転生したら〇〇だった件
―――男は転生した。
新たに生まれ落ちたその世界は、周囲をグルリと背の高い壁に囲まれていた。その壁の内側で、男は母親や兄弟たち、他の大人や子供たちと共に生活した。夜の間は住処に隠れて、家族と体を寄せ合って眠った。朝が来るとみんなで広間に集まり、一緒に食事をとったり、話し合ったり、遊んだり、時には喧嘩をしたりしながら過ごした。
自分達を囲む壁の上には、いつも昼になるといくつかの顔が並び、こちらを覗き込んできた。壁の向こう側がどうなっているのかは分からなかったが、きっと向こう側にも自分たちとおなじような集団がいるのだろう。壁の上から覗く彼らが、こちらに話しかけてくることもあった。言語が異なっているらしく、何を言っているのかは分からなかったが、こちらからも返事をしたり、おどけて踊ってみせたりすると、彼らはとても喜んだ。向こう側からこちらに食料を投げてよこすこともあった。こちら側にはない珍しい食べ物だったが、食べてみると大変に美味であった。お礼に、男はこちらの食べ物を投げてみた。壁が高くてなかなか届かなかったが、ついに向こう側に到達したときには、彼らは歓声を上げた。
そんな交流を続けて行くうちに、言語こそ理解し合えなかったが、男の名前だけは次第に壁の向こうの彼らに知れ渡っていった。ひとたび大きな声で自分の名が呼ばれると、男は壁の前の小高い丘に颯爽と登っていって、歌ったり踊ったりしてみせた。その度に彼らは大喜びして、向こう側の食べ物を分けてくれた。
向こう側の食べ物も好きだったが、男はなによりも、自分の芸によって彼らが喜んでくれるのが嬉しかった。
ある日男は腹を下した。何か悪いものでも食べただろうか?2、3日の間自分の住処に隠れ、悶え苦しみ、やがて悪いものをすっかり外に出すと、男はフラフラと小高い丘に登った。食事を取る前に体を癒そうと、暖かい陽だまりの中に寝そべった。チラリと頭上を見上げると、いつものように彼らは壁の上から顔を覗かせて、しきりにこちらに呼び掛けてきた。
「済まない、今はちょっと元気が出ないんだ」
男は寝返りを打って彼らに背を向けた。彼らは騒ぎだした。言葉は分からないが、男が返事をしたり踊ったりしないことに腹を立てているのは明らかだった。怒ったような口調で何やら汚い言葉を発していた。
(こんなに騒がしくては昼寝もできない)男は我慢できなくなり、起き上がり、彼らの方を向いた。すると彼らはいつもの男の名前を呼ばず、別の名を口にした。
「サル!サル!」
彼らはそう言った。サル?俺はそんな名前じゃない。それとも、腹を下したせいで何日もまともに食事を取っていなかったから、痩せて人相が変わってしまって、別のやつと間違えているんだろうか?
「おい、サルっていうのは誰のことだ。いつもみたいに芸をしてやれないのは悪いけどさ、名前くらいは間違えないでくれよ」
もちろん言葉は伝わらない。彼らは男をサルと呼び続けた。男は丘を降り、自分の住処に隠れて眠った。
夜、男は再び丘に登り、自分達を囲う高い壁を見上げる。壁の上から覗く者たちはもういない。彼らは必ず昼間にやって来る。
「サルというのは、彼らが我々を指して呼ぶ名だ」
サルとは何者だ?という男の質問に、仲間たちの中で一番の長老はそう教えてくれた。
「我々がサルならば、彼らは何だ?」
「ニンゲンだ。彼らは自分たちのことをそう呼んでいる」
「彼らは我々と似ている。同じサルではないのか?」
「彼らは違うと考えている。顔は似ているが、あの壁に隠れている顔から下の部分には、我々のような毛は生えていない。代わりに、赤とか青とか黄色とか、様々な色の衣を身にまとっている」
「彼らは友達ではないのか?」
「彼らは違うと考えている。……たぶんな」
「では彼らは何故我々を覗きに来るのか?」
「珍しいからだ。我々の住処にも時折、スズメや蝶々が紛れ込む。我々は珍しいからそれを覗く。彼らにとって我々サルは、スズメや蝶々と同じなのだ」
我々と彼らは仲間ではなかった。友情や愛情によって繋がっているわけではなかった。名前を呼んだのも食べ物を交換したのも、親交の証ではなかったのだ。だから芸をしなくなった男に、彼らは腹を立てたのだ。芸をして自分たちを楽しませてくれなければ、サルに用はない。
長老の言葉を思い出しながら、男は一人、夜空に浮かぶ月を眺める。そうか、俺が一生懸命に声を上げたり、踊ったりしてみせるのを、彼らは笑っていたんだ。そしてお利巧なサルへの褒美にと、食べ物を投げてよこしたんだ。そんなことも知らずに俺は、彼らと友達になったつもりで、一生懸命におどけて見せていたのだ。男は無性に寂しくなった。そして昨日まで友達だと思っていた、壁の上から覗く彼らの笑顔を思い出し、腹が立ってきた。
長老は他にもいろいろなことを教えてくれた。
「壁の向こう側ではサルは珍しいのか?では向こうのサルは……我々の本当の仲間たちは、どのように生活しているのか?」
長老は首を傾げて唸る。
「ニンゲンとは異なる場所に住んでいる」
「それはどんな場所だ?」
長老は顔を上げ、遠くの空を見つめる。
「私は知らない。この壁の中に暮らしている者は、誰一人としてその場所のことを知らない。ただ、私の曾お祖父さんが、かつては外の世界に住んでいたそうだ。曾お祖父さんによると、その世界はとても豊かである反面、生と死が紙一重の隣り合わせに存在する極めて危険な場所であるそうだ。そこら中に木が生えていて、その木を穿ると生きた食料が沢山出てくる。我々の仲間は皆その木に登って生活をしている。なぜなら地上には、我々の命を脅かす獰猛な生物が多いからだ。多くのサルが猛獣に襲われて命を落とす。しかしその世界には壁はない。誰も我々を覗こうとはしない。そこで暮らすサルたちは、命の危険を背負う代償として、壁に囲まれることのない自由を手に入れることができる」
ふと、男は丘の中腹に生える一本の大きな木の枝が、壁の高さにまで伸びていることに気が付いた。俺はあの大きな木を登れるだろうか?登れなければ、どちらにせよ壁の向こう側で生きて行くことはできまい。でももしあの木を登り切って、横に伸びたあの枝から飛び移れば、壁を超えることができるかもしれない。もちろんその先にあるのは楽園ではない。長老も言っていた、死と隣り合わせの危険な世界だ。うつむき、月明りに照らされた自分の手を見つめる。鋭い爪はないが、長い指の付け根には、物を掴んだ時にうまくひっかかりそうなコブがついている。なんだか、木の枝にぶら下がるのに向いているような気がする。
男はその大きな木をスルスルと登る。わざわざ木登りなんてしなくたって、毎日の食料は手に入る。時間がくれば大量のサツマイモ配られるからだ。それでも高い木に登るのは、不思議と懐かしく、楽しい。男は大きな木を登り切り、横に伸びる枝を渡り、壁に向かってジャンプをする。壁の縁にしがみつき、サルはその向こう側へと姿を消す。