66_エンディング
ぐううう―――、と隣で嗚咽が聞こえる。
それは涙混じりの声で、喉の奥に潜んで住んでいるカエルが鳴き声を上げたようにも聞こえる。
それは恥にまみれた声だった。
ミストリの鼻水なのか涙なのか、もはや判別の付かない水分が体の穴から出続ける。
「ああ、お、俺です」
えっ、と、アズサはミストリの方向を見た。
ミストリはおでこを地面に擦り付けるようにして、首を垂れ泣きじゃくるようにして嗚咽を垂らしている。
「俺は、カムデンに情報を流していました」
シンラは何も言わない。
それでもミストリは続ける。
「あ、アズサは違うんです。彼女は何も知らない、です」
ひっ、あっ、とかミストリがしゃくり上げる声が続く。
「俺は、あ、確かに」
「―――もう、いいよミストリ」
そう言ってシンラはミストリの言葉を遮った。
それからよく頑張ったね、と言って彼の肩を叩いた。
それは背後から差し伸べられ、アズサの視界の端に白い手が生えてきたように映る。
「―――!、シンラ!」
次の瞬間、グレンはシンラの名を叫んだ。
だがシンラは、五月蝿いよ、とガラスの置物を丁寧に地面に置くようにしてその場に言葉を落とすと、次の瞬間、グレンが肩から地面に突っ伏した。
まるで見えない糸が胸の辺りにくっついていて、それを思い切り引っ張られたように見える。
グレンは小刻みに息をしながら必死に酸素を吸おうと口をぱくぱくと動かす。
アズサは、何事かと目の前の出来事に呆気に取られたが、ミストリはシンラから手を肩に添えられていることもあって、背後のシンラの方に注意がいっているようだった。
「グレン、だめだよ。喋る時はちゃんと許可を取らなきゃ」
グレンは言葉を発しようとするが、息が続かないのかアクションを起こすことが出来ない。
それからミストリの耳元で、シンラは囁いた。
「ミストリ、良く喋ってくれたね。他に知っていることはあるかな?」
ミストリは首を横に振る。
お、俺の村の人たちは坑道内にいた、全員は確認してないけど、みんなを助けてやってください、そう言ってミストリは頭を下げる。
「わかった、それじゃ―――前を向いて」
シンラの声は甘く、かつこの場に落ち着きをもたらすようにゆっくりともたらされる。
ミストリは前を向く、そこには、シンラの周りを旋回していた白い球が、等間隔に一列に並び暗闇の中を道を作るようにして等間隔に配置されている。
アズサはその姿に坑道内の天井に配置された豆電球を思い出した。
あれは点灯していなかったが。
「この光に沿って歩けば、私たちの司令部に着く。怪我もしているだろうけど、独りで歩けるかい?」
ミストリは一度頷くと立ち上がり、みんなを助けて、と再度言った。
「ミ・・・!」
アズサは何かを叫ぼうと腹部に力を込めたが、どうしてだか身体が重く、次の言葉が発せない。
「ミストリ、―――振り向かないでそのまま歩いて」
シンラの言葉にミストリは素直に従い立ち上がり、アズサの方を振り返ることなく真っ直ぐ歩いていく。
ただ一度、数歩のところでミストリは立ち止まり首だけを空に向けた。
それからまたミストリは確かな足取りで歩き始めた。
「君は、息苦しいだろ」
そう言って、シンラはアズサの肩に自身の顎を乗せた。
呼吸のし辛さは先程と変わらず、むしろ身体中の血液が質量のある別の何かに変わってしまったのではないかと思うほどだ。
「それは何から来ているのかな、彼に裏切られたこと、それとも自身が何も声を出すことが出来ないこと、どちらかな。どちらでも構わないが、君には大問題だね」
シンラの匂いは鼻につく、それは戦場では異質の匂いだ。
「彼は、許されるかな。私は彼を、先に話した、という点でこの場から解放したけど、裏切り者であることには変わりがない。アズサは許されるべきだと思う?」
「わ、私は、―――」
