第二話。遭遇、ターゲット。
雪の舞が収まって、二人はゆっくりと目を開けた。
「なんだ……?」
ネイオットが訝しげで素っ頓狂な声を上げた。
「黒い……子犬?」
続けてカグハも首を左にかしげた。
二人の前に、一匹の獣がいるのだ。
大人の女性の膝下ぐらいまでの背丈で、見たところ四足歩行。二つの耳がピンと立った、美しい紅玉の瞳を一対持つ獣。
その黒い毛並みは光をほのかに反射し、見るからになめらかそうだ。カグハの印象通り、その姿は真っ黒い毛並みの犬である。
「なあ、氷狼ってこいつじゃないか?」
言われてカグハは、古生物研究所で見せられた氷狼の絵を思い出す。
「たしかに、おおよそのシルエットはそうだけど。これは、ちょっと……ちっちゃくない?」
ほんとはかわいいと悲鳴を上げて飛びついて撫でまわしたいのだが、自分の体が中性的とはいえ男であり、今は冒険者としての仕事中である。そう強く思うことで、自分を律しているカグハだった。
「子供って、ことじゃないか単純にさ。さて、と」
半袖服の背中に背負った荷物を徐に降ろすネイオット。
「ちゃっちゃと仕事終わらせて帰ろうぜ。ずっとお日様展開してんの疲れるだろ?」
ガサゴソと袋の中を漁り、ネイオットはなにかを取り出す。
「いえ、わたくしのことはお気になさらず……あ」
気を使ってもらえた、その嬉しさからつい輝夜姫に戻ってしまい、顔を青くするカグハ。
「お前。ほんと、女の子が板についてるーって感じだよな。別に元の世界で女装趣味があったわけでもないだろ?」
しかし、一方のネイオットは不可解そうに、カグハのことを見上げて来るだけだった。誤魔化し笑いでやり過ごすカグハである。
「うし、セット完了」
雪になにか、脚のついた装置を埋め込んだネイオット。どうやら捕獲のための装置のようだ。高さは目の前の獣と同じぐらいある、そこそこ大きな物だ。
グルルルル。装置になにか危険を感じたのか、警戒するように低く唸った獣。その声は少しトーンが高い。二人の予想通り子犬のようだ。
獣が、思いっきり息を吸った。
「やべ、なんか来るぞ!」
「おそらくはブレス。吐く直前に左右に飛ぼう」
「合点!」
ネイオットが答えた直後、小さな獣は大きく口を開ける。その口の中は、渦巻く空気の影響で真っ白に見えた。
まさしく狼の遠吠え。その甲高いおたけびと同時、口の中に納まっていた白い力が、真っ直ぐに二人に向かって渦巻き猛った。
「当たるかよっ!」「くっっ!」
ネイオットは左、カグハは右へそれぞれ飛び、氷狼のブレスを回避した。しかし、そのかわりに捕獲装置がみるみるうちに白く染まりその用をなさなくなってしまった。
「うわぁ。それ、借りもんだぞ」
抗議するように声を上げるネイオット。対してカグハは、しかたないね、と言いながら凍ったそれを持ち上げようとしゃがみこみ触れる。ネイオットの背負い物にしまおうと考えたのだ。
ミシミシと、力を込めた先から罅が入る。そこで、カグハは持ち上げようとするのをやめて苦笑いした。
「これは無理だね」
「だな。研究所には悪いが、一個 モンスター捕獲セットは使い物にならなくなりました、って報告するしかねえ」
「じゃあ?」
「ああ。力尽くだ」
言ってネイオットは、己の左ポケットから鉄色のグローブ、魔力増強の力を持つアスタレイドを抜き出そうと、右手を突っ込んだ。
ーーが、指がアスタレイドに触れた瞬間。
「つんめってぇぇ!」
目を閉じながらの裏声絶叫。右手をアスタレイドから放し、手をブンブン振っている。よほど冷たかったらしい。
「駄目だ、凍ってんのかこれ? 長いこと持ってたら手に張り付くぞ」
「ってことは、たとえ装備できても手がかじかんで言うこと効かないんじゃない?」
「魔力と俺の体温で大丈夫だとは思うけど、そもそも持てねえんだからんなタラレバ言ってもしょうがねえだろ。くっそぉ最悪じゃねえか!」
もはや愚痴である。
「じゃあ、生の拳でやり合うしかねえか」
アスタレイドではなく、毛糸の手袋の上からモンスターの革で作ったグローブをかぐせ、鋲で止めた物を装備するネイオット、これは右ポケットに忍ばせてあった。キュっと手首のひもを閉めて簡単に外れないようにする。
このグローブ ウォームツールフィストは、寒冷地での作業や戦闘用に作られた防寒具兼武器である。装備をつけている時点で、既に生の拳ではないが、その程度の勢いトークには慣れているのかカグハはスルーだ。
「ぼくは魔法か。剣も下手すれば、打ち合った時に折れるかもしれないし」
こんなかわいらしい生き物に刃を振るうなんて、わたくしの心が拒否してしまって、剣士として使い物になりません。と言う本音は厳重にしまい込む。
