転生したら魔王だった件
―――男は転生した
振り返ればつまらない人生だった。金もなければ運もない。夢も野心もない。そして自分の人生がつまらなければ、世の中だって同じくらいにつまらない。テレビを点ければやれ値上げだ、リストラだ、政治家の汚職だと暗いニュースばかり。周りの人間は次々と幸せを掴んでいるのに、自分だけが貧乏くじを引かされている気がする。天気予報は雨の時ばっかり的中して、晴れのときほど裏切られる。夏は暑いから嫌いだし、冬は寒いから嫌いだ。そしてなによりの不幸は、女性との縁がなかったことだ。結局俺は一度も、ただ一人の女性とも愛し合うことがないまま、信号無視をしたトラックに轢かれてあっけなく死んでしまった。今日も世の中のどこかでは何百万、何千万、もしかしたら何十億という男女が互いに愛し合っている。なのに俺は一度もその輪の中に入ったことがない。なんと孤独で不公平なことか。
魂となって輪廻の螺旋を彷徨いながら、男は考える。そうだ、生まれ変わったら王様になろう。王様になれば、世間の小さな問題など気に掛けることもなく、美しい愛人に囲まれてのんびりと暮らせるのではないか。いや待てよ、どうせ王様なら、魔王様がいい。そうすれば人類に復讐ができる。そして自分だけは世俗の問題から離れて涼しい顔をしながら、生け捕りにした女とお城の中で愛し合うんだ。それがいい……。
男は、幾千の魂が群れを成して奔流する巨大な渦の中に呑み込まれていく―――。
―――……様。……ゥ様―――。
誰かが呼んでいる。
目を覚ます。目の前に異形の怪物がいて、こちらを見つめている。人間の体に、鷹や鷲などの猛禽類のような鋭い目、嘴、手足、そして羽が備わっている。男は驚いて仰け反り、悲鳴を上げる。
「誰だお前は?」
「今さら何をおっしゃいますか。私です。名もなき低級悪魔で、魔王様の補佐官であります」
「魔王?魔王って誰のこと?」
「魔王様、まだ夢心地でございますか?もちろんあなた様こそが絶対的な悪の王、魔王様でございます」
男は自分の両手を見つめる。皮膚は緑色に輝く分厚い鱗に覆われ、指先の一つひとつにツルハシのように太い爪が生えている。爪は大小の棘となって肘や肩、足先、頭や背中からも突き出している。まるで怪獣だ。それに体の奥底から邪悪な魔力のようなものが溢れてくる。周囲を見渡す。自分が腰かけている玉座はなんとも豪奢で、竜の装飾のついた金色の肘掛に、座面は見たこともない生き物の艶めいた革が張られている。広々とした部屋は玉座の間というやつだろうか?全体に薄暗く、シャンデリアには紫色の怪しい炎が灯っている。
「やった!本当に魔王に転生したんだ」
望みは届いた。これで人類に復讐ができる。
魔王が喜んでいると、先ほどの異形の魔王補佐官がおずおずと切り出す。
「あのう……。魔王様、お目覚めのところ申し訳ありませんが、実はお仕事が山積みでして………」
補佐官は胸に抱えた紙束を遠慮がちに見せる。
「これらの作戦指令書に目を通していただき、宜しければサインを頂きたいのです」
「作戦指令書というのは?」
「ああ……魔王様、きっと意識の半分が未だ睡魔に抱かれているのでしょう。作戦指令書というのはもちろん、人類侵略作戦のことです。我々魔王軍が世界各国に派遣した魔物軍団にどうか御命令を頂きたいのです」
「なんということだろう。俺は既に人類への復讐を開始していたのか」
補佐官は紙束の一番上の一枚を手に取り読み上げる。
「作戦指令其の一、南方の海洋国へと派遣された吸血鬼軍団に新鮮な輸血パックと日焼け止めクリームを補給物資として届けること。……どうぞサインを」
書類を反転させ、魔王の方へと向ける。
「輸血パックと日焼け止めクリーム?吸血鬼なら現地の人間から血を吸うんじゃないの?」
「普段でしたらもちろんそうです。しかし南方の国はどこも高齢化が進んでおりまして、若くて新鮮な血が足りていないのです」
「日焼け止めクリームは?」
「南方は温暖化で日差しも強くなっておりまして……吸血鬼どもはなんと言っても日差しが苦手ですから。彼らが行軍するにはマンドラゴラから抽出されたエキスの配合された特別なクリームが必須なのです」