「彼は君を売り飛ばして自分は助かる道を選んだ。自分はスパイだと言って罪を告白した上で、私に判断を委ねてね。ただ私は出来る限りフェアでありたいと思っている。だから私は彼を許す。この場で正直に話した彼に敬意を表して彼を許す。でも、―――君は違う。私は君を殺さなければならない」
シンラはやめない。
諦めさせ、全てを投げ出させることを許さない。
「イゾルダがなぜ、銃の取り扱いに長けている者を選抜していたか分かるかな?」
アズサは首を本当に小さく横に振る。
「それは何かあった時に彼を殺すためだよ」
シンラの言葉が右から左に流れていく。
「彼が完全に信用できない存在だということで、常に彼を見張っている存在が必要だったんだ。いざとなれば撃ち殺すことの出来る人間がね」
まあ、イゾルダは少し大げさにテストをやり過ぎていたけどね、と言ってシンラは微笑んだ。
「アズサ特技兵」
唐突に名前を呼ばれてアズサはビクッと体を震わせる。
―――はい、そう言ってシンラはアズサに向かって背後から銃のグリップを差し出した。
―――あ、と戸惑うようにアズサはその差し出された銃のグリップを見る。
グリップ部分は真黒い木材で出来ていて、シンラから発せられる光で白いハイライトがゆらゆらと漂っては形を変える。
自然とそのグリップを掴む。
それはズッシリと重たいのだが、やたらアズサの手に馴染んだ。
手首に力を入れていないと、銃身の先端、バレルという部分が重さで自然と下を向く。
シリンダー部分から装填されている銃弾がチラリと見え、どうしてか銃弾に彫られた細かな溝などがやたらと目につく気がする。
両手で銃をしっかりと持つ。
「私が出来るのはここまでだ。君の評価は悪くない。イレギュラーな存在であって、最後まで君が潔白かどうかは分からなかったが、その疑惑も晴れた。逆にミストリが君を利用してエースの中で生きながらえたのは誤算だったけど。坑道内に入れても君は生きて出てきた。運も持っている。あとは覚悟だけだ。君が生き続けたいのであれば」
シンラはそう言うと、アズサの肩から顎を外し、ゆっくりと一歩後ろに下がった。
アズサは前を見据えた。
確かな足取りでミストリは歩いている。
もう距離は30m程だろうか。
シンラは地面に転がっていた、カムデンの兵士が持っていたであろう銃を拾い上げ、弾が詰まっていることを確認して、アズサに銃身を向けた。
それはもう、この戦場に来てからと言うもの、馴れてしまった圧力だった。
怖くはない、ただ塹壕を掘っていた時から続いていた緊張感がここまで足を伸ばしてきたような、そんな感覚だった。
そして、アズサの中の何かが切れた。
それは彼女の中でも初めての感覚だった。
恐らくこれから似たような感覚を味わうことはないだろう。
完全に今あるものが、裏返り、どこか違うものとして生まれ変わるのがわかった。
アズサは真っ直ぐ銃を構えた。
両手で構えそして撃った。
初弾は外れた。
手が震えていたのかもしれない。
アズサは奥歯を噛み締めて、いつものように振る舞おうと決めた。
前を歩いていた男は、こちらを振り返り驚きなのか、それとも焦りの表情なのかを浮かべて前方に全速力で走り始めた。
「逃すのかい」
シンラの言葉にどうしてだか、清々しさを感じる。
アズサは二発目を放った。
二発目は男の残っている方の肩を貫き、足をもつれさせ、前のめりに身体を倒れさせた。
三、四発目は間髪なく発射した。
男が倒れる瞬間、数発の弾丸が彼の身体を貫き、内臓を破壊して、彼の命をもぎ取りどこかへと捨て去った。
五発目は頭部に命中して、脳髄を粉々にして吹き飛ばした。
そのとき、アズサは坑道から出たばかりのときに自分とミストリを救ってくれた少女のことを思い出した。
あれはいつかの自分だったのだろうと思った、だがその彼女も―――。
「うん、素晴らしい手腕だ」
そう言って、シンラはアズサに向かって片手を出した。
アズサはその差し出された手を握る。
「ようこそ、エースに」