宿題、手伝ってあげよっか?
笑顔の沙耶が側にいて、幸せを感じた。
ところが、暫くすると沙耶は泣いていた。
天羽は、彼女の頬に伝う涙を拭おうとした。
ところが、身体が動かない。
彼女は泣いたままだ。
天羽は、それを見ているだけで何も出来なかった。
何とかしてあげたい。
辛うじて口が動かせたので、「大丈夫だよ」と言ってみた。
そしたら彼女は再び笑った。
でも、喜ぶべきなのに、天羽にはその笑顔が噓に思えた。
「お前は誰だ」と問うた。
すると彼女の笑顔の仮面が、ベロリと剥がれ落ちた。
彼女の顔はブラックホールになっていた。
暗黒の渦に、天羽は吸い込まれそうになる。
その時、彼女の声が響いた。
「あたしは、だあれ? 教えて。あたしには、何もないの。正義の味方だなんて、あんな言葉は信じないで。あたしは、誰なの? 教えて。ねえ、助けて。天羽……」
「わあああああ!」
ブラックホールに吸い込まれて前かがみの姿勢になったのかと思ったら、布団から身体を起こして絶叫していた。
「……なんて夢だ」
昨夜は、虚脱感と強い疲労からか、家に帰ると夕飯も食べずにすぐ眠ってしまった。
まさかこんな夢を見るとは……。
天羽は枕元の置時計で時間を見た。
まだ夜中の三時だ。
もう一度眠りに就こうと、身体を横にする。
瞳を閉じようとした途端に、夢の恐怖が脳裏を過った。
ダメだ、眠れない。
どうしようか。
そうだ、こんな時は何でもいいから考えよう。
例えば、さっきの夢の意味。
あれはきっと、自分の中で妃沙耶の印象が揺らいでいる証……。
正義の味方……。
そもそも、どういう意味なんだか。
そして夢の中での言葉……。
「助けて」と言っていた。
そういえば、昨夜の会話の終わりは、彼女のお願いだった。
彼女の願いを、受け入れるべきだろうか。
自分が好きだった沙耶は、窮地に訪れる正義の味方だ。
昨日のあれは、心の隙に付け込んでくる卑怯者にみえた。
いや、自分も軽率だったのだ。心にもないことを言ってしまった。
自分の力でゼータを倒すなど、不可能だ。
自分こそ、彼女の期待を裏切った卑怯者なのかもしれない。
――逃げるな。戦え。君自身のために。
また、この言葉だ。
頭の中に突然浮き出てくる。
だが、自分自身のためにならないなら、戦う必要は無い。
そうだろう?
そう決め込んで、天羽は再び目を閉じた。
結局のところ、よく眠れなかった。
天羽は、朝食をいい加減に済ませて、嫌々ながら、家を出た。
草創大学の近所にある家から高田馬場駅へ行き、山手線で渋谷へ。
麻薬中毒者で溢れた電車に乗り込んだ。
それが、東京の当たり前の朝だ。
異常だと言えばそうかもしれない。
けれど、二年も続いていれば、常識と見なされる。
常識って、一体誰が決めるのだろうか。
僕らの生き方はあまりに相対的だ。
絶対的なものと言えば、数学の答えと、生物の根源的欲求くらいだろう。
歴史も、言語も、文化も、定まりの無い川ではないか。
一つとして留まる事はない。
ましてや生き方など……。
「正義の味方も、所詮は幻想なのかな」
山手線は、定刻通りに渋谷駅に到着した。
そうだ。
AIDが普及していても、社会は上手く回っている。
今日も東京戦線に異常はない。
「……弱ったな」
宿題を忘れていた。
というより、宿題があることをついさっきまで知らなかった。
天羽が早退した後に、ハゲメガネの数学教師が宿題を出していたのだ。
教室のホワイトボードの隅に宿題の内容が書かれていたのを見つけたのは、昼休みのときだった。
数学は次の授業だ。
今日も誰とも話していない。
今日は天羽を見てくる人もおらず、もはや腫れ物扱いをされているのかもしれない。
初めは一人で解こうと考えたのだが、よく分からなくて手詰まりになった。
万事休すか。