瞬時に物体を凍らせるほどの氷のブレスを吐いて来る相手であっても、どうやらカグハにとっては、あくまで黒毛と宝玉のような瞳の美しい子犬ちゃんと言う認識のようだ。
また低く唸る氷狼の子供。
「様子見してやがる、いっちょまえに。そういえばカグハ」
「ん?」
二人とも油断なく、氷狼を見ながら話している。
「こいつが成長すると、たしか氷魔狼って呼ばれるんだよな?」
「そういえば、そんなこと言ってたね。フェンリルの子供か。そう考えると、なんだか すごい物と向かい合ってるね、ぼくたち」
「そうだな。戦い甲斐が」
あるって、と言いながら姿勢を低くし、氷狼と大してかわらない目線になり。
「もんだぜ!」
ぜと同時に獣のような低い姿勢のまま、滑るように氷狼に突撃した。
「へぇ、やるじゃねえか」
ニヤリ、ネイオットの表情は愉悦に歪む。
目と目の間への抜き手一撃で昏倒させるつもりだったらしく、そこをめがけて右の拳を振り抜いたネイオット。しかし、氷狼は氷の壁を瞬時に生成しており、ネイオットの拳の勢いはその氷の壁を砕くために消費されてしまい、威力がまったく出なかった。
ガウウ、と警戒心と敵対心を露わにした氷狼の唸り声は、低くなった姿勢と鋭く細められた目によって迫力が増した。
「子供のわりに、すげー闘争心だな」
そんな敵意向き出しの相手に対してもなお、ネイオットの楽しそうな表情は崩れない。余裕すら感じる。
この世界に来て冒険者をやると決意した時、依頼をこなす前の修行として、ネイオットは野犬や狼などの獣と戦った経験を持つ。身体が丈夫になってもまともに動けなければ、ただのでくの坊だからと言う理由での修行だった。
その修行に行くところで出会ったカグハも修行がしたいと申し出たことによって、偶然居合わせた二人は修行をしたのだ。その修行中に培われたコンビネーション、その息の合いっぷりのよさから、二人はコンビで冒険者活動を開始する運びになったのである。
「我願う、声届かぬ者へ」
輝夜姫の声色で、静かに紡がれ始める呪文の詠唱。氷狼は、新たに生まれた力の動きに余計身構える。
「我が声と、貴が声と。並び立つ優の音域を通すことを」
広がる温かな魔力。それは氷狼の体を捉えた。
「なんだよ、その魔法は? 今まで使ったことなかったよな?」
思わず立ち上がって問いかけた。
ゴブリン退治の依頼で、そのゴブリンの住処に入ったところから、カグハは魔法使用の解禁を決めた。
それを見て「お前、魔法剣士だったのかよいいなかっけーなー」と子供のようにキラキラした目でネイオットは口にしている。
つまり、カグハが魔法を使うところを見るのは今回が初めてではないと言うことだ。
「うん。これは」
『おまえたち。なにしにきたんだ』
魔力を浴びた氷狼は、今二人の脳内に声が聞えたのと同時にワウワウ吼えている。
「な、なんだこの声?」
「通常では会話できない者と話ができるようになる魔法だよ。今の声は、目の前の氷狼の声だね」
さらっと解説したカグハに、なるほどと頷くネイオットはしかし、
「まさかカグハお前。俺の捕獲戦闘を邪魔しようって言うのか?」
じっとりと細められた目で、三白眼にした瞳でカグハを睨みつける。
「子犬を打撃してるの、みてらんなくって」
苦笑するカグハに反応したのは、
『犬? オレたちフェンリル族を人間の軍門に簡単に下るような堕狼といっしょにするな!』
氷狼だった。
同時通訳のように、言葉と同時に吼える声も聞こえているのだが、今吼えている声はキャンキャンと甲高い。
これを子犬と言わずしてなんとするのか、と言うほど子犬子犬した物である。
「まあまあ、怒らないで」
含み笑いを噛み殺しきれずに宥めようとするカグハだが、
『子供扱いまで。お前、嫌いだ!』
完全に敵愾心を向き出しにされてしまった。
ただ、ネイオットに対する敵意の表情に比べると、その目付きはいくらか柔らかい。
戦闘の意思がカグハにないと察したのだろう。
「で、なにしにきたのか、だっけ?」
『そうだ。なにしにきた、おまえたち』
グルルルと威嚇するのに合わせて聞こえる声は、いらだっているように聞こえる。
「お前を捕まえに来た。頼まれてな」
『バカにするな、簡単に掴まると思ってるのか?』
睨み合い。
「だぁから殴って大人しくさせようとしてんだぜ、こっちはさ」
『人間はすぐそうやって、オレたちを殺す。なにもしてないのに殺しにくる。狩らなくていいものを狩る』
怒りと同時に悲しみすらも纏ったその声は、ネイオットに二の句を止めさせカグハの瞳を潤ませた。
ーーその時。さきほどより、より激しい雪風が吹き荒れ、二人はその激しさに立っていられず吹き飛ばされてしまった。