヴァの瞳を見つめたまま、静かに受け続ける。
(──避けない。受けきる気、なの……?)
その考えが浮かんだ瞬間だった。
フェイが、ふっと──ほんの一瞬、肩から力を抜いた。
たったそれだけ。わずかな緩み。
だが、それが“崩れ”を生んだ。
「っ……!」
次の斬撃が、虚空を斬る。
当たるはずだった感触が消え、エヴァの足元に僅かなズレが生まれる。
勢いを保ったまま振るわれた剣が、標的を失い、軌道を誤る。
体勢を立て直すよりも早く──
フェイが一歩、音もなく後ろへ身を引いた。
それだけで、すべては決着していた。
フェイは模擬剣を軽く持ち直し、肩にひょいと担ぎ上げる。
「……はい、おしまい」
淡々と、まるで稽古の終了を告げるかのような声音だった。
エヴァはその場に立ち尽くしたまま、ほんの数秒遅れてから、ゆっくりと剣を降ろした。
額に滲む汗、肩の上下、乱れた呼吸。
実力で勝っていた自負があるわけではない。けれど、“ここまで届かない”とは──
「……まったく、息一つ乱れてないじゃない」
悔しさ半分、呆れ半分のように呟く。
フェイは相変わらず、あの人を食ったような笑顔のままだった。
「いやいや、内心ではちょっとドキドキしてたよ? ほんと」
「嘘。絶対、してない」
言いながら、エヴァはフェイの顔をしっかりと見た。
その視線は、敵意でも猜疑でもない。
かといって、単なる興味でもなかった。
──何か、もっと深く探ろうとする色。
「……あなたはいったい、何者ですか?」
問いが、空気を震わせた。
風が吹いた。
汗の残る空気を撫で、ふたりの間をさらりとすり抜けていく。
答えを返す素振りすらないのに、不思議と“会話が成立している”ような気配がある。
──それが腹立たしい。
エヴァは、静かに口を引き結んだまま、じっとフェイの顔を見据えていた。
だが、そこに宿るのは怒りではなく──不可解さ。そして、抗えないほどの興味。
その沈黙を破ったのは、練武場の出入口から響いた、落ち着き払った年輪の声だった。
「その問いの答えは、ぜひ私も知りたいところだがね」
ふっと空気が変わった。
エヴァは反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、帝都オーディン十二騎士団の第十二団団長──
ヴァリス・クロウ=ネメア。
威圧でもなく、存在感でもなく、“重み”を持った人物。
長身痩躯、背筋は伸び、白銀混じりの長い髪を後ろで束ねている。
顔には深い皺が刻まれていたが、そのひとつひとつに年月の叡智が宿っているようだった。
いつものように、柔和な笑みを浮かべながらも──その瞳は鋭い。
琥珀色の双眸は、老いた今なお曇らず、目の前の空気の動きすら読み取るかのように静かに光を帯びていた。
「団長……!」
エヴァが少し姿勢を正す。彼女にとっても、“本物の上官”だった。
「ふむ。見事な稽古だったな。……さて、エヴァ。ひとつ、任務だ」
「……今ですか?」
エヴァは、内心の驚きを抑えて問い返す。任務の通達は普通、前日には共有されるはずだった。
「王からの直接の指示でね。急ぎではないが、早めに準備を。詳細は追って通達される。……ただし、補足がある」
そう言って、ヴァリスはゆっくりと視線を横に滑らせた。
柱に寄りかかったまま、変わらぬ脱力感で笑っているフェイを見やる。
「随行者として、彼が同行する。王直々の指名だ。……『腕は保証する』──そう仰っていたよ」
「……この人が、ですか」
エヴァの眉がわずかに跳ねた。ため息をひとつ、やや大きく吐く。
「まさか、雑用部隊の任務に“護衛”がつくなんて思いませんでしたけど」
それを聞いたヴァリスは、唇の端に笑みを深く刻む。
「いや、それだけではないらしい。今回の件、どうやら“王の特別案件”とされている。……渋る気持ちはわかるが、受けてもらおう」
「“任務”である以上、団員として断る理由はありません。……了解しました」
エヴァは背筋を伸ばして短く答える。
その様子に、ヴァリスは満足げにうなずいた。
「良い返事だ」
そしてほんの数秒の沈黙ののち、視線をふたたびフェイへと向ける。
フェイもまた、面倒くさそうな仕草のまま、その視線を静かに受け止めていた。
冗談のような笑みを浮かべたまま、だが、目だけは笑っていない。
短い沈黙のなか、言葉よりも先に“何か”が交錯する。
ヴァリスの琥珀の瞳が、わずかに細められた。
まるで、目の前の存在の奥に、ずっと奥に潜む何かを見抜こうとするように。
「──面白い目をしているね。……風変わりな風が吹いている」
フェイは肩をすくめ、気の抜けた口調で返す。
「はてさて。老練な方の目にどう映るか、ちょっと興味はあるかも」
「なら、いつか落ち着いた時に酒でも飲もうか」
ふっと、ヴァリスの口元に年輪の深い笑みが刻まれる。
それは、若者に期待を寄せるというよりは──何かに気づいたような、あるいは理解が深まったかのような、淡く滲んだ微笑だった。
「では、頼んだよ。ふたりとも」
その言葉を残し、ヴァリスは踵を返す。
そのまま背を向けると、年齢を感じさせぬ足取りで静かに歩き去っていく。
その背中はまっすぐで、どこか孤高。
エヴァの目には、わずかに尊敬の色が滲んでいた。
やがて、団長の姿が練武場の柱の影に消える。
それを見計らったように、フェイがひらひらと手を振ってみせた。
「ってことで、またまたよろしく。相棒さん」
軽々しく投げられたその言葉に、エヴァは盛大にため息をつく。
「……はぁ」
心底疲れたように眉間を押さえながらも、どこか諦めにも似た色が浮かぶ。
「いいですけど。今度、勝手にどこか行ったら──ただじゃおかないからね」
「怖い怖い。でもさ、そういうツンケンしたとこ、わりと好きだよ?」
「……減らず口まで健在。ほんとに、何なんですか、あなたは……」
その最後の呟きは、風に流れて消えるほどの声だった。
だがその声音には、怒りも苛立ちもなかった。
ただ、自分でも気づかぬうちに口数が増えていることに、少しだけ戸惑い──そして、それを悪く思っていないことにも、驚いていた。




