その2 ローズマリー
2011/11/22公開作品 まだガラケーです
残業をした帰り道、未智は急ぎ足で駅に向かっていた。いつものスーパーの閉店時間には間に合わないと踏んで、遅くまで営業しているスーパーに寄ったところだ。
普段あまり通らない繁華街は、金曜日ということもあって会社帰りのサラリーマンやОLたちであふれていた。その中に知った顔を見つけて、未智はふと歩みを止めた。
地味なスーツを着ているくせに、ひときわ異彩を放っている男。それが佐久響一だ。彼の顔に浮かんでいる貴公子然とした微笑をしばらく眺めてから、未智は回れ右をして横断歩道があるところまで戻った。
あの笑顔は彼の兄である奏一の専売特許だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。兄弟だけあって、そっくり同じ笑い方だ。横断歩道の前でちらりと振り返って、そう思った。
一緒にいるのは会社の同僚だろうか。自分には一度も向けたことのない優しいほほ笑みを浮かべている響一を、同年代ぐらいの男たちや華やかに着飾った女たちが囲んでいる。月末な上に週末だ。これから彼らは羽目を外して二次会、三次会と飲み歩くのだろう。そう結論付けて未智は信号機に向き直った。その拍子にがさっと音がして、スーパーの袋を提げていることを思い出す。未智は小さくため息をついた。
袋の中には三人分の食材が入っていた。響一がこのところ毎晩ご飯を食べに来るため、メールをもらわなくても買う癖がついてしまったのだ。スーパーの袋から視線を外して、未智はもう一度ため息をついた。
今日は要らないのか。なんだ。
……なーんだ。
仕方がないから響一の分の鮭は冷凍しておこう。そう思った瞬間、「みーち」という声とともに後ろから大きなものが覆いかぶさってきた。
「ぎゃ……!」
叫びかけた口は、まるでそうすることがわかっていたかのような手であっさりとふさがれる。羽交い締めにされて、未智は手足をじたばたさせた。
「何ばっくれてんの、おまえ。俺の顔見た途端にUターンってありえねえ。せっかく会えたんだから声かけろよな」
そんなことを言いつつも、響一はなんだか楽しそうだ。未智は斜め上にある顔をじろりとにらみつけて、手を外せと無言で命令した。手が離れるのを待って、
「だって響くん、よそゆきの顔してるんだもん。声かけたら悪いかなーと思って」
と、唇をとがらせて言ってやる。すると響一は、ほんの少し驚いたような顔になってから破顔した。嫌な予感に顔をひきつらせている未智の様子をものともせず、
「なんだよー。まったくもう、未智はいつまでたっても甘えん坊だな。そんなことで妬いちゃったのか」
などと見当違いな結論を出して、可愛いやつ~! と言いながらぐりぐりと頬を擦り付けてきた。
生えかけの髭がぞりぞりして痛い。誇張ではなく、本気で痛いのだ。妙齢の女性の柔肌に傷でもつけたらどうしてくれる。未智は、みぞおちに肘鉄でも食らわせてやろうかと真面目に考えた。
その時、いつの間に近寄ってきたのか、すぐ後ろで男性の声がした。
「おい佐久、そろそろ次の店に行くぞ」
渡りに船とはこのことだ。未智はほっとしたことを隠そうともせず、
「ほら響くん、呼んでるよ。行かなくちゃ」
と嬉しそうに勧めた。だが響一の返事はつれなかった。
「いや、俺はもう帰るから」
「ええーっ」
と叫ぼうとした瞬間にほかの女性に叫ばれて、未智は口を閉じた。
「佐久主任、帰っちゃうんですかぁ」
響一に羽交い締めにされているせいであまり体の向きは変えられなかったが、それでも先ほどの場所からぞろぞろとかなりの人数がこちらに来ていることは感じ取れた。
「ああ。今日は顔を出すだけだって言ってただろ」
ようやく体を起こした響一が、普段とは違う冷静な声で答えている。途端に、そんなー、だってぇー、と女性陣が口々に言うのが聞こえてきた。そうだそうだ行ってしまえ、と内心でけしかけながらも未智は知らん顔を決め込んだ。
「妹さんか? あれ、佐久って妹なんていたっけ?」
最初に話しかけてきた渋い声が訝しげに問うた。
「いや、婚約……」
「幼馴染ですっ!」
不穏なことを言いかけた響一を大声で遮って、未智は声の主に改めて目を向けた。彼もまた背の高い大男だった。が、どちらかといえば線の細い響一とは違って、肩幅も顔つきもがっしりとしている。未智は愛想よく頬笑みながら続けた。
「隣に住んでるので、とっても仲良くしていただいてます」
そうしながら、あくまでも他人、他人ですっと目で訴えてやる。相手が楽しそうに瞳をきらめかせるのがわかった。
「そうなんだ。佐久が女性に対してそんな風にするのを初めて見たからびっくりしてね。不躾なことを訊いてごめんよ」
いえ、とんでもない。そう言いかけた未智の肩を、響一が我が物顔に抱き寄せた。
「おい遠藤、未智は俺のだからな。惚れるなよ」
真剣な顔で響一が言う。その瞬間、周りの人間が一人残らず固まった。ピキッという音まで聞こえてきそうな勢いで。
「なっ、なななな何言ってるの響くん!」
「何って、おまえ俺の嫁だし。当然の主張だと思うけどね」
しらっとした顔でそんなことを言われて、未智は年甲斐もなく地団太を踏みたくなった。全くもう、なんでこの男はこの件に関してはこうも話が通じないんだっ!
