52_ミストリと鉱山
ミストリは胸ポケットから手のひらに収まる程度の円柱状の木の箱を取り出した。
もう一方の手で上部に力を入れる。
すると留め具が外れたのか貝のように手前部分が開き、中から懐中時計のようなものが顔を出した。
周囲が暗い為、目を細めてその時計のようなものを凝視する。
それはどちらかと言うと、時計ではなくてコンパスに近しいものだった。
だがコンパスと言っても、【N】の記述も【S】の記述もどこにも表記はなく、ただ行き場をなくなった矢印がフラフラと旋回しては定まる場所が見つからない迷子のように、あちらこちらに首をもたげている。
ミストリが穴の中の壁に近づき、そのコンパスを壁に沿って這わせていく。
左から右へ腕の高さを変えずに移動させる。
ここが家の中であれば窓を布巾で丁寧に拭くような、周りの者たちからはそんな風に見えたことだろう。
最初は肩の高さと同等ぐらいのところで移動させ、次第に高さを変えていき、最終的には膝の高さに腕を持っていった。それを左右に立ち位置を若干ずらして繰り返す。
穴の奥の壁は硬い岩盤なのか、ミストリが掌で感じるのは、指先で削ることの出来ない硬い感触だった。
コンパスは数回目で矢印が壁の方向を指し示した。それはどこか、男性の勃起した淫部をミストリに思い起こさせる。
ミストリの村はカムデンとボルビアの国境付近に位置する村で、過去幾度となく領土紛争に巻き込まれた地域だった。
国境沿いには昔から神の住む山と称されていた山脈が立ち並び、標高3千メートルを超えるものがいくつも点在していて、地元で生まれ育った者であっても、山超えは難しいと言われるような難所だった。
山の上は特殊な気候で常に雪が降り積り、大量の物資を運んでの踏破は不可能に近く、それが故に山を越えるためには山を突っ切る形で掘られたトンネルを使用するか、山を迂回するしか方法はない。
だが幸か不幸かそれらの山々には、金などが取れる鉱山が存在していて、付近の住民はそれを採掘することで生活の基盤としていた。
それでお鍔迫り合いと表現されるほど頻繁に勢力図が変わる国境線で、資源の巣窟であるこの鉱山の村々はその度に多大な損害を受け、坑夫から生産インフラまで破壊、または略奪されるのが常だった。
ただどれほど被害を受けようとも、それぞれの国からの侵略に対して、彼らは常に先祖代々自治を要求していた。
彼らしか知り得ない独自の採掘技術、彼らの祖先が数百年という時間をかけて培った鉱山内の秘密のトンネル、各国の権力者への賄賂など、一定の自治を維持するため多少の犠牲を払いつつそれを達成してきたのだ。
特に数百年という歴史の中でその採掘技術を用いて掘られた彼ら独自のトンネルは、紛争、災害などで大いに役に立ち、彼らの権力の基盤を築いた。
紛争があった場合に、基本的にはその時旗色の良い方につき、協力の見返りに自治を要求する。
それらが受け入れられない、又は紛争終結後に約束を反故にされた場合、トンネルのいくつかを爆破して、採掘に甚大な影響をもたらす、それは自爆攻撃とも等しかったが、資源を早急に回収したい側からすれば、被害は多大で歴史上数多の権力者がこの要求を受け入れていた。
この鉱山付近を仕切るのは付近の村々から集められた長老たちで、重大事項発生の折に寄り合いが開催され、基本的に合議制が取られた。
早い話多数決なのだが、資本的合理制でその都度方針が決められ、各々相談せずとも長老たちの無意識下で結論は決まっている。
金になる、はたまた戦局の旗色の良い方につくのが常だった。
ただここ数十年はカムデン王国の勢力が活発で、国境沿いの領地紛争でもカムデン王国が勝利していた為、村の心象としてもカムデン王国寄りへ村民の支持は傾倒しており、戦争初頭はややカムデン側が押し込んでいたこともあり、自然と長老会の意思決定は、カムデン王国への支援で満場一致だった。
小規模な紛争の場合はその限りでないが、国同士の全面戦争が発生した場合、両陣営に向けて村からスパイが放たれる。
スパイの彼らはそれぞれ国境線沿いの別の街に架空の戸籍が用意されていて、それを用いてそれぞれの国の派兵に応じる。
それが出来ない者は付近の街の住民に扮して、秘密裏に情報提供を行い、村の都合の良い勢力に加担するのが通例だった。
軍へ潜入した者は、出来る限り現地の状況を見つつ情報を収集して、手紙などで独自の暗号を使い街の工作員へと状況を知らせるのが主な任務だった。
ミストリはボルビアにスパイとして潜入した。
ボルビア領にある戦場からは離れた鉱山の出身ということになっていて、無事戸籍などの身体検査もパスしたことで一兵士として入り込んだ。
生まれてこの方初めての任務だったが、不思議と緊張はしていなかった。
むしろミストリには自身がスパイだという意識すらなかった。
普通の兵士は通過するはずの新兵訓練もなく、戦場に投入されたことも一因かも知れなかった。
土砂を運ぶしか能のない自分が急にライフルを担ぎ、射的の真似事をしてもどこか現実感がなかったし、戦地の情報収集なんて何をすれば良いのかもっと不明だった。
それでも最初に与えられた仕事は塹壕を掘ることだったし、不安を抱いていた上官は予想していたよりも気性は激しくなく、人づてで聞いていた戦場の厳しさはすぐには降ってこなかった。
だが誤算だったのが、エースの部隊への招集だった。
当初、スパイとしてこの戦場に来たことがバレたのかとミストリはドキリと肝を冷やした。
エースの部隊はプロパガンダとして喧伝されることはあっても一体全体どんな行動を取っているか想像もつかなかったからだ。
もしかしたら、内部にいるかもしれないスパイを秘密裏に捕縛しているのかもしれない、と考えるとすぐさまこの場から離れたくて仕方なかったが、特に何かしらのスパイらしいことをしていない自分が捕まることもないだろう、とどこか楽観視してしまう自分もいた。
それに純粋にエースの部隊をこの目で見られることにどこか興奮しているのも確かだった。




