その4 大葉(青紫蘇)
2018/11/19公開作品
結論から言うと、未智と響一は、『それ以上』のことはしなかった。
あの男には何を言っても無駄とばかりに、未智は早々にさじを投げたのだ。つまり逃げた。
翌日出社して仲の良い同僚に愚痴をこぼしたところ、幸いなことに彼女が面白……いや、同情してくれて、先約を断ってまでも未智に付き合ってくれることになった。一人暮らしだから宿泊可、という寛容なお言葉をいただいて、逃亡計画は俄に完成した。
その日は前日休んだツケで、響一が残業になったことも幸いした。未智は夜のうちに翌日分の父の朝・夕ごはんをささっと作り置き、土曜日の早朝、父に宛てた手紙をダイニングテーブルの上に置いて、颯爽と家を出た。
勿論、同僚の彼女には事情を根掘り葉掘り訊かれたし、ここまでしてもらって言わない選択肢はないとばかりに未智も詳しく説明した。が、
「音楽一家の末っ子で、大手企業勤務の高身長でイケメンな幼馴染みぃ? 少女漫画の読みすぎじゃないの?」
と非常に疑い深い眼で言われたので、仕方なくスマートフォンに入っている証拠写真を見せることにした。一昨日、家族全員で食事したときに撮ったものだ。その後、婚約記念にとかなんとか言われて、不本意ながら撮られた響一とのツーショットも併せて。
彼女はしばらく無言で写真を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、
「こんな男、現実に存在しているのね……」
と虚ろな瞳でつぶやいた。続いて、
「超優良物件を簡単に袖にする女ってのも、ある意味希少価値ではあるけどね……」
と可哀想な子を見るような目を向けられて、未智は慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私だって全くの他人だったら考えたわよ! だけど奴はもう家族枠だから! いきなり結婚なんて言われても、えっそれ誰の話? 今日はエイプリルフールだったかしら? ってなるじゃない!」
「でも、キスしたんでしょう?」
いきなりそんな風に切り込まれて、ぐっと言葉に詰まる。未智はしどろもどろに答えた。
「だ、だって、もうそうしないとどうしようもない空気っていうか、逃げようがなかったっていうか……」
「でも、したんでしょう?」
「したよ! した……けど……」
「別に、気持ち悪くもなかったんでしょう?」
「それは……だって、響くんだし……」
「好きな人とじゃないと、粘膜の接触なんてできなくない?」
「ね、ねんまく……? いや、接触したのは表皮だけで、粘膜では」
「でも、好きなんでしょう?」
「好きって……家族枠で、だよ」
「好きは好きでしょう?」
「そ、そりゃまあ……はい」
なんだ、今日はやけにぐいぐい来るな。どうした。
内心でそう思いながら、渋々肯定する。彼女は無表情に頷いた。
「じゃあそういうことだよ」
「えっ、どういうこと?」
「家族枠をちょっぴり超えてるってこと」
「ええ? なんで?」
心底嫌そうな顔で問いかけると、彼女は淡々と答えた。
「いくらなんでも、家族とキスは無理。まあ、中にはそういうのがオッケーな人もいるかもしれないけど、世間一般的には無理。私にも兄がいるけど、家族として好きだけど、キスしろって言われたら断固拒否する。ていうか無理」
理不尽な!
