歯磨き粉が天井に張り付いている
仕事を辞めて実家に帰ってきてから、ずっと気になっている事がある。
家賃が安い寮がついている仕事を探して家を飛び出したのは、今から1年3か月前のことだった。大学を中退した私は特技も資格もなければお金もなかったのだが、実家を離れたかったのでそういう決断をした。
しかし、ほとんどその時の勢いで決めたことだったので、内心では根性のない自分のことだから半年ぐらいで実家に戻ることになるだろうと思っていた。なんせ、私は適当に大学に入って適当に辞めたクズである。だが、初めての社会人生活と一人暮らしにのたうち回りながらも、結局1年2か月間その会社の寮で暮らした。やればできるタイプのクズだった。(これはむしろ、たちが悪いクズである。)ちなみになぜ仕事を辞めたかというと、異動の話が来たのだが、違う職場に行ってまた一から仕事を覚えるのが面倒だったからである。もうそろそろ、これを読んでくれているあなたも私がどういう人間か分かってくれたと思う。
仕事で毎日クタクタになって帰ってきて、風呂に入るのが本当に億劫だった。洗濯は週に2,3回だったが、それも面倒で仕方なかった。たまに洗濯をサボって次の日に回すと干しているものが乾くのが間に合わず、パンツが足りなくなってしまうことがあった。だいたい私がその事実に気づくのは、風呂から出てパンツを履こうとした瞬間だった。そんな時は、全裸のまま生乾きのパンツをドライヤーの温風で乾かした。私は一人暮らしの最も辛い瞬間は、帰宅時に「ただいま」に対して「おかえり」が返ってこない時でも、一人寂しくご飯を食べている時間でもなく、裸のままドライヤーで生乾きのパンツを乾かしている瞬間だと思った。
そんな風呂や家事との戦いを乗り越えて、やっと眠りにつけるという時になって最後にしなければならないこと、それは“歯磨き”である。怠け者だった私が毎日仕事と家事を精一杯やると、歯を磨くエネルギーすらほとんど無くなる。しかし、磨かずに眠るわけにはいかないので、毎晩歯ブラシに多めに歯磨き粉を絞ってちゃちゃっと磨いた。そうして布団に吸い込まれる、そんな毎日だった。電動歯ブラシが欲しいな、でもそれより先にパンツの所持数を増やすべきかな、とか考えていたら眠りに落ちていて、また朝が来たら仕事に向かうのだ。
一人暮らしを始めて1か月くらい経った日の夜、一本目の歯磨き粉が無くなりそうになった。そういう時、私は昔に生活の裏技の本で見た方法で歯磨き粉を復活させる。まず、チューブのキャップを開けチューブの形状を新品の時のようになるよう整える。そしてキャップを閉めてキャップと反対側の平たくなっているところを摘まみ、ぶんぶんと振り回す。そうすることによって、遠心力で容器の内側に付いている歯磨き粉がキャップの方に集まり無駄なく使い切ることができるのだ。これは、私が小学生の頃から使っている技である。この時も、その方法で残りの歯磨き粉を絞り出そうとした。
チューブに空気を含ませキャップをしてぶんぶんと振った。ちなみにこの時、私は例のごとくクタクタに疲れていて限界だったので、目を座らせて歯磨き粉を振り回していた。その姿はわりとヤバかったと思う。
そして、10回くらい振ったところで事件は起きた。歯磨き粉のキャップが外れてしまったのだ!キャップは勢いよく飛んでいき、壁に当たってコンっと大きな音を立てた。私はキャップを拾い上げ辺りを見渡したが、キャップ付近に溜まっていたはずの歯磨き粉の姿が見当たらない。おかしいな、と思っていると斜め上方にヤツの姿を捕らえた。白い歯磨き粉は塊のまま、ベッタリと天井に張り付いていた。
私はそれを見て、5秒ほどフリーズした。しかしクタクタ限界女の私には、椅子に登って天井に付いた歯磨き粉を拭き取る気力は残っておらず、それを見て見ぬふりをして布団に入った。
次の日も、ヤツは天井にいた。その次の日も、そのまた次の日も天井にいた。私はいつもクタクタで、なかなかヤツを拭き取る気になれなかった。いつの間にか、白い天井に張り付いた白い歯磨き粉のことなど忘れて生活するようになった。
という話を、実家に帰ってきて1週間経った頃に思い出した。つまり、あの歯磨き粉は私に忘れ去られたまま1年以上もあの部屋の天井に張り付き続けており、そしてその事実を唯一知っている私はそれを放置したままあの部屋を出てしまったのだ。私は焦った。次にあの部屋に入居することになった人が天井を見上げることとなった日には、得体のしれない白い物体に不快感を覚えることは間違いない!それが歯磨き粉であると分かっていればさほど動揺することはないだろうが、まさか天井に歯磨き粉が張り付くなんていう状況を推測できる人がいるだろうか。そんなことを考え、私は慌てた。
ああ、もうあの部屋に新しい入居者が入っているだろうか。あの天井の白い物体に気が付いてしまっただろうか。
実家に戻って1か月も経つのに、そんなことを考えながら実家の洗面所で今朝も歯を磨いていた。その時、ふと私の視界に白いものが飛び込んできて、私は思わず「あっ」と声を出した。
歯磨き粉が天井に張り付いている。