その3 ローズゼラニウム
2018/09/04公開作品
ふんわりと、甘い香りが空気を満たし始めた。そろそろかなと思いながら、丸山未智は最後の仕上げに窓ガラスをきゅっと拭き上げた。
あー、間に合った。
深い達成感と共に、かすかににじんだ額の汗を手の甲で拭う。
久しぶりに来た佐久家は、未智の想像以上に薄汚れていた。一通りの家事はできるはず、と思って放置していたのだが、仕事が忙しかったのかやる気がなかったのか、響一は自分が使う部分しか掃除をしていなかったのだ。彼の両親と兄が長期の演奏旅行から帰ってくると聞いてチェックに来た未智は唖然とし、ため息をつき、その日から仕事帰りにコツコツと掃除に励んできたのだった。
雑巾を洗って干し、手をハンドソープで洗い始めたところでオーブンが出来上がりを告げる音をあげた。急いで手を拭いてキッチンに向かう。オーブンを開けて竹串を刺し、出来上がりを確認すると、未智はきれいに焼きあがったそれをケーキクーラーの上に移した。
ふうと一息ついて時計を見る。そろそろ到着の時刻だった。
佐久家の面々は、響一を除いて全員がプロの演奏者だ。なかなかに厳しい雇用状況のところが多く、未智が知っているだけでも三か国は渡り歩いている。両親は基本的に専属契約を結ぶが、兄の奏一は留学時からあちこちに行っているので、一体何か国行ったことやら……。あまり根掘り葉掘り聞くのも気が引けたし、会話の端々を漏れ聞いて勝手に判断しているだけなので、真偽のほどは定かではないが。
未智はエプロンを外して勝手口から庭に出た。
隣家との境にある生け垣は、勝手口の少し先で人が一人通れるくらいの隙間が空いている。未智の母と響一の母が仲良くなってしばらくしてから、行き来がしやすいようにと数本の木を間引いたらしい。そこを抜けると、うまい具合に丸山家の勝手口にたどり着く。最初からこうなることが分かっていたかのように、互いの家の勝手口はほぼ同じ場所で向かい合っていた。
自宅に入り、キッチンの定位置にエプロンをかける。着替えようかとも思ったが、まあいいかと思い直す。帰ってくるのは家族同然の人たちだ。今更取り繕う必要もないだろう。未智はジーンズにTシャツという格好のまま戸締りをして佐久家に戻った。
今日はいい天気だ。爽やかな風が、庭に干してある人数分のシーツをはためかせながら室内にそよそよと吹き込んでくる。朝から二階のベランダに干してある布団も、ふかふかになった頃合いだろう。待ってる間に布団を取り込もうかな、と思っているところに、駐車場に車が停まる音がした。
バタン、ガラガラと車のドアが開閉する音。ただいまー、と響一が駐車スペースから声をあげている。未智は小走りに玄関に向かった。
「おかえりなさい!」
勢いよく玄関ドアを開けると、車から荷物を下ろしている人たちがぱっとこちらを見た。
「まああああ、みっちゃん!」
紅一点である響一の母、葵が喜色満面で声をあげた。
「葵さん、おかえりなさい!」
久しぶりー、会いたかったー、と抱き合って喜び合う。男性陣はやれやれとでも言いたげな表情で作業を再開した。
落ち着いたところで葵にそっと両頬を持たれ、顔を上げさせられる。未智の顔をしげしげと見つめると、彼女はその美しい顔に微笑みを浮かべた。
「女の子はちょっと見ない間にどんどん綺麗になるわねぇ。智子によく似てきて……」
母の名前を出されて未知はくすぐったそうに笑い、葵こそ歳をとっても美しいままだなあと感心した。