「わ、私だって無理って言ったよ!? 逃げようとしたよ! でも強引に……」
「最終的には自分からしたんでしょう?」
「ええー……。だって、無理矢理されるのはヤだったし……」
なんだこれ。疲れてきたな。というより、朝っぱらからなんだこの話題。まさかこんなに食いつかれるとは思わなかったよ。
無表情でぐいぐい来る彼女の相手をしながら、未智は遠い目をして考えた。
それはともかく、二人で一緒にショッピングに出かけたり、ご飯を作ったりするのは楽しかった。友達の家にお泊りするのも久しぶりで、パジャマパーティーとばかりに夜更かししておしゃべりに興じた。写真を見せた時以外はスマートフォンの電源を切っていたので、邪魔されることもない。彼女に響一のことを聞かれたのも最初に事情を説明した時だけで、未智は久しぶりにストレスのない時間を過ごすことができた。
日曜日の夜、未智はいつものスーパーで夕飯の買い物をして、意気揚々と自宅に帰ってきた。
「ただいまー」
と言いながら靴を脱ぎ、廊下を挟んで右側のドアを開ける。買ってきたものをダイニングテーブルの上に置いて、左側のリビングルームに目を向け、
「ごめんね、遅くなって。今からすぐに……」
ご飯作るからね、と言いかけた言葉は尻すぼみになって消えてしまった。そこにいるはずの父はおらず、なぜか響一がゆっくりとソファから立ち上がったからだ。
「きょ、響くん……? こんなところで何してるの? お父さんは?」
「何してる、とはご挨拶だな。おじさんは俺んち。今頃寿司でも取ってみんなで食ってんだろ。それより、俺に何か言うことがあるんじゃないか?」
普段の彼にはない低く静かな声におののいて、未智はびくびくと答えた。
「な、何か、って……?」
「俺との約束をすっぽかして二日間もどこに行ってたのかとか、なぜ一言も言わずに出かけたのか、とか。怒らずに聞いてやるから言えよ」
「……行ったのは会社の同僚のお宅。何も言わなかったのは、何を言っても響くんが聞いてくれないから」
にらみつける響一に負けじと、未智も頑張って響一を見つめ返す。今までに見たこともないほど深く刻まれていた響一の眉間のしわが、はーっという大きなため息とともにほどけた。
「どれが嫌だったんだよ」
首の後ろを疲れたようにこすりながら、響一が投げやりな口調で問いただす。未智はキッと眉尻を上げた。
「全部!」
「全部っておまえ……」
「だって私はずっと、結婚なんてしないって言ってた!」
未知が叫ぶように言うと、響一は首の後ろに手をやったまま固まった。
「ずっと、ずっと、響くんがおかしなことを言いだしてからずーっと、嫌だって言い続けてた! なのに響くん、聞いてくれなかった!」
響一の腕がだらりと首から滑り下りた。
「未智……」
「突然キスしてきたり、させられたり、指輪だとか式場の下見だとか、あまつさえ、セ、セッ……『それ以上』のことまでしようとした! 私の意思なんて全然無視して!」
そこまで言うと、涙が込み上げてきた。未智はそれをこぼすまいと目に力を入れながら続けた。
「もう嫌だよ。今まで通りの私たちに戻りたい。普通の、幼馴染みに」
目に一杯涙をためている未智を痛ましい表情で見つめてから、響一はぽつりと答えた。
「無理だよ」
「どうして!」
「……おまえが好きだからだよ」
そう言われて、未智は怯んだ。響一の目は真剣で、茶化すことも憤慨することもできなかった。
そんな未智の様子をじっと見つめてから、響一はゆっくりと口を開いた。