「あのね響くん、その件は……」
「あ、青になった。とっとと帰って飯にしようぜ。腹減ったよ」
未智の言葉を遮るようにして、響一がさっさと歩きだす。「人の話は聞こうよ!」と力説してみたがもちろん聞き入れてはもらえず、未智は引きずられるようにして横断歩道を渡り始めた。
「じゃあな、佐久」
ふいに声をかけられて顔だけ振り返ってみると、いかつい大男が楽しそうに手を上げている。なのに響一は彼の方など見向きもせず、
「ああ、また来週」
と簡単に答えただけだった。彼にがっちりと肩を掴まれながら、未智はぺこりと頭を下げた。
今日の響一はやけに早足だ。ペースを合わせざるを得ない状況なので、未智は小走りになった。
横断歩道を渡りきるころになってやっと響一のペースが落ちる。未智は肩に置かれている手をペッとはがして彼を睨みつけた。
「ちょっと響くん、失礼だよ。お話しするときはきちんと」
「相手の目を見て、だろ。わかってるよ。けどあいつ、やけに未智のこと気にしてたから。鳶に油揚げをさらわれるのはムカつくし」
「油揚げって失礼な。例えるならならせめて人間にしてよね」
そこかよ、などとぶつくさ言っている響一は無視して、未智はつんと顎を上げた。
「どっちにしても、今日は響くんのご飯なんかないんだから。メールがなかったから材料を買ってないもん」
そう言った途端、手に持っているスーパーの袋をひったくられる。響一はすたすた歩きながら袋の中身を確かめ、にんまりと未智を振り返った。
「嘘つきだな。俺の分もちゃんとあるじゃないか」
「違っ、それは明日のお弁当……」
「いーや、違うね。鮭が三切れ。これが今日の晩メシのメインだね」
ぴたりと言い当てられて言葉に詰まる。そんな様子の彼女を見て、響一は得意そうにほほ笑んだ。
「ほら見ろ」
その顔はまさしくいじめっ子のそれだった。未智はスーパーの袋を取り返そうとし、響一に阻まれて今度こそ本当に地団太を踏んだ。
「持ってやるって」
「いらない! 返して!」
「力仕事は彼氏に任せといたらいいの。いつも旨いメシを作ってくれてるんだからさ、やってもらって当然ぐらいに思っとけ」
「なにそれ、意味わかんないから!」
「なんでわかんねーの。可愛い彼女を想う男心が」
「違うでしょ! そこ違うでしょ!」
などとぎゃあぎゃあ言いながら歩いている二人の姿を、響一の同僚たちが向かい側の歩道から唖然として眺めていた。
「いつも取り澄まして貴公子然としてる佐久がねえ……」
遠藤がぼそりとつぶやく。
「猫かぶりめが。そういう顔もできるんじゃねーか」
そう言った彼の顔には楽しそうな笑みが踊っていた。
家に帰りつくと玄関先で別れ、ようやく返してもらったスーパーの袋を持って、未智はぷんぷんしながらキッチンに入った。
スーパーの袋を置いてから手洗いうがいをして、食材をテーブルの上に広げる。
今日は残業することを見越して炊飯器にタイマーをかけておいたんだった。と思い出して見やると、あと三十分で炊きあがるところだった。さて、今日は手早く作らなければ。
まずは生サーモンをさっと洗って水けをふき取り、塩を振っておく。続いて昨夜のうちに作っておいたじゃがいものグラタンを、冷蔵庫から出してオーブンに入れた。
鍋に湯を沸かし、塩を入れていんげんを茹でる。その間にマッシュルームを縦半分に、ブロッコリーとカリフラワーは食べやすい大きさに切った。にんにくも一片、縦半分に切ってつぶしておく。
いんげんが色よく茹であがったらスクイザルで湯から上げ、続いてブロッコリーとカリフラワーを投入。こちらはすくい時にこだわりがある。沸騰するまで待って、十秒数えてからザルにあけるのだ。
沸騰を待つ間にサーモンから出てきた水けをふいて、こしょうとハーブをふりかける。今日のハーブはローズマリーだ。ローズマリーはハーブの中でもすこぶる丈夫で、育てやすいことこの上ない。
