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彼と私のハーブな関係  作者: 水月
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その1 バジル

2011/11/08公開作品 携帯電話はガラケーです

 仕事を終えての帰宅途中、鞄の中で携帯電話が鳴り出した。メールだ。丸山未智(みち)はごそごそとそれを取出し、内容を確認した。

『今日の晩メシ、何?』

 あら、今日はおデートじゃございませんのね。

 久しぶりに来た定型文のメールを見てそう思う。毎度代わり映えのしないこの一文は、彼の携帯に登録されているに違いない。未智は相手のそっけなさに合わせるように簡単な返事を送った。

『鶏肉のトマトソース煮』

 するとしばらく後、返事が来た。これまた定型の一文で。

『帰りに寄る』

『了解』

 それだけ返すと、未智は携帯を鞄に放り込んだ。もうこれ以上返事は来ない。これまたいつものこと。

 未智は馴染みのスーパーに立ち寄り、人数分の買い物を済ませて家に帰った。家には誰もいない。母は未智が大学生の時に亡くなり、今は父と二人暮らしだ。淋しいと思うこともあるが、それはもう仕方がない。

 今日も父の帰宅は遅そうだ。そろそろ定年なんだから、無理しなければいいのに……。

 未智は手洗いとうがいを済ませると、買ったものを手早く片付けた。

 とにかくお腹がすいている。誰が何時に帰ってくるのかはわからないが、まずはご飯を作ろう。専業主婦じゃあるまいし、いちいち待ってなんかいられない。


 米をとぎ、ざるにあげてタイマーを三十分にセットする。ご飯が炊きあがるまでの約一時間が調理タイムだ。未智はキッチンを出て小さな庭に向かった。

 母が生前、丹精込めて育てていたハーブたち。花とは違って丈夫なそれらは、未智の適当な性格でもなんとか無事に育っている。

 世の中はハーブブームで、ハーブティーだのアロマバスだのともてはやされているが、未智が使うのは料理にだけだ。それ以上の使い道は手に余る。

 未智はスウィートバジルとステビアを、使う分だけ収穫してキッチンに戻った。

 まずはにんにくを半分に切って皮をむき、芯を取ってつぶしてから、オリーブオイルと共に鍋でじっくり炒める。その間にトマトをざく切りにして、にんにくがこんがりとしたキツネ色になってきたら鍋から取り出してトマトを投入。バジルとステビアは枝ごとさっと水で洗い、布巾で丁寧に水をふき取ってから葉を摘み取って手でぶちぶちと千切り、同じく鍋に投入した。あとは弱めの中火でぐつぐつ煮て、こげないように時々かき混ぜるだけだ。

 次に未智は鶏肉を取り出した。父娘だけならムネ肉でもいいが、今日は成人男性が食卓に加わるということで、モモ肉にした。

 筋と脂肪を簡単に取り、一枚を四等分にして少し強めに塩こしょうする。ビニール袋に強力粉を少量入れ、そこに鶏肉を入れてさかさかと振れば、肉の表面に薄く粉がつく。あとは油をひいたフライパンでカリッと焼くだけだ。

 まずは皮の方から。テフロン加工のフライパンなので、火は強めの中火。フライパンに入れたらぐじぐじと触ってはいけない。きれいな焼き目がつくまでひたすら待つのだ。

 その間にサラダの用意ができる。未智は玉ねぎを二等分し、半分はみじん切りに、もう半分はラップでくるんで冷蔵庫に入れた。みじん切りはさっと水にさらした後、水気を切ったサバの水煮缶と柚子胡椒、マヨネーズにプレーンヨーグルトを加えて和える。

 途中でタイマーが鳴ったので、米を炊飯器に移して水加減をし、炊飯器の急速炊飯のスイッチを押しておく。

 そうこうしているうちに鶏肉にきれいな焼き目がついた。未智は菜箸で器用に肉をひっくり返すと、サラダの続きに取りかかった。

 このマヨネーズソースにはレタスが定番だ。ざっくりと半分に切り、切り口から水を入れるようにして洗い、水を切る。大きなレタスなので、三人なら半分で十分だろう。軸の汚れている部分だけ切り落として包丁で縦に六等分にし、食べやすいように手で横半分にちぎる。このサラダは大胆に食べるのが美味しいのだ、と未智は思っている。

 レタスをペーパータオルを敷いたボウルに切り口が下になるように入れ、冷蔵庫に入れる頃には鶏肉が焼きあがっていた。フライパンの火を止めて、肉をトマトソースの鍋に静かに入れる。木べらでそっとかきまぜて馴染ませてから、鍋の火を弱めた。

 あとは煮汁がとろりとするまで煮込めばいい。肉がほろほろになるまでじっくり煮込むのもいいが、今回は腹時計に強く催促されているのでほどほどにするとしよう。

 スープは簡単に鶏がらスープの素を使用した。具はもやしと薄く切ったオクラ。オクラは茹でてから切るものと思い込んでいたが、先日見たテレビで切ったものをさっと湯がくという方法を知ってからというもの、好んでそうしている。その方が薄く切れるし、ほんの数秒湯がけばいいだけなので時間の節約にもなるのだ。もやしとオクラを別々に湯がき、煮立ったスープの中に投入して、再沸騰してから火を止める。味見をしてちょっとしょうゆを足すと、スープの出来上がりだ。

 次はトマトソースの味見をしてみる。鶏肉にした塩こしょうと、砂糖代わりのステビアで味は上手くまとまっていた。未智はそれ以上何も足すことはせずに火を止めた。

 ご飯が炊きあがるまでにもう少し時間があったので、洗い物を済ませまることにした。次にテーブルを台ふきんで拭き、茶碗や汁椀、箸などを用意する。冷蔵庫に入れてパリッとさせたレタスを器に盛り、同じく冷蔵庫に入れておいたサバ缶のマヨネーズソースを別添えする。ご飯が炊きあがる音がしたときには、食べるのを待つばかりになっていた。


 食卓につき、まさしく今「いただきます」と言わんとしたその時。来客を告げるインターホンの音が響いた。

 未智は「い」を発音する前に口を閉じ、ほかほかと湯気を立てている料理たちを名残惜しげに見やってから立ち上がった。

 ドアスコープを覗いてからドアを開け、来客を中に通す。彼は「あー腹減った」と言いながら何の遠慮もなく靴を脱いで上がりこんだ。殺意を感じる瞬間だ。全くいつもいつも、なぜ自分がさあ食べようと思った瞬間にやってきて至福の時間を邪魔だてするのか。監視カメラを仕込んでいるわけでもあるまいに。

 そう考えてから、いや、ひょっとしてそうなのか? と考え直す。もしやダイニングルームにこっそりとカメラが……。彼なら不可能ではない。

 などとぐるぐる考えながら玄関の鍵をかけていると、

「未智ー、腹減った」

 という身勝手な催促をする声が響いた。あの声の響き方から察するに、既にもう自分の席についているらしい。未智は乱暴な足取りでダイニングルームに戻った。

「響くん、手洗った?」

 彼の姿を見るなり威圧的な口調で言う。だが相手は平気な顔で、「いや、まだ」などとのたまった。これまたいつものことだが腹が立った。

「手洗いうがいをしない人にはうちのご飯を食べる資格はありません」

 淡々と言うと、彼はそう言われることすらも楽しむようににやりと笑って、立ち上がった。

 佐久さく響一きょういち、二十九歳。立つと、百六十センチある未智でもかなり見上げなければならない長身の持ち主である。加えて彼は、世間一般で言うところのイケメンだ。個人の好き嫌いはあるだろうが、パッと見て好もしい顔立ちなのは間違いないと思われる。

 我が物顔にどかどかと家に入ってきてはいるが、もちろん家族ではない。ただのお隣さんだ。未智が五歳の時に越してきたこの家の隣に住んでいた、佐久一家。彼はそこの次男坊だった。

 洗面所で水を使う音を聞きながら、未智は響一のために食事の支度を整えた。響一のお茶碗から立っている湯気が憎い。自分のはもう表面が冷めかけているというのに。

「おー、旨そう。いただきます」

 洗面所から戻ってきた響一が、満面の笑みをたたえて手を合わせる。その行儀の良さと所作の美しさにはいつものことながら感心させられた。だがそれは響一が努力したからというわけではない。彼の両親が愛情を持って厳しく躾けてくれたおかげなのだ。

「んー、やっぱおまえのメシが一番だわ」

 とはいえ、そんな風にきちんと褒めながら、本当に美味しそうに食べるところはポイントが高い。未智は得意げに鼻をぴくりと動かしてから、自分のご飯が少しばかり冷めてしまったことは水に流してやるか、と思った。

 なんだかんだ言って、この年上のお隣さんには弱いのだ。小さい頃から「きょーくん、きょーくん」と言ってついて回っていた過去があるだけに、多少の意地悪をされても憎めない。未智は両手を合わせて、二度目のいただきますをした。

 久しぶりに会ったせいか、話題は尽きなかった。互いの近況報告から始まって、ご近所のこと、他愛ない世間話など、響一と話すのは楽しかった。響一は出されたものを旨い旨いと言いながらきれいに平らげて、またしても未智を得意にさせた。


「未智さあ」

 食後、未智が洗い物をしている横で食器をふきながら、響一が何気ない口調で話し始めた。

「うん?」

「そろそろ嫁に来ない?」

「……はあ?」

 何でもない調子でとんでもないことを言われ、危うく食器を落としてしまうところだった。未智は信じられないものを見たと言いたげな眼差しで、隣に立つ長身の男をまじまじと見つめた。

「おまえ、いくつよ」

 そんな未智を見て、響一がまたもや話を飛ばす。未智はふんと鼻白んだ。

「いくつも何も、響くんより三つ下なんだから二十六歳でしょーが」

「だよな。で、俺は二十九。二人とも適齢期じゃねーか」

「じゃねーかって……。なんでそんな悲しい理由でプロポーズされなきゃならないのよ」

「何が悲しいんだ。要はタイミングの問題だよ、タイミングの。おまえが俺んちに嫁に来ることは前から決まってたんだし」

 またもや摩訶不思議なことを言われて、未智はもう一度「はあ?」と返した。

「何それ。そんなこといつ決まったの。聞いてないし」

 すると今度は響一が「はあ?」と返してきた。仕返しか。子供っぽい。

「今さら何言ってんの、おまえ。そもそもプロポーズしてきたのはおまえだろうが」

「私?」

「そう」

 眉根を寄せてむーんと考え込んだあと、未智はまさかと思いながら尋ねてみた。

「ねえ、それってもしかして……私が幼稚園の頃とか言うんじゃないよね」

 すると響一は屈託なく笑いながら、

「なんだ、憶えてるんじゃねーか」

 などとのたまった。未智は今度こそぽかんと口を開けた。

「響くん」

 濡れた手をきちんと拭いてから、未智は響一に向き直った。

「ん?」

 それでも響一は手を止めない。未智は彼が自分を見るまでじっと待った。

 やがて響一が、しょーがねーなーと言いながら布巾を置いた。見下ろされる格好になってしまうのは不本意だが、そんなことを言っている場合ではない。未智は精一杯の威厳を保って口を開いた。

「あのね、普通、そんな年端もいかない子供の言うことなんて真に受けないでしょ」

 すると響一は両手を腰に当て、無意味にふんぞり返って答えた。

「当時は俺も年端のいかない子供だったんだ。問題ない」

 そうじゃなくって……!

 そう言いたいのをこらえて、未智は冷静に指摘した。

「そもそも響くん、彼女がいるじゃない」

「あ? いつの話だ? そんなのとっくに別れてるぞ」

 意外な言葉に拍子抜けして勢いがそがれる。

「え、そうなの?」

 ぽかんとした未智の顔を見て、響一が納得したような表情を浮かべた。

「なんだ、そんなこと気にしてたのか。心配するな。俺は正真正銘おまえだけのもんだ」

 余裕の笑みをかましてそんなふざけたことを言う響一に、未智は今度こそ本物の殺意を抱いた。

「ふざけんな」

 低い声でぼそりと言う。響一が体を折って未智の顔を覗きこんだ。

「なんだって?」

 その能天気な声に堪忍袋の緒が切れた。未智は目の前にある響一の胸倉を、これ幸いとばかりに掴んで声を張り上げた。

「ふざけんなって言ってんの! 何それ、そんな理由で結婚なんてするわけないじゃん! 告白もお付き合いもなし、ていうかそれ以前に響くん一体何人彼女がいたわけ? そんな昔から私を嫁にするつもりだったんなら、それって立派な浮気だよね! 浮気者の亭主なんて真っ平ごめんよーっ!」

 言うだけ言ったら息が切れた。未智は肩で息をしながら響一を睨みつけた。

 が、意外なことに響一は、未智の剣幕などものともせずにふっと余裕の笑みを見せた。

「馬鹿だなあ、未智。妬いてたんなら素直にそう言えばよかったのに」

「はああああ?」

「お母さんが亡くなってから、家のこととかいろいろ大変だっただろ? だからさ、俺としては遠慮してたわけ。落ち着くまではそっとしておこうって」

 確かにそうだった。母が亡くなったのは突然で、あまりの驚きに最初は涙も出なくて。そんな未智のそばに、響一は黙ってそばにいてくれた。あの時はそれがどれほどありがたかったか。

 だが、感傷に浸っている暇はなかった。響一がどんどん話を進めていったからだ。

「それにさ、親父さんのことも心配だろ。未智が嫁に行ったら一人になっちゃうもんな。だから住む場所もきちんと考えた」

「ちょ、そんな独りよがりな」

 未智の言葉など聞いちゃいない響一は得々と続けた。

「当面はここに住む。といっても養子になるわけじゃなく、いわゆるマスオさん状態でな。最近は俺も出張が多くてさ、その間おまえを一人にしとくのは心配なんだよ。その点ここに住めば一挙両得、みんながハッピーだ。ま、あとのことは状況に合わせて追々考えていくってことで」

「ええええ?」

 その点どころか目が点だ。未智は話のスピードについていけなくて右往左往した。

「ちなみに、うちの親にはもう了承は得てある。お前、母さんのお気に入りだからなあ。飛び上がらんばかりに喜んでたぞ」

 言って、響一がにっこりほほ笑む。あまりのことに二の句が継げないでいる未智をあっさりと抱き寄せて、彼は未智の耳元で囁いた。

「というわけだから、未智、幸せになろうな」

 その妖艶な声に未智の体が固まる。見なくても未智にはわかった。響一の顔にいたずらが成功した悪魔のような表情が浮かんでいることが。未智は慌てて暴れだした。

「そんなの無理! ありえないから!」

「照れるなって。気恥ずかしいのはわかるけど、そのうち慣れるから」

「そういうことじゃなくって!」

 何とか逃れようと手足をばたつかせながらも、未智にはわかっていた。こうと決めた彼には何を言っても無駄なのだと。

 こうして未智の受難の日々が始まった。

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