「最初は確かに、ままごとで結婚の約束をした可愛い幼馴染みってだけだったかもしれない。でも、心のどこかで、いずれ俺たちは結婚するもんだと思ってた。他の女と付き合ったりしてたのは、それまでちょっと遊ぶぐらいいいだろって軽い気持ちもあって……」
バツが悪そうな顔になって、ちょっと目をそらす。
「そうこうしているうちに、小母さんが亡くなった」
ぽつりとつぶやいて、響一は再びまっすぐに未智を見た。
「その時のおまえを見て、こんな悲しい顔はもうさせちゃ駄目だ、守ってやらなくちゃって思った。俺が幸せにしなきゃって。それでようやく目が覚めた。他の女に遊びとはいえ現を抜かしていたことを、初めて申し訳ないと思った。だからもう金輪際よそ見はしないって決めたんだ。でも、あの時の未智はそれどころじゃないってのもわかってたし。もう少し待とう、心の傷が癒えるまでは仲のいい幼馴染みとしてそばにいようって、そう、思った」
未智はぱちりとまばたきして響一の言葉をゆっくりとかみしめた。
確かに、言われてみればその通りだ。母の訃報を聞いた時からずっと、響一はそばにいてくれた。そのことはもちろん当時から認識していたし、今も変わらず感謝している。だがあの時に自覚した、と言われると……。今までは母親を亡くした可哀想な幼馴染みの面倒をみてくれている優しい隣人、という目で見ていたが、その前提が根底から覆されてしまう。
未智は戸惑った表情で口を開いた。
「……急に口説いてきたのは?」
「年齢的にも時期的にも、そろそろ幼馴染みという枠から外れてもいい頃合いかなと思ったから。でもいきなり口説くのも照れるし、長年の関係が壊れるのも嫌だし、その時は遠回しにアプローチして、徐々に囲い込んでいけばいいかと思ってた」
そこで響一は大きなため息をついた。
「だけどなー、おまえ、思ったより鈍感なんだもん。こりゃ駄目だと思って、プロポーズすることにした。でもやっぱり今までの関係もあって、照れが先に立ってだな……。どうしても冗談っぽくなっちまった。それは反省してる」
そう、なんだ……。未智は小さくつぶやいてうつむいた。
「俺のこと、嫌いになった?」
響一が不安げに訊いてくる。未智は弾かれたように顔を上げた。
「そんなわけないじゃん!」
すると響一は目に見えて安心したような表情になった。その顔もさっきまでの響一の告白が真実であると裏付けているようで、恥ずかしくなる。未智はそれをごまかすように視線を泳がせた。
「幼馴染み枠でも、俺のこと好きだって言ってくれたよな?」
「う、うん……」
「キスも嫌じゃないって言ってたよな?」
「……うん」
「おまえ、男と付き合ったことある?」
「うん……、て、え!? な、何よいきなり!」
「え、付き合ったことあるの!?」
自分から聞いてきたくせに、微妙に焦った口調で訊いてくる。未智は大きな声で、ないよ! と答えた。
「隣同士なんだから、そんなこと大体わかるでしょうが……」
口を尖らせて文句を言うと、響一はほっとしたように微笑んだ。
「いや、ないだろうなとは思ってたけど、俺が出かけがちだった時のことはわからないからさ」
それはつまり、他の女性と付き合っていた時のことですね……? とは思ったが、口には出さないでおいた。だが表情で勘付いたのか、響一が焦って言い訳してくる。
「おまえが考えてるようなことじゃないぞ! 残業とか、出張とか、しばらく忙しかったから!」
付き合いが長いせいか、考えていることはすぐにばれてしまうらしい。こういうところが煩わしくも気楽で心地よいところなんだけど、と思いながら、未智はこっくりと頷いた。
「とにかく、きっと免疫がないから怖いというか、不安になるんだと思うんだよ。俺もちょっと焦ってたかもしれないし、今後は初心者向けにゆっくり攻めていくことにするから」