そんな時、
「宿題、手伝ってあげよっか?」
救いの声を掛けてきたのは、丹波鈴だった。
昨日会った時と違って、制服を着ている。
丸い瞳は、怒るでも驕るでもなく、素直に心配してくれているようだった。
「丹波さん」
「鈴でいいよ。宿題教えるからさ、ちょっと一緒に来て」
宿題次いでに、昨日の話をしてくるに違いない。
疑りが一瞬、脳裏を過った。
断ろうとも思ったが、背に腹は代えられない。
大人しく鈴に付いていくことにした。
小動物のような彼女の後を追って、普通校舎から特別校舎への渡廊下を渡り、更に階段を上へ行くと、鈴は屋上への扉を開けた。
天羽は、どうして立入禁止の屋上への鍵が開いているのか気になったが、同時に宿題を教えるだけで選ぶ場所ではないことも悟った。
「あー! 風が気持ちいい!」
鈴は、真っ先に屋上へ駆け出すと、小さい身体を一杯に伸ばしていた。
都心の高校は、土地の狭さもあって、屋上が校庭を兼ねる場合も多い。
だが、この高校は渋谷駅から徒歩十分という立地にも関わらず、一般的な高校と同じくらいの敷地面積をもっている。
誰もいない屋上では、初夏の風が吹き、周りを見渡せば、高層ビル群をはじめとした建物が列挙するパノラマが広がっている。
「いいでしょ? お気に入りの場所なの」
鈴は天羽を見て「じゃあ、宿題やろっか」と言ってニコリとした。
風が拭いていれば、勉強するには不都合に思えるかもしれない。
確かに、ノートなら紙が風に煽られて不都合だが、タブレット端末でする際は風でページがめくれることがないので、特に支障はないのだ。
二人は、鈴が用意したレジャーシートの上に座って、天羽の宿題をした。
天羽は時折、彼女のニーソックスを見ながら宿題を順調に進めた。
鈴の教え方は非常に分かりやすかった。
彼女は中間試験でいい成績を取るに違いない。
天羽がそのことに感心すると、鈴は「沙耶さんのお陰なんですよ」と言った。
昨晩の二人の会話からして、二人は姉妹のような仲なのだろう。
沙耶が鈴に優しく勉強を教えている姿が、容易に想像できた。
沙耶は、どうしているだろうか。
やはり今日も、学校には来ていないのだろう。
「尾鷲君? どうしたの」
「ん? べ、別に何でもないよ」
「本当? 何か寂しそうな顔してたから」
「そうかな」
「そうだよ。あ、そうだ! お昼ご飯食べよ! 食べれば元気、出てくるよ」
そう言うと、彼女は持って来た通学鞄の中から、バスケットの弁当箱を取り出して蓋を開けた。中には、たまご、ツナ、ミックス、カツのサンドイッチが一切ずつ詰め込まれていた。
「おお」
感嘆と共に、天羽の腹が鳴った。朝食をいい加減に済ました事を思い出した。
「しまったな、購買部に行ってももう駄目だろうし……」
「何言ってるの。一緒に食べるために尾鷲君を呼んだんだから。お店で出してるのと同じものだけど、不満?」
「いやいや! そんなことはないけど……いいの?」
「もちろん! 好きなのを取って」
彼女はまたニコリとして見せた。
童顔の微笑みは、純真無垢そのものだ。
ある種の魔性を秘めているともいえる。
逆らえないのは、ウブな少年の性か。
「じゃあいただきます」と、天羽はカツサンドを食べた。
衣に染みた中濃ソースと、肉のうまみ。
千切りキャベツのアクセント。
その全てを柔らかく包むパン。
一言で表せば、
「うまい!」
に尽きる。
思わず漏れた一言に、鈴も嬉しそうだった。
「良かった。天クンに気に入ってもらえて」
「『天クン』? 僕のこと?」
「そう。そのほうが『尾鷲君』より呼びやすいでしょ。嫌?」
「それは、別にいいけど……」
天羽は正直、戸惑った。
流石に皮をかぶっているのではないのか。
それとも、純真無垢な笑顔に疑いをかける程に、自分の心は穢れてしまったか。