そうこうしているうちに湯が沸騰してきた。未智は手を止めてタイミングを見計らった。
ブロッコリーたちをザルにあけてから、フライパンに少し多めのオリーブ油とにんにくを入れて弱めの火をつける。茶こしに入れた薄力粉をサーモンの両面に薄くふって、ムニエルの準備は完了だ。
にんにくがこんがりとしたきつね色になったら取り出し、代わりにサーモンをフライパンに乗せる。まずは皮だ。未智はトングで三枚の切り身を、フライパンの端を利用して立てるように乗せた。皮の焼けるジュウという音が辺りを満たす。皮がこんがりと焼きあがってから、サーモンを一枚一枚分けて倒した。にんにくとローズマリーが混ざり合ったいい香りが立ち上った。
蓋をして蒸し焼きしている間に、もう一つのフライパンで付けあわせ作りだ。未智はバターとオリーブ油を半々に乗せ、バターが溶けかけたところでマッシュルームと、茹でて半分に切ったいんげんを入れた。
こちらもあまり触らずに焼き目がつくまで置いておいた方がいいので、その間にドレッシングを作る。
まずは白ワインビネガーに塩こしょうをふり、小さな泡だて器でよく混ぜる。今日は粒マスタード入りのちょっと酸っぱいドレッシングにしようと決めて、粒マスタードを豪快に入れた。混ぜながらオリーブ油を少しずつたらし、乳化させる。ドレッシングは酢と油を一対三の割合で混ぜるというのがセオリーだが、一対一か、それより油の方が少し多いぐらいの方が好きだ。未智は味を見ながらよくよく混ぜ、ブロッコリーとカリフラワーをボウルに移して出来上がったそれをかけた。
その合間にマッシュルームといんげんを裏返し、ドレッシングを馴染ませるようにサラダを混ぜ、蓋を開けてサーモンの様子を見る。フライパンに当たっていない方の身が白くなっていた。これでほぼ火は通っているので、あとはカリッと焼くだけだ。未智は身が崩れないよう気を付けながらサーモンを裏返し、少しだけ火を強めた。
オーブンが焼き上がりを教えるメロディを奏でるのと、ご飯が炊きあがるのはほぼ同時だった。未智はサーモンと付けあわせの焼き具合を確かめてから火を止めた。
その時、まるで計ったかのようなタイミングでチャイムが鳴った。響一だ。未智はパタパタと玄関まで行き、鍵とドアを開けた。途端、響一の渋面が目に入る。
「おまえ、今、ドアスコープも見ないで開けただろ。最近はおかしな奴がそこら中にうようよいるんだから、んな不用心なことしてんじゃねーよ」
今日はお説教モードなのか。未智は
「わかったわかった。わかったから早く入って。お料理が冷めちゃう。あっ、手洗いうがいは忘れずにね!」
と軽くあしらってキッチンに戻った。
まったくよー、などとぶつぶつ言いながら響一も後に続く。未智は朝に作った味噌汁の鍋を火にかけた。
「響くん、メイン用のお皿出して。あと、お茶碗とお椀とお箸と……」
洗面所から戻ってきた響一が未知の手元を覗いて、「サラダ用の鉢な」と続けて食器棚に向かう。勝手知ったる他人の家だ、こういう時の響一はなかなかに役立つのである。
未智は両手にミトンをつけてオーブンを開けた。大きな楕円形のオーブンウェアの中でグラタンがぐつぐつと小気味のよい音を立てている。未智は香りを確かめてから、テーブルの中央にスタンバイさせておいた鍋敷きの上にそれを置いた。
「おっ、グラタンじゃん。ラッキー。中身なに?」
グラタンが大好きな響一が嬉しそうな声を出す。未智が「じゃがいも」と答えると、彼はさらに笑みを大きくした。
「わかってるねえ未智。今日はなんとなくじゃがいもの気分だったんだよ。で、メークイン? 男爵?」
「今日はねえ、メークイン。昨日はちょっと時間があったから」
ちなみに、メークインの時は滑らかなペースト状、男爵は輪切りのほくほくグラタンだ。