「攻め……? う、うん……?」
「未智」
呼ばれて、顔を上げる。不意打ちで、ちょん、と唇を重ねられた。未智はバッと手で口を覆い、よろりと一歩後退った。
おっと、と言いながら響一が片手で未知の背中をそっと支える。目を見開いている未智の額にもう一度唇を置くと、彼は今まで見たことがないくらいに清々しい笑顔で宣言した。
「とりあえず、大丈夫だったキスからな。何回もしてたらそのうち慣れる。慣れてから次のステップに進むから、安心しろ」
さっきまでのしおらしい態度は!? と詰問したいくらいの変わり身の早さだった。未智は響一の胸を両手でぐいぐい押しやりながら、響くん何にもわかってない! と叫んだ。
すったもんだの末、とにもかくにもご飯にしよう、と意見が一致した。二人とも空腹に耐えられなくなったのだ。
手を洗いながら未智は、
「お父さんたちはお隣で食べてるんでしょう? どうして響くんだけこっちで待ってたの? 一緒に食べればよかったのに」
と響一に訊いた。彼はダイニングテーブルの上でショッピングバッグの中身を出しながら、何を当たり前のことを訊いているんだという表情で未智を見た。
「おまえの飯の方が旨いからに決まってるだろ。で、今日は何?」
その答えに一瞬固まってから、未智はゆっくりと首を横に振った。
この男はこういうところがずるい。何でもないことのようにさらりと褒めてくるのだから。で、ついついこちらも言い争いを続ける気をそがれてしまうのだ。
「今からご飯を炊こうと思ってるんだけど、待てる? 待てないんだったらパスタにする」
「いや、待つよ。腹にたまるものを食いたい」
ということで、まずは米を研いで、ざるにあげて三十分タイマーをかけておく。
その間に豚汁の用意だ。時間がないので大根とにんじんは薄めの短冊切りに、えのきは石づきを切り落として長さを半分に切り、下半分を荒くほぐしてから鍋に入れる。冷蔵庫で作った水出汁を適量加え、火にかける。
青ねぎは小口切りに、薄あげはペーパータオルでぎゅっと挟んで油分を取り、細切りにしておく。
続いて水菜のサラダだ。洗った水菜は三センチくらいの長さにザクザク切ってボウルに入れ、ペーパータオルで水けを取る。水分が多いとドレッシングをかけても水っぽくなってしまうので要注意だ。それから……。
「響くん、ベビーチーズちぎっといて」
そこにいるんだから働いてもらおう。水菜のボウルをダイニングテーブルに置き、あとはお任せする。
そうこうしている間にタイマーが鳴った。ざるにあげていた米を炊飯釜に入れ、目盛通りに水加減する。あとは炊飯器のメニューを急速炊飯にして、スイッチオン。
さて、次は今日のメイン。明太子のご飯巻きだ。
形状から言うと海苔巻きという名前の方がしっくりくるのだが、それだと寿司と混同してしまうため、丸山家ではずっとご飯巻きと呼んでいる。すし飯を作る必要がなく、おにぎりのように一つ一つ握る手間もないので、好んで作る一品だ。
まずは庭に出て、大葉を五枚ほど収穫する。茎をまとめて持ち、水をためたボウルに葉をつけてやさしく振り洗いしたあと、パッパッと水けを振って落とし、茎を切り落とす。
次はきゅうり。薄切りにして塩を振り、しばらく置いておく。明太子は一腹を二つに分けて一本ずつにしておく。アボカドは種を取って皮を剥き、1センチ幅くらいの棒状に切ってレモン汁少々を振りかけておく。きゅうりがしんなりしたら、ぎゅっと水けを絞る。あとはご飯が炊けるのを待つばかりだ。