「あ、何か嫌そうな顔してる。やっぱり『天クン』はまずかった?」
「い、いや鈴は悪くないよ。寧ろ有難いくらい。クラスの皆は、僕に声もかけようとしないしね……。ただ、僕は自己嫌悪してしまうんだよ。人を疑う自分が嫌なんだ。皆、本音で物を言っているのかなって……。鈴が折角親身になってくれているのに、情けないよ」
鈴は首を横に振った。
「気持ちが顔にでるのね」
「うん……。お陰で友達もいないのさ」そう言うと、カツサンドの最後の一口を頬張った。
「正直なのは、良い事よ」
「でも正直じゃ、世渡り上手にはなれない」
何処かの偉い人が言っていた。「仕事とは嘘をつくことだ」と。
「確かに、そうかもしれない。でもね、本当のことが言えなくて苦しんでいる人が、この社会にはごまんといるわ」
鈴はそう言って正直者を推した。
天羽はカツサンドを飲み込んでから、「例えば?」と訊いた。
二人の目が合う。
鈴の瞳は真っ直ぐだ。
「例えば、私」
そう言うと、鈴は立ち上がった。
「…………君が?」
「どうして私が、天クンをここに連れてきたと思う?」
やはり、何か思惑があったようだ。
宿題とランチは、彼女にとって本当の目的ではない。
「まさか、告白でもする訳じゃないでしょ?」
探るような天羽の答えに、鈴は微笑んだ。
「……大体、正解かな」
そう言うと、鈴は右足のニーソックスを脱ぎ始めた。
天羽は息を呑んだ。
絶対領域だけから見えていた白い肌が、徐々に露わになっていく。
腿の膨らみ、膝、細さと曲線の脛、角の丸い踝、甲、小さな指先……。
「気付かない?」
「な、何を……?」
「ううん、気付けないならそれでいいの。私が気付かせてあげる」
鈴は、身体の左側をドアの側の壁に寄りかけて、自身の腿に手を当てると、それを強く握った。
そして、右足を(・)外した(・・・)。
「……!」
「分かった?」
彼女の右足は、義足だった。
それも、外してみないと気付かないくらい完成度の高い義足。
彼女が義足を付けていることは、クラスの誰も知らない。
鈴は、本当に告白をした。
天羽は、動揺を見せないように
「何で、僕なんかに見せたの?」
鈴は、真っ直ぐと答えた。
「天クンが、本音を見せてくれたから、そのお返し……じゃ、変かな?」
「そんなことはないけど……。僕は謝らなくちゃいけないな。僕は、人を疑ってばかりで、鈴の気持ちに気付いてあげられなかった。鈴は僕よりも怖い思いをしていたろう……? 義足というだけで、いじめられることだってあるかも知れないんだから。鈴は、それを隠し続けてたなんて……」
天羽は、自分が恥ずかしいと思った。人には、必ず弱い部分がある。
「天クンなら、沙耶さんの悲しみも、分かってあげられるよね。きっと」
「先輩の、悲しみ……?」
「沙耶さんの悲しみはね、天クンが戦ってくれない事が原因じゃないの。沙耶さんもまた、人に見せたくない事があるの。それを分かってあげて欲しい」
鈴は、義足を付け直していた。
「……鈴、君もリィベルズの一員なのか?」
その問いに対し、鈴は静かに肯定した。天羽は、続けて問うた。
「それなら、君や、君の仲間たちだって、先輩の悲しみを知っているはずだ。どうして僕も……いや、僕が彼女の悲しみを知る必要があるんだ?」
「それは――」
鈴が何かを言おうとしたその時、昼休み終了のチャイムが屋上まで響いた。
「まずいよ天クン! 授業に遅刻しちゃう!」
鈴は慌ててニーソックスを履きはじめた。
特別校舎の屋上から普通校舎の教室までは、走らないと五分では間に合わない。
天羽も、レジャーシートを畳んで、バスケットと一緒に鈴の通学鞄に詰めた。
「急ごう!」
「うん!」
鈴は、やはり義足とは思えない走りをみせ、始業チャイム五秒前、天羽と共に一年C組の教室に滑り込んだ。