「じゃあ、そのマン…なんとかの日焼け止めクリームを送ってあげてくれ」
「ところがマンドラゴラの名産地である西の台地では、長雨による日照不足のためにマンドラゴラが20年ぶりの不作でして。レタス等の葉物野菜と並んで値上がりしております故、魔界銀行から追加の融資を受けなければ……」
「分かった、分かった」
どうして魔王に転生してまで値上げや金の心配をしなくちゃならないんだ。魔王はうんざりして顔を背ける。
「サインだけする。後は任せる」
補佐官は恭しくお辞儀をする。そしてすぐさま二枚目の紙を手に読み上げる。
「作戦指令其の二、北方の山脈へと派遣されたドラゴン軍団が繁殖期に入るため、産休と育児休暇の取得を承認するとともに、魔物手不足を補うためにさらなる増援を行うこと。……どうぞサインを」
書類を反転させ、魔王の方へ。
「待ってよ。人類侵略のために派遣されてるのに、自分たちの子育てのために帰っちゃうの?」
「昨今はドラゴンの晩婚化も進んでおり、やはり少子高齢化でして、絶滅危惧種にも指定されています。これからの時代は魔物社会全体で子育て支援をしていかなければ、我らが魔王軍も魔物手不足を避けられない状況となっております」
「ドラゴン軍団の代わりの増援というのは?」
「はい。キメラ軍団の派遣を考えております」
「えっと……まだ俺の頭が寝ぼけているみたいだから教えてほしいんだけど、キメラというのはどんな魔物なんだろう?」
「ライオンと山羊の二つの頭を持つ怪物で、尻尾は蛇の頭をしています」
「それは強そうだ」
「ただ、近頃はヴィーガニズム運動が盛んでして、山羊の頭はライオンの頭が肉を食べることが許せないと言うのです。なにせ胃袋が共有ですから……。彼らを北方へと派遣する場合、ライオンに食べさせるための豆腐を大量に用意しなければなりません。人間の肉なら現地で調達できますが、豆腐はそうもいきません。また尻尾の蛇は寒さに弱いので、北の山脈に派遣するのであれば細長い特製セーターを大量生産しなければなりません」
「キメラはキメラで難しい問題を抱えているんだね」
「豆腐工場もセーター工場も、新たに建設するには魔界銀行の融資が……」
「分かった分かった」
また金だ。加えて少子高齢化に、ヴィーガニズムときたか。魔王はうんざりして、悪臭をかき消すように手を振る。
「サインだけする。後は任せる」
補佐官は恭しくお辞儀をする。
「続きまして……作戦指令其の三、我らが魔王軍は既に東の国を侵略しましたが、そこを治めておりました王と、王が雇った勇者が依然として行方不明となっております。勇者は放浪しながら、手あたり次第に見つけた魔物を殺して回っているそうです。つきましては魔界全体に戒厳令を発令し、魔物達には夜8時以降の外出を禁止するとともに、戸締りを徹底させるようお願いいたします。また魔王様ご自身についても、しばらくは魔王城からお外に出ませんようお願い申し上げます。……どうぞサインを」
書類を反転、魔王の方へ。
「おいおい、魔物が勇者を恐れて閉じこもるなんて、聞いたことがないよ。それに普通の魔物だけじゃなく、魔王まで勇者を恐れて外出を控えなくちゃならないの?」
「滅相もございません。魔王様ともあろうお方が、勇者など恐るるに足りません。ただ夜間の外出を禁止するということは、飲み会も禁止するということです。魔物達にも不満が溜まることが予想されますので、何よりもまず魔王様ご自身が民の手本となって頂きたいのです。戒厳令の最中に政治家だけはこっそり会食……などというのは、昨今のコンプライアンスを鑑みましても……」
「分かった分かった」
どうして悪の帝王がコンプライアンスを遵守しなければならないんだ。魔王はうんざりして、天を……というよりは、陰気で薄暗い玉座の間の天井を仰ぐ。
「サインだけする、後は任せる。外出もしないよ」
そうぼやいて、四枚目の指令書を手に取る補佐官を制止する。
「ちょっと休憩させてほしい。せっかく魔王になったんだ。生け捕りにした人間の女はいないの?」
「もちろん用意してあります。すぐさま連れてこさせましょう」
補佐官が手を叩く。魔王の間の扉が開き、一人の女性が……それも、転生前の人生で一度も出会ったことがないほどの絶世の美女が、二匹の魔物に伴われ入ってくる。女性はボロボロの衣服を身に着けていて、両手を鎖で縛られている。補佐官は胸を張って言う。