鍋がコトコトしだした。豚肉の薄切りを食べやすい長さに切ってふたを開け、弱めの中火にしてから酒を少々加え、一枚ずつ、そっと振って広げながら鍋の中に投入する。再び沸騰したら灰汁を取り、切っておいた薄あげを加えて、残るは味付けだけとなる。
「響くん、豚汁と粕汁、どっちがいい?」
冷蔵庫を開けながら訊くと、「んー、豚汁」という返事が返ってきたので、味噌を出す。鍋に溶き入れて味見をし、完成。
響一はと見ると、ベビーチーズをちまちまと手で割っては水菜の上にポイポイと入れている。やけにたくさんちぎってるな……とは思ったが、やはり空腹なのだろう。たくさん食べるが良いよ、と寛大な気持ちになって炊飯器を見た。
もうすぐ炊き上がりそうだ。食品庫から板海苔を出し、準備完了。
「サラダはどれに入れるんだ?」
ようやく気が済んだらしい響一にそう訊かれて、未智は楕円形のサラダ鉢を指定した。響一がそれに水菜とベビーチーズをふんわりと和えながら盛り付ける。こちらもあとはドレッシング待ちで完成だ。
ご飯が炊けたらしゃもじでさっくりと混ぜる。巻きすの上に、裏側を上にした海苔を置き、奥を2、3センチほど残してご飯を適量敷き詰める。上からパラパラと塩を少々、いりごまは好みの量振っておく。
真ん中より手前寄りに、大葉を少し重ねながら太めの横一列に並べる。その上に明太子、手前にアボカド、明太子の奥に塩もみキュウリを一列ずつ並べる。巻きすの手前側をもって、指先で軽く具を抑えながらホイっと向こう側に巻く。あまりご飯が硬くなりすぎない程度にぐっぐっと巻きすを引っ張るようにしてしっかりと巻き付け、残りも向こう側に巻いて、巻き終わりを下にして置いておく。海苔が付くまで、しばらく放置。
豚汁をもう一度火にかけて、表面がほほえんできたら火を止める。椀にたっぷり盛り、切っておいたネギと七味唐辛子を添えて出来上がり。
響一がサラダに胡麻ドレッシングをかけていることを確認してから、ご飯巻きを食べやすい幅に切り分けて、皿に盛る。
「さ、お待たせ、できたよー」
「おー、久しぶりだな、ご飯巻き」
大好物を目にした響一の瞳が、きらんと輝く。そのことにプライドをくすぐられてしまった未智は、私ってちょろい……と内心で苦笑した。二人はダイニングテーブルにつき、いただきますをして食べ始めた。
「あー、旨い。やっぱこれは止まんねえわ」
一口だけ豚汁を口にした後、響一は早々にご飯巻きを口にしてそうつぶやいた。
「響くん、ご飯の前にサラダも食べておかないと。こんなに大量のチーズ、私だけじゃ無理だからね」
と言いつつ、未智も申し訳程度にサラダに口をつけただけで、ご飯巻きに手を伸ばしている。どっちもどっちなのである。
サラダはやはりチーズだらけだったが、響一がモリモリと食べたので問題はなかった。短時間で作った割には豚汁もうまくできていたし、未智は満足のため息をついた。
「あー、旨かった。待った甲斐があったなー。やっぱ寿司より断然こっちだろ」
響一が箸をおいてしみじみと言うのを聞いて、未智はふと考えた。もしかしてこれは、胃袋を捕まえたとかいうやつなのでは? と。
そう考えると納得する。長い間ただの幼馴染みだったのだから、いきなり恋だ愛だと言われるよりその方がよほど自然だ。彼の母親は職業柄、料理を毎日きちんと作るというわけでもなかったし……。
胃袋、いや食生活は確かに大事だ。掃除や洗濯、食器洗いなどが苦にならない響一にとっては、結婚生活の根幹をなすといっても過言ではない……のかもしれない。三十を目前にしてふと結婚ということを考えた時、自分好みの食事を毎日のように作ってくれる人間が目の前にいたら……?
ついよろめいてしまうのもわからないではない。
長年の付き合いで互いの性格も知りつくしているし、気を使わなくていいし、ご飯は美味しいし、家事の腕前だって及第点。両家の親同士も仲が良いとなれば結婚後のトラブルもほぼ無いだろうしと、確かに条件面で考えれば、これ以上ない物件なのである。なるほど……。
「確かにさ……」
キッチンで食器を洗いながら、未智はぽつりとつぶやいた。
「お互い、一緒にいても気疲れしないし、阿吽の呼吸で家事も協力しあえるし、理想の夫婦になるかもなあ、とは思うんだ。いわゆる友達夫婦っていうの?」
「んー? ……うん」
響一の返事は微妙だったが、未智は構わず続けた。
「でもさ、もし、もしもだよ、結婚してから他に好きな人ができたら? 離婚して、ややこしい関係になったりするのはやだよ……。響くんの家族とも会えなくなっちゃう」
「そんなことにはならない」
やけにきっぱりと答えられて、未智は唇を尖らせた。
「なんでそんな風に断言できるわけ? 大体響くんはさぁ……」
その時急に横から腰を引き寄せられて、未智は驚いたように言葉を途切れさせた。響一の顔がやけに近い、と思った瞬間にはもう、噛みつくようなキスをされていた。唖然とした未智は、キスされているということに思い至るまでに数秒の時間を要した。
「離婚とか言うな。本気で傷つく」
ほんの少し唇を離してひび割れた声でつぶやくと、彼はもう一度未知の唇に吸いついた。
……食べられてるみたいだ。
ショートした頭で、未智はぼんやりとそんなことを思った。響一は唇を少し開け、何度も角度を変えながら未知の唇を食み続けている。唇の表面を舌でなぞられ、吸われ、隙間からもぐりこんで歯の表面を舐められる。強引ではあるが乱暴ではないそのキスに、意外なほど不快感はなかった。未智は泡だらけにした両手をシンクの上に浮かせた状態で、響一に促されるまま唇をほんの少しだけ開いた。
響一が満足そうなため息をついて口内に舌を侵入させる。初めての生々しい接触に、未智はびくりと体を強張らせた。だが、響一の大きな手に背中をなだめるように撫でられると、いつしかその衝撃は緩んでいった。
好きだ、未智、好きだ、と合間に囁きながら、初心者向けとは決して言えないキスが続けられる。未智は考えることを放棄して響一に身を委ねていった。
どれくらいの間、ぼうっとしていたのか。ふと我に返った時には、未智は響一に横から抱きしめらていた。泡だらけの両手は宙に浮いたまま。
「……ごめん。気持ち悪かった?」
未知の頭の上で、響一がつぶやくように訊いてくる。未智はほんの少し考えてから、かぶりを振った。
「意外と……」
大丈夫、と答えたかったが、声がかすれきっていて恥ずかしかったので断念する。むうっと黙りこくった未智の様子にくつくつと笑い、響一は未知の頭に頬ずりした。
「何を言っても聞く耳を持たないのはお前の方だと俺は思うね。照れ臭さを封印して、あんなに熱くアプローチしたのに……」
からかうように言って、もう一度唇をついばむ。未智が嫌がらないことに満足したのか、今度のキスはごく短い時間で終わった。
「だからまずは恋人になろう。今までの倦怠期の夫婦みたいな関係じゃなく、普通にデートして、キスして、誕生日やクリスマスは一緒に過ごす、当たり前のカップルになろう。もう結婚しようとかしつこく言わないから。未智が俺のことを一人の異性として好きになってくれるまで待つから」
そんな風に言われると、断るのも意固地になっているみたいで気が引けるじゃないか。
未智は黙り込んだまま、だが、響一にゆっくりと髪を撫でられることには心地よさを感じて、彼から離れようとはしなかった。
『好きな人とじゃないと、粘膜の接触なんてできなくない?』
不意に、昨日同僚に言われた言葉が甦る。
粘膜の接触……した、なあ……。嫌じゃなかった……なあ……。
あれ? それって結局?
「来週こそは空けとけよ。デートするから。お望みの健全なやつな。どこに行きたいか考えといて。俺は未智が一緒だったらどこでもいいから。おい、未智、聞いてるのか? 未智?」
あー、うん。聞いてるよ。聞いてるけど……。なんか体がふわふわするんだよ。
「えっ、おい、未智! しっかりしろ、おい!」
ふにゃんと脚から力が抜けた未智をしっかりと支えながら、響一が焦ったように声を上げている。
大丈夫だよ、大丈夫。あ、手には触らない方が……泡が……。
未知の意識は、そこでふっつりと途切れた。