自問自答
カントの所為だ
自問自答
春だと言うのにまだ寒い。自動販売機で集めた160円だけを握りしめて駅に来た。鼻水でテカテカになった袖で鼻水を拭った。電車と言うのは暖かいから座ってるだけでなんとか一日乗り越えられる、という話を仲間のおっさんから聞いていた。ついこの間ホームレスになった俺はそれを実践しに来たと言う訳だ。切符の買い方は隣のサラリーマンの手元を覗いて買った。ぎょっとされたがもう慣れっこだ。
ホームで丁寧に、乗り込むときの線に一寸も違わずに止まる電車。生き物の様な動きをするのになんだかすごく気味が悪い。おすすめは角っこだそうだ。オレンジ色のつり革が並んでいる角っこに座った。他の席とは違う色をしているから得をした。ぞろぞろと乗り込んでくる。なぜかオレンジのここ辺りの席は人があまり座らなかった。目の前の席が空いているのにも関わらずだ。俺の隣なんか座りたくもないだろう。でも対面の席にも空席が目立つ。普通の色の方は人がいっぱいなのに。
中々おっさんは図太いらしい、周りの動きやにおいが気になってしょうがない。もう君らは入れてあげないと言った感じで扉が閉まる。走ってきたサラリーマンはああ、くそと呟いてこちらを見ていた。ああ、俺はこっちだから、と俺は言っていないのにそう言わされた気がした。
ゴトゴトとみんなで一つの生き物になっている。それなのに、辺りを見渡すとみんなスマホを眺めている。何か、とても大事なニュースでも今日あったのだろうか。何か、そんなに注視して見なくてはならないものがあるのだろうか。見ていても何も面白くないから、外を眺める。歩いたらすごく時間のかかる事は見慣れた町が飛んでいくのを見て分かる。ふとピントが手前に来て、窓にオレンジの絵柄で何かを表現していた。どうやらこの席は座るべき人が座る席らしい。確認してみると確かに老人が多いように思える。けれども若い人も座っている。多分俺と同じで知らなかったのだろう。
次の駅に着いた。人が出て行ってはまた違う人達がゾロリゾロリと入ってくる。今度はこちらのオレンジの席は埋まってしまった。そして、遅れてくる様におじいさんが目の前に来た。仲間のおっさんの言う事は違うじゃないか、と心の中で愚痴りながらおじいさんに席を譲った。おじいさんはおや、と疑問符を浮かべながらも、
「ありがとう」とはにかみながら言った。
「いえ」
しばらくの沈黙。周りの人はチラリとこちらを見てまたスマホに戻っていった。それが一人であったのであればよかったけれど。なぜだか知らないけれど、気まずい空気が流れている様な気がする。するとおじいさんがにっこりしながら声を掛けてきた。
「君はいい人だ」
「……そうですか」
「そうですよ」
不思議な気持ちになった。でも何か負けた気もした。ここは冗談を一つ。
「将来俺も席を譲ってもらいたいので」
おじいさんはきょとんとして、ぶはっと噴き出した。最近の入れ歯は良く出来ているらしい、飛び出すのは唾だけだった。
「ほほほ、今、私に親切にしても返ってこないよ」
「……じゃあお孫さんにでも教えてあげてください」
「孫はおらんよ」屈託のない笑顔で言う。何が嬉しいんだか。
「そうでしたか。では養子でも」
「そんな金はないねえ」
「ああ、金がないのは俺も同じ」
「……君の様な子ならぜひとも欲しいけれどね」
訳の分からない事を言い出すものだ。もちろん俺も冗談を振っているのだからおじいさんが降りるまで付き合う事にした。
「でも、お金ないのでしょう? 俺は嫌ですよ」
「ははは、でも将来お金もちになれるかもしれないよ?」
ほう、ホームレスに死体の解体でもやらせる気か、このじじい食えんな。
「……自分ではやらないのです?」
「はは、おじんにはもう遅いよ」
「スポーツ選手なら遅いかもですね」
「ふふ、そうだねえ。でも君はまだまだ若いから」
「年長者はいつも言いますね。自分も若者だったのに。若者からしたらいい迷惑ですよ」
ほう、とじじいの目が光る。
「いい事も言うね」
「そうですか? 普通は怒りそうなものですが」
「私も若い頃は言われてたから」
「歴史は繰り返すとはこのことですか。自ら実践されるとは」
「いやあ、まいったな」
じじいはそう言って頭をかく。言い返す文言を考えているご様子。
「うん、でも君を養子にしたと仮定しよう。すると君は蓄積が出来るよ」
ふむ、話をずらすか。
「ほう、どういった蓄積ですか」
「勉強かな」
「勉強ですか。学校で習うようなことは生きるのに必要ですかね」
「周りも学校に行っているから荷物にはならんよ。それよりも大事な事を学ぶ、と言った意味合いが含まれるかな。それに、君の親切はいつ帰ってくるか、それとも一生帰ってこないかもしれない事を考えると身に着く勉強は大事だよ」
「……一理ありますね」
「そうだろうそうだろう」
「でも、親切は返ってくることを期待して行う事は浅はかです。カントの功利主義的考えに準ずると、席を譲るべきと言う行為に価値があるのであって、周りに人がいるから、と言った評価を気にするようなものであるべきではないのです」
おじいさんは豆鉄砲でも打たれたような顔をした。次の駅に着いたようだ。
「では、これにて」
「……将来席を譲って欲しいんちゃうんかーい」
何か聞こえた気がしたが、勝った雰囲気が流れているから俺の勝ちだ。おっさん、電車面白れぇよ。改札を抜けると日が照ってきて暖かかった。