未智が皿にサーモンのムニエルと付けあわせを盛り付けている間、響一はグラタン用の取り皿と取り分け用のスプーンを用意しておいてくれた。あとは響一が出してくれたガラス鉢にブロッコリーとカリフラワーのサラダを盛り付けるだけだ。未智はそれらのことを手早く済ませ、炊飯器のふたを開けてしゃもじでご飯をさっくりとかき混ぜた。
「すげえ。ごちそうだ」
そばに来た響一が嬉しそうに言う。手には茶碗を乗せた盆。未智は当たり前のことのように茶碗を取ってご飯をよそった。味噌汁の鍋を見ると、いい感じに温まっている。未智はこれまた響一が用意しておいてくれた椀にそれを入れた。
いただきますをして食べ始める。響一は相変わらず「旨い」を連発して未智をいい気分にしてくれた。
「でもさ」
グラタンをすくいながら、響一が珍しく神妙な顔で言う。未智は何事かと箸を止めた。
「残業して遅くなった時くらい、手抜きしてもいいんだぞ。大変だろ、これだけのものを用意するの」
その表情から彼の思いやりが伝わってきて、未智は素直にほほ笑んだ。
「うん、でもお料理するのは好きだから。ストレス解消になっていいんだ。お父さんも喜んでくれるし」
未智の顔をじっと見つめてから、響一は優しい笑みを浮かべた。
「そうか。それならいいんだ」
「うん」
しばらく黙々と食べてから、響一が思い出したように口を開いた。
「そういえば母さん達、もうすぐ帰ってくるってさ」
「えっ、いつ?」
「んー、来月? とか言ってた。決まり次第連絡するって」
朗報を聞いて未智は嬉しそうに笑った。
「えー、楽しみー。久しぶりだよね。三……四か月ぶり?」
「ああ、まあそんなもんだな。でもどうせまたすぐ出ていくだろ」
「そりゃそうだろうけど。今回は何日ぐらいいられそう? 次の公演ってもう決まってるのかな」
「決まってんじゃね? 今のオケ人気あるらしいから」
「ふうん。じゃあ貴重なお休みだね。温泉とかに行ったりするのかな」
すると響一は、何を言ってるんだと言わんばかりに未智をじっと見つめてきた。
「んな暇ないだろ。式のこと決めなきゃなんねーんだから」
「式? 式って?」
「だから結婚式。俺たちの。そのためにわざわざ帰って来るんじゃね? 未智ちゃんのドレスは私が選ぶわっ、とか言ってたから」
未智は思わず茶碗を落としそうになった。が、危ういところで持ち直す。今、この男何を言った? 未智は自分に落ち着けと言い聞かせながら茶碗と箸をテーブルに置いた。
「響くん」
「ん?」
「私、結婚するなんて言ってないよね。きっぱりとお断りしたよね」
「ああ、そんな些細なことは気にするな」
「するから! 些細でもないから!」
「というわけで、明日は出かけるぞ」
「はあ? いきなり話変えるのやめてくれる? 結婚の話さえ撤回してくれるんだったら別に文句は言わないし、どこでも勝手に行ってくれていいけど」
「バカか。おまえも一緒に行くんだよ。サイズがわかんねーじゃねーか」
「さ、さいず?」
「指輪の。母さんが帰ってくる前になんとかしなきゃまずいだろ。絶対にチェックされるからな」
「ゆゆゆびわ! 指輪!? そんなのいらない! いらないからね!」
血相を変えて叫ぶ未智に、響一は不気味なほど優しく微笑んだ。
「心配すんな。俺だってやるときゃやるんだよ。給料の三か月分、それ用にきっちり残してあるからな」
「そんな心配してるわけじゃ……!」
「ああ、式の方か。そっちも大丈夫。伊達に長い間独身やってたわけじゃないんだぜ。ホテルで式挙げてマンションの頭金を用意するぐらいの蓄えはある。ま、頭金の方はまだしばらく出番なしだけどな」
あまりのことに口をパクパクさせている未智に、彼はにっこりと悪魔の笑みを向けた。
「未智は身一つで俺のところに来てくれたらいいんだ。何も心配することはない」
「ありえない! ありえないからね!」
と叫ぶ未智をよそに、響一は
「今日も未智のメシは旨いなあ」
と旺盛な食欲を見せていた。