「久しぶり、未智ちゃん」
響一の兄、奏一が柔らかい笑みと共に言う。未智より八つ年上なのでもう三十四歳のはずだが、どうやら王子様スマイルは健在のようだ。さすが本家本元、その威力は響一の比ではない。
未知はぽっと頬を染め、彼の整った顔に微笑みかけた。
「おかえりなさい、奏兄さん」
「はい! はい、はい、はい、そこまで! 婚約者の目の前で浮気すんなよ、未智」
未知と奏一の間に割り込んできた響一が、不機嫌な声で言う。未智は、はあ? と気色ばんだ。
「響くんこそでたらめ言うんじゃないわよ、だれも婚約なんてしてません!」
「おまえ、まだそんな往生際の悪いこと言ってんの? その話はもう……」
「おーい、話はあとにして、とりあえず家に入ろうじゃないか。庭先で話すようなことでもないだろう」
未智と響一のやり取りにおっとりとした口調で割って入ったのは、響一の父、一行だ。未智は慌てて玄関ドアを大きく開けると、荷物をいっぱい持った人たちを中に通した。
「おじさんも、おかえりなさい」
最後に通った一行に、声をかける。一行はにっこりと優しく微笑んで、ただいま、と答えた。
大荷物をリビングの片隅に置いて、彼らは思い思いにくつろいだ。
「ああ、気持ちいい。みっちゃん、掃除してくれたの? 空気がきれい。シーツや布団カバーも洗ってくれたのね。ごめんね、お仕事してて忙しいのに。でも、まず掃除をしなくっちゃ、とならないのは本当に嬉しいわ。ありがとう」
葵が大きく深呼吸してから未智を振り返って言う。未智は照れ笑いを返して、お布団を取り入れてくる、と階段に向かった。
「ああ、いいよ未智、俺が入れとくから」
手洗いうがいをした響一が、未智を制して階段を上がっていく。葵が感心したように未智を見た。
「んまあ、みっちゃん。あの響一を、この短期間によくここまで躾けることができたわねえ。すごいわ。でも、そうよ、結婚生活には重要なことですからね、手綱を緩めちゃだめよ。その調子でね」
未知はぎょっとしたように葵を振り返った。
「あ、葵さん、まさか響くんが言ったこと本気にしてる!? しないからね、結婚なんて!」
「え、そうなの?」
葵がきょとんとしたように小首をかしげる。視線を感じてふと見ると、ソファに座った一行と奏一も同じ表情になっていた。
「いやいやいや、ないでしょ。私たち、単なる幼馴染だよ? いきなり結婚とか、響くんの頭がどうかしたとしか思えないじゃない」
すると三人は黙ったまま顔を見合わせ、えー? とまた未智に視線を戻した。
「いや……未智ちゃんと響一が結婚するのは決定事項だと思ってたけど」
奇妙な沈黙の後、一行が三人を代表する形で言う。葵と奏一もうんうんと頷いた。未智はがっくりと脱力した。
「そんなバカな……。だって私たち、付き合ってたわけでもないのに、なんでいきなりそんなことに? おかしいと思わない?」
いやー、思わないなー、と一行がまたおっとりと言う。そこに響一が戻ってきた。変な空気になっている四人を見渡して、
「え、何? どうした?」
と最終的に未智の顔を見て問いかける。説明しようとしたが面倒になって、未智は何でもないと手を振った。
「それより皆さん、響くんを見習って手洗いうがいをしてきてくださーい。ケーキとコーヒーがありますよ」
すると葵がいち早く、みっちゃんのケーキ! と叫んでから足早に洗面所に向かった。残りの男性陣もその姿に笑みをこぼしてから、伸びをしたり肩を回したりしながら後に続く。未智はコーヒーメーカーをセットしてスイッチを入れた。
粗熱が取れていることを確認してから、ケーキを八等分に切り分ける。一切れは未知の父に残しておき、もう一切れは仏壇の母に。余った一切れはラップをして置いておく。どうせ小腹がすいた響一が、いつの間にか腹に収めているのだ。
「うわあ、ローズゼラニウムのケーキね? 懐かしい、智子がよく作ってくれたわねえ……」
テーブルの上に置かれたケーキを見て、葵が懐かし気に弾んだ声をあげる。未智は微笑んだ。
「うん、葵さん、これが一番のお気に入りでしょ? お母さんのレシピノートにそう書いてあったから……。一度枯らしちゃったんだけど、この間お店で株を見つけたから、また植えておいたんだ」
「そうそう、そんなこともあったわね……。何年前だったか、ローズゼラニウムがあまりにも繁殖するもんだから、みっちゃん、キーッとなっちゃったのよね」
葵が笑いながら言う。未智は唇を尖らせた。
「だって、切り戻しても切り戻してもどんどん成長するんだもん。多少大胆に剪定しても大丈夫って思うじゃない。まさかあんなにあっさりと枯れるとは……。次はほどほどに剪定する」
「そうね。たまに帰った時にはこのケーキを食べたいから、そうしてくれると嬉しいわ」
葵が優しい声でそう言い、カップを持ち上げて香りをかいだ。
「うーん、コーヒーもいい香り……。いただきます」
その声を合図に、あちこちからいただきますの声がかかる。未智はどうぞ、と応えて自らもコーヒーを口にした。
しばらく、静かな時間が流れた。フォークと皿が触れ合う小さな音と、美味しいという声。未智自身、ローズゼラニウムのケーキを食べるのは久しぶりだった。アールグレイを混ぜ込んだケーキより薫り高く、なのにあっさりとした味で食べやすいと思う。
「未智ちゃん、腕を上げたんじゃない? すごく美味しかった。帰ってきたなーって感じがするよ」
奏一に褒めてもらえると嬉しい。未智はえへへと笑った。
「晩ごはんも腕を振るうから楽しみにしててね。今夜はお父さんも早めに帰ってくるって言ってたし。えーと、時差ボケとかって大丈夫なんだよね?」
「うん。オーストラリアは一時間だしね。ほぼ一緒」
「それでも疲れたよね。ゆっくり荷物の整理でもしててよ。お洗濯とか、私がしておくから」
「いいわよみっちゃん、そんなの私たちでやるから。みっちゃんは十分に働いてくれたわ。あとはもうのんびりしてちょうだい。晩ごはんも何か取りましょうよ。お寿司なんてどう?」
「それはダメ。もう食材も用意してあるから。せっかく一日休みを取ったんだから、働かせてください!」
今日は平日だが、佐久家のみんなが帰国する日だからと有給休暇を取っておいたのだ。未智が笑いながらそう言うと、葵は仕方がないわねというように微笑んだ。
「いつもありがとう、みっちゃん。じゃあお言葉に甘えて、片付けさせてもらおうかしら」
「うん、そうして。楽器の手入れとかもするんでしょ? 洗濯物だけ玄関に置いといて。後で取りに来るから。響くんはシーツと布団カバーを取り入れて、きちんとセットしておいてね」
言いながら、食器を持って立ち上がる。それを機にその場にいた全員が自分が使った食器を持ち、未智に続いてキッチンに運んだ。最後にやってきた響一が、未智からスポンジを取り上げた。
「洗い物ぐらい俺がやっとくよ。おまえ、自分ちでまだやることあるんだろ」
そうなのだ。先日からこちらの家にかかりきりで、自分の家の方が手抜きになっている。今日はきちんと掃除しなくては。
じゃあお言葉に甘えて、と未智は自宅に戻り、細々とした用事を片付けた。頃合いを見計らって隣家に行き、洗濯物をもってまた戻ってくる。未智はくるくるとこまねずみのように働いた。
すべてが終わって一息ついたとき、まるでタイミングを計ったかのように響一がやってきた。
「お疲れー。皆さん落ち着いた?」
キッチンで紅茶をいれようとしていた未智は、響一の顔を見てカップをもう一つ取り出し、ケトルに水を足した。
「ああ。おまえもお疲れ。ありがとうな、いろいろと」
いえいえ、とおどけて返し、報酬はランチでいいよ、と近所でお気に入りのカフェの名を挙げる。キッチンに入ってきた響一が、未智の頭にぽんと手をのせた。
「了解。今度の休みにでも行こうぜ。それとこれ、お土産。そろそろみっちゃんも一息つく頃じゃないかってさ」
響一が持ってきたのは、コアラの形をしたチョコレートだった。マカダミアナッツ入り。定番だ。
「なんか、他にも有名店の紅茶とか小物とか、いろいろ買ってるみたいだぜ。俺もTシャツとかいっぱいもらった……」
遠い目をして響一が言う。その顔を見て思わず笑ってしまった。
「仕方ないよ。普段なかなか会えないんだもん、帰ってくる時ぐらい息子の喜ぶ顔が見たいんだよ。ちゃんとお礼言った? 文句ばっかり言ったんじゃないでしょうね」
からかうように言われて、響一は鼻を鳴らした。
「言ったよ。子供じゃないんだから」
どうだかねー、と返したときにケトルがピーと鳴り始めた。茶葉を入れたポットに熱湯を注ぎ入れ、ティーコジーをかぶせる。タイマーをセットして、カップにお湯を入れて温めた。
「紅茶は嬉しいな。飲むのは私ぐらいだけどさ」
「俺も飲むじゃん」
「まあね。でも付き合ってくれてるだけで、本当はコーヒー派でしょ?」
「うん? うーん、最近はそうでもない。未智の淹れてくれる紅茶、旨いし。でも外では飲まないな」
言いながら、ティーポットとカップを載せたトレーをダイニングテーブルに運んでくれる。未智は客観的に、確かにこの人と結婚したらナチュラルに家事を分担してくれそうだなと思った。する気はないが。
向かい合って腰を下ろし、コアラのチョコを食べながら雑談する。こんな風にゆっくりとおしゃべりするのも久しぶりな気がした。
タイマーが鳴って紅茶を注ぎ、香りと味を楽しむ。わざわざ専門店まで買いに行っている、お気に入りの銘柄だ。響一がゆっくりと味わいながら、やっば旨い、とつぶやいた。
「明日は仕事?」
響一に訊かれて、未智は鼻にしわを寄せた。
「そう。金曜日だし、連休にしちゃおうかとも思ったけど……。週明けが怖いからやめといた」
俺も、と響一が笑う。
「じゃあ土曜日だな。休みだろ?」
「うん。何?」
「いやだから、結婚式の話。そろそろ具体的に決めないと」
ティーカップを口に運びかけていた手を止めて、未智はぱかっと口を開けた。響一が片方の眉を器用に上げたのを見て口を閉じ、カップをゆっくりと皿に戻す。未智は呆れたようにため息をついた。
「響くん……。まだそんなこと言ってるの? その話はもう終わったものと……」
「そりゃ俺たちの間では終わったけどさ。家同士の話なんだから、親も交えないと。あ、それはそうと、未智の親父さん、今夜は早めに帰れるんだろ? うちの親たちも帰ってきたし、全員がそろったところで正式に挨拶しようぜ」
絶句。
まさしくその一言だった。この男、本当に人の話を聞かないな!
「結婚なんてしない。一体どう言ったらそのおバカなおつむが理解してくれるの」
氷点下の声でビシッと宣言する。だが響一は表情も変えなかった。
「未知の親父さんも賛成してくれたけど」
「例えそうでも……って、えっ? え、いつの間にお父さんに?」
剣呑に問い詰める未智とは反対に、響一は普段と変わりない様子でチョコをもう一つ口に放り込み、もぐもぐしながら答えた。
「んー、先週だったかな。おじさんが休みの日におまえんちに行ったら、おまえ友達と出かけててさ。二人一緒が良かったけど、ま、しょーがないから俺一人でな。おじさんも話の内容は察してたみたいで、和室に通されてさ。きちんと正座して、頭も下げて。セオリー通りやっといたから」
「セ、セ、セオリー通りって……」
氷点下から一転、うろたえまくった声でおろおろと言う未智を面白そうに眺めてから、響一はニヤリと笑った。
「セオリー通りっつったら決まってるだろ。お嬢さんを僕にくださいってやつだよ」
ギャー! と声にならない叫びをあげて、未智は両手で頭を抱えた。その目は驚愕に見開かれている。おー、俺、そんな顔になる人テレビ以外で初めて見たわ、と響一がのんきな声でのたまった。
「信じらんない! 何やってくれちゃってんの!? お父さんが本気にしたらどうすんのよ!」
「は? 本気にしてくれなきゃ困んだろ。ていうか、もう本気にしてくれてるし。おじさんも両手をついて頭を下げて、未智のことをどうかよろしく、って言ってくれたし」
「はああああ!? バカなの? あなたバカなの!? そんな騙し討ちみたいな真似、よくもしてくれたわね!」
「騙し討ちって、おまえ……人聞きの悪い……」
「人聞きが悪かろうがなんだろうが……ってこの際そんなことどうでもいいのよ! どうすんのよー! 今からでもいいから冗談でしたって訂正して!」
「いや、落ち着け」
「これが落ち着いてられますか! 私の人生なんだと思ってんのよ!」
「落ち着けって!」
不意に大きな声を出されて、未智はぽかんと響一を見た。彼は眉間にしわを寄せ、強いまなざしを未智に向けていた。
「俺は未智と結婚する。結婚したい。よって訂正はしない。謝りもしない」
ぽかんとしたまま響一の宣言を聞いていた未智は、やがてがっくりと肩を落としてテーブルに突っ伏した。
「何なのよもうー。なんで急にこんなこと……。おかしいよ、響くん……」
ガタンと音がして、響一が立ち上がる気配がした。未智の隣の椅子が引かれ、そこに腰を下ろす。そっと、宥めるように背中に手を置かれたが、未智は顔を上げる気にはならなかった。
「おまえ、ほんっと鈍いのな」
呆れたように響一が言う。未智はくぐもった声で、何がよ、と答えた。
「俺、去年から何度かアプローチかけてたんだけど、どれもこれも完全にスルーでさ。こりゃダメだと思ったわけ。やんわり迫るより強行突破するしかないって」
「だからそれがおかしいんだってば……。スルーされたら普通諦めるでしょ」
「諦めねーよ」
「百歩譲ってそうだとしても、まずは告白からのお付き合いでしょうが!」
顔を上げ、どん! とテーブルを拳で叩いて睨みつける。だが響一は動じなかった。
「俺たち何年の付き合いだと思ってんだよ。今更お付き合いも何もないだろうが」
「こ、告白されてない!」
「そんなの必要か? 俺たち、子供の頃から好き合ってるじゃん」
「嘘ばっかり! 響くん、いっぱい彼女いたもん!」
今回こそはごまかされるもんか! という並々ならぬ決意を瞳に宿し、キッとにらみつけてやる。すると響一は、あー、とバツが悪そうにつぶやき、
「それは……悪かった。俺にも反抗期とか、男の事情とか、まあ、いろいろ……。ごめん。その点については謝る」
と潔く頭を下げた。
そうなると未智ももういつまでも怒ってはいられず、振り上げた拳を下ろす形になる。しばらく、二人の間を気まずい沈黙が漂った。
「好きだよ」
不意に、響一が柔らかい声を出した。
「俺、未智が好きだ。ずっと昔から。未智もそうだろ?」
未智は響一から目をそらして答えた。
「そりゃ好きだけど……。でも、だからといって結婚できるかと言うと……」
「なんでだよ。一体何がネックなんだ?」
ええー、とつぶやいて、未智はちらりと響一を見た。そこに思いがけず真剣な表情を見つけてびっくりする。どうせまたへらへらしてるに決まってると思っていたからだ。
慌てて目をそらして、未智は続けた。
「だって、結婚って、さ。幼馴染みだとか、友達だとか、そういうのとは違うんだよ? 響くんは……その……私と、その……キ、キスとかセッ……そ、それ以上のこととか、できるの? 私たち家族みたいなものなのに」
「できるよ」
未知の声にかぶせるようにして、響一がきっぱりと答えた。びっくりして上げた未知の顔を真剣に見つめて、ゆっくりと、言い聞かせるように続ける。
「できる。ていうか、したい。俺はおまえが好きだし、それは家族愛なんかじゃない。いや、家族にはなるんだけど、そういうことじゃなくて。キスしたいし、セックスしたいし、子供も作りたい。一生傍にいて守りたい。おまえが作る旨い飯を毎日食いたい。死ぬときはおまえに看取ってもらいたい。そういう『好き』だ」
色々と妙にリアルだけど……それはなんか先走りすぎなのでは。
「俺は本気だから。ごちゃごちゃ言ってないで俺の嫁になれ。後悔させないよう努力するから」
そう言われても……。
うーんと考え込んでから、未智はじっと響一の眼を見つめた。
「……私は、できるかどうかわかんない」
すると響一は、ぐっと歯を食いしばるような顔をしてから口を開いた。
「念のために聞くけど、何を」
「だから……キスとか、それ以上」
あー、と言いながら響一が目を泳がせる。未智は彼の表情の変化を黙って見守った。
しばらくすると不意に響一が未智の眼をまっすぐに見ながら、
「じゃあ、試してみよう」
と硬い声で宣言してきた。未智がきょとんとして、何を、と訊くと、
「キスとかそれ以上」
などと真顔で返してくる。未智は呆気にとられた。
「もういい加減言い飽きてきたけど、バカなの? さっきからずっと、それができる気がしないって言ってるんだけど」
「いいや。できるかどうかわからないとしか言ってない。だから試してみればわかるだろ」
「試すったって、それ自体がさあ……」
「つべこべうるさい」
乱暴にそう言うなり、響一は未智をぐっと抱き寄せた。片手で腰を掴み、もう一方の手で顎を上げる。このままではなし崩しにキスされてしまう! と焦った未智は、「ちょっと待った!」と声を張って響一の顎に手を当て、ぐぐっと押しやった。
「往生際が悪い」
もちろん、力勝負では未智に勝ち目はない。目を光らせてつぶやいた響一に押し戻されて、ついに未智は降参の声を上げた。
「わかった! 試す! 試すから! とりあえず無理矢理は嫌だ! 離して!」
必死で言い募ると、ようやく響一が渋々の態で手を離した。未智は飛退るように二、三歩離れ、警戒した眼差しで響一を見た。
「そんな、犯されかけたみたいな反応するなよ。傷つくなあ」
「似たようなもんじゃない。同意もないのに無理矢理しようとするから」
右手で首の後ろをこすりながら、響一が、ちぇー、と拗ねたようにつぶやいている。未智は一つ大きなため息をついてから、響くん、と厳しい声を出した。
「まずは両手を後ろで組んで、目をつぶって」
響一が大人しく未智の言う通りにする。未智はゆっくりと立ち上がって響一を見下ろした。響一は目を閉じたまま、椅子の上でじっと待っている。
「えーと、じゃあ……こっち向いて。響くんの左側。で、ちょっと顔上げて」
その命令にも素直に従う。あまりにも素直すぎて、調子が狂ってしまった。未智はしばらく、呆けたように響一の顔を見つめた。
用心しながらほんの少し、響一に不審な動きがないのを見てもう少し、顔を近付ける。こんなに間近で顔を見るのは久しぶりな気がした。
……相変わらずきれいな顔立ちだ。きれいすぎて腹が立つ。え、何この長い睫毛。女の私より明らかに長くて濃いでしょ。なぜだ。理不尽すぎる……。
心の中でぶつぶつつぶやいていると、目を閉じたままの響一が、急ににやっと笑った。
「何これ。放置プレイ? 燃えるんだけど」
未智はすかさず響一の頭をかるくはたき、「変態発言は慎むこと!」と一刀両断した。
はいはい、と返事した響一は、それでもまだ素直に目を閉じたままの状態だ。未智はふーっと大きく息をついた。
緊張してきた。なんだろう、この流れ。今更だけどなんでキスすることになってるんだ? しないという選択肢もあったはず……なんだけど、結局自分で自分の首を絞めてしまったような。
唇の形もきれいだな……。あんまり肉厚ではなさそう……。うん、まあ、これなら、あまり生々しくはない……のか? ちゅっとやって終わったらいいんじゃない? 外人が挨拶するみたいな。母親が赤ちゃんにするみたいな。軽い、軽ーい感じの……。
と自分に言い聞かせながら、未智はおずおずと顔を近付けていった。まじまじと響一の唇を見つめてから、えいっと勢いをつけてぱっとくっつけ、すぐに離す。ふー、いい仕事した……。
だが、響一はまだ目を開けない。それどころか、なんだか不満そうに眉根を寄せている。たまりかねた未知が、もう終わったよ、と言うと目を開けた響一が憤怒の表情を浮かべた。
「ふざけんな。そんなんで何がわかるんだよ。最低五秒だ。五秒はくっつけないとキスとは認めん!」
「えー、何を根拠にそんなこと……」
と反論しかけると、どすをきかせた声で
「俺の方からやってもいいんだぞ。じっくりと。しっかりと。ねっとりと」
と畳みかけられて、思わず、はいわかりましたと返事をしてしまった。ねっとりと、って何なんだ!
響一が再び目を閉じる。未智は憂鬱そうにため息をつくと、一回できたんだからもう一回できる! 私はできる子! と己を鼓舞しながら顔を近づけた。
えいやっ! と唇をくっつけて、いーち、にー、さーん……。
……あれ。思ったより平気だな。と考えたところで離れた。
今度は響一も素直に目を開き、偉そうに腕を組んで未智をじっと見上げてくる。さっきまでの大人しい態度が嘘だったかのような、尊大な表情だ。
「で、どうだったんだよ」
「ああ、うん……」
言い淀むと、響一の眦が凶悪につり上がった。
「うんじゃねえ。どうだったって訊いてんだ」
冷え冷えとした空気が響一の方から漂ってくる。あー、とつぶやいて目を泳がせると、未智は観念したように響一に向き直った。
「思ったより……いけた、かな」
「いけた、とは?」
「うん……嫌悪感はなかったというか」
「嫌悪感て……。そんなレベルかよ」
響一ががっくりと脱力する。未智はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「ま、まあ、無理! っとはならなかったんだから、成果はあったのかと……」
はーっと大きなため息をついた響一が、いやいや、そうだ成果はあったんだ、とりあえずイヤじゃないらしいんだから、とか口元でぶつぶつつぶやいたかと思うと、ぱっと顔を上げて未智を睨むように見つめた。
「よし、じゃあ次はそれ以上だな」
「は?」
「キスはクリアしただろ。だから次は、『それ以上』」
「え? え……? えええええーっ!?」
「今すぐ……は無理だな。もう時間がない。明後日だな。そうだ、なんだかんだで指輪もまだ選んでないし、ついでに行ってこようぜ。となると朝からだな。開店が十時として、あちこち行くから車で、として……そうだな、九時半に迎えに行く。まずは婚約指輪と、一緒に結婚指輪も選んで、式場の下見もして、昼めし食って、それから決行だ。よし決まり」
「ちょ、待って待って、一人で決めないで! それ以上のことをするなんて一言も言ってないし! 無理むり無理、絶対無理だから! ていうか、お試しとか言っといて結婚指輪とか式場の下見とかおかしいじゃない! 落ち着いて! 話に整合性がないって気付いて!」
「あー、テンション上がってきた。忙しくなるぞー」
「人の話を聞けー!」
血管がブチ切れそうになりながら叫んだ未知の声は、お隣の佐久家にまで響いていたのだとか、いなかったのだとか……。