「汚い身なりに包まれようとも、生まれ持った気品は隠せませんな。この娘は今は捕虜となっていますが、元は我々が侵略した東の国の姫です。どうぞ、煮るなり焼くなり、魔王様の御心のままに」
魔王は大喜びで、さっそく口づけをしようと姫の顔を覗き込む。しかし姫は魔王が近寄った途端に顔を背ける。
「姫よ、どうして顔を背けるんだ。そんなに俺の顔が嫌なのか?」
魔王は憤慨したが、そういえばまだ転生した自分の顔を見たことがないのを思い出し、補佐官に鏡を持ってこさせる。鏡には、緑色の皮膚に黒い角が生え、丸くて金色の目玉が四つもついて、それをギョロギョロと動かす怪物が写っている。転生前だって決して褒められた顔ではなかったが、少なくとも目は二つだった。
「なんて醜い顔なんだ……」
魔王が呟くと、補佐官が即座に反論する。
「何をおっしゃいますか。その女は魔王様のお顔を嫌がっているのではありません、畏れているのです。勇者も裸足で逃げ出すその勇ましきご尊顔が畏れ多いのです。そしてその畏ろしさこそが魔王様の絶対的なカリスマ性の証なのです」
確かに、姫は縮こまって怯えているようだ。でもこれでは姫に愛してはもらえない。魔王は恐れられることが仕事みたいなものだから仕方がないとはいえ、これでは女性に縁のなかった前世と一緒か、それ以上に悲惨だ。
「姫よ、どうかこちらを向いておくれ。そして教えてくれ。どうすれば私のことを愛してくれるのだ?」
姫は恐るおそる魔王に顔を向け、小さな声で話す。
「それでは、どうか魔物たちに人を襲わないように言い聞かせてください」
「分かった、言い聞かせよう」
魔王は即座に補佐官に命じる。補佐官は血相を変えて、考え直すよう魔王に進言したが、それは聞き入れられなかった。その日のうちに魔界全体に通達が出され、魔物達は武器を捨てた。キメラたちは北の山脈へ出発するのを止め、人間を襲えなくなった吸血鬼たちは残り少ない輸血パックを我先にと奪い合った。
「姫よ、約束通り魔物たちを大人しくさせた。さあ俺を愛してくれ」
しかし姫は首を横に振る。
「まだ十分ではありません。魔王様、どうか魔物たちが人間から奪ったものを返してください」
魔王は再び補佐官に命じる。補佐官は涙を流して魔王に心変わりするよう頼んだが、それは聞き入れられなかった。通達が出されると、人間から家屋を奪って住み着いていた魔物達は盗んだ金品を置いて去って行き、捕虜にされていた人間はすぐさま開放された。吸血鬼たちは病院に駆け込み怪我人に輸血すると申し出たが、そんな血液を体に入れるのは気味が悪い、という理由で断られた。
「姫よ、約束通り奪ったものを返した。捕虜も解放した。しかしあなただけは行かないで、どうか俺を愛してくれ」
しかし姫は首を横に振る。
「まだ十分ではありません。魔王様、どうか人間界に進軍した魔物たちを撤退させてください」
魔王はやはり補佐官に命じる。補佐官はそんな指示を出すくらいなら自らの命を断つと頑張ったが、結局は魔王の命令を断ることはできなかった。通達が出されると、ドラゴンたちは休暇を前倒しにして婚活と子作りに励み、吸血鬼たちは薄暗い自分の根城に戻ってそれぞれの棺桶に寝そべってぐっすりと眠った。
「さあ姫よ、約束を果たしたぞ。どうかこの俺を愛してくれ」
魔王は美しい姫に迫る。その瞬間、一閃、稲妻のような銀色の光が走る。いつの間にか城へ潜入していた勇者が姿を現し、その一太刀が魔王の首を捉える。魔王の首は勇者の剣によって一撃で刎ねられ、緑色の鱗に覆われた醜い頭がドスンと床に転がり落ちる。魔王は滅びたのである………―――。
―――再び魂となって輪廻の螺旋を彷徨いながら、男は考える。もう魔王なんてのはコリゴリだ。悪事を働くというのもなかなか骨の折れる作業であることが分かったし、そこで頑張ったとして、愛されないどころか、余計な恨みを買うばかりだ。どんな存在に転生しようとも、やはり自分から人を愛し、できる限り善行を積んで生きると心に誓おう。
―――男は再び、幾千の魂が群れを成して奔流する巨大な渦の中に呑み込